EP34:拳銃と魔鏡と静寂を切り裂いた一筆
《1》
結論から言って、スイコウは《鏡装》を行うのには適さない人材だった。彼が彼自身を「彼」たらしめる、完全にして不動の自己認識を持っていなかったためだ。
「《鏡装》とは、一時的にとはいえ己を別の存在に侵食させる……言い換えれば自分を《ツインズ》に『喰わせる』行為だ。それに耐えるには、たとえ殺されようとも絶対に己を見失わない自我が必要とされる——お前にはそれが無い」
それに続けて、狭霧真——《焚書図書館》を率いる者に体を貸しながら尚、個人としての存在を確立できるほどの、強固な自我を持つ者——は言った。
「《鏡装》が使えるのは、独善的な人間だけだ。お前は周りに優しすぎる」
それでもスイコウは、無理やりに《鏡装》を成功させた。否、無理にでも《鏡装》を使うことそのものは、どの《ツインズ》能力者にもできることだ——永久に残る副作用に目を瞑れば、だが。
瞳の色、髪の色などの外見的特徴。あるいは話し方や考え方といった内面的特徴。それらアイデンティティが崩壊、欠損、再構築を起こし、以前とは異なったカタチの人間になってしまうのだ。たとえ適合者だとしても、《ツインズミラー》を介して暴走のリスクを取り除いても、《ツインズ》との融合というのは、それほどまでに自らを危険に晒す行為だということだ。
このデメリットをスイコウは受け入れた。結果、彼は親譲りのエメラルドのような瞳を捨てて、怪物の姿を手に入れたのだ。
しかし彼はその貴重な一度目の《鏡装》を、すぐに解除してしまった——親友にその正体を、いとも簡単に看破されてしまったから。
(——やっぱり、ルリには敵わないよ)
スイコウは思った。この力を扱い切れるのは、きっとルリのような芯のある人間だと。その敗北感が、彼に鎧を脱ぎ、素顔を見せることを求めたのだった。
《2》
(——一度目は目の色だけで済んだけど、次はどこに影響が出るか分からない……でも)
スイコウは黒く染まった手で持つ《ツインズミラー》に、自分の姿を映した。逆光の写真か、影絵か。それらと同じくらい、彼の体は真っ黒に染まっていた。これでは、ただの怪物とさして変わらない。
(——このまま戦い続けて、怪文書に全てを呑まれることと、副作用で何かを失うこと。……もう、天秤にかけたところで大して変わらない。……僕はどうせ、何かを失わなきゃ舞台に上がれないんだ)
彼の槍が、カードに変わる。不吉な色をしたその切り札を、《ツインズミラー》に取り込ませた。
『《LETTER FROM BLACK-WORLD》reflected.』
「僕は《焚書図書館》の正義を果たす!」
スイコウの体を覆い尽くしていた文字が、彼の右手を通じて、《ツインズミラー》の鏡面に集まっていく。彼の顔は一瞬本来の——正義の代行者の名を着せられた少年のものに戻る。
(——いいのですか、スイコウ様。私の力にお身体を委ねたとしても、相手は互角以上の実力を持つ相手です。勝てる保証はありません……そのリスクを承知であれば、私は止めませんが)
彼の脳裏に囁きかける《ツインズ》の意思、ペンパルの声。しかしスイコウは、鏡を持つ手を下げなかった。
(——もちろん承知の上だよ、ペンパル)
どす黒く染まったその鏡を敵に向けながら、彼は叫んだ。
「……《鏡装》!」
天面のボタンが深く押され、内部の機構が鏡面に込められた《ツインズ》の力を一枚の鏡として撃ち出す。同時にミラーを持つ手の反対に、万年筆に似た槍が握られた。
スイコウは、槍を大きく振り上げる。
「……うあああああああああああああ——ッッ!」
——バリン!
彼は鏡を叩き割った。その瞬間、堰を切ったように大量のインクが鏡から溢れ出る。吹き出したインクは一度地を覆い尽くさんという勢いで広がり、そしてスイコウの体に吸い上げられていく。
スイコウの肉体は、今度こそつま先から頭のてっぺんまでインクに呑み込まれる。顔も目鼻の区別がつかなくなり、完全なシルエット人間がそこに出来上がった。
「う……ぐッ……あああああああああああああああ——ッッ!」
影人間が空に咆えると、その顔面の中心に縦筋が走る。完全に開いたその中からは、顔の大半を占めるかという大きさの、金色の眼球が姿を見せた。
そして影人間の体を、叩き割られた鏡の破片が覆う。それらは形と色を変えると、彼の剥き出しの肉体を守る金色の鎧と、方眼紙のようなマス目が書かれた白いコートとなった。
『《LETTER FROM BLACK-WORLD》awaking.』
顔面に金色の、下向きにした万年筆の筆先を模した仮面が装着された時、《ツインズミラー》は『黒塗』の化身の再臨を宣言した。
「文を喰らうは紙の魚、幸を綴るは金の筆。……僕の名は紙魚綴幸もとい、『黒塗』の《ツインズ》、《レター・フロム・ブラックワールド》」
彼はその槍先で、アノン、もとい『静寂』の喉元を指し示した。
「お前という危険情報を排除し、世界の安寧へと手を貸す者だ」
「……ずいぶん大きく出たわね、『黒塗』の化身サマ——!」
台詞を言い終わったスイコウに向けて、『静寂』より十発の凶弾が祝いの言葉代わりに放たれる。それら弾丸は確かに、『黒塗』の体を射線の中に収めていた。
「……」
しかし『黒塗』が無言でその単眼を閉じた次の瞬間、戦局は変わる。彼の身に纏うコートの方眼に「盾」の文字が十ほど現れたのだ。それらは方眼を飛び出すと即座に実体化し、弾丸十発を「ズガン!」とそれぞれ受け止めると、弾丸ごとインクとなって溶け落ち、『黒塗』本体の中へと戻っていった。
「は……?」
「……僕の能力は『物体を文字に、文字を物体に変質させる』こと、その本質は変わっていない。でも——」
またしても『黒塗』のコートのマス目に文字が浮かび上がる。目を凝らせばそれらは全て、「剣」、「槍」、「斧」などに代表される、スイコウが思いつく限りの、一文字で表せる武器の名前だった。
「——今の僕は二つのデメリットを取り除いた状態にある。『文字を書く手間』と『一度に留めておける文字の上限』だ」
白いコートから、弾丸のような速度で剣が発射された。それは『静寂』のこめかみを掠めて後ろの瓦礫に突き刺さると、そのままドロリと溶けてインクに変わった。
「なっ……ふざけるんじゃないわよ!」
ズダダダダダン! と、コートから矢継ぎ早に放たれていく無数の武器たち。その瞬間、二者の立場は逆転したと言ってもいい。
『静寂』のアノンが逃げ惑い、『黒塗』のスイコウが動かずして彼女を追い詰める。意趣返しと呼ぶにしてもあまりに一方的で、容赦のない攻撃と称せる。
「ちっ——クソが!」
『静寂』はその身軽な体躯を存分に使って、壁を駆けて避ける。身を翻して避ける。時折音のない爆撃を織り交ぜて、あるいは突き刺さった武器さえも利用して、武器を弾き、受け流し、避ける。走って、弾いて、避ける……それは彼女の体力が尽きるまで、無限に繰り返されることのようだった。それを察した『静寂』は、たまらず自身の能力を発動した。
「シズカ、お願い——!」
《鏡装》を経ている以上、彼女の能力である《ダンス・ウィズ・サイレンス》もまた、強化されている。具体的に言えば、彼女の存在を周囲に知らせるものを「音」だけに留まらず、「姿」や「気配」、さらに言えばもっと根源的な「生命力の痕跡」すらもを隠すことができるようになっているのだ。加えてそれは彼女が触れたものにも有効であり続ける。殺しのステップの最初から最後までを、誰にも悟られずに行うことができるのだ。
(——アタシのプライドには反するけど……このまま逃げたほうがよほど建設的だわ……次は覚えていなさい!)
彼女は『黒塗』の姿を背にして、無数の弾幕を着実に回避しながら走り出した。自分の足音や息遣いは聞こえず、姿すらも見えない。さらに体温も感じられなくなり、どこからどこまでが自分の肉体の占める領域なのか、彼女自身も分からなくなりかける。
故に『黒塗』は、彼女の存在を見失った。
「……?」
(——よし、見失ったようね……!)
しかし、彼女はすぐに気づくことになる。たとえ隠密性を上げたところで『黒塗』の有利は変わらないということを。
しばらくして『黒塗』は、アノンの存在感がその場から消えていることを事実として受け止めた。しかしながら彼が動揺する素振りを見せることはなく、インク塗れになった戦場を見渡し、ただ呟いた。
「……この場所ごと塗り潰す」
《3》
「はっ……はっ……!」
それとほぼ同時刻に、同じ工場の敷地内を走る二人の青年の姿があった。二人とも病院の院内着のような質素な服を着せられているが、一人は美しい金髪とピアスで、もう一人は暗い青色に紫のメッシュが入った長髪で、誰が誰かを区別することができる。
「はっ……はっ……ああっ!?」
「トモシビくん! ……大丈夫かい、まだ走れる?」
「当たり前だよ、タスクさん……このままじゃ、兄さんが……!」
体のところどころにアザを作った金髪の青年——熾羽灯火は、ボロボロの体を無理やり起こして立ち上がる。長髪の青年——飛電翼は彼の姿を見て、唇を噛んだ。
「俺が……《零班》のみんなと話せていれば……」
「タスクさん……」
「ごめんねぇ、トモシビくん。もっと早くアマナの裏切りに気付けていれば、こんなことには……すまない」
「なんでタスクさんが責任を感じるんですか……悪いのは、兄さんを殺した《茉莉花組》の連中……それに、連中に《ツインズ》の情報を流した《解放教会》ですって!」
「ははっ、そう……だね。だったら尚更、俺は責任を取らなきゃな」
「え……?」
「だってさ——」
タスクは今まで走ってきた方を振り向いて言った。
「——不本意だったし、一時的だったけど、俺はその二つの組織の仲間だったんだから。……自分の尻拭いくらいさせてくれるよね」
トモシビは一瞬の間を置いてから、重く彼の言葉に頷いた。
《4》
(——あはははは……どうにか巻いたみたいね……)
木々が鬱蒼と生い茂る山の斜面で、『静寂』は気配を消しながら佇んでいた。『黒塗』の猛攻から逃れて早数分、彼女の胸元に輝く、心臓代わりの球体は、未だ激しく脈を打っていた。
もちろん、あれが本質的には、己が宿している《ツインズ》と同質のものであることは理解している。そして同じ「魔鏡」の力を使っていることもだ。
しかしながらあれは確かに、人智を超えた力の一端を彼女に見せつけんとしていた。恐らく宿主の意思ではない、《ツインズ》の自我の部分。それが宿主以上に確かな「殺意」を持って、その秘めたる力の全てを余すことなく使って、『静寂』を——アノン・ミューテッドを追い詰めようとしている。
今のアノンでは、そうとしか考えられなかった。
(——追跡は来ていないようね……それならこのままとんずらするのもありだけれど……それはアタシのpolicyに反するわ。致命的なダメージにならなくても、せめて《鏡装》を剥がして……ん?)
そこで、アノンは気づいた。自分が五感の中でも最も重要視する感覚——聴覚が、違和感を訴えていることに。
(——何よ、この音……水の音? でも、さっきはこんなのなかったじゃない……どうなってるのよ、一体何が起きてるっていうの!?)
彼女は思わず周囲を見渡し、音がする方へと足を進めた。そして彼女は、ある光景を目の当たりにした。
「——ッ!?」
それは「黒」だった。どんな事象よりも濃く、深い闇の色。それが巨大な波となり、アノンのいる場所へと迫っていたのだ。
(——何よ、あれ……まさかインク? あの化け物……まさか!)
自らを『静寂』の鎧で包んでいるというのに、アノンは自らが一糸纏わぬ姿であるかのような錯覚を受けた。通り抜けている風の一筋一筋までもを、はっきりと感じ取れた。それほどまでに彼女の体は、彼女に逃げるよう言い聞かせていた。
しかし、その感覚は、彼女に絶望の気配を訴えかけるばかりで、一向に退路を、具体的な解決策を示してはくれなかった。それは、示そうとしても示せないものだったと言えるかもしれない。
つまり、アノン・ミューテッドは——すでに「詰んでいた」と言えるかもしれない。
「……」
程なくして、更なるインクの波を引き連れ、『黒塗』の化身は姿を現した。彼は黒と金の槍を携え、一言も喋らず、ただ悠然と歩いていた。金色の単眼は、万年筆の筆先に似た仮面の下から、しきりに周囲を見回して、消えた敵の動向を追っていた。背後に引き連れるインクの高波は、広がっている木々を根本から呑み込み、喰らっていた。
そこに紙魚綴幸……ちょっと臆病で、優しくて、でもそれ以上に正義感の強い少年の面影を感じることはできない。悪魔か、魔王か、はたまた天災の擬人化か。そんな言葉たちが相応しい圧倒的な強者の装いが、彼を覆って、本来の彼を遠ざけていた。
(——ここまで来たら、もう正面衝突は避けられないわね……ッ!)
アノンは地獄の使者を目の前にして、腹を括る。彼女は息を殺して指先を構え、そして——十発の弾丸を『黒塗』へと放った!
(——不明の存在が、無音の絶叫が、今、お前の背後より現れ、命を撃ち抜くであろう……《ダンス・ウィズ・サイレンス》!)
——ダダダダダダァン!
横並びになった弾丸が黒い波を穿った。大口径のマグナム弾に匹敵する生命力の塊が、インクの海を切り裂いて進み、『黒塗』の化身に射手の存在を明かした。
「いるのか」
その一言は、ギロチンの刃に等しい冷たさを持って、アノンの鼓膜を突き抜けた。しかし、覚悟を決めた彼女は退かない。不可視のまま拳を握り込むと、インクの波の前に立つ『黒塗』へまっすぐ向かっていき、そして彼の仮面へと拳を叩き込んだのだ。
(——オラァッ!)
「……?」
思わずよろける『黒塗』は、一つ目を大きく見開いていた。同時にインクの海のコントロールを失い、広がる漆黒は地面に溶ける用にして姿を消していった。
しかしすぐに何が起こったのかを理解したのか、槍を華麗に腰やら腕やらで回し、その穂先からインクを飛ばして攻撃を仕掛けた。そうして放たれた無数の線のうちの一本が、アノンの左腕を捉えた。
「そこか」
またしても、アノンは断頭台に立たされ、死刑を待つような心地を味わされた。そして不可視だった左腕に、はっきりと示された切り取り線をなぞるようにして、『黒塗』の斬撃が襲いかかった。
バゴン! と、固い装甲を斬るには至らず、それでいて確かな強さを持った衝撃が、アノンの左腕へのしかかる。
彼女は左腕に痺れを覚えたが、怯むことなく、悪魔へと右フックを繰り出した。しかし今度は槍先が拳と『黒塗』の間に割り込み、炸裂するようにインクを撒き散らす。着色された右拳を、金色の槍先がはたき落とした。
(——まだまだァ……!)
矢継ぎ早に放たれるアノンの拳。その合間に放たれる、音のない銃撃。『黒塗』はそれらに対しては、カウンターに徹する姿勢を見せた。放たれる一撃一撃に対して、一つずつ丁寧に槍で自らへの到達を阻み、時折インクを放って、アノンの外形を確かに現実へと浮き彫りにしていく。そんな作業だ。
「どうだ『黒塗』の化身サマ、自惚れを訂正する気になったかしら!? どちらが悪でどちらが正義か! ここで白黒はっきりさせようじゃないの!」
「……」
《鏡装体》のほとんどを黒く塗られ、能力の気配遮断ももう意味を為していないにも関わらず、アノンは『黒塗』に食いつき続ける。またしてもアノンの拳が、『黒塗』の顔面へと乱暴にぶつけられようとした、その時だった。
「……ない」
「え?」
『黒塗』は彼女の拳を、自らの手で受け止めた。ガッチリとそれを握り固定しながら、『黒塗』の下より——スイコウは口を開いた。
「分からない。君は世間一般からすれば悪とはずなんだ。しかも、自分から好んでその身分に甘んじているはずなんだ。それなのに——君は頑なに自分が『正義』であることにこだわっているように見える……それが分からない」
「ハッ……Just kidding」
アノンは拳を握ったまま銃撃を放ち、その衝撃で無理やり拘束を振り解いた。
「そんな質問、くだらないわ! 決まってるじゃないの、アタシが正義にこだわるのは、アタシが正義の執行者だからよ! 正義があってアタシがあるんじゃないの! アタシがあるから正義があるのよ! それがアタシ、アノンミューテッドの存在意義なの!」
彼女は自分の空洞になった胸元に手を当てながら叫ぶ。
「そうでしょ、シズカ! アンタ言ってくれたわよね……『アノンの正義で、アノンの悪を倒して』って! それからアタシはずっとそうしてきた! アタシはずっと……『正義の味方』なのよ!」
アノンは思い出す。彼女が《ツインズ》に目覚めた日を。それは同時に——シズカの「命日」を思い出すことでもあった。
今でも鮮明に思い出すことができる。あの日、アノンとシズカが親しい間柄にあったことを、他の村人に看破された。村人たちは異郷人が自らの信奉対象に近しいことを怒り、アノンが見ている目の前で、シズカの体を滅多刺しにして殺害したのだ。
『アノン……アノンは周りの正義に囚われないで。……アノンの正義で、アノンの悪を倒して。アノンは、正しい人になってね……』
その言葉は、今にも事切れそうなシズカが遺した言葉であり、アノンを狂わせた呪いの言葉でもあった。その日を境に、アノンはシズカの幻覚を見るようになった。そして幻影が反復する彼女の遺言に従い、アノンは、村人たちを、たった一人で皆殺しにした。
アノンにとっての悪とは、自分が恨む相手。アノンにとっての正義とは、悪の一切合切を一粒残らず抹消すること。かくして彼女は「正しさ」のままに、暴虐の限りを尽くすようになったのだ。
それから時間が経って、アノンはシズカのいた異郷の地・日本へと渡り、《茉莉花組》の暗殺者として裏社会で恐れられるようになった。シズカと二人、ひっそりと話すために身につけた隠密行動のノウハウは、シズカの幻影と結びついて、《ツインズ》、《ダンス・ウィズ・サイレンス》と昇華された。
「私が正義なの! だからアンタは……《茉莉花組》に仇なすアンタは悪なの! 分かるかしら!? ねぇ……ねぇ!?」
「……」
「アンタを見てると思い出すのよ!『大衆の正義』を守ろうとして、自分の居場所もロクに守れなかったアタシのことが!だからアンタはここで殺す!アンタはアタシの悪だからよ!」
「……」
再びアノンの黒く汚れた拳が、『黒塗』に襲いかかった。
「……それが聞けてよかった」
——『黒塗』は、その腕を切り落とした。
「恨み言はそれで十分だね?」
「は——?」
切り落とされたアノンの左腕が、土の上にぼと、と味気なく、跳ねることもなく落ちた。その殻に覆われた肉塊は黒く変色して、地面に溶けるように「腕」の文字に変わった。
「は——?」
目の前で起こったことに対して、脳が理解を拒んでいる。アノンはそんな感覚を、極めてはっきりと感じさせられた。『黒塗』はそんな呆然とする『静寂』へ、一つ目を細めた笑顔を送っていた。
「何、を——」
「何って、悪は根絶やしにする、これが君の正義の形なんだろう? 僕はそれを踏襲しているに過ぎないよ」
「は、待って、待って——」
直後、アノンは全身に激痛を覚えた。皮膚の表面が、小さな蟲に食い荒らされているかのような激痛。アノンは目の前で文字に姿を変えた腕を思い出し、最悪の可能性を想像していた。
「嫌だ、いやだ——!」
「ようやく自分の立場に気付いたみたいだね。……さて、君が生き残るためにすべきことは二つ。《茉莉花組》から足を洗うこと。そして、その《ツインズ》と《ツインズミラー》をこちらに寄越すことだ」
「いやだ! シズカはアタシの友達なの! 絶対にアンタらみたいな奴らに渡してたまるか!」
「……いつまでも故人の幻影に縋っているなんて、愚かで仕方がありませんね。しょうがない、あなたには消えてもらいましょう」
その時、『静寂』の足が地面に溶け始めた。
「いや——やめて……たすけてください……」
「でしたら《ツインズ》を手放してくださいと言ったでしょう。それを拒んだのはあなたの方です」
「アンタ——なんなんだ……あ……あ……!」
アノンの体が溶ける、溶ける、溶ける。すでに腰までが地面のインク溜まりに吸い込まれている。もう命乞いをしたところで助からないだろうに、アノンはなおも叫ぶのをやめなかった。
そんなアノンの頭を、『黒塗』は踏みつけた。踏みつけて、インク溜まりに押し込めた。彼女が溶けるスピードはさらに早くなり、
「うるさいですよ。……まあ、人なんて不本意に死ぬ時は大概こんなものでしょうが……」
「アンタ……人じゃないのか……!?」
「先に言ったでしょう。私の名前は《レター・フロム・ブラックワールド》ですよ? スイコウ様が、こんな非道な真似をできるわけがないでしょう」
そして。
「あ……あ…………あっ——」
——とぷん。
アノン・ミューテッドはこの世界から消失した。彼女の存在した証として残ったのは、地面に刻まれた「腕」と「人」の二文字だけだ。
《5》
(——シズ……カ……?)
アノン・ミューテッドは、目につくものなど何もない、虚無の中で目を覚ました。右も左も上も下も、見渡す限りの暗黒世界。それどころか自身の体すら認識することは叶わず、己が「存在」していることすら確かめることはできなかった。
(——シズカは……どこ……?)
彼女はしきりに親友の、シズカの名前を繰り返す。彼女はシズカの敵を討つために、己と血の繋がる者含め皆殺しにした。たった一人のために村一つを滅ぼすことができたのは、そのたった一人が、村一つよりも重要な価値を持っていたからに他ならない。
その一生を捧げるつもりでいた一人が、どこにもいない。己の中にいたはずの彼女が、どこにいるかわからない。
(——いや、そうよね……あれは……シズカじゃない)
抗いようのないものを前に何かを悟ったのか、彼女は諦めたように心の中で呟いた。
彼女の言うように、《ダンス・ウィズ・サイレンス》はシズカと同じ形をしているが、熾羽灯火に宿る熾羽篝火のように、死んだシズカそのものが彼女に宿ったというわけではない。あれはアノンが彼女の死のショックを和らげるために生み出した、亡き彼女によく似たただの幻覚だ。
言い換えるならば、あれはもう一人のアノンが、忠実にシズカのロールプレイをしているだけの代物だ。どれだけそれが本物に近づいたところで、本物になり変われる訳ではない。
アノンは頭の片隅で、ずっとそれを理解していた。でも、それを受け入れてしまったら、寂しさで押しつぶされてしまう気がして、それを忘れるために、己の正義に傾倒した。しかしその正義が破られた今、彼女を現実に引き戻すことを止める碇はない。
(——偽物でもいいから……せめて最後くらい、一緒にいてほしかったな……シズカ……アタシの親友。アタシの「呪い」……)
徐々に彼女の意識は不鮮明になっていく。たった一文字の「人」という字で表すことのできる、無個性な概念に成り下がっていく。
(——あれ……シズカって……誰、だっけ……)
全てのアイデンティティが奪われ、黒に溶かされる。それは穏やかで、冷たく、それでいてどこか心地よい。
(——アタシは……あの……あれ……アタシって……?)
淡い恐怖は黒い波に拐われ、遠い水平線の奥で砕かれる。
(——「アタシ」って何……「これ」……は……何……)
答えを持たなくなった疑問とともに、彼女は消えた。
《6》
その少年は、事が終わった『黒塗』の前に、一切の前触れなく存在していた。それこそ時間か空間かを切り裂いて、その場に現れたかのようだった。
氷のような瞳は、この世の全てを俯瞰するかのような奥深さを秘めている。少年はその冷め切った視線を黒い怪物に向けながら、重々しく口を開いた。
「……ペンパル」
「おや、これはこれはオウル様……いえ、マコト様ではございませんか。いつからいらっしゃったのですか?」
「ついさっきだ。《烏丸珈琲店》であった騒動が解決したから様子を見に来たところだが……お前、いつスイコウと入れ替わった」
「スイコウ様が『それが聞けてよかった』と仰った直後ですよ。あの時、彼は私に伝えられたのです。『僕には残酷な真似はできない、だから君がやってくれ、ペンパル』——と」
「……スイコウは優しい男だ、無理もない。それに、あいつはお前という人格の残酷さにも気付いている。……今回はそれを利用したというところだろうな」
マコトは手に嵌めた白い手袋を直しながら感嘆した。
「……我々《焚書図書館》が何故、お前を仲間に招き入れたか。お前は理解しているか?」
「ええ。オウル様から直接お教えになられましたからね。……人間を跡形なく亡ぼせる人材がもっと必要だった、と」
「ああ、そうだ」
ペンパル——歴史改変が起きる前の世界では、「レター」と呼ばれていた『黒塗』の化身。《ツインズ》としては《レター・フロム・ブラックワールド》と名乗っている。
宿主であるスイコウは、彼の能力を「物質を文字に変え、文字を物質に変える」という者だと解釈しているが、その本質は大きく異なっている。《焚書図書館》が分析した結果、彼の能力の真価は「人間を文字に変えて抹殺する」ところにあるという結論が導き出された。
「私が物体を文字に変え、それをさらに物体に戻す時、それは文字の意味通りに——つまり、変化した物体そのものとは違う、その文字が示すものの最小公倍数とでも言うべき姿で、物体を出力します」
「変化に用いた物体の個性を黒く塗り潰し、無個性な『典型』として出力する。だが、個性や独自性の塊たる人間が、『無個性』な状態で出力されることはありえない。だから、人間は文字にされた瞬間にアイデンティティを喪失し、存在を失う……恐ろしい能力だ」
「お褒めいただき光栄です、マコト様」
ペンパルは単眼を細め、丁寧に頭を下げた。
「……それで、後遺症の方はどうだ」
そんな怪物に向かって、マコトは腕を組みながらそう尋ねた。後遺症とは、《鏡装》を使ったことによる体への影響に他ならない。スイコウという器は、この《ツインズ》を納めておくには少しばかり脆すぎる。故に、強い後遺症が出る可能性は高い。
ペンパルはそれにつまらなそうに応じ、どこからともなく《ツインズミラー》を取り出す。
「ええ。残念ですが、勿論出ていますよ。もっとも、私はスイコウ様のお体に何が起きたところで、それを静観するだけですがね——」
『黒塗』の化身の肉体から、朽ちるようにして装甲が剥がれる。黒い素体が顕になると、今度はその黒いものが溶けて地面に流れ落ち、スイコウの肉体が露わになった。
「——所詮は、宿主とその従者のドライな関係ですから」
そう言って振り向き笑う、スイコウの体を借りたペンパル。ちらりと見えた彼の口の中、もとい体内は、インクに毒されたように、真っ黒く塗りつぶされていた。
《7》
少し、時を遡る。主な登場人物は五人。そのうちの二人の名前は、熾羽灯火と飛電翼。先に述べたように、彼らは工場内の敷地を全速力で走っていた。いつもならどうってことない距離のはずなのに、やけに息が上がって仕方なかった。
彼らの《ツインズ》は、虚月御霊の手によって彼らの体から引き剥がされている。その影響も少なからずあるのだろう。《ツインズ》は全て例外なく、宿主の体に祝福を与える。それがない今の状態は、普段から《ツインズ》ありの体に慣れている二人からすれば、鉛の鎧を着て走っているのと何ら変わりない。
それでも彼らは、目的地にたどり着いた。
「兄さん——ッ!」
工場の外に出るや否や、トモシビは叫んだ。奪われた兄を取り返すべく奮起する彼目掛け——
——蒼炎で形作られた巨大な刃が、真っ直ぐ向かってきていた。
「——え?」
彼はあまりにも突然に訪れた死の気配に、固まってしまう。後ろからタスクが何かを叫んでいるのが聞こえたが、反応できない。
(——あの蒼い炎)
ゴウンゴウンと酸素を吸い上げながら燃えるそれは、ついこの間まで自分が操れていたもの。
(——兄さん……どうして?)
トモシビに宿っていた『遺志』の《ツインズ》、《フラクチュアド・エンジェル》の力によって生み出されたものに他ならなかった。
迫る巨大な刃、立ち尽くすトモシビ。何もできないまま、ただ死を待つばかりだった彼と、蒼い陰の間に割って入ったのは——
「——《ノイジー・マイノリティ》!」
怨念を塗りつけたようなドス黒い日本刀の刃だった。蒼炎は刃に触れた瞬間に「バォン!」と跡形もなく弾け飛んだ。
「何をしているんですか……貴方、死にたいんですか!?」
その《ツインズ》の持ち主である青年——進藤朝景はいつにない剣幕で怒号を飛ばす。その一方で、後ろに続いて来たタスクは、少し上を見て絶望の表情を浮かべていた。
「あれ……《エレクトロマグネティック・デストロイヤー》と《フラクチュアド・エンジェル》、それに《フロート・プレイ》……まさかあれが……アマナなのか!?」
彼の視線の先には、見ただけで発狂しそうな姿の「天使」がいた。




