EP9:無秩序と悪魔と殺人者の正体
《1》
五時間目の授業は数学だった。
ルリは重力に一切抗わない瞼を必死に釣り上げながら、禿頭と痩せ細った体が特徴的な数学教師の、不快な説明に耳を傾けていた。
ルリは理系科目全般に弱い。高校受験のときも、文系科目の成績自体はあと数グレード上の学校も目指せるレベルだった。が、理数系のあまりの成績の悪さに足を引っ張られ、仕方なくこの学校を選んだというような形だ。
(——全く、数学なんて社会に出てもどうせ使わないのに、どうしてわざわざ習わなきゃいけないんだい……)
(——必要だから習うんじゃないの?)
(——モルフォ、授業中に話しかけないでくれ。集中できない)
(——元から集中できてなかったよね!?)
彼女は自らの脳内に住む同居人の言葉に、思わず小さなため息を吐いた。と同時に、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
ルリは「学校は授業さえなければ完璧だ」と考える。異なる考え方を持つ人間が出会う場、友人を作る場としては非常に優秀だし、社会性を養うという役割は必要だと思っている。だが授業という退屈なものがあるせいで、通うのが憂鬱になるのだ。
そうやってやる気がなくなっているせいで、彼女は五時間目の授業を、シナリオのネタにもならない雑多な考えをまとめ上げることだけに使ってしまった。
「また時間を浪費してしまったよ……」
「相変わらず憂鬱そうですなー、ルリどの」
嘆いたルリは、後ろに自分の名を呼ぶ声を聞いた。彼女が振り向けば、丸眼鏡をかけたおかっぱ頭の少女と目が合った。
彼女の名は物部千尋。ルリと話が合う希少な親友の一人であり、ヒロがこの前読んでいた、ルリ執筆のボーイズラブ小説の挿絵を担当した絵描きその人である。
彼女はいわゆる、ステレオタイプのオタクそのままの人物だ。普段から一人称は「ワガハイ」だし、語尾には「〜であります」を好んで使う。ルリが今の芝居がかった言い回しによるキャラ付けをどれだけ続けようと、彼女の隣では霞んでしまうだろう。
これだけ癖が強い人物なのだが、神様はこうなることを予期してか、彼女にそれはそれは可愛い顔と声を与えた。彼女の笑う姿は眼鏡越しでも(もしかしたら眼鏡込みかもしれないが)男子たちの心を離さないし、いつも話すルリでさえも「かわいいよなぁ」と思うことが何度も何度もあるくらいだ。
それでも彼女の口から新しい友達や恋の話が出ないのは、彼女がクラスメイト同士のハッテンを妄想するレベルに「重症者」であることに、全ての原因があるのだろう。
ちなみに彼女は男同士だけでなく女同士にも造詣が深い。それどころかこの世に散らばるジャンル内の半分は網羅しているとさえ思えるほど、彼女の「そういう知識」に対する知見は深かった。
そんなチヒロは、数日前からあからさまに元気のないルリのことを心配している。最近はとっておきの妄想を披露しても食いつきが悪いし、授業中もいつも以上に上の空というか、深刻そうな顔つきでものを考えていることが増えていたからだ。
「ルリどの〜、やっぱり話してくれないのでありますか〜?」
「……何度も言っただろう。私の悩みは、君にはどうすることもできない問題なんだ。それに話したところで、私のもやが晴れるわけじゃない」
「う〜む。いつも通り妄想して悩みなんてふっとば〜す! という択も、今は取れないのでありますか?」
「その手が使えないから、いつものように君を頼りにできないんだろう。私の心が晴れるのは、私がこの問題を解決するか、問題が勝手に解決してくれるかした時だけだろうね」
「ふぅん……ルリどのらしくないというか、なんというか。ワガハイ、ルリどのとはそこそこの付き合いでありますが、見たことない悩み方なので、やっぱりワガハイはルリが心配でありますよ。スイコウどのも最近は学校に来なくなってしまいましたし、このままだとルリどのの心がズタボロのボロッボロになってしまいますぞ?」
「……」
ルリは柄にもなく黙り込んだ。
(——言えるはずがないだろう)
彼女は自分の鼻先を触った。今では傷一つないが、少し前、ここに大きな穴が空いていたことを、チヒロは知らない。ましてや、その傷をつけた少年が姿をくらませたなんて、彼女は知る由もないのだ。
親友が《焚書図書館》に消えた直後の「これ」は、ルリには大きく響くことだ。彼女の心に、あの顔面の穴と同じくらいか、それ以上に大きな穴を空けたのだから。
(——ヒロ、君は一体どこへ行ってしまったんだ)
かの『不殺人鬼』が姿をくらませて、今日でおよそ三日が経とうとしている。籠目市に残った、悪党という名の雑草の刈り尽くされていない根が、徐々に息を吹き返してきた頃だった。
《2》
メア・ヒュノプスは頭を抱えていた。
彼女が立っているのは、大体学校の体育館くらいの広さがある空間の中心。そして彼女の前には、かのイエス・キリストが如く磔刑にされた一人の少年がいた。頭に被ったキャスケット、上着、ズボン、スニーカーに至るまで黒で統一され、上着の下に着るTシャツや靴の差し色の緋色が少ない彩りを主張している。彼は現在メアの持つ異能の力によって眠らされているが、見ているのが悪夢なせいか、時折うんうんと唸っていた。
メアは彼の名を知らない。だが、彼の肩書きは知っている。
「『不殺人鬼』に《サイダーズ》第一座の依代……こいつ一人だけに肩書き盛りすぎだろ……」
メアは口に出して、その仰々しい肩書を再確認した。だが彼女が真に恐れているのは『不殺人鬼』の方ではなく、《サイダーズ》第一座、というほうだ。
《サイダーズ》という名は、「殺す者たち」を意味する。彼らが現れたのは、メアが悪魔になるよりはるか昔。冥界がまだ罪人の自治区ではなく、刑務所のような形態を持っていた頃の話だ——
——当時、《冥界》と《天界》は互いを非常に嫌悪していた。《冥界》の仕事は、《基礎世界》で一生を終えた罪深い人間を裁き、罪に応じた罰を課して輪廻転生させること。対して、《天界》の役割は、功績を残して一生を終えた人間を招き、褒美として癒しを与えること。
この役目の違いからか、いつしか天使は「人は全て救われるべき」、悪魔は「人は全て裁かれるべき」という考えを持つようになっていった。そしてある時を境に、互いの敵意が爆発した。
冥界は持ち前の拷問器具や武器を持ち出し、天界を滅ぼし、全ての人間の罪を裁かんと暴走した。一方の天界は一切の武器を持っておらず、抵抗もできないまま天使たちは殺されていった。
なりふり構っていられなくなった天使たちは、天界で過ごす罪のない人々の魂を喰らい、超越的な力を身につけた。二人分の生命力と二つの人格を宿す怪物——これが、《ツインズ》の祖と言われる。
この現象を知った天界は、兵力強化のため更に研究を進めた。その果てに生み出したのが《サイダーズ》、悪魔を殺し尽くすためだけに生み出された、正真正銘の「兵器」だった。
彼らは最初は意思を持たなかった。彼らは普通の《ツインズ》と違い、《基礎世界》に居座る有象無象の魂をかき集め、それを固めて作られたものだ。羽虫、犬、植物、人……。ありとあらゆる生物の魂が集められ、それは戦場で散った天使や悪魔の亡骸に押し込まれた。
彼らは特別な異能力を使いこなし、人の形をした兵器として、悪魔たちに猛威を振るった。やがて彼らには、『自殺』、『虐殺』、『栄誉殺し』、『王殺し』、『異族殺し』、『時殺し』、そして『記憶殺し』と、一人一つ異名が与えられた。
そして七体目までの《サイダーズ》たちの力によって、天界は遂に冥界の幹部格を軒並み破ることに成功する。更に《天界》は残った全ての悪魔を滅ぼすため、そして《冥界》という存在そのものを抹消するため、八体目の《サイダーズ》の制作に取り掛かった。
だがそこで異変が起こった。殺戮の中で数多の生命の最期を見届けた彼ら《サイダーズ》には、いつしか普通の人間と遜色ない、自ら考え行動できるだけの自我が宿っていたのだ。
彼ら七人はこれ以上意味のない戦争をさせないため、自分たちの創造主である天界の幹部たちに反旗を翻し、彼らを亡ぼした。そして天界と冥界の実権を一時的に握り、絶望する天使たちと悪魔たちを導き、かつての統治者たちを必要としないほどに復興させた。
復興が終わり、二つの世界がもう自分達無しにで問題ないと確信すると、彼らは関与した復興の記録のほとんどを消し去った。
その後、《基礎世界》でも《ツインズ》異能力を有する者が増え始めたことを知った彼らは、《ツインズ》能力が悪用されることを防ぐため、第六座直下の《焚書図書館リコール》に代表されるような組織を作り、世界の安寧を守るべく動いているという。
——ここまでが、メアが悪魔になってから教えられた、《天界》と《冥界》の戦争、そして《サイダーズ》の歴史だ。
要するに、《サイダーズ》は天界冥界両勢力のトップを殺すほどの戦闘力と、バラバラだった二つの世界を同時期に完全復興させるほどの統率力を併せ持った怪物だ。
そしてその中で、『虐殺』の二つ名を冠する第二座に次ぐ力を持つと語られ、「絶対に殺せない」という特異な能力と、真っ先に表舞台から姿を消し、行方知れずになっていたという系歴のために警戒されている「最古の《サイダーズ》」、それが第一座の《スーサイド・フェニックス》……メアの前にいる少年なのだ。
彼女がこんな危険な人物の監視をさせられている理由は他でもなく、彼女のミスのせいでフェニックスとの交渉が中断された、その戒めだ。どうやら身につけていた仮面を剥ぎ取ったのが問題だったらしい。
しかし、そんな命に関わる罰を与えられたメア本人は、どうしてか命の危機や恐怖を感じない。頭ではその危険性を分かっているつもりなのだが、こういう時に働くべき防衛本能が仕事を放棄している感じだ。
メアたち悪魔はそもそも一度死を経験しているために、こういう命の危機に強い。それに加えて、彼女から見えるフェニックスの姿が猛獣や異形ではなく、ただの少年であることもあるだろう。
悪夢にうなされる少年の顔は、案外悪くない。中の上、もしくは上の下くらいはあるだろう。正直、見ていて苦しくはない。メアの頭は今のところ、この少年を『不殺人鬼』——東京都西部の籠目市に潜む悪質な《ツインズ》能力者たちを片っ端から拷問し、ほとんどをブタ箱送りにした恐怖の対象——と紐つけることができていなかった。
「……しっかし、アタシはダメだよな。この力も、イマイチ使いこなせてる気ぃしないしぃ?」
メアは不意に、その真紅の瞳を光らせた。それに呼応して、彼女の手の内に赤黒い靄が発生する。まるで型に嵌るようにしてその靄がある一つの形を作りだし、そして実体を持った。
彼女はその形成されたものを新体操のバトンのように、気まぐれに振り回してみせた。かなり慣れた手つきからは、彼女の悪魔歴の長さが感じさせられる。
彼女が実体化させたのは、一本の槍だ。その槍は端から端まで全てが赤黒い邪悪な色一色で染め上げられており、更にその穂先はフォークのように、三叉に分かれている。三叉槍、あるいはトライデントと呼ばれるタイプの槍だ。
槍の名は《インフェルノ・ムーン》。彼女の宿す、少年に悪夢を見せている《ツインズ》だ。メアはこの《ツインズ》の力を使うと、目を合わせた相手を眠らせ、その相手がトラウマと感じている記憶をベースにした悪夢を見せることができるのだ。
彼女はこれを、人としての一生を終える寸前に発現させた。そして悪魔となる過程で、その練度を高めた。だが、彼女はその練度に満足していない。任意のタイミングで使えなかったり、暴発してしまったりしていた目覚めたての頃に比べればかなりマシになってはいるが、それでも欠点は多く見つかる。
そのうちの一つが、「一度眠らせた相手が外からの刺激で起きることはない」というものだった。一度彼女の術にかかったものは、揺さぶろうとも耳元で叫ぼうとも、絶対に起きることはない。対象が自発的に起きるまで、待たなくてはいけないのだ。
このせいで、メアは文字通り三日三晩、この《サイダーズ》の依代と共に過ごさせられそうになっている。精神的に、そろそろ限界が近くなってくる頃だった。
「下手に持ち場を離れたらまた上司にガミガミ言われるだろーし……あーもう、ちゃっちゃと起きてくんねーかなー」
メアはそう呟く。特に意思がこもった訳でもない、単なるぼやきの一つだったのだが、神様は気まぐれか、その言葉は転機になった。
「う……うぅ……」
少年がまた苦しみ出した。顔を悲痛に歪め、呻き声を上げる。この数日間で何度も見た光景だ。だが今回は、どうも様子がおかしい。
「……うっ…………母さん…………」
少年ははっきりとした寝言を発した。この三日間で初めてのことだった。
(——まさか、意識が鮮明になってきている……?)
メアは少年と少し距離をとり、《インフェルノ・ムーン》の柄をガッチリと握り直した。相手は腐っても戦争兵器、目覚めた途端に襲ってくる可能性がある。
「…………ごめんなさい……」
きらり、と何かが彼の目尻に滲んだ。
(——泣いてる……?)
「…………俺のせいで……俺のせいでこんなことに……」
少年の声は、徐々に徐々にはっきりと、込み上げてくるように、メアの耳に明瞭に届くほどの音量になっていく。
「…………ごめんなさ……い……?」
その謝罪の声が徐々に疑問の色に変わっていったのは、彼が重い瞼をあげ、その目でメアの姿を見たからだった。
「この前の……お姉さん……? どういうこと……俺は確か……」
「……よーやく目覚ましたか、《サイダーズ》第一座の依代クン。さ、目覚めて早速だけど、名前を教えてくれないかな」
「日暮飛路……です……」
少年は自分の名前を言った直後に、「またやってしまった」というような顔でうなだれた。
《3》
「……と、いうことなんだよ」
ルリはジョッキをグイと傾けてアイスココアを喉に流し込むと、それをそっとカウンターに下ろした。ココアは喉が焼けるように甘く、少し粉っぽいくらいが丁度いいと考えているルリだったが、今日ばかりはそんな大好物も、無理に喉奥へ注ぎ込むように飲む形にしかならなかった。
「ちょっと……スゥー、情報整理してもいい?」
カウンター越しに立つ少年は頭を抑える。オーロラのようなエメラルドグリーンの瞳が、今は混乱のために濁っている。
「ええとー? ルリはこの前、最近噂の『不殺人鬼』と会って、殺されたけどそいつの《ツインズ》で生き返って、それでスイコウも使って仲間に勧誘できたと。んでヒナギとかアクトとかに顔合わせさせてたら、スイコウが怪しい組織に連れ去られて、しかも自分の《ツインズ》に乗っ取られてて、『不殺人鬼』に正気に戻してもらったら、自分はその組織の一員だって言って失踪した……ってこと!?」
「そう言うことだと言っているだろう、バカヒッテ」
「混乱させておいて失礼じゃない?」
「でもバカは事実だろう、中卒ヒッテ」
「学歴の話するなよぉ……気にしてんだからさぁぁぁ……!」
少年はシンクに手をかけて、キッチンにしゃがみ込んだ。エプロンが床に垂れるが、彼はそれも気にしていないようだった。
「立てヒッテ。衛生上良くないぞ」
「僕の精神衛生は気にしてくれないのかなぁー!?」
ヒッテと呼ばれた少年はまた勢いよく立ち上がって、少女に抗議の声を上げる。少女は煩わしそうにジョッキを持って席を立ち、すぐ後ろのテーブル席に座った。
ヒッテ。本名、辻斬必手。年齢十七歳、現在はこの喫茶店《烏丸喫茶店》にて、長いこと店を空けることになったマスターに代わって、代理で店を回している。
親譲りのエメラルドグリーンの瞳と、頬を彩るそばかすが特徴的な、ノリが軽く頭はそこまで良くはない、年頃の男子らしい性格の少年だ。……ちなみに彼は高校受験に失敗しているため、ルリの言った通りに、世間からは中卒のレッテルを貼られている。
彼はルリとは、中学時代からの良き友人だ。そういえば聞こえはいいかもしれないが、要するに少し前までのスイコウ、現在のヒナギやヒロのような、彼女に振り回される役を請け負っていた人間の一人だった。
彼は立ち上がり、アイスココアを飲むルリの姿を見る。長いこと彼女に付き合わされていたヒッテにとって、彼女にいつものような元気、もとい暴走の気配がないことは手に取るようにわかった。
「……ルリ、その『不殺人鬼』のことが相当大切なんだね」
「大切というか……彼がいないと困るんだよ。新作のアイデアに逃げられてしまっては、作家としての顔が立たないだろう」
寂しそうで不機嫌で、何より見慣れない彼女の表情を眺めるヒッテは、うまく言い表せないような気持ち悪さを感じていた。
「……そいつ探すの、僕が手伝おうか?」
「君にできるのか?」
「やるだけやってみるよ。人が増えた方が心強いでしょ?」
「それはそうだが……私はこの町全体と、『不殺人鬼』が目撃された近隣全てをモルフォに探させた。それでも見つからなかったんだぞ」
「だったら、《バタフライ・テキスト》の探知を外れた場所を調べればいい。僕にはそういうところに行ける権限があるからさ」
「そんな場所、一体この世の何処に……」
ルリはそこまで言って、ハッとした。
「まさか、この世『じゃない』場所を探すつもりなのかい!?」
「その通ぉ〜り」
「嘘だろ……ありえない、ヒロは確かに『不殺人鬼』やら《サイダーズ》やら大層な二つ名を持っている、だとしても、ただの《ツインズ》能力者が一人であそこに行けるわけがないだろう!?」
「でも、それだけ大層な二つ名を持ってたら、『連行』されてる可能性は大いにあると思わない?」
「う……確かに、有り得る……かもしれない」
「じゃあ、そいつの顔と名前教えて」
ルリはヒッテのスマホに画像を転送する。ヒッテは画像に映る黒尽くめの——何故か椅子に縛られて眠っている——少年の画像を手元で確認した。
「名前は日暮飛路。覚え方は確か、『日』『暮』れ時に現れる『飛』ぶための『路』……だったかな?」
《4》
話は変わるが、街の癌を切除する『不殺人鬼』が消えたかも知れない、という疑いは、籠目市に住む人々の中で徐々に確信へと変わってきていた。その最たる要因と言えるのが、街の治安が目に見えて悪化してきていることだった。
籠目市の警察は、もちろん普通の警察だ。訓練を積んでいても、人間の域を出ないことに変わりはない。だが彼らが相手にする犯罪者の多くは、《ツインズ》を保有する能力者だ。
「動くな……動くなッ!」
「……ん?」
拳銃を構える警察官。その銃口の先、一人の青年が、うつ伏せになった警察官の上に立っている。踏みつけられた警察官は血を流しており、この距離からでは意識があるかどうか判別できない。
青年は鎖骨が大きく露出するほど首元が伸びたスウェットを着ていて、そこから茨のような刺青がチラリと見えた。耳にはチェーンピアスがジャラジャラと並び輝いているのに反し、ヘドロのように淀んだ緑色の瞳には輝きが一切ない。その異質な雰囲気は、視界の端に捉えただけで、蛇に睨まれたように身がすくんでしまうだろう。
拳銃を握る警察官の手は、震えている。先ほどまで交番にいた彼は、見回りに行った同僚からの緊急無線を受け、ここにいる。
「アンタさ……この状況見た上で、俺のこと止めようとしてんの?」
警官の上に立つ青年は、挑発するように笑いながら、血を流す警官の頭を「ガン!」と踏みつけた。
「コイツ、つまんなかったよ。俺がちょっと弄ったでこのザマなんだからさ。あーあ。警察の秘密、喋ってもらおうと思ってたんだけどなー……ほら、返してやっから受け取れよ」
青年は踏みつけていた警官から降り、その横腹を思いっきり蹴飛ばした。警官の体が宙を舞い、拳銃を構える警官の足元に転がった。
「ひぃぃぃぃぃっ!?」
警官は転がってきた警官の顔面を見た途端、悲鳴をあげて腰を抜かした。拳銃を取り落としたことも気にならないほどに、彼は恐怖に囚われていた。
血を流す警官の左腕が、カートゥーンアニメの中でしか見ないような——骨ごと全て、まるでプレス機に押し潰されたように、「ぺしゃんこ」としか表現しようのない姿になっていたのだ。
「あはは。ケーサツのお兄さんがこの程度でそんなビビってちゃダメでしょ。俺みたいなヤツ、いっつも相手にしてんじゃないの?」
青年は地面を思い切り踏みつける。その衝撃は、明らかに人が起こせるものではない。体感、震度五の地震にも匹敵するような揺れが起こった。時間にすれば一瞬だったが、警官の恐怖を煽るには十分すぎる威力があった。
「あ、そうだ。折角だから、俺の《ツインズ》見せてあげっか」
青年は右手に力を込めた。そこに集うのは、緑色の光。手のひら大の大きさの一粒の緑色の宝石が、彼の手に現れる。そしてそれから放たれた光が、巨大なハンマーの姿を構築した。
「いいでしょ、これ。《コンカッション》って言うんだよ。俺が何かを揺らしたりしたら、それを何倍にも何十倍にもしてくれるんだ。見せてあげたついでに、お兄さんに一発叩き込んであげるからさ……いい顔見せてくれるよなァッ!」
青年はハンマーを大きく振りかぶった。ホームランを打たんとするバッターのような格好で、彼は思い切り、警官にハンマーを叩きつけ——
「飛ばせ、《リバイバル・チャリオット》!」
——ようとしたところで、青年と警官の間を、真紅のバイクが横切った。その一瞬のうちに、警官の姿が青年の前から消える。
青年はバイクを目で追った。そこに警官の姿もあった。警官はバイクのタンデムシートに座った、首にカメラを提げた女に掴まれていた。バイクのハンドルを握る青年は、ヘルメットのバイザー越しに、じっと青年を睨んでいる。
「全くぅ、警察がそんな臆病じゃ務まらないだろう? ほらほら、ここは私たちがどーにかしてあげるから、君はさっさと交番に戻って手配書でも書いてるんだね。写真はあとで送っておいてあげよう」
女は警官にそんなことを吹き込むと、さっさと解放してしまった。警官は礼すら言わず、さっさと遠くへ走り去ってしまった。
「はぁ……取材するネタが増えたのは嬉しいが、《焚書図書館》としての仕事が増えるのはぁ、全くもって嬉しくないことだねぇ。君もそう思うだろ、我が幼馴染?」
「……俺はせっかくオウル様に治療してもらった体に、また傷をつけるのは嫌だけど……仕事なら仕方ないでしょ」
「アッハハ! 生真面目な君らしい答えだねぇ!」
女はハンマーを持つ青年にシャッターを何度も切りながら、バイクの男は何度もエンジンを蒸かしながら、会話を続ける。
ハンマーを持つ青年は、その光景を冷めた目で見ていた。邪魔をしてきたくせに、すぐ自分のことを無視して話し始めたのが気に食わなかったのだ。
「アンタら誰? あ、あの『不殺人鬼』とか言うヤバいやつ?」
「おっとっと……これは心外だなぁ。私たちをあんな野蛮人と一緒にしないでいただきたいねぇ」
「……まあ、あの子がいてくれた方が、俺たちの仕事も減ったかもしれないんだけど……敵なのに、いてくれた方が助かるなんて不思議な感じだよね」
「余計なことを言わないでくれ。私としてはぁ、『不殺人鬼』に向ける感情は恨みだけで十分なんだよぉ! 借りなんて作るなって!」
女はバイクから降り、男とちょうど並ぶような位置に立った。
「私は《焚書図書館リコール》所属、『虚報』の《ツインズ》能力者、写絵風鈴と言う者だ」
「同じく《焚書図書館リコール》所属、『疾走』の《ツインズ》能力者、怪炎寺仁です……短い間ですが、どうぞよろしく……」
かつてルリたちを追い詰めた《ツインズ》能力者は、不本意ながら不在の『不殺人鬼』の代わりとして、青年に名を名乗った。
《5》
「フェニックスが……天界と冥界を滅ぼしかけた……」
ヒロはメアから告げられたこと——ここが《冥界》のどこかであること、彼女が「メア・ヒュノプス」という悪魔であること、ヒロを拘束しているのはフェニックスを警戒してのことだということ。そして《サイダーズ》が、かつて戦争のために生み出された者たちであるということ——を、じっくりと反芻していた。
彼は至って冷静といった様子で、これといった抵抗を見せることもなく、大人しく思考を巡らせている。
「……キミ、思ったより驚かないんだね」
「え?」
「いや、普通だったらさ……目が覚めたら手足固定されてて、目の前に人外がいて、しかもそいつが自分も知らない自分の秘密を喋ってきたら……パニック起こしちゃうと思うんだけど」
「あー……」
ヒロはメアの言葉を受け取ると、「俺は普通じゃありませんからね」と苦笑いを浮かべた。幾度となく自傷し、自殺し、更に他人からも殴られ蹴られ斬られ撃たれて殺されてきた『不殺人鬼』のその言葉は、メアに不気味な感触を覚えさせた。
(こいつ……《スーサイド・フェニックス》をひっぺがしても、平然と人殺しそうだしビルから飛び降りそうだな……)
メアはまだこの少年のことを、ただの少年だと思い続けるだろうと思っていた。が、それはどうやら間違っていたようだ。
「冥界がもう少しキミを見つめるのが遅かったら、きっと《サイダーズ》とか関係無しにキミを拘束するんだろうね」
「それ、どういう意味です?」
「深い意味は無いよ。事実だから」
「酷くないですか!? 俺は殺人鬼じゃなくて、まだ『不殺人鬼』なんですよ! 本当の意味での『殺し』には手を染めてませんし、分別もあるやつなんです!」
「絵柄的にはキミの方が酷いでしょ。刺し殺した後で死体燃やしてるらしいじゃん。もしアタシが人間だった頃にそんなの見かけたら、通報もせずに逃げ出しちゃうと思うなー」
悪魔の言葉に、「うっ……」と漏らした後、ヒロは言い返す言葉を探して口をもごもごと動かしていた。しばらくそうした彼だったが、最後にはメアから視線を逸らした。
「それは負けを認めたってことでいいの?」
「…………好きに受け取ってくださいよ」
ヒロはふてぶてしい膨れっ面を作ってみせた。
「へぇ。案外可愛いところもあるじゃん」
「何を言ってるか分からないんですが」
「……やっぱり撤回で」
メアが若干の苛立ちを見せる。少年はその間も不思議そうな表情でメアのことを見つめているので、余計イライラする。
「また悪夢に閉じ込めてやってもいいんだぞ……『母さん』とか何とか寝言で言ってたから、家族関係の夢だったんだろうが……」
「……なんの話です?」
「キミが見てた悪夢の話をしてんの。寝てる間、キミは一体何を見てたの?」
「俺、夢なんて見てないですけど」
「……は?」
メアは耳を疑った。その悪夢のせいで丸三日待たされた身としては、聞き捨てならない言葉だった。あれだけ苦しそうな顔をしておいて、ただ暗闇だけを見ていたとは到底思えないのだ。
「いやいやいや……嘘でしょ? アタシが《ツインズ》で見せた夢だよ!?《インフェルノ・ムーン》がキミのトラウマ掘り返して、キミが一番苦しむ夢を見せたはずだよ!?」
「さらっと何とんでもないこと言ってるんですか……俺はずっと静かに寝てたはずです。気がついたらここにいた感じですから」
「嘘つけ! ほらもっかいアタシの目見てみろ!」
「やめてくださ……ちょっ、どこ触ってるんですか!?」
「抵抗をやめろっつってんだよクソ鳥が!」
「俺は不死鳥ですっ! 何ですかそのなんの捻りもない蔑称!?」
「こっち見ろ鳥! 焼き鳥にするぞ!」
「もう焼けてますッッ! また気絶するのは嫌ですッ!」
「じゃあもっと強火入れて焦がしてやる! ほら目開けろ!」
「い〜や〜で〜す〜ッ!」
などと、二人は取っ組み合いを繰り広げる。手足を固定されてなお抵抗するヒロに対して、メアは一切の容赦なくヒロの急所を触りくすぐる。……見る人によっては、中々に刺激的な光景だと思うだろうとここには記しておこう。
——ピピピピピッ、ピピピピピッ……。
そんなことをしていると、不意にメアのズボンの中で、彼女の持っていた通信機が連絡を受け取った。なんの捻りもない機械音は、それが仕事の連絡であることを否が応でもメアに知らせた。
「……んだよ、いいトコだったのにさ……はい、メアですけど?」
『メ……《サ……ーズ》第一……目を覚……た……?』
「……チッ」
彼女は一度無線機から耳を離し、舌打ちをした。《冥界》産の機械は、揃いも揃って低スペックだ。最低限の機能しか搭載されていないし、それすらも満足に使えない時もある。
この通信機も、使用されている電波自体は「世界の位相を超えられる」という謳い文句を持つ高性能なものなのだが、いかんせん受信能力に問題があり、今いるような密閉された空間では極端に通じが悪くなる他、位相を超えた先でも電波の通りが悪くなる。
仕方なくメアはヒロの拘束された壁から離れ、入り口のドアをほんの少し開けて、それに無線機を近づける形で通信を行った。
「……すんません、密室だったんで電波の通りが悪くて聞き取れませんでした。もう一回用件をお願いします」
『《サイダーズ》第一座は目を覚ましたか、と聞いた』
「依代の方は目を覚ましましたよ。でも不死鳥の方はアタシの《ツインズ》で眠らされた訳じゃないんで、ホントに分かんないっすね」
『進展は相変わらず無いというわけか』
「あの、依代は目を覚ましたって言ったんすけど」
『依代の意識など知ったことか。計画では、本当に危険な場合、依代を自分から行動できなくして、その体内に不死鳥を封じこめる算段になっているだろう。我々からすれば、依代なんてものは都合のいい力の入れ物に過ぎないのだ。まさか、情が湧いたなんてことはないだろうな?』
「そんなことは悪魔としてあり得ないですよ。ただ……そんな計画でしたねって思い出しただけです……」
《焚書図書館》から《サイダーズ》第一座に関する情報が提供された直後、メア含めた《基礎世界》の監視を担う悪魔たちは《冥界》に召集され、捕縛計画について説明を受けた。
メアはご存知の通り、勤務態度に関しては怠慢と言うのが相応しいので、この時も決して真面目に聞いていると言う訳ではなかった。自分のやるべきことだけ把握して、それ以外は適当に聞き流していたのだ。
だが、その部分、依代の扱いに関する部分だけは、メアの耳に残って離れなかったのだ。それを聞いた時、メアはその「依代」を、なんて不幸な人間なんだろうと思った。
例えるならば、その立場は「たまたま買ったゲームカセットの中に国家機密が入っていた子供」——ほんの些細なきっかけで巨大なものに呑み込まれていく、良く言えば主人公のような、悪く言えばこの世で類を見ないほどに不幸な人物だと思った。
最初、冥界は『不殺人鬼』を不死鳥そのものの通り名だと思っていた(実際には依代のヒロ自身の通り名だったが)のも手伝っていただろう。だがそれを抜きにしても、非人道的だ。
そして、自分が悪魔であること——自分もその「非人道」の側にいると気付いた時、名状し難い息苦しさを覚えたのだった。
『どうした、突然黙り込んで。まさかまた通信障害か? 全く、最新鋭の技術がどうたらとか言ってるくせに……』
「……」
その言葉を聞いたメアは、胸の中でまた舌打ちした。人の心も知らないで愚痴ばかり垂れ流す上司に、幾度となく嫌気が差す。
『答えろメア。こちらの話は聞こえているのか?』
「……」
少し魔が差したメアは、その言葉に返答を返さなかった。ギリギリまで苛立たせて、爆発しそうな時に「通信障害だ」と言ってやろおう、そうしてやり場のないモヤモヤとした感覚を植え付けてやろうと、しょうもない嫌がらせを決行したのだ。
『おい! 本当に聞こえていないのか!?』
「っ……w」
メアは目を瞑り、愉悦を噛み締める。
『答えろ! メア・ヒュノプス!』
——バキン。
上司の罵声に続くように、不吉な音が鳴った。
(——「バキン」?)
メアは通信機からした音かと思ったが、上司の大声が続いているため、どうにもそうとは考え難い。それに音質も、この劣悪なスピーカーから聞こえるのはあり得ないクリアなものだった。
(——まさか……ね)
メアはそーっと、目線を外していたホールの中心へと、真紅の瞳を向けた。
そこにあったのは、猛スピードで迫ってくる少年の拳だった。
「——っ、《インフェルノ・ムーン》!」
咄嗟に真紅の槍を顕現させ、その拳を柄で受ける。だが衝撃は殺しきれず、メアの背は扉へ激突し、そのまま扉を吹き飛ばして彼女は外へと転がり出た。
『メア、今の音はなんだ!? 何が起こっている!?』
悪魔の手から落ちた端末を、少年が拾い上げる。そして少年は、その端末を——仮面の下の口へと近づけた。
「有難う、名前も知らない悪魔。君のおかげで、このメアとかいう我慢強い悪魔の注意を逸らせたよ。半分はヒロが目覚めてくれたおかげで警戒心が緩んだからだけど……見られている時に俺が体を動いたら、またあの悪趣味な悪夢に堕とされちゃうからね」
『貴様……《スーサイド・フェニックス》!? 待て貴様、一体何をするつもりだ!?』
「言わなくてもわかるだろう。俺のことをよく知る冥界人ならさ」
仮面のフェニックスは通信機を叩きつけ、更に踏みつけて完全に破壊する。火花とビープ音と共に、通信機は動かなくなった。
「……さて、メア・ヒュノプス。これから起こることは分かる?」
遠くに倒れる女を見やり、フェニックスは仮面の下で笑った。
「俺はこれから暴れる。君は、その一人目の犠牲者になるんだ」
一ヶ月の猶予があったせいでなんだか色々詰め込みすぎたなぁと反省する人間、クロレキシストです。みなさんお久しぶりです。お待たせしました、お待たせしすぎたのかもしれません……本当に。
私生活が忙しく、こういうスケジュールになってしまいました。ちなみに来月も年末行事云々で忙しくなりそうなので、今月みたいなスカスカ投稿予定になりそうです。……そうなる事態は避けたいので合間を縫って頑張りますが……頑張りたいですがッ!世間がそうは許してくれない……ッ!
今月忙しかった理由は、所属しているちっちゃなコミュニティの合作誌に寄稿する作品を書いてたからだったんですが……それすらもまだ終わっていないという。締切まであと4日、シンプルに顔が青くなってきています。
あとこの前設定資料をまとめていたんですが、そのメモを見ると頭がガンガン痛むことに気づきました。シンプルスランプというか、拒絶反応というか……。
とにかく、ここを乗り切らなければ作家活動は続けられないと(勝手に)思ってますので、年末にかけて頑張ろうと思います。最後の手段として、月末の同じ日に二話一気に投稿するなんてのも考えてますので、どうか見捨てずに見続けてくれると作者は嬉しいです。
(大晦日に私の作品を見るなんてのよりも、紅白見たりする方が満足感あるとは思いますが……)
ではまた一ヶ月後、もしかしたら、二週間後に。