戦争の準備と従騎士たち
朝早くから本館全体が物々しい雰囲気に包まれていた。
普段は静かな廊下にも人の行き来が増え、どこか緊張感のある足音が響く。それを意識しながらもセシリアの侍女として仕事をするために別宅へ向かう。
セシリアの部屋に入ると彼女は険しい顔をして俺を待っていたようだった。
「リーナ、話があるの。館の雰囲気、あなたは気づいているわよね?」
「もちろんです。ただならぬ事が起きているのは間違いじゃないみたいですね」
「実は、国境が緊迫しているの。ヴェリウス辺境伯とノヴァリス辺境伯の間で、また小競り合いが起こる可能性があるのよ。いえ、小競り合いですむなら我が家もこんなに慌てることなんてないわ。ルミナシア聖王国の事。知ってるでしょ?」
その言葉に俺は息を飲んだ。
ヴェリウス辺境伯ってのがアリオン男爵家の寄親で親分みたいなものだ。なら当然無関係でいられるはずもない。そしてルミナシア聖王国か。きな臭い事になってきた。
この不安定な世界だ。だからそういう事は絶対に起こる。そう考えていたけど、いざその知らせが入るとあらためて実感する。ここは現代日本ではない……と。
「お父様は本館の広間で皆に指示を出しているわ。お兄様はすぐに動ける従騎士を集めるために屋敷を出た。リーナも彼らの受け入れや世話をする仕事が増えるはずよ。あとは私も屋敷の防備の確認をするように言われているの」
「まさに戦時と言った感じですか。わかりました。なら侍女長に指示を仰ぎに行きます。それでいいですよね?」
「ええ、お願い。私の侍女だけをやっている場合じゃないわ」
セシリアの言葉には、切羽詰まったものがある。その瞳には不安に揺れているようだった。
「それと仕事が終わったらでいいのだけれど、屋敷の中の避難経路を全部確認して覚えておいてほしいの。屋敷に住んでいる人間は全員知っているわ。それをリーナも知ったおいたほうが良い。あなたはアリオン男爵家の一員なのだから」
そうだ。俺はもうここの一員だ。その自覚を持って行動したほうが良い。
「分かりました。何かあったときにすぐに動けるようになっておきます」
「お願いね。マリナに言えば教えてもらえるわ。ではすぐに支度をしましょう。これから忙しくなるわ」
セシリアの着替えを手伝い。それが終わればすぐに別れる。
さて、今日からは気を引き締めないとな。
二日後。俺には屋敷に集まってくるアリオン男爵家一門の受け入れの仕事が割り振られた。俺のことは彼らにはよく知られている。一緒に訓練や模擬戦に参加した顔見知りだっているのだ。それが理由だろう。
訓練場には朝の冷たい空気が漂っていた。従騎士たちが列をなして立ち、エリックが彼らを見渡している。その姿には若いながらも統率者としての威厳が宿り、誰もが彼の言葉を待ち構えているようだった。
俺は少し離れた場所で、水の入った桶を運びながらその様子を眺めていた。エリックの声が訓練場に響く。
「此度の仕儀はヴェリウス辺境伯閣下からは戦に備えよとの指示があったからである! よって父上は全面的な動員を視野に一門衆に指示を出している。無論そこまで事態が動くかは未知数であるとしか言えんが、我ら己が武勇を持って騎士たらんと欲する者である! 故に機を失し戦に乗り遅れるは武門の恥である! よって諸君らに集まってもらった! 不測の事態が起きようものなら一刻を争う覚悟で戦地に向かう所存である! そのことをよく理解し英気を養いたまえ! 無論なにも起きないこともあるし、皆が戦機を欲する身ではあるのは良く理解している。だが民の平穏こそ我らが望みでもあるのも、また真なり! よってその場合は皆で腕試しでもすればよかろう! その時は俺を相手に剣を振るい、打ち倒そうという者が現れることを期待する! このエリック・アリオン。アリオン男爵家嫡男として諸君らの忠義と武勇に期待する!」
「応!」
従騎士たちが一斉に腕を天に突きあげた。その表情には期待と緊張が入り混じっているのが分かった。彼らのほとんどは騎士家の次男や三男であり、普段はこのような役割を担うことは少ないと聞いている。
「戦場ではお前たち一人一人の働きが全体の生死を分けるし、この場に帰って来れない者も出るだろう。しかし甘えは許されない。覚悟を胸に宿して行動せよ! では訓示は以上だ。解散!」
すごい迫力。流石エリックだ。これが貴族の家に生まれた男か……面構えが違う。これは惚れる女が多数というのも分かるもんだぜ。もし俺の心がこのリーナの体に影響されて女に寄っていたら……惚れてたかも。なんてな!
そして訓示が終わったのなら今度は俺の仕事だ。俺は桶を置いて従騎士たちに声をかけた。
「皆さん、水をどうぞ。一休みしてください。」
急いで駆け付けた者もいるだろうから、まずは一服してもらおう。たかが水だがこういう時はただの水が美味いってもんさ。
俺が呼びかけると、彼らは一斉にこちらを振り向いた。一人の若い従騎士が真っ先に駆け寄り、笑顔で俺からコップを受け取る。
「ようリーナ! これから世話になるぜ!」
「はい、任されました! 皆さんのお世話は私がしますから何でも言ってくださいね!」
「おお! なんでもってのは気前がいいな! じゃあこれもアリか?」
そう言って従騎士の男は指で輪っかを作り、そこに指を出し入れするジェスチャーをする。
ははっ! こやつめ!
「俺はセシリア様の侍女ですからね。セシリア様の許可を得てからどうぞ」
「そりゃあ、中々の難題だ。今回は諦めるしかないな。そんじゃま、俺は行くぞ。寝床の設営があるからな。また一緒に訓練しようぜ」
そう言って去っていったのは一緒に訓練した奴らの中でも特に気が合った奴だった。彼を皮切りに知り合いから声を掛けられつつ水を配ってゆく。
彼らの表情は少しずつ和らぎ、緊張していた場の空気が和むのを感じた。
「リーナいいよなぁ……」
「おう。あんなに可憐なのに俺たち相手に物怖じもせずにあの態度だ」
「ばっかお前。ルールありきだがエリック様に勝った女だぞ。そこらの女と一緒にはできねえぜ」
「訓練の時も気さくに声かけてくれるしな。嫁を貰うならあんな女がいいな……」
「まったくだな」
そんな会話が聞こえるが俺は全くの平常心だ。それはこうなる可能性を最初から理解していたから。
これがTS娘の本領発揮だぜぇ……男が好きになる女を完璧に理解できるからな!
まあ彼らを俺に惚れされる意図は全くなかったわけだが。それでも士気が上がるならそれは良い事だ。
やたらと熱を帯びている視線を感じながら仕事を続けるが、その時鋭い声が響いた。
「お前たち、気持ちは分かるが弛んでるぞ! 水を飲んだのならさっさと行け! 駆け足!」
「はっ! エリック様!」
エリックだった。彼が一喝すると急いで従騎士たちは野営の設営場所に向かっていく。
「まったく、あいつらときたら……リーナ。俺にも水を頼む」
そう言いながら苦笑するエリックは俺からコップを受け取った。
「元気があっていいじゃないですか。これから何が起こるか分からないんですから、明るいのは良い事ですよ」
「それはそうだがな。だがそれもリーナのおかげとも言えるかもしれん」
「俺のおかげ?」
「ああ、お前みたいな女がいるから、皆ああも明るくいられるんだ。勿論俺もだ」
そう言うエリックの表情はいつもと違うものだった。あれだけの訓示をしたから慣れているのかと思ったけど、やはりエリックも重責を感じているんだな。
そりゃあ、そうだよ。何せ彼らの命を預かる役目を負っているんだ。俺とはまるで違うさ。
「リーナ。お前がいてくれて良かった。それでだ。もし今回何も起きなかったら……あいつらにお前の料理でも食べさせてやってくれ。訓練の時の差し入れが評判になっていてな。もっと凝ったものも作れるんだろ?」
「材料次第ですかね。そのお金はエリック様が出せるんですか?」
「勿論だ。俺もお前の料理は好きだからな。セシリアだけに独占はさせんさ。話はこんなものか。俺も行く。ではな」
こうして訓示が行われた広場には誰もいなくなった。ここは物資の集積所になる予定だから、もうここに集まりはしないだろう。でももし何も起きなかったら?
その時は、ここでドでかい鍋でも使い料理を頑張って作って、みんなに舌鼓をうたせてやるさ!
そんな感じで気分の切り替えもできた。エリックとの会話は俺にとっても意味のあるものだった。もしかして俺の内心の緊張を察してくれたのかな? それならそれで有難い。
流石エリック。さすエリ! ……うん。少し余裕が出てきた気がする。
そして一通り仕事を終えて侍女長の指示を仰ぎにいくとマリアを見かけた。
「マリア、そんなに一生懸命掃除して、どうしたんだ?」
こんな皆が慌ただしく動いていると掃除なんてあんまり意味がない。今は外仕事がメインだから人があまり屋敷にいないだけで、そのうちこの廊下もすぐに汚れる。
「リーナ! 別にどうもしてないわよ。掃除は毎日ちゃんとやらないと駄目だからよ」
「侍女長の指示? ってわけじゃないよな」
そう言いながら近づくと、彼女はばつが悪そうに視線をそらした。
「だって……なんだか落ち着かないのよ」
いつもは無邪気に振る舞うマリアが、こんな不安を漏らすのは珍しい。
「戦争のこと、気になってるのか?」
尋ねると、マリアは小さく頷いた。
「うん……だって、みんな忙しそうで、怖い顔してて。お兄ちゃんもテントを設営してるところでずっと怒鳴ってる……あんな顔するお兄ちゃん初めて見た。わたし、何もできなくて……嫌なの」
マリアの小さな肩が震えているのが分かった。俺はそっと隣に立つ。
「マリア、君がいなくちゃ、この屋敷は成り立たないんだよ」
「え?」
「だってさ、マリアがこうやって掃除をしてくれるから、みんなが気持ちよく働けるんだ。ほら、俺だってマリアに色々教えてもらったからこの屋敷で仕事をできるようになったんだぜ?」
冗談混じりにそう言うと、マリアの目に少しだけ笑顔が戻った。
「本当に?」
「本当さ。マリアが仕事を頑張ってくれるから、みんなが助かってるんだ」
マリアはしばらく黙っていたが、やがて大きく頷いた。
「うん、分かった。私、ちゃんと頑張る」
「えらいえらい。」
マリアの頭を軽く撫でると、彼女は照れくさそうに笑った。以前頭を撫でた時は払いのけられたけど、今はそうじゃない。それだけマリアも余裕がないんだ。
そしてそれは俺も、か。余裕ぶっているけど、本当は内心はそうじゃない。エリックのおかげで少しは気分は晴れたけど、それでもな。
従騎士たちに対する余裕ぶった態度だって……そういうロールプレイだったのだから……。
だが俺は大人の男なんだ! やせ我慢でも余裕ぶってみせる!
「でもね、リーナ」
ふいにマリアが真剣な顔で言った。
「もし戦争になったら、リーナは絶対に無理しちゃダメだからね」
その言葉に、俺は少し驚いた。まるで今の俺の心を読まれたみたいだったから。
「無理はしない。自分にできることをやるだけさ。それはマリアも一緒だろ?」
「……そうね。その通りよ。がんばろうね、リーナ」
お互いに小さく頷き合う。マリアの無邪気さに、その健気さに、俺は少し救われた気がした。