変わりなき日常1
授業に参加するようになった俺は、午前中は授業を受け、午後はメイドとしての仕事に戻る日々を送っていた。そしてエリックの手伝いの訓練が少々。空き時間には素振りもしている。
新しい知識を得るのは楽しい。だが、教室を出て日常に戻ると、仕事が俺の生活の中心であることを実感する。
学ぶ時間というのが特別なものだというのはこの世界にやってきて実感した。なにせ教育そのものは価値を生まない。将来の価値を高めるためにやるものと言える。
これは日本でもある話だ。良い大学に入ったのに結局無職やってるとか、そういうレアケースではあるけど。
それに比べて午後の仕事は自分の役割を果たすための時間だ。責任を果たしているという充実感がありながらも、やるべきことを終える安心感もどこか心地よい。もちろん承認欲求だってあるけど、それも自分の価値を信じられるからだ。
人としては健全なのかな? 日本で社畜をやっているより充実感がある。
あと今はこの女の体を楽しめているってのもある。以前の模擬戦が終わった後のアレ、アレ以降だ。
なんというか、性欲が戻った感じがある。さらに言うと、どうやらこれは男の性欲みたいだ。
多分これは必要なものなんだと思う。俺が今でも俺という人格でいられるのも、色々と思い出したからだ。それは男の性欲が戻ったのがきっかけだろう。
もしこのムラムラが戻らなかったら。身も心も『リーナ』になってしまっていたのかもしれない……。
まあ何はともあれ、俺はなんだかんだでこの日々を楽しんでいた。
そして今日は本館での仕事だ。
朝の陽射しが廊下に差し込み、磨き上げられた床が明るい光を反射している。
今日はマリアと一緒に掃除することになった。色々とシフトとかあるんだろう。こっちを手伝えって侍女長に言われたからな。
俺とマリアは端から端まで埃を払う作業に取り組んでいた。
「リーナ、その箒の使い方、もっとしっかりしてよ! ほら、隅っこの埃をちゃんと取らないとダメ!」
マリアが手を止めて真剣な顔で指摘してくる。その小さな手に握られた箒をビシッと俺に向ける。
「ああ、すまん。少し考え事をしていた。すぐにやるよ」
「なら良し! 最近はお勉強もしてるのよね? その事でも考えてた?」
「そういうわけじゃないさ。なんというか、色々と慣れてきたからな。そのことだよ」
「慣れてきた、ねぇ……。確かに雰囲気とか少し変わったわ。なんか男っぽい感じ? 剣を振っているからかしら。でも掃除が雑になってきたのは駄目よ!」
おっ、男っぽいという評価は嬉しいな。自分だけでなく人からそういう感想を貰えると、さらに今の俺の人格ってやつを補強できる感じがする。
とはいえ雑……か。
自覚はある。悪い意味で仕事に慣れてきたってのもあるとは思うが、これは気を付けないとだな。
「雑っぽいのは反省するよ。これからは気を付ける。でも男っぽいってのは誉め言葉だと俺は思うからな? ……これでどうだマリア?」
「うん、まあまあね。でも、まだちょっと甘いかも!」
個人的感想を述べるなら綺麗になったとは思うが、マリアの評価は結構厳しい。とはいえそれで俺に強く当たるでもなし、自分の箒でささっと不備のあるところ掃き清めた。
「マリアは結構厳しいよな。でも指摘は有難いよ。俺はそれほど掃除に拘りがないからどうしても甘いところがでちまうからな」
「なんというか、そういうところも男っぽいわよね」
マリアが少しあきれた顔で俺を見るが、これは訂正をしなければなるまい。
「めっちゃ几帳面な男だっているだろう。たとえばカイルさんとか。あの人の指示で訓練とか模擬戦の仕事を手伝ってるけど、もの凄くしっかりしてるぞ」
「言われてみればお兄ちゃんはそうかもだけど……やっぱり大雑把な人の方が多いわよ」
……まあ、そうかもな。
というか、いきなりの新情報だ。カイルとマリアは兄妹だったのか。
たしかに似ている部分もあるか? 顔立ちがそうだし、特に髪の色が顕著だ。二人とも程度の差はあれど赤髪かな。
「そっか。兄妹だったんだな。となると色々と説明もつくか」
「何? 説明って?」
「カイルさんから聞いているけど、カイルさんとマリアの父はアリオン家でも重鎮でエドワード様の側近なんだろ? そしてその妻は侍女長ってことになる。そしてカイルさんはエリック様の直属の部下。マリアはセシリア様から妹同然に可愛がられてる。ここまでくるとアリオン家でも譜代の家臣って分かるさ。俺みたいな素性の怪しい奴を見張るにはいい人選だってな」
侍女長が俺に指示を与えていたとはいえ、それでも俺をしっかり見て評価していたのはマリアだ。マリアを年下の子供と侮らずにしっかりと言う事を聞いて仕事をしたから信用されたんだな。
「なんだ。ばれちゃったの。でもわたしとしてはそんな見張りながら仕事を一緒にしてたつもりはないけどね! だってわたしを先輩って立ててくれてたもん!」
そう言ってマリアは俺に笑いかけた。
俺もマリアに答えるように笑いかけ、こう言った。
「なら、頑張って仕事しないとな。マリア先輩!」
こういう何でもない日々の仕事で幸せを感じる。日本にいた時は全くと言っていいほどなかったことだ。それを考えると不便なこの世界も悪い物じゃないのかな。
いくらか日が経ち今日の仕事は洗濯だ。これが俺としては一番きついし辛い。とういうか俺だけでなく本館に住んでいるメイドは全員この仕事は嫌いのようだ。
アリオン家だと洗濯はローテーションになっている。実際の歴史はどうだったかな? たしか専属のメイドがいたはずだ。ランドリーメイドだったかな。まあ家の規模が小さいから工場でいう多能工を作ったほうがいいって判断なのかもしれない。
冷たい水が手にしみる。洗濯場の桶に張られた水の中で衣類をもみ洗いする。
隣では先輩メイドのクラリスが同じように作業をしている。二十歳くらいで少しくすんだ金髪が特徴の美人さんだ。その動きには無駄がなく、淡々と洗濯物を処理している姿は、さすがベテランといったところだ。
「リーナ、その泡立て方、もっと均一にしないと汚れが落ちないわよ」
クラリスがちらりと俺の手元を見て指摘する。その声は穏やかだが、どこか凛とした響きがある。
「あ、はい! すみません!」
俺は慌てて動きを改めた。彼女の指示を受けて、手を動かすたびに泡が徐々に均一になっていく。彼女は満足げに小さく頷くと、再び自分の作業に戻った。
水の冷たさに手がしびれるけれど、クラリスと一緒だと妙に心が落ち着く。彼女の動作は確実で、どんな作業にも迷いがない。この水の冷たさがなければ悪くない時間だと言える。
その水の冷たさから逃げるようについ口を開いてしまう。
「クラリスさんって、エリック様のことよく知ってるんですか?」
俺としては何気なく発した言葉だった。
エリックがクラリスの事を身分は違えど幼馴染だと言ったことがあったからだ。俺の言葉にクラリスの手が一瞬止まったのが分かった。
彼女は少し考え込むような顔をした後、ゆっくりと答える。
「ええ、子供の頃から一緒に育ったから。だけど、あの人は剣術ばっかりで女には興味を持たないのよ。小さい頃はそれでも良かったけど、成長してくると接し方が変わるから、ね」
これはエドワード様が言っていた事だ。しかしこんな美人をまるで気にしないとは……俺がエリックの立場だったら手を出しているかもしれんぞ。
「そうなんですか。それはエリック様らしいですね」
この雰囲気は男に相手にされない女の微妙な悲哀の感情とか、そんなやつじゃん? 俺も少しは女の感情とか顔色を理解しつつあるから、間違ってはいないはず。
しかしこれは話を続け辛い。どうしたものか……。
「私はもう諦めてるからあなたは気にしなくていいわ。あの人の興味は剣と訓練だけみたい。それに……私、髪を切るなんてとてもできないもの」
ドキっとする。クラリスの目が俺の肩口で揃えた髪を見ていた。
その目にはあきらかに諦めの感情が浮かんでいる。気になって彼女の顔を窺うと、少し遠い目をしていた。
「すごい決断だったわね。あなたの事は他の侍女の間でもいろんな話で持ち切りだったわ。エリック様に気に入られるためにはあそこまでする必要があるのか……ってね。私なんかじゃ到底できないわ。あなたとしてはそんな気はなかったかもしれないけど、エリック様はリーナのこと気に入ったんじゃない? ううん。違うわね。もうお気に入りなのかしら」
言葉自体は冗談交じりだったが、その目はそうは言っていなかった。
「いえ、そんなことないと思いますけど……」
適当に言葉を濁しながら、桶の中の衣類を強めに揉む。どう答えればいいのか分からないまま、話題を避けるように作業に集中した。
そしてふと思いだす。いつだか聞いたセシリアの言葉だ――たしかに仕事は完璧だったわ。でも、ちょっと個人的な問題もあってね……。
あの時、セシリアが話をはぐらかした理由。それがこれか……クラリスの悲し気な表情と、エリックへの気持ちを諦めたような言葉。
クラリスの想いにエリックが答えないことを知っていたからこそ、セシリアはあの話題を避けたのだろう。
「リーナ、手が止まってるわよ」
その声にハッとして、慌てて動きを再開する。
胸の中は波紋が揺れ動くように落ち着かない。今はただ冷たい水の感触だけがはっきりと手のひらに伝わっていた。