様々な想いがある
マリアと話した後、俺は侍女長の指示を受け屋敷の北側にある倉庫として使われている部屋に来た。
置かれていた木箱は全て搬出されている。そのもぬけの殻といった風情が、普段からうら寂しい場所だったがそれをさらに助長させているような気がした。
「セシリア様、何かお手伝いできることはありますか?」
振り返ったセシリアの表情には、張り詰めた顔には緊張感が滲んでいる。セシリアの手伝いをしろ。それが侍女長からの指示だった。
「リーナ、ちょうどいいところに来てくれたわ。この避難経路の図を確認してほしいの」
セシリアから手渡された図面は、屋敷内の通路や非常口が細かく記されていた。秘密の逃げ道? それがこの部屋にあるのか。
これが平時なら少しはテンションが上がったものだ。何せ男はこういう秘密の抜け道とか秘密基地とか好きだからな。……しかしそんな気分になれないのが戦争の空気ってやつか。
「ここが隠し扉になってるんですね。何かあったときは、ここを通る感じですか?」
「ええ、その通りよ。単純な回転扉だけど、これがなかなか分かり辛いの。見てて」
そう言ってセシリアは縦方向に回転する壁の向こうに消えたが、壁に違和感はない。確かに知らぬものには分かり辛いかもしれない。
「リーナもこっちに来て。外までの経路の確認がしたいの」
「分かりました。今行きます」
俺もセシリアと同じように回転扉を潜り抜け壁の向こうへ向かう。そこでは真っ暗闇になっているはずなのに妙に明るい。
これ、魔法だな。照明魔法をセシリアが使ってるんだ。
「いまさらですが、セシリア様が魔法を使うところ初めてみました」
俺がそう言うとセシリアは一瞬動きを止めた。そして、ふっと小さく息を吐く。
セシリアが手をかざすと、光はさらに強くなり淡い光が闇を払うように広がった。
「これくらいしかできないけどね……」
その言葉に、彼女の少し寂しげな横顔が浮かび上がる。
「……貴族の娘としては残念だけど落第点。でも良いの。こんな私でもお父様もお兄様も私を愛してくれてる。そしてお母様も……いえ、今はそれどころじゃないわ。付いてきて」
その言葉は軽々しく質問をできない何かがあった。アリオン家にいない母親の存在……あえて俺はその話題を避けてきた。でもその母親はアリオン家を構成する大きなピースだった。それがセシリアの言葉から察せられた。
無言で通路を進む。人一人が通れるくらいの狭い道だ。無言に耐えかねたからなのかセシリアが言葉を発する。
「それにしてもリーナ、あなたモテモテだったわね。私は領主の娘ってのもあるけど、リーナみたいな言葉をかけられたことなんてないわ」
突然の話に少し面を食らう。これはたぶんエリック配下の従騎士たちとの話だろう。
「いきなりなんですか。からかわないでください、セシリア様」
俺がそうに言うと、彼女は肩をすくめたのが薄暗い通路の中で分かった。
「なんだかあの光景を思い出しちゃってね。あの時はリーナに用を頼もうと思ったんだけど、あの雰囲気でしょ? だから遠慮しちゃった。お兄様もリーナと楽しく話してたみたいだったし。皆、リーナのことが大好きみたい。これは大変ね」
……もう三カ月くらいか? 女の子をやるのも慣れてきたってことだ。ロールプレイもほぼ完璧か。
でもあれは打算だってあったさ。俺はアリオン家の一員だから彼らの士気を少しでも上げられるならってさ。だから献身的な態度を取ってたし、気安い女を演じたんだ。
それに、死んでしまう人だっているはずだから……。
「こんな時だからこそ、みんな誰かを求めようとするのね……ごめんなさい。変な事言ったわ」
気を取り直したセシリアはほの暗い通路を進む。その背を俺は無言で追った。
「この通路は最終的に屋敷の外に通じているから、何かあればここを使って避難するのよ。ここね。ここが出口。少し広くなってるでしょ? ここで天板を押し開けるの。リーナ、手を貸して」
言われるままにセシリアの隣に立ちながら天井に手を添えて力を籠める。そうすると天板が開き外への出口が現れる。地下通路から見える空は今の俺の心とは違って雲一つない晴天だった。
「問題なしね。外に出ましょう」
石造りの階段を上り外に出るとそこは森だった。見覚えがある。ここはエドワード様に連れられて歩いた所だ。
「これで確認は終わり。久々に使ったけど、やっぱりじめじめして、あまり気分のいい物じゃなかったわね」
「地下通路ですからね。でもこれって貴族の一族の使う秘密の通路ですよね? 勿論知っている家臣の人はいるんでしょうけど、俺が知っても良かったんですか?」
通路の中で疑問に思ったのだ。これは俺が知っていいものじゃないと。
だがセシリアは俺の疑問になんでもないかのように答えた。
「避難経路の確認のことお父様に話したの。そうしたらリーナに秘密の通路も教えとけって言われたわ。リーナがお父様から信頼を得たって事なんでしょ。だから手伝ってもらったのよ」
「信頼……」
「お父様からの伝言。リーナに話があるって。だから夜になったら書斎に行ってね。その疑問もそこで解けるかも? お父様のことだからちゃんと理由もあるはずよ」
夜の屋敷は静まり返っていた。セシリアの言った通りに俺は書斎にきた。そこでエドワード様と机越しで向き合っている。
普段の彼と比べても、威厳と威圧感があった。いつもは見せない男爵家の当主の顔。貴族の持つ雰囲気だった。
「リーナ。お前に話しておきたいことがある」
彼の声は低く、静かだった。けれど、その中に秘められた思いが伝わってくるようだった。
「はい、なんでしょうか?」
俺は緊張しながら答えた。彼が何を語ろうとしているのか予想がつかない。
エドワード様はしばらく無言で、机の上に広げられた地図を見つめていた。その視線は遠くを見据えているようで、どこか悲しげだった。
「お前がこの屋敷に来た時、私が『リーナ』という名前を付けた理由を話したことはなかったな」
「……そうですね」
名前について考えることはあっても、深く追及する機会はなかった。彼が重々しく話し始めたその理由を、俺はただ黙って待った。
「リーナという名前は、私の亡き妻の名前だ」
その言葉に思わず息を飲む。まさか自分が名付けられた名前にそんな由来があるとは思っていなかった。
「彼女は……とても優しく、そして気丈な女性だった。この屋敷に足りないものをいつも補い、私を支えてくれた。だが、彼女を亡くしてから……私は随分と長い間、前に進むことができなかった」
エドワード様の声には、苦しみと悲しみが混ざり合っていた。その心が亡き妻への想いで満たされているのが分かる。
「お前を見た時、彼女の若い頃を思い出した。雰囲気はまるで違うが、ただ容姿はどこか似ていてな……それで『リーナ』と名付けた」
そう言って視線を俺に戻す。その瞳に移る俺の姿に彼は何を見ているのだろうか?
「お前は彼女ではない。性格はまるで似てないしな。それに当然お前を私の妻代わりにするつもりもない。だが、お前の存在は新たな希望を感じさせるものだった。私が前を向いて歩きだせる。そんな希望だ。何故だか分からないが、そんな確信と直感があった。以前に話したな? 私はこの直感にいつも助けられてきた。だから私はそれを信じることにした。いつものようにな。無論お前を試すようなこともしたさ。しかしそれすら私の直感を補強するだけのものでしかなかったよ。だから通路の存在をお前に教えるようにセシリアに言いつけたのだ」
認められていたというのは以前にも聞いた。それが口先だけのものでなかったという事だ。実質一門衆と同じ扱い……いや、それ以上か。
そこまで評価されたら、俺はその期待に応えるしかない。これは俺という人間。俺と言う男の矜持の問題だった。
「エドワード様……ありがとうございます。そこまで認められていたとは思いませんでした」
深く頭を下げる。これは俺が、人生で初めてするかもしれない本気のお辞儀だった。
「頭を上げなさい。そして胸を張りなさい。私だけでない。エリックも、セシリアも、お前をリーナと呼ぶことに躊躇いはないのだからな。そうだろう? ヤブキ・ヤスヒコ君」
「それは俺の……名前……どうして?」
「ははは、苦戦しながら何度も練習したんだよ。少し違うかもしれないが、あってるだろう? 私だけでも君の本名を覚えておかないとね。自分の名前も知らない者に人は付いていく事なんて、できないさ」
エドワード様はそう言ってにやりと笑った。
その笑顔に、思わず胸が熱くなった。 そうか。それは、その通りだ。俺の名前は……矢吹靖彦なんだから。
「ありがとうございます。精一杯励みます。今後もお使いください」
再度頭を下げる。この感情は自分でもよく分からない物だけど……これは俺がこの世界で生きていくためには絶対に必要なものだ。そう確信があった。
「ああ、今後も頼むよ。君の働きに期待する」
エドワード様の声は、再び穏やかなものになっていた。そして彼は椅子から立ち上がり、窓の外を眺める。
「ふむ。ではリーナ、いや、ヤスヒコ君かな? 早速その期待に応えてもらいたい。今回の戦争についてだが……私はアリオン男爵領が直接攻撃を受けることは考えにくいと思っている。その理由は分かるか? エリック達の勉学についていけるだけの教養は持っていると聞いているが」
「一応は。そしてこの場合はルミナシア聖王国からの侵攻ですね? なら、そうですね……アリオン男爵領の南側はルミナシア聖王国と国境は接していますが、そこには山々が連なります。そしてそこを通る道こそあれど、それは曲がりくねった狭くて危険な道です。まずその時点で軍の派遣は困難です。そして山を下りても森林地帯があります。ここも進軍を困難にさせます」
ここまで話したところでエドワード様を見るが頷くのが見えた。
続けろということだ。
「さらにはこれをエドワード様に言っていいか迷うところですが……アリオン男爵領は価値が薄いです。いえ、危ない行軍をしてまで攻め入るという点においては軍事上無価値どころか有害とも言えます。なにせ苦労してまで取ってもそこから狙えるのは他の小規模領主の土地ですし、それらもアリオン男爵領と似たり寄ったりで、わずかな開けた土地と大半が山と森で価値が薄い。ヴェリウス辺境伯領をここを足掛かりに狙うとしても完全な奇襲においてここを攻め落とし、伝令を出されてはいけない。ヴェリウス辺境伯領へ行くための道は狭くて森の中を通りますから、その出口で陣を布かれたらまずもって戦いにすらなりません。俺はこのように理解しています。どうでしょう?」
頭の中で地図を描いてみるとすらすらと口から出てきた。あの勉強は無駄ではなかった。それどころか日本にいた時よりもより多く頭が回るとさえ言えた。
「……まさかこれほどとはな。こんな事なら君の住んでいたという場所のこと、そこで君が何を学んでいたかを聞いておけば良かった。その見識は学があるものでないと出てはこない。知識の土台がないとな。しかし今はその時ではない。それはこの危機が終わった時のために取っておこう。よいなヤスヒコ君」
「俺如きのことでよければ喜んで。それで少しでも恩が返せるのならいくらでも喋りますよ」
「その時は頼む。そしてお前はお前の仕事をするんだ。皆に必要とされているようだからな。リーナ」
「分かりました。全力で務めます。」
「ああ、話はこれで終わりだ。今日はもう休みなさい。下がって良し」
俺は書斎を出て自分の部屋に向かう。信頼に応えるために、自分がどうあるべきかを改めて考えさせられる時間だった。
夜の静寂が屋敷を包んでいる。廊下を歩きながら、エドワード様との会話を思い返していた。
「リーナ……そして矢吹靖彦。そのどちらもが俺なんだ。少なくともエドワード様はそう考えて俺のことを呼んでいた」
お前、リーナと呼ばれる時はアリオン家で過ごした俺。君、ヤスヒコ君と呼ばれる時が元々の俺として。
そうか。俺はどっちでもいいんだ。どっちの俺でいてもいいんだ。だって俺は靖彦であり、そしてリーナなんだから。
ならばそうしよう。名前は捨てない。そして俺を受け入れてくれた恩を返す。それがこの異世界での……。
「俺の生き方だ」
再び歩き出す足音が、廊下に響く。以前ならこの足音すらも自分に対する違和感があった。だがそれも今はない。完全に消え去った。むしろ今の俺を刻むリズムのように感じられた。
今日、今、この瞬間。真の意味で俺はリーナという存在になれた気がした。