逃亡
隠し通路の出口から外に出た瞬間、冷たい森の空気が肌を刺した。木々が重なり、薄暗い影が足元に伸びている。鳥のさえずりが微かに聞こえるが、屋敷の方から響く金属のぶつかる音と、怒声がそれを掻き消している。
風に乗って血と煙の匂いが漂ってきた。
「街道は使えないな」
エリックが周囲を警戒しながら低く呟く。
「はい。街道を行けば高地人傭兵に確実に捕捉されるでしょう。敵は『銀狼』ですからね。もしかしたら斥候を専門で行う者もいるかもしれません。ただ、地元民だけが知る道を使えば、少なくとも街道よりは安全でしょう」
カイルが革袋から古びた羊皮紙の地図を広げ、指で示す。
「この道は、地元の狩人たちだけが使う小道です。馬車は通れませんが、少人数なら問題はありません」
地図には街道と森の境界が手描きで記され、街道から逸れた細い線が伸びていた。
「この道を辿れば、森を抜けてヴェリウス辺境伯領に入れるはずです。ただ途中で道はなくなります。その後は街道に出るか、道なき道を行く危険を承知でそのまま森を進むか……まだ判断はできかねますね」
「国境の関所が封鎖されている可能性も否定できん。確実性を取るなら森を突っ切る方が良いか……迂闊な行動で敵に捕まって見ろ。何のために父上があそこに残り戦っているのか……父上の覚悟と決意を無駄にしたくはない」
エリックの一声で、皆が頷く。その目にあるのは使命感、それだけだった。
一行は森の中へと足を進めた。
最初のうちは順調だった。 森の中の狭い道とはいえそれでも道だ。であるから進軍スピードもそう遅くはならないし、木々が覆い茂っているため遠目には見つかりにくい。
「……このまま何事もなく進めれば良いんだけどな」
そんな言葉が無意識のうちに口から出た。皆に聞かれていたはずだが何も反応はない。誰もが思っていることだったのだろう。
しかし、その希望はすぐに打ち砕かれた。
「おい、静かに。そこの茂みに隠れるぞ」
エリックが鋭く言う。そしてその指示に全員が従う。そして森の奥から、聞き慣れない低い声が響いてきた。
「なんとなくだが……人の気配がする。逃げ出すかもしれない貴族がいるってのはコレのことか?」
「お前がいるって言うんなら、いるんだろうな。戦働きができないから今回はそれほどの報酬は得られないと思っていたが、これはツキが回ってきたか?」
「そうか? 俺は別に追加報酬がなくてもいいけどな。待機しているだけでそこそこ貰えるんだ。むしろ運がいいと思っておけよ」
「しっかし森の中まで分散配置とはねぇ……随分景気のいい話じゃないの。しかも『銀狼』の連中を全動員なんだろ? さすがルミナシア聖王国様ってか」
高地人傭兵だ! 先に逃げ道を封じるために戦力を置いておくなんて! でも奴らは『銀狼』じゃないのか? 違う高地人氏族なのか?
「カイル。俺の目じゃ良く見えん。お前の目ならどうだ? あいつらがどんなやつらか分かるか?」
「しばしお待ちを……狐の意匠が見えます。フォクスフォード氏族のようですね」
「狐の連中まで雇っていたとはな……だが、こうもなると敵の本命はアリオン男爵領じゃないな。いくらなんでも不自然すぎる。となるとセシリアが敵の本命なのか?」
「私ですか? 一体何故?」
「俺に分かるはずがない。しかし敵の目的が分かってきたのは良い傾向とも言える。それに狐が相手ならまだやりようはある」
エリックが剣の柄に手を置く。それを見たカイルも戦闘準備を整えているようだ。
「戦って大丈夫なんですかエリック様? 敵は四人ですよ?」
俺の疑問にエリックが答える。
「奇襲をかけて二人をやる。それさえできれば二対二だ。それにどのみち奴らをなんとかしないと前には進めない」
「それと、リーナさんが知らないのは無理もないが、フォクスフォード氏族は高地人の中でも戦闘はそれほど得意じゃない。偵察や情報収集なんかの斥候が得意な氏族だから僕たちでも戦えるんだ」
カイルが言うには敵は斥候が主な仕事だという事らしい。ならやれるか?
「なるほど。では俺はどうします? このままセシリア様の護衛ですか?」
「それでいい。だがお前の判断で戦う事を許可する。お前が女であるというのが油断を誘えるかもしれないからな。それはある意味での奇襲とも言える」
「心理的奇襲ってわけですね。分かりました。機があれば前に出ます」
いまさら怖気づいてはいられない。今度は大丈夫だ。人を殺す覚悟はできた。実際にできたかは分からないけど、できたと思い込む。
そんな俺を心配そうにセシリアは見つめるが何も話すつもりはないようだ。ここは自分の出る幕ではない。そういうことだろう。
「運はこちらにある。このまま待ち伏せれば都合よく奇襲ができそうだ。俺が合図するからカイルはそれに続け。リーナは敵をよく観察して出られるなら前に出ろ」
息を潜めて敵が近づいてくるのを待つ。気づかれてはいない。確かに運はこちらにある!
「……今だ!」
エリックが飛び出しそれにカイルが続く。まずエリックが一人目を一刀のもとに切り伏せ、カイルもそれに続こうとするが、敵の反応が早かった。あいつだ! 俺たちの気配を感じ取っていた奴!
「なんだてめえら! よくもヴァーゼンをやりやがって!」
「逃げ出した貴族だな! ガキどもが調子に乗るなよ!」
「敵は二人だ! やっちまえ!」
こうなれば不利だ! なら俺も出るしかない!
「なんだお前。侍女だと? いっちょ前に剣なんて持って、俺たちと戦えるとでも思っているのか?」
「戦えないと誰が決めた? これで三対三だな。お前たちこそ良いのかよ? さっさと逃げた方がお利巧さんだぜ?」
「あほ抜かせ。その生意気な面、俺好みに変えてやるよ!」
戦いが始まる。 エリックとカイルを横目で見るがあれなら何とかなりそうだ。少なくとも絶望的な差があるようには見えない。
問題は俺か。未熟者で半端者。そんな俺が勝つには奇襲しかない!
地を蹴って全力で相対する敵に向かって駆け出す。いきなりの俺の行動に驚いたように見えるが、そこには確かな余裕が感じられた。狙うのはそこだ!
「馬鹿め! 素人女が!」
今だ! 模擬戦の後からだ。剣の練習に集中していた時に、気が付くと極限の集中の中で剣を振っていたことがあった。現代的に言うならいわゆるゾーンだ! その後の検証で分かった。俺は自分の意志でこの極限の世界に入ることができる!
目の前の景色が急速に狭まっていく。色彩が無くなる。風の音、鳥のさえずり、全ての雑音が消え去り。ただ、剣を振る自分の動きだけが、頭の中に鮮明に刻まれる。
「がぁ! ば、馬鹿な……」
俺の剣を力ずくで叩き落とすつもりのようだった。どうやらいきなり殺しにくるのではなく手加減していたようだ。それとも油断か? だからやれた。袈裟懸けをフェイントにしての刺突だ。人体の重要機関を破壊した感触が手に残る。
「ふぅ……」
緊張が途切れ、それとともに視界と聴覚が戻ってきた。
俺に仲間がやられた事で数的不利を悟った敵は撤退していく。できるなら仕留めたほうがいいんだろうけど……。
「逃がしたか……追うのは無駄だ。逃げ足は奴らの最大の強みの一つだ。追いつけはしまい。追うくらいなら今すぐのこの場を立ち去るべきだ」
エリックが言うにはそういうことらしい。斥候の基本は情報を持ち帰ることだ。なら確かに無理だな。
「だが、助かった。あのままだと不利になっていた。よくやったリーナ」
「すまないなリーナさん。僕のフォローをさせてしまったようだ」
「お役に立てたようでなにより。剣術の練習が役にたちました」
とりあえずなんとかなってほっとした。できるって確信はあったけど、自分の意志でのゾーンのオンオフは確実に成功するってわけじゃないからな。自分でもそのあたりは助かったと思う。
「リーナすごいわ……高地人傭兵を倒してしまうなんて」
「俺を女だって侮ってくれたので、それが勝因ですよ。実力はたぶん相手の方が上ですからね」
「それでもすごいじゃない。私には絶対無理よ。冗談で言ったけど。本当に騎士様みたいね」
セシリアからの称賛の言葉や憧れの目線。そういうものを感じるのは嬉しいかぎりだが、この状況が問題だ。素直に喜んで緊張を途切れさすのはあまり良くない選択だな。
「セシリア、リーナ。無駄口はそこまでにしろ」
あんまりなエリックの言い分だが正論だ。俺は口をつぐみ。セシリアも黙る。
「殺したこいつらから物資を得ることができた。特に水と食料はありがたい。できれば無駄に物を持ち歩きたくないから、今すぐ飲んで食えるだけ食っておけ。すぐにここを去る方が良いとは言ったがそれくらいの猶予はあるはずだ。それが終わったらすぐに出発だな」
敵の死体をしり目にお食事とは……しかし愚痴を言っている場合ではないか。
指示に従い携行糧食のような硬いパンを食べる。水に浸さないと、とでもじゃないけど食べられない。固焼きパンってやつかな。
「食事は終わったな? 死体の処理をしている時間はない。このまま行くぞ」
こうして俺たちの逃亡初日のピンチは切り抜けた。これから山林を超えての逃亡生活だ。野宿はきついだろうが、頑張るしかないな。