変わりなき日常2
午後の日差しが優しく部屋を照らす中、セシリアが刺繍枠を手に話しかけてきた。
「リーナ、この刺繍、ちょっと見てもらえる?」
彼女の声は柔らかく、どこか頼るような響きを帯びていた。
「どうしました? 何かお困りですか?」
俺は作業の手を止め、刺繍枠に目を向ける。それはまだ始めたばかりと言った感じで、それを彼女は困り顔をしながら俺に差し出した。
「刺繍の仕事が溜まっててね。これは祭りで奉納する大事な刺繍なのよ。適当なものは出せないし、急がなきゃいけないの。リーナって器用そうじゃない? だから助けて」
「針仕事はあんまり経験はないですよ。教えてもらわないと」
「なら教えるわ。他の仕事はほどほどでいいから手伝ってほしいの」
俺に手伝ってほしいという刺繍自体はそれほど難しそうではなかった。模様というか、紋章というか、そんな感じだ。
綺麗なお花を縫え! となると流石に俺の美的センスではきつい。これなら練習次第でできそうだ。
「なら授業の資料の整理整頓は後回しでいいですね? 一応言っておきますけどセシリア様は整理はできても整頓が下手すぎます。これじゃあどこに何があるか分かりません」
「お説教は後にして。今はこの刺繍が重要なんだから。じゃあやり方を教えるわ。まずはね――」
といった感じで俺の初めての刺繍が始まる。
刺繍枠を受け取り、そっと糸を引き直し始める。セシリアの教え方が良いのかやり方はすぐにわかった。繊細な糸が指先に触れる感触が心地いい。
無心で針を布に通していき、その作業を繰り返す。
……よしっ、完成! ずいぶんと集中して作業に没頭してたみたいだ。これでいいはずだけどどうかな?
「リーナって本当に器用ね。模様に歪みがないわ。そこまでするの結構大変なはずよ。少し教えただけでこうも上手くできるなんて」
少し驚いたような顔でセシリアが俺を見た。
俺としても指先の器用さには多少の自信がある。趣味で木工や竹細工なんかを日本にいる時にしていたからな。それとはまったく別物だけど、作業としての親和性はあるはずだ。
とはいえ、だ。
「セシリア様の教え方が上手いからですよ。それに俺がやってるのって図形の刺繍じゃないですか? これなら複雑じゃないし簡単な部類ですよ。むしろそういう花柄とか作れるセシリア様はすごいと思いますけどね」
すでに刺繍が終わった布を見れば見事な花柄模様と、他にも意味のありそうな複雑な図形が縫い込まれていた。現代でもネットの通販サイトで売れるかもしれない。それくらい良い出来だ。
「……珍しいわね。あなたが私を褒めるなんて今までにあったかしら?」
そうセシリアに問われるが、確かにセシリアを褒めたことなんてない。
セシリアは俺の上司だからな。社会人としてはヨイショはともかく、上司を褒めないのが普通だろう。
でもそうか。俺はもうセシリアを単なる上司とは見てないってことか。
「今までは上司というか、指示をしてくる人って意味が大きかったからですかね? 俺が言って良いのかは分かりませんけど、前よりも近しい関係になっている……と思います」
恥ずかしい……無性に恥ずかしいな。素直な気持ちを口に出してみたけど、こんな気持ちになるなんて。
「ふーん? 今までは私のことそんな風に見てたのね。雇い主の娘ってのと、身分差もあるからしょうがないとはいえ、それは少し寂しいわ。でもその口ぶりだと今は違うのよね?」
にやにやしながら俺を見るセシリアが少し恨めしい。
この子はこういうところがあるからなぁ……もういいや! 一度素直になったんだから、今はとことん素直が一番だ!
「友達……のような気分になってますよ。使用人としてはあまりこういう言葉を使うべきじゃないですけどね。あとはまあ、セシリア様は可愛いから、それもまた良し……なんて?」
「友達は素直に嬉しいわ! 私もリーナのこと、友達みたいに思ってるもの。でもその可愛いってのはどうなの? 褒められるのは嫌いじゃないけど、意味が女同士で言い合う物とはどこか違う感じね?」
「そりゃあそうですよ。俺が言ってるのはもし俺が男であったらセシリア様に惚れてるって、そういう意味で言ってますから」
突然の告白は女の子の特権!
なんてネットスラングをどこかで聞いたことあるから言ってみたけど、するっと口からでた。これじゃあセシリアを口説いてるみたいだけど、さっきの反撃みたいなもんだ!
まあ実際俺が中高生でこんな女の子と接してたら確実に惚れてるだろう。
とはいえ今の俺は女だからな。もし男だったらこんな簡単に仲良くなるのは難しいだろう。
「え、そういう意味なの? えっと、その、ありがとう……で、あってるのかな? ……って! なんでそういう事言うのよ! 照れちゃったじゃない!」
照れながらも嬉しそうにセシリアは微笑えんだ。
「もう! こんなだと作業が進まないわ! さっさと再開しましょう!」
そう言って刺繍枠を取って作業を再開するセシリアの顔に、赤みが差しているのは間違いじゃないだろう。
うーん可愛らしい。忘れかけた初恋を思い出す……。
それに大人の男としての庇護欲すら湧いてくる。こんな気持ちにさせる女の子はなかなかいないんじゃないだろうか?
さてと、からかうのはこれくらいにして作業を進めるか。でもあと一言だけ。
「はい、再開しますね。でもこれだけは言っておきます。セシリア様に出会えて本当に良かったと思ってます」
「……うん。私もリーナと出会えて良かった」
それだけ言ってセシリアはこちらを見ずに刺繍を続ける。
このなんとも言えないこそばゆい空気感の中で、ゆったりとした時が流れていくのだった。
さらに数日が経った。
今日は朝の仕事を終え、マリアと一緒に市へと向う。通りは人々の賑やかな声で溢れ、露店には色鮮やかな布や商品が並ぶ。
普段の静かな屋敷とは違うその活気に、思わず気分が高揚する。
「リーナ、市に来るのは初めてでしょ? セシリア様のお使いだって聞いたけど?」
「そうだよ。刺繍の布や糸が足りなくなったから買い足しに来たんだ。御用商人に発注量を間違えたみたいでさ。また商人を呼び出すよりも市で買うほうが早いってね」
そう言いながら、周囲を見回す。町並みや人々の喧騒に目を奪われる。
いまさらだけど、初めてみる中世っぽい世界の町の光景だ。少しだけ観光客気分になっていることを自覚する。
「ならあそこのお店かな? 案内はまかせて! それにほら、見て回るだけでも楽しいんだから!」
マリアが振り返りざまに笑う。その笑顔は無邪気で、少し誇らしげだった。
「確かにな。普段は屋敷の敷地の外になんて出ないから、こういう場所は新鮮だよ」
辺りを見渡しながら答えると、マリアが得意げに頷く。
こういうのが中世の市なのかな? 日本の商店街と似てるような似てないような。でも活気のある商店街の熱気とは似ているかもしれない。
目に飛び込んでくるのは、香辛料の山を積み上げた商人や、素朴な編み籠を売る農民たち。耳を澄ませば、値切り交渉や噂話が飛び交い、どれもが生活の息吹を伝えてくる。
「見て、あそこ! 焼きたてパンの屋台だよ! 匂いもいいし、お腹が空いちゃうね」
マリアが指差す先には、小さな屋台でパンを売っている店員がいた。
屋台の後ろにある建物はパン焼きの専門店のようだ。市の時に特別に出店するのだろう。香ばしい匂いが鼻をくすぐり、自然と足が向く。
「お姉さんたち、焼きたてだよ! どうだい、一つ食べていかないか?」
店員の陽気な声に、マリアが小さな財布をぎゅっと握りしめた。
「リーナ、これすごく美味しいの!私が買ってあげる!」
「いや、悪いよ」
「気にしないで! 私はリーナの先輩なんだから!」
マリアはそう言って硬貨を取り出し、パンを二つ買うと、一つを俺に渡した。
「ありがとう。でも、次は俺が奢るからな。少しくらいは金だって持ってるんだ。それじゃあいただくよ」
パンを一口かじると、外はカリッと香ばしく、中はほんのり甘い生地の味が口の中に広がる。
結構いい小麦粉使ってるんじゃないか? いつも食べるパンよりも生地がきめ細かく良い食感だ。それに甘味料は貴重品だからな。だからこそこういう市が開く時に焼く特別なパンなんだろう。
でもいい味だ。日本のパンと比べるのは酷だとはいえこの世界基準だとかなり美味い。
「どう? 美味しいでしょ!」
マリアが得意げに言う。その様子を見ていると、なんだか妹と一緒に買い物をしているような気分になった。
まあ俺に妹はいないから想像上の妹だけど。
「うん、すごく美味しい。これは市が開くから作られる特別なものなんだろ?」
「そうよ! いつも楽しみにしているの!」
「たしかにそうだな。こういうご褒美があるから日々の労働を頑張れるってもんだよ」
「わかるわ。働くだけだと気が滅入っちゃうわよね」
楽しくお喋りしながら市を歩き回る。
そして露店を見て回る中で、見慣れない食べ物や木工用の工具などに目を奪われる。
それらの中でもある手鏡が目を引いた。縁取りに施された木彫りの装飾が良い味をだしている。
「リーナ、その鏡、欲しいの?」
マリアが顔を覗き込んできた。
「いや、そういうわけじゃないさ。でも身だしなみを整えるには鏡は必要だなと思ってね。でも高そうだし、今の俺には贅沢だ」
「そっか。リーナって仕事だと大雑把なところもあるけど、身だしなみはきちんとしてるわよね」
「まあね。自分を着飾りたいってよりも、人と一緒にいるなら見苦しくない恰好だけは意識しろって教わったことがあるんだ。それが今でも習慣になってるんだな」
もしこの世界で普通の女の子として育っていたらもっと自分の容姿を気にしたのだろう。こういうところは自分は男だって意識の方が強い。
そんなことを考えながら、少しだけ苦笑する。今の俺はいったいなんなんだろうな?
そして無事に買い物を終えた帰り道。手には刺繍用の布と糸があり、マリアは屋台で見つけた小さな飾りを嬉しそうに握っている。
「リーナ、今日は楽しかったね! また一緒に行こうよ!」
「そうだな。また行こう。」
素直に頷きながら、ふと空を見上げた。澄んだ青空の下、通り過ぎる人々の笑い声が耳に心地よく響く。
この世界で生きていくと決めたけど。こういう日常が続くならこの世界も悪くないかもしれないな。
そんなことを考えながら、屋敷への道を進む足取りが少しだけ軽くなったような気がした。