EP8:無恥と悪夢と冥界への扉
《1》
『…………ア。……メア。聞こえているのか』
「はいはい、聞こえてますよー」
その女はシャツの胸ポケットに収まる程度の大きさの無線機を耳に当て、通信の相手の呼びかけに答えた。人混みの中だからか、届く音声は不明瞭で時々全く聞こえなくなる。
女はタイトな黒のジーパンを履き、へそ出しの黒のトップスの上に、真紅のライダースジャケットを羽織った格好をしている。ちなみにジャケットとトップスには、貫通するようにして肩甲骨の辺りに不自然な縦の切り込みが入っており、僅かに彼女の肌が見えた。
彼女自身の緩急のついたシルエットも相まって、彼女はすれ違う人々、その男女関係なしに七、八割型が気を取られるほどの煽情的な風貌だ。
だが彼女と目が合った暁には、その背筋を強張らせること間違いない。長めに切られた前髪の下、泣きぼくろをつけた彼女の瞳は、縦に裂けた蛇のものに似た瞳孔を持ち、その色は鮮血や煉獄を思わせる真紅。ただものでないことは明らかだ。
『例の…………は見つかったのか、もう……日もお前から連絡を……いない…………お前は…………』
通信相手は男性のようで、何やら文句を言っているようだが、相変わらずノイズが酷くその内容は読み取れない。と言うよりかは、女が意図的に聞き流している部分もあったようだ。
「あの、聞こえないんで要件だけ言いますね。一応標的は見つけました。今は様子を伺ってるとこです。だからあと数日かかると思いますけど、まあ気長に待っててくださいねー」
『待てメ……こちらからも伝えることが…………』
「んじゃ」
女は無線機の通話ボタンを軽く押し、通話を断ち切った。
「……あー……クッソだりィ……就職可能な唯一の職場でクソ上司に当たるとかどんだけツイてないんだアタシはよぉー……せっかくの第二の人生……人生? だってのになんなんだよぉー……!」
彼女は人混みの中というのを全く気にしていない様子で愚痴を吐き出す。シンプルに一人で騒がしくしているというのと、項垂れるたびに彼女の豊満が揺れるのとで注目を浴びていたが、思考に没頭しているのかそれにも気づかない。
「まーターゲットがターゲットだから許してやるかー……問題は捕まえた後だよなぁー……あァァァァあいつに差し出したくねェェェェェェェッ!」
《2》
「頭の回転はピカイチ、チームのブレーン稲葉瑠璃、宿す《ツインズ》はモルフォこと《バタフライ・テキスト》」
「……」
「素直じゃないけど頼りになる、メンタルヒーラー伊織日凪、《ツインズ》は《ディア・マイ・シスター》、正体は彼女の実姉、伊織日向」
「…………」
「没落御曹司の元『夜盗』、影に生きる男、黒崎亜玖斗、《ツインズ》は影鰐こと《ホーンテッド・ファング》」
「………………」
「そして最後に——」
ヒロは読んでいた本を閉じた。
「何十人もを葬った最恐都市伝説、『不殺人鬼』の日暮飛路。《ツインズ》は《サイダーズ》第一座の《スーサイド・フェニックス》」
「……それ、自分で言うのかい?」
「お前こそ、黙って作業できないのか?」
ヒロは一人でブツブツ呟きながら机に向かっていた少女、自称頭の回転ピカイチのルリのことを咎める。
今日は土曜日、ルリは高校が休みで、今日は朝から夢のための努力——「シナリオ」の制作を続けている。ヒロはそれがなんなのかよく分かっていないが、どうもプレイヤーがキャラクターを演じて進行する、アナログのゲームの筋書きらしい。
「あとな、勝手に進めてるけど、俺は俺を題材にしてシナリオ書いていいなんて一言も言ってないぞ」
「黙りたまえよ。夢のためならば私は手段を選んでられないんだ、数打ちゃ当たる戦法ってやつだよ。それに……」
「それに?」
ヒロが聞き返すと、彼女は手元のノートに書き込む手の動きを止めて、机に伏した。
「……スイコウのいなくなった分の心を埋める方法を、私はこれくらいしか知らないんだ」
「……そうか」
彼女のやるせなさを十分に含んだ震え声に、ヒロはそうとしか返せなかった。スイコウとは、ルリの友人である紙魚綴幸のことである。先日、彼は謎の組織《焚書図書館リコール》の構成員であったことが発覚し、同僚に連れ去られる形で姿を眩ませてしまったのだ。
「あれからもう一週間以上経っているなんて信じられないよ……時の流れとは、実に早いものだね……」
ルリとスイコウは同じ高校のクラスメイトだが、ルリはこの五日間、スイコウの姿を一度も見ていない。彼は明らかに《ツインズ》由来であろう吹雪に包まれて、姿を消したのだ。
その消え方から、彼が半径十キロだとか二十キロだとか、そんな短い距離の間で失踪したとは考えられない。テレポートならもっと遠く、あるいは違う次元に送られたとも解釈できる。
ヒロは彼女の見ていられない姿から目を逸らすように、読んでいた本に目線を落とし、読書を再開する。
「……なんかごめん」
「君が謝ったところで何も解決しないさ。だからそうやって申し訳なさそうな顔をするのはよして……ん?」
ルリはキャスター付きの椅子を回転させ、ヒロの方を見た。そして彼女の目線は、彼が読んでいる本に吸い寄せられていた。
ここはルリの暮らす一軒家の、彼女の子供部屋だ。一口に子供部屋と言っても、彼女の部屋はすでに今の彼女に合わせて色々整理が終わっている。無柄のシーツが敷かれたベッドやモダンな色合いの本棚は、一律してスタイリッシュさを演出している。
そしてヒロは彼女の部屋の中で唯一何もない壁、本棚の反対に位置する壁に体を預ける形で居座っていて、作業中のルリからすれば、完全に視界と意識の外になっていた。
彼は、ただ居座るのは退屈だと思ったためか、本棚から適当な本を抜き出して読んでいたようだ。ちなみにルリは本にはブックカバーをする派だ。それも家にあるコピー用紙で適当に作ったものを被せるため、彼女の本棚には真っ白で無個性な本が並んでいる。
だがヒロが読んでいるのはブックカバーがかけられていない本だった。そして、本棚に並んでいる市販の文庫本たちとは、紙のサイズが違う。ちょうどブックカバーに使うコピー用紙ほどだろうか。その手製感溢れる本を見た途端、ルリは固まった。
「ヒロ? 君は一体、何を読んでるのかな?」
「え、何って……『お前の』だけど……ほら」
ヒロはその本の表紙をルリに見せた。色画用紙には、わざわざ友人に書いてもらった、男二人のイラストが載っていた。
「結構面白いな、これ」
それは、ルリの「黒歴史」、人に見せることなどもってのほかと言える過去の遺物に他ならなかった。
「ヒロっ……てっ、テメェうおォォォォォォォォォォッ!?!?!」
ルリは絶叫して椅子から飛び上がり、ヒロの持っている薄い本に飛びついて、彼の手から引き剥がそうとそれを引っ張った。
「なんで数ある本の中からそれを選んだんだよッ!?」
「いや、お前って普段どんなの書いてるのかなって気になって……」
「ふざけないで、とにかく返してッ!」
「いや、俺BLとか全然大丈夫みたいだし……」
「君の話はしてないッ! てか大丈夫『みたい』って何なの?! そうか、君は記憶喪失だから耐性があるか分からなかったからってことか!? 知ったこっちゃないよ! 返せーッ!」
「待てって、このページ読んだら返すから……」
「私が恥ずかしいって言ってんだよぉぉぉぉぉぉっ!」
ルリは柄にもなく、思いっきりビンタをかました。
《3》
ヒロは腫れた頬をさすりながら、街を歩いていた。
「フェニックス……俺何で追い出されたのか分かる?」
(——俺も人間の細かいことは分からないけど……彼女が言っていた通り、「恥ずかしかったから」なんじゃないのかい?)
「『恥ずかしい』か……やっぱイマイチピンとこない感覚だなぁ」
側から見れば一人芝居をしているヒロは、向かってくる人が彼のことを不気味に思い避けていることを分かっていない。むしろ「道を譲ってくれるなんて優しい人だな」と、呑気なことを考えている。
ヒロには他人からの視線を「不快だ」と思う感覚はあっても、「恥ずかしい」と思う感覚はない。
原因は色々ある。『不殺人鬼』としての生活からか、人と自分が違うのは当たり前のことだと割り切っているのが一つ。記憶喪失のせいで、人に言えない恥ずかしい秘密を持っていない、もしくは忘れているのが一つ、といった具合だ。
だが羞恥心がないからといって、人前で全裸になったりすることに抵抗がない、なんてことはない。それは法に引っかかり、活動に影響が出てくるために避けている。
それもあってこの問題が顕わになることは今までなかったのだが、ルリやヒナギ、アクトといった面々と関わるにあたって、どうやらこれはまずいぞ、という意識が芽生えてきた。
具体的には、相手が恥ずかしいと思うことが分からない、つまりはデリカシーがないことばかりしてしまうのだ。
この前ヒロがアクトの元を訪ねた時、彼は上半裸だった。この前のスイコウとの戦いで負った傷のせいで、彼の唯一のまともな服がダメになってしまったらしい。替えをルリに持ってきてもらうまで、裸のまま過ごすしかないという。
そうした都合もあり露わになった彼の肉体は、ギリシア彫刻を彷彿とさせる筋肉の美に満ちており、見事の一言に尽きた。毎日の研鑽の賜物だろう。思わずヒロは感嘆の声を上げてしまった。
だが彼はその芸術品を眺めるだけに飽き足らず、好奇心のせいでつい触れてしまった。触られたアクトは「ビクゥッ!」と全身を電流に駆け巡られたかのように震わすと、影の中に潜り、「眺めるまでは良いが、それはどうなんだ」と、決まり悪そうに呟いた。
ちなみにそうして潜った後、影の中に替えのTシャツを入れていたことを思い出したらしい。
その次の日、ヒロが夕方の街を徘徊していると、たまたま学校帰りのヒナギと遭遇した。「あ、ヒロじゃない」と言う彼女の態度は、初対面の時から驚くほど柔らかくなっていた。その事について話すと、「アンタはアタシの命の恩人だからさ」と彼女は言った。
ルリとヒナギは中学こそ違ったが家からの最寄り駅が同じで、時間が噛み合った時は一緒に帰ったりすると聞いている。ルリが帰宅部なのに対してヒナギはゴリゴリの運動部なので、そうそう一緒に帰る機会はないらしいのだが。
ヒロはふと気になって、ヒナギにルリと仲良くなったきっかけを聞いた。返ってきた答えを簡単にまとめると、「一年の時にたまたま隣の席になって、一方的に話しかけられたのが始まり」らしい。
それ以外にも、彼女は人間関係について色々話してくれた。内容の大半は愚痴だったが、そのほとんどで、彼女はブーブー言いながらも相手のことを手伝っていた。
ルリが「ヒナギは根は優しいんだけど素直じゃないんだよ、素直じゃ……」と言っていたのと併せて考えるに、ヒナギは口ではああ言っているが、本当は頼られるのが嬉しいのだろう。
「ヒナギは優しいな……手伝ってもらえる友達が羨ましいよ」
彼女があらかた話し終わった後、ヒロは笑ってそう言った。だが次の瞬間、彼の笑顔は文字通り砕かれた。
ヒナギの繰り出した正拳突きが、ヒロの鎖骨を捉えたのだ。ゴッ、という鈍い音と共に、ヒロは思わず仰け反った。
「おうふ……」
「……ばっ、バカじゃないの!? 私は嫌々やってあげてるの! それを羨ましいだなんて……アンタってやっぱり変なヤツね!」
ヒナギの声のトーン的に本人は照れ隠しのつもりで放ったようなのだが、ヒロの骨格には可愛くないダメージが刻まれていた。おそらくヒロでなかったら、大変なことになっていただろう。
ちなみに、ヒナギの所属する運動部は女子空手部である。
などと先日のことを思い出しながら、ヒロはまだ、当てもなく街を彷徨っている。先日モルフォと話したカフェのリベンジなんかができれば多少変わったかもしれないが、相変わらずヒロは家無し文無しで、一度外に出ると犯罪者を探すくらいしかやることはない。だが、朝っぱらから罪を重ねる馬鹿は流石にいないだろう。
ヒナギやアクトを訪ねるのも無しだ。特に話題も切り出せず変な空気になって終わりだろう。特にヒナギは、謝ろうとした瞬間またぶん殴られるかもしれない。
ヒロはまた、内なる相棒に話しかける。
「集団の中で生きていくって大変なんだな、フェニックス……」
(——疲れを感じるなら、また孤高の身に戻ってもいいんだよ?)
「それだとお前を諭した意味がなくなるだろ、フェニックス……ルリのために記憶を取り戻すって決めたんだからさぁ、このまま俺が遠慮のないことばっかして、ルリたちに愛想尽かされたら、せっかくの覚悟が台無しになっちゃうだろ?」
(——だからって君が焦って無理することはないだろう。「恥ずかしい」だなんて、それこそ集団の中で生きないと得られない感情なんだから、今の君とは程遠いだろう?)
「俺をその集団社会から引き剥がして『不殺人鬼』にしたヤツがよく言うよ……」
(——だからそれは君が望んで『不殺人鬼』に……)
「だったら言わせてもらうけど、今回の無理も俺が望んでやってることだから。フェニックスは黙って見ててよ」
(——そうじゃない……ヒロ、俺は君の感受性が高くなることは賛成だけど、それは別に、今すぐにやるべきことじゃないだろうと言っているんだ! ……そもそもあのルリとかいうガキが、簡単に君のことを解放すると思っているのかい? 君から話のネタを搾り尽くすまで、彼女は君を放さないよ。だから今すぐに取り戻さなくたって、これから色々していく上で自然に取り戻していったほうが合理的じゃないかとね……!)
「…………お前、たまにはいいこと言うな」
(——偶にっていうのは癪だけど……まあ、今回は許してやるよ)
「何がいいんだか……そうだ、フェニックスって《サイダーズ》の一員だったんだろ?《サイダーズ》の他のメンバーとはどんな感じだったんだよ」
(——……前言撤回だ。やっぱり君には羞恥心を……いや、それに限らず配慮ってやつを学んでもらわなくちゃいけないな)
「急にどうしたんだよ……」
(——「人には知られたくない過去がある」……俺は人じゃないけど、知能ある者は皆、そういうものがあるんだよ。君が自分の過去に何があったのかを、知りたくないようにね)
「…………そういうもんか」
(——ああ、そういうものだ)
「……」
ヒロは立ち止まった。フェニックスに彼が与えたのは、羞恥心ではないだろうが、「秘密」に触れたことによる不快感であることに変わりはないだろう。「またやってしまった」、その罪悪感が背を伝う。
「やっぱ辛いな……疎外ってゆーのはさ」
その苦しさを噛み締めて、ヒロは再び足を踏み出した。だが、数歩歩いたところでまた立ち止まった。
ヒロの目に映ったのは、不自然な動きをする男たちと、その輪の中心に立つ一人の女性。彼はこの構図に、嫌というほど遭遇した記憶があった。その全ては、『不殺人鬼』としての遭遇だったが。
《4》
「お姉ちゃん、一人で何してたのさ?」
ヒロが男たちを追いかけると、彼らは更にもう少し進んだ先の路地裏に入り込んだ。輪の中心にいた女性は、連れ込まれるような形で男たちと同じ路地裏に入って来ていた。
ヒロが男たちを追跡したのは、単に男たちが怪しかったからというわけではない。
(——あいつ……まさかこの前の《ジャンキー・ナイト》の? しかもその隣にいるの、一緒にいた《ザ・ピンク》のやつじゃ……!)
ルリと出会うきっかけになった、純粋な『不殺人鬼』しては最後に行った殺し。ヒロの目の前で女性を囲んでいたのは、あの時に殺し、蘇らせた男二人を含んだ不良のグループだった。
(——まさかあれほどの苦痛を与えてもなお、更生しないで悪行を続けているとはね……流石の俺でも呆れてしまうよ)
(——でも、あいつらの《ツインズ》は俺たちで破壊したからもう使えないはずだよな……相当高額で取引されてるはずだから、「壊れたから買い換える」なんて手も使えないよな……)
発生源は未だに特定できていないが、《ツインズ》の存在を知る一部の人間の間では、《ツインズ》の売買が行われている。《ジャンキー・ナイト》や《ザ・ピンク》は、その市場において多く取引されている《ツインズ》の名前だ。
あの男二人のものに限らず、ヒロが葬ってきた多くの《ツインズ》は全く同じ規格で、性能も能力も同じものだ。そういうのは大抵、闇の《ツインズ》市場から流れて来たものと考えていい。
裏市場に出回っている《ツインズ》は、最低でも百万円近くすると聞いたことがあるので、一般人、しかも職も安定していないであろうチンピラごときがどうこうできる額ではない。
よってあの男たちは《ツインズ》を持たずに非行を働いていると踏んだヒロだったが……。
「人を探してたの。何か悪い?」
「いやぁ? ただね、姉ちゃん。この街にどんな危険があるかってのは、教えてあげた方がいいかなぁと思ってさァ」
「わざわざ知らなきゃならないほどの危険があるの? 平和ボケしたようなバカしかいないこの街に?」
「当たり前だろーがよォ、姉ちゃん。どの街にも危険の一つや二つあるモンだ。だから——」
男の一人が、催促するように手を差し伸べた。
「三万円。出してくれたら、教えてやるよ」
女性は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに本来の調子を取り戻し、そして男たちを鼻で笑った。
「そんなの今時流行らないぞー。金が欲しいなら自力で稼げばいいじゃん、そんな事も分からないの?」
「ッ、テメェ!」
一番前にいた男が、怒りに顔を歪めた。とんでもない沸点の低さだ、社会に馴染めない理由が、見ていてなんとなく分かる。
「バカにしやがって……許さねェ!」
男が叫んだ次の瞬間、男の背中から気色悪い肉色の触手が何本も飛び出した。表面が蠢くたび、グチュグチュと不快な音が響く。その力の名は《ザ・ピンク》。能力者の男は、あの日ヒロが葬った男と同じだった。
「全財産を貢いで取り戻した俺の《ツインズ》……その重みを喰らいやがれェェェェェェェェッ!」
肉色の触手が女性に襲いかかる。同時に、ヒロは建物の影から飛び出し、その手に《スーサイド・フェニックス》を握った。
「《血風・鳶》ッ!」
ヒロは小さく飛び上がると腰を大きく捻って、剣を全力で横に薙いだ。炎の帯が触手の根本を襲い、女性に向かっていた全ての蠢く肉塊は、電気ショックを流されたように仰け反った。
「はァ……!?『不殺人鬼』!?」
「覚えてくれているとは光栄だな。だが……折角俺が直接手を下してやったというのに、全く反省していないのはどういう事だ?」
ヒロは慣れたように内に秘めていた殺意を全身から吹き出し、不良たちを威圧した。過去に一度殺されたメンバーもいたためか、今にも失禁しそうなほど震え上がっていた。
「覚えの悪いガキには……何度でも死んでもらわないとなァッ!」
ヒロは剣を振り上げる。振り上げたと同時に、女性と目が合った。
「見つけた……《サイダーズ》第一座」
女は前髪を掻き上げる。蛇のような縦に裂けた瞳孔を持った瞳が露わになる。
ヒロはその瞳の中に、赤い月の姿を見た。
「……ッ!?」
ヒロの握る剣は、「ガァン!」と音を立てて、チンピラのすぐ目の前のアスファルトに突き立てられた。そしてヒロは、その剣を杖にするようにして、その場にうずくまった。
「なんだ……これ………………」
力が入らない。瞼が重い。体のありとあらゆる器官が、休息が欲しいと訴えかけてくる。
百戦錬磨の『不殺人鬼』は、一瞬にして眠りに落ちたのだ。
「まさかそっち側から来てくれるなんて、ラッキーラッキー……さて、このクソ野郎たちを始末したら帰りますかぁ……」
《5》
少年は、呆然と立ち尽くしていた。目前のショッキングな光景に視線を奪われ、動けないまま。
「はっ……はっ…………」
彼の瞳はある一点に釘付けになったまま、動揺のあまりわなわなと震えていた。深呼吸して調子を取り戻そうとしたが、体は断固として、その意思に従う姿勢を見せなかった。
一部が割れた窓からは、絶えず風雨が流れ込んでくる。全ての葉を落とさんと木々を揺さぶるほどの暴風は、部屋に散らばるガラスの破片を巻き上げ、皮膚を浅く細かく傷つけてくる。
窓と同じようにヒビの入った画面のテレビには、遠くの観察カメラに捉えられた、高波の様子が映し出されている。鬼気迫る語調で避難勧告が発令された地域を読み上げるキャスターの声が、暴風に混じってツギハギに聞こえてくる。
食事が並んでいたダイニングテーブルは中央から真っ二つに折られ、近くに食器の破片や食べられるはずだったものが撒き散らされている。少し奥に目をやれば、シンクに置かれたままじっと洗われるのを待っている食器たちを見ることができただろう。だがダイニングは棚が片っ端から開かれており、中に行儀よく並んでいたはずの未使用の食器たちは、他と同じように凄惨に破壊されていた。
そしてその光景の中心に位置するヒロは、なぜか一糸纏わぬ姿だった。その皮膚はわずかな温かみを持った水分で湿っており、それは外から流れ込む雨粒とは違っていた。
そんな光景があることに、ヒロは全く気付いていない。彼はただ、目の前の「それ」を見つめることしかできなかった。
「それ」は、「肉」だ。
一般に「肉」の一語によって人の頭に連想させられるのは、食用に加工された豚や牛、鶏の肉が大半で、珍しい場合にはいわゆる「ジビエ」と呼ばれるような鹿や猪の肉だろう。
だがヒロの前にあるのは、そういった一般に想像されるような肉ではない。機械を使わず、ただ乱雑に叩き形を崩したような、ところどころ原型の残った肉片の山だ。
肉の山は床に積み上げられており、その下のカーペットは、肉から出たであろう赤い液体や黄色い脂肪を雨と共に吸って、元の色がほとんど判別できない。
だがそれ以上に、その肉に金属片や布切れが混ざっているという事実が目を引いた。恐らく衣服や、包丁のものだろう。
なぜただの欠片から、そう推測できるのか。そのヒントは、ただ肩で息をすることしかできないヒロの右手が、金槌のグリップをギリギリと全力で握りしめているということが一つ。そして、ヒロの呼吸を荒げる感情が、他でもない「恐怖」と「罪の意識」であることがもう一つだ。
——この肉は、人のものだ。
ヒロは全身が石化したような、それでいて内側に存在するマグマが炸裂しそうな、そんな苦痛に蝕まれていた。何も着ていないのに、全身を鎖で縛られたかのように動けず、息苦しい。
何故さっきまで路上にいた自分が民家にいるのか、そもそもここはどこなのか、一体ここで何があったのか、そういったことを冷静に考えられるだけの余裕は彼にはない。ただ漠然と、何の根拠もない「自分がやったんだ」という確信だけが彼にある。
暴風が全身を包み、そのまま部屋の奥へと流れていく。汗か、涙か、あるいは返り血か。彼の表面に付いた液体を、風は乾かす。
だがヒロは、この光景を見たことがあるような気が感覚を覚えていた。
《6》
——《冥界》。それはかつて、地上で悪を働いた者たちの魂を徹底的に矯正し、真っ当な次の生を迎えられるようにするための教育を行っていた地獄そのもの。そして同時に、俗に「悪魔」と呼ばれるような、更生しきれなかった悪人の魂が変質した者たちの巣窟だった。
だがその《冥界》の姿は、「天使」たちの住まう《天界》との全面戦争によってここが瓦礫の山となったことで失われた。ここにはもう恐るべきサタンも、嘘吐きの舌を引き抜く閻魔大王もいない。
かつて壮大な御殿が立っていた場所は瓦礫の山と化し、残された人々はその残骸をかき集め、今は真紅に染まる空の下、ツギハギの建造物が立ち並ぶスラム街のような光景が広がっている。
転生の輪廻から外れてしまった悪魔たちは、自分たちのような者をこれ以上産まないように、罪人たちの人格の矯正を試みている。
そして新たな使命として、普通の人間たちが暮らす、《基礎世界》の脅威を排除する「死神」を育成して、罪人の始末を行っている。
現在の《冥界》とはすなわち、悪魔たちの自治区。同時に、罪人を更生、場合によってはその命の灯火を吹き消す、治安維持組織としての一面も持っているのだ。
そして現在、その冥界に沈んだ罪人たちの長たち、つまりは逸れ者ばかりの冥界を統率する冥界の権力者たちが、一同に介して一人の少年を見つめていた。
少年は靴、ズボン、上着に至るまで黒で統一していて、素肌に直に来ている赤のTシャツの色味が目立っている。赤というのは冥界の空の色でもあり、とても見慣れた色だったが、統率者たちの目には、その赤が全く違う意味を持って写っていた。
「この者が、本当にあの《スーサイド・フェニックス》の依代なのか」
「この少年を捕えた者は、彼が『緋色の血』を使ったところを見たと言っている。確かなことだろう」
「巷では『不殺人鬼』という名前で、都市伝説になっていたようだ」
「それはこの者の存在が大衆に筒抜けになっていたという訳か?」
床に寝る少年を囲うようにして、全く同じ黒いローブを身につけた者たちは口々に話す。少年は酷い悪夢を見ているのか、全身にじっとりとした汗をかき、絶えず唸り声をあげながら、時折体を捩る。その姿は、何かを振り払おうとしているようにも見えた。
「……白々しいぞ、《スーサイド・フェニックス》。依代は眠ったままだろうが、どうせ貴様は起きているのだろう?」
ローブの一人が、眠る少年に——否、彼の内側に潜んでいる《ツインズ》に話しかけた。すると少年の体が「ビクン」と震えた。まるで死体に電気を流した時のように。
「《血面・鷽》……やれやれ、冥界人にはお見通しってことか」
少年は顔に両の手のひらをかざして仮面を出現させると、その体を起こして飄々とした口調で話し始めた。それは少年自身の意思ではなく、彼の体に宿る、悪霊のものに他ならなかった。
「久しぶりだな、《スーサイド・フェニックス》」
「……軽々しく俺の名前を呼ばないで頂けるかな? 君たちとは縁を切ったはずなんだ。それを軽々しく——」
「お前の事情など知ったことではない」
冥界の長たちは、少年の体を借りて話すフェニックスの言葉を一蹴した。発言したのは一人だったが、十数人の黒ローブの人物たちは全員で一つの生命体であるかのようで、その言葉は、常にその十数人の総意であるように感じられた。
「我々が貴様を捕らえた理由が分かるか?」
「……また、俺を戦争の道具にしようとでも言うのかい」
「違う」
黒ローブは一歩、全員が全く同じ歩幅で不死鳥に近づいた。
「貴様は兵器になり得る力を持っている。それを《基礎世界》に放り出しておくわけにはいかないと判断したからだ」
「ならどうして、今まで手出しをしてこなかったんだい? 俺は百年もの間、君たちからも、他の《サイダーズ》からも離れていたはずだ、捕えるチャンスは幾度となくあっただろう」
「貴様の足取りが掴めなかっただけだ。だがつい先日、《サイダーズ》第六座からお前の情報が入った。よって《基礎世界》に派遣していたエージェントにお前を探させた」
「オウルのやつか…………チッ」
フェニックスは柄にもなく舌打ちをした。恐らくあのフウリンと名乗った女を通じて、彼のことを知ったのだろう。第六座、《クロノサイド・オウル》の統べる《焚書図書館リコール》は、「情報」に最も秀でている《サイダーズ》直下の組織と言える。抱える莫大な蔵書と独自の調査網、そして「世界から抹消された情報が勝手に集まってくる」という特異性を以てすれば、人一人の動向を探ることなど朝飯前どころか眠りながらでもできてしまうだろう。
「貴様が『不殺人鬼』を名乗っていたおかげで、存外簡単に貴様の居場所を調べることができたそうだ。墓穴を掘ったな」
「……自分では手を下さないところが、いかにもオウルらしいね……で、君たちは俺を捕まえて、これからどうするつもりだい?」
「ただ捕らえ、力を封じるだけだ。それ以上のことは何もしない」
フェニックスは知る由もないが、冥界は《サイダーズ》第六座、《クロノサイド・オウル》以外にも、第四座、そして第五座とも協力関係を結んでいる。それは彼らと敵対することが、冥界の危機を意味するからに他ならない。
冥界の民にとって、和平を結んでいないどころか、動向も分からない《サイダーズ》をそのままにしておくことなど、核兵器のスイッチを野晒しで放置しておくようなものと同義。だから不死鳥を鳥籠に閉じ込め、民の安全を確保しようとしているのだ。
冥界の長たちはフェニックスを威圧しているが、その眼差しは極めて誠実なものだ。彼ら「悪魔」は元々罪人だ。しかも、罰を受けて更生したにも関わらず監獄から出られないという、残酷な運命を押し付けられた人々なのだ。
だがフェニックスも、引くつもりは毛頭なかった。
「……どうせわかってくれないだろうけれど、俺は」
フェニックスが啖呵を切って彼らに反論しようとしたその時。
「だァらっしゃァァァァァアッ!」
女性のものであろう、完全に可愛げや色気を捨てた叫び声が壁の向こうから響いた。
この部屋は過去の冥界の残骸から作られたわけではない。丁寧に土を集めてレンガを作り、それを積み上げて作られた建物だ。黒味の強い赤レンガの壁は見るからに頑丈そうな印象を与えるのだが、女の声はそれを大きく揺らすほどの勢いを秘めていた。そして——
——ボゴォッ!
レンガの壁が突き破られ、一人の男が背中から部屋に突っ込んでくる。それを追うように、紅い影が弾丸のように男に飛びかかった。
「話が違ェじゃねーかァ! てめェ言ったよなァ!? アタシが《サイダーズ》見つけたらボーナス出すってなァ、どーして報酬がてめェの懐に全部突っ込まれてんだァァァ!?」
男に突っ込んだのは、一人の女だった。長く伸ばした前髪の隙間から、縦に裂けた瞳孔を持つ赤い瞳が見える女。タイトな黒のジーパンやへその出るデザインのTシャツは、彼女の煽情的な体のラインを強調し、その上に羽織られた真紅のライダースジャケットが情熱的な女。先ほど、ヒロの意識を睨んだだけで途切れさせたあの女で間違いなかった。
だが先ほどの彼女とは決定的に違う点があった。彼女の頭には山羊のような立派な角が、彼女の背中には蝙蝠のような皮膜を持った羽が、彼女の腰からは蠍のような尾が生えている。まさしくそれは、悪魔の姿だった。
「何事だ、メア」
彼女に一番近い黒ローブの一人が、男に追撃を見舞おうとする彼女を引き止める。
メアと呼ばれた悪魔の女は背筋を小さく震わすと黒ローブの方を向き、男への激情をそのままに、一気に状況を話す。
「聞いてくださいよ! アイツ、アタシが《サイダーズ》捕らえたら報酬は弾むぞって言ったくせに、アンタらが出した報奨金、全部自分のポケットマネーにするつもりだったらしいんですよ!」
かろうじて敬語の体裁は保っているが、怒りに任せて吐き出されたような言葉はお世辞にも丁寧とは言えなかった。
「しかし……メア、申請では『彼の部署が捕らえた』となっているから、必然的に一旦上司である彼を通じて部署のメンバー全員に配分する運びになっているはずだが……」
「はァ!? そんなん納得できるわけないじゃないですか! アイツは確かに『アタシに』ボーナス出すって言ってたんですよ! どうしてこんなことに……あっ!」
すると彼女は突然、フェニックスを指差した。
「アイツに聞けば分かります! なんてったってアタシが捕らえた当事者なんですからね! ほら、そこの《サイダーズ》!」
メアは翼を軽くはためかせると、小さく飛んで一気にフェニックスに近づいた。フェニックスの目の前に着地するなり、彼女はずいっと、少年の仮面を被った顔に自分の顔を近づけた。
「アタシのこと覚えてんだろ? アンタを眠らせた女だよ!」
「えーっと、君は……今俺の中で眠ってるヒロを眠らせた、《ツインズ》能力者ってことでいいのかな?」
「は? 何言って……てか待てよ、そもそもなんでお前仮面なんてしてんだよ。さっきはしてなかっただろ?」
「そりゃ表面化してる人格が違うからね……ってやめろ離せっ、この仮面は外れたら大変なんだぞ!?」
「へー結構精巧だなー……何で出来てんだ?」
「引っ張るな手を離せッ! 俺の話を聞……あっ」
べり、と音を立てて、仮面がフェニックスの顔から剥がれる。同時に彼の頬骨とこめかみのあたりの皮膚が剥がれ、じんわりと血が滲む。そしてメアが持った仮面そのものも、赤黒い血となって彼女の手から溢れ落ちた。
「うわっ、グロ……なんだこれ血か? 気持ち悪……」
そして次の瞬間、「ボッ!」と軽い音を立てて血が燃え上がり爆ぜた。「熱っ!?」と悲鳴をあげて手を振り回すメア。
そして最後に、少年の顔が炎上し、彼はその場で気を失った。
「……アタシ、なんかやっちゃいました?」
お馴染みクロレキシストという者です。
スイコウくんを奪われた無念さから立ち上がれないルリ、自分に「人間性」が足りていないことを自覚し始めるヒロ。そんな彼らをよそに明かされた《冥界》の存在。そう、八話にして、設定が複雑化してまいりました。
「双生のインプロア」の物語が展開する世界は、皆さんが立っている世界よりも複雑な構造をしています。その上で成り立っている以上、《ツインズ》のシステムもかなり複雑らしいですよ。一応今話で登場したお姉さんの《ツインズ》は《認識系》なので、ツインズ能力の八大分類は全て出揃ったわけですが、それだけでは《ツインズ》は語り尽くせないらしいです。
あと話すことといえば……そうそう、新キャラのメアさん。社畜で、ちょっとポンコツというか、後先考えないタイプの悪魔です。んで、叡智な体つきをしてらっしゃいます(ここ重要)。実は一章に登場するキャラクターの中で唯一と言ってもいい、貴重な「お色気ポジ」です。作者は少年誌的なキャラか病みキャラばかり作ってきたので、こういうキャラの作り方、特に口調が分からず、どうすれば彼女の魅力が伝わるだろうと四苦八苦しました。次回はもう少し上手くできるといいな(願望)。
さて、今後の投稿ですが、リアルがちょいと忙しくなるので11月は月末一回の投稿のみにする予定です。追ってくださっている貴重な皆様に対して最大の失礼だとは分かっているのですが、ご理解とご協力、そしてご期待をよろしくお願いします。待たせる分、いいものを書こうとは思っておりますので。
では、今日のおしゃべりはこれほどにして。
また一ヶ月後に会いましょう。