EP30:反転と分断と狂気を払う揺るぎなき聖拳
※今回百合風味です
《1》
「ヒナギを返せ、今ッ! すぐにッ!」
ルリは筆を荒々しく紙面に踊らせると、すぐにページをむしり取った。ページが変じた蝶はまっすぐ黒鉄の怪物に飛んでいく。
「《ステーショナリー・ストリート》! シャーペン、ボールペン、そして三角定規の連続攻撃であります!」
同じく怪物と相対するチヒロは、左腰にマウントした筆箱から取り出した二本のペンをダーツのように、上着の内側から取り出した二等辺三角形の三角定規に《ツインズ》の力を込めてブーメランのように投擲した。
「無駄なこトだと分かッておきなガら……しツこい!」
怪物はそれらと自らとを繋ぐ「悪縁」を、鉄の蜘蛛の足ですぐさま切り裂いた。直後、蝶と文具はコントロールを失い、互いに衝突し合って無力化された——かに思われた。
「それが私の狙いだったんだよ、機織美緒!」
「何ッ——!?」
なんと、破壊されたはずの「悪縁」が復元され、三つの文具が真っ直ぐ怪物の脚のうちの一本へと襲い掛かったのだ。「ズドム!」と凄まじい速度でペンは突き刺さり、追い討ちと言わんばかりに三角定規が足を切断する。
「『鎖』の切断によって運命が書き換えられるのなら、私の力によってそれを結び直せば問題ないということだ。チヒロ、今だよ!」
「了解であります!」
チヒロはペンと三角定規が手元に戻ってくると、腰を落として腕を胸の前でクロスさせる構えを取る。彼女の握った拳の指の間から、左右合計六本の色の違う光の刃が漏れ出した。
「ワガハイも元を辿れば文具……故に能力の対象範囲内!」
まるでヲタ芸のサイリウムのように眩い光を伴いながら、チヒロ高速で怪物に接近し、その「爪」で切りかかる!
「《ステーショナリー・ストリート》、六色カラーペン! ワガハイの奥の手でありますッ——」
「……だったら」
怪物は不意に手の内を見ると、その中身をチヒロに向けて翳した。
「こレでも攻撃デきるかなァ!?」
「……!」
チヒロは向けられた「それ」を見るや否や、突然空中で失速し、そのまま怪物の足元に着地してしまった。
「どこまでも卑怯なやつでありますね……ミオどの!」
「オ前に私の名前を呼ぶ権利は無イ!」
蜘蛛足の一本がチヒロを踏み潰さんと繰り出されるが、彼女はそれを定規二本を剣のように振るって受け流す。その力を使って、ルリの隣まで自分の体を飛ばした。
「チヒロ、大丈夫かい!?」
「問題ないであります、ルリどの。しかし……」
「ああ、私もしっかり見ていた」
二人は怪物の左手へ目線をやった。
「ヒナギがあの手に握られている限り、私たちは下手に攻勢に移れない……本当にもどかしいよ」
《2》
「このッ……離しなさいよッ……!!」
ヒナギは身を捩り、自分の胴に触れる、その持ち主に対して大きすぎる黒鉄の手を殴りつける。しかしたかが一人の生身の少女の力如きでは、人を辞めた怪物には及ばない。
彼女は顔を上げて、自分を捕らえて離さない怪物の顔を見た。《ポイズン・アンド・オア・アフェクション》と呼ぶべきか、はたまた本来の「機織美緒」と呼ぶべきか。
ヒナギの友人たちと死闘を繰り広げる中、黒鉄の突起物が顔の半分を覆う異形の形相の奥に渦巻く感情は、ヒナギをもってしても分析しきれないほど複雑なものだった。
(——呼吸が荒いしこのオーラ……多分『憎悪』だよね……でも笑ってるようにも見える……『悦楽』とか『歓喜』とかもある……?)
自分が危険な状況の下にあるとわかることによって、何故だか逆に思考は安定していく。「火事場の馬鹿力」なんて言葉があるが、今はその思考バージョンといったところだろうか。
(——ダメ……これじゃ複雑すぎて感情の沈静化が使えない……)
そうして能力で解決することを諦めたヒナギは、
「やめなさい、ミオ!」
親友の名前を使い、怪物へ呼びかけた。その手段はとても単純ながらも、少なからず有効な手立てだったようだ。
「……今更、なニ?」
怪物のオッドアイが、水底に沈澱した泥や虫の屍のような、ぐちゃぐちゃな感情の中からこちらを見た。
「今更私の名前を呼ンで、『伊織さん』は何がしタいの?」
「アンタにこんなことを辞めさせるためよ! アタシはともかく、アタシの友達にまで手を出して……それが《解放教会》とかの教えなわけ!? 目を覚ましなさい、ミオ!」
「……チッ」
怪物は舌打ちして、ヒナギの体を持ち直す。鋭い爪が服を紙のように小さく裂く度に、ヒナギは思わず悲鳴を漏らしそうになった。
「『伊織さん』は相変わラず誰にも優しイんだね……本当に」
黒い爪が、ヒナギの後ろ髪をかき上げた。
「本当に腹が立って、余計に大好きにナる」
爪に持ち上げられた髪束が、はらりと地面に落ちた。
「ひっ——」
「私、分かッたかモしれない。私がどうシて《毒牙と愛情、その一方か両方》なんて名前ノ力に目覚めたのカ。これが、この力そのものがきっと、私の『ヒナギちゃん』に対する思いそのものなんだよ」
怪物の口調は、徐々に理性的に、人間的になってきているように感じられた。しかしそれでいて、それがヒナギにとって脅威であることは全く変わらない事実として、存在しているようにも感じられた。
「今の『伊織さん』には友達がたくさんいる。だから、私だけの『ヒナギちゃん』に成りきれてないんだよ。うん、そうだよ。そうに決まってる……だったら」
ミオはヒナギのことを、小動物を愛でるように、あるいは手折った一輪の花を愛でるかのように手のひらに乗せ、逃げられないよう指で柵を作った。
「な、何するつもりよ……!?」
「何って……もちろん」
——ビィン!
いつの間にか、ヒナギの体から桜色の鎖が二本伸びていた。その先にいる二人の少女との繋がりを、鎖という記号によって実体化したものなのだろう。
「『伊織さん』に、『ヒナギちゃん』に戻ってもらうんだよ」
「……!」
ヒナギはすぐにその言葉の意味を理解した。
「やめて! ルリとチヒロは友達なの!」
「その友達が邪魔なんだって、どうして分かってくれないの!?」
「みんなが大切だからよ! ミオ、あなたも含めて!」
「私はそれが嫌なの! どうして私だけ特別じゃないのッッッ!?」
ミオは爪先を内側に、ヒナギの方に向けた。
「なら……先にあなたと私の縁から始めましょう」
少しでも逆らったら殺す、そう告げようとしているような十本の刃の先端すべてから、ヒナギに向けて桜色の鎖が放たれた。
——ズプッ……。
「あ、がっ」
十本はまばらにヒナギの全身に突き刺さり、彼女をその場に固定した。同時にヒナギの頭には、とんでもない量の情報が流れ込む。
(——これは……ミオとの思い出……?)
彼女はそれを「思い出」と称したが、実際にはそれだけの情報では済んでいない。ミオの脳内で練り上げられた緻密な妄想や願望が混ざった、ヒナギをミオと「良縁」で結ぶための精神的調整を施す偽りの記憶、それが流れ込む情報の正体だ。
「や、めて……」
「ふふっ、止めるわけがないでしょ? これだけで私の『ヒナギちゃん』が戻ってくるなら、止める理由なんてないんだもんッッ!」
「あ、ああ」
ヒナギは自我が崩壊し、再構築される感覚というものを、この時初めて自らの身をもってして経験した。思考ルーチンが大幅に書き換えられ、自分が「他の誰か」にとって代わられていくのだ。
(——私以外の、誰か……私の中の、他の誰か……?)
ヒナギがそう思い浮かべた直後のことだった。
「助けて……私の……もう一つの……!」
ヒナギが念じた直後。
——バチンッ!
「……ようやくウチの出番ね」
鎖が弾ける。ヒナギの表情が、攻撃的な怒りに染め上がる。
「あなたは……」
ミオは困惑に眉を顰めた。目の前で豹変した少女の気迫は、先ほどとは打って変わっている。なんというか、目的のために慎重に手段を選ぶタイプではないように見えるのだ。
「『ヒナギちゃん』でも、『伊織さん』でもない……?」
「いや、ウチもある意味『伊織さん』だよ」
全身に天使由来の力——「エーテル」もしくは「アイテール」などとも呼称されるような、特殊な変質を経た生命力——が、ヒナギの全身を、血管を、神経を通じて駆け巡る。
「ウチはヒナタ、『伊織日向』だけどね」
ヒナギの姉が、遅れて戦場に到着した。
《3》
その鍛え上げられた肉体、武道全般に見られる無我の境地、天使式の格闘術、そして特別に練り上げられた天使の生命力。
それらが要素が織りなす四重奏は、即ち。
——ドガゴン!
恐ろしいほどの「爆発的」な「破壊力」。曇りなき怒りによって満たされたヒナタの繰り出す拳は、下向きの一撃でミオの手のひらにヒビを入れた。
「アアアアアアアッッッ!?」
「フゥー……」
悲痛な悲鳴をあげる蜘蛛の怪物に対して、ヒナタは落下中だというのに安定して呼吸を整えている。瞳や額、手の甲にはエーテルによって紋様が浮かび上がり、その姿はさながら武神のようだ。
「私の拳は」
ヒナタは姿勢を低くする。
「ただ破壊するだけじゃない」
落下する指の欠片に足を着き、力を込める。
「《ディア・マイ・シスター》の本来の能力は——」
弾丸のように跳んだヒナタの拳は、
「——《アイテール》による、精神の沈静化」
思い切り「ドゴッ!」と、ミオの胴に、内側に響く打撃を加えた。
「ぐ、はッ——」
ミオの体が強烈に吹っ飛ばされる。
——ゴガアアアアッ!
近くの建物に『桎梏』の巨体がぶつかり、轟音が地面を揺るがした。
「アンタの暴走の原因は、ヒナギに対する強い怒り。それがある程度治ってしまえば、その力を維持することは難しくなる。だから、」
ヒナタは殴りつけた拳の痛みを噛み締めながら、妹の親友だったその少女に語りかける。彼女がミオを見る瞳には、エーテルの巡りが神々しく輝く光輪として可視化されていた。
「アンタが正気を取り戻すまで、ウチらの拳を受けてもらうわよ」
直後、ヒナタの背から、光の帯が伸びた。
(——ヒナギはああ見えて慎重な子。だから、わざわざ「特効性」のある光を「調合」して浴びせてた。でも)
それが伸びて、彼女の拳を包み込む。
(——どうせたくさん「光」を浴びせたところで、副作用とか悪影響は無い。だから、一気に全部の「効能」を叩き込んだ方が楽、よね?)
ヒナタは笑う。その邪悪とも捉えられる不敵な笑みは、まさしく彼女の大雑把で荒っぽい、言い換えれば豪快な人間性を象徴し、同時に体を共有する姉妹の決定的な違いを示していただろう。
「《ディア・マイ・シスター》、最大出力ッ!」
怒り、恨み、昂り。それら渦巻く感情を、彼女の拳がまとめて引き受ける。光の帯は線となり、建物に背を預けて苦しんでいる、蜘蛛女の腹へと飛び込んだ。
対するミオは咄嗟に防御姿勢を取ろうとした——が、防御に使える腕はすでに破壊された後だった。今残っている生身の人間の腕では、あの一撃を受け止めることはできない。
「おおおおぉぉぉぉ……らァァァァァァッ——!」
「——!」
閃光を伴う衝撃が炸裂し、怪物の巨体を支えていた建造物が盛大に破壊される。大量の瓦礫と共に体勢を崩す蜘蛛へ、ヒナタの拳は間髪入れず立て続けに迫る。
——ガガガガン!
「いやァァァァッ——!?」
生の拳と鉄が触れ合った音とは到底思えない衝撃音、そして女郎蜘蛛の破滅的な悲鳴が、観戦者の耳を襲う。
「ヒナタ……豪快な少女だね、君と言う人は」
轟音と共に立ち上る土煙を前に、ルリは言葉を漏らす。瓦礫の山を見つめる蒼い瞳は、かすかに震えていた。
普段の立ち振る舞いを比べても、ヒナギとヒナタの違いは一人称くらいしか無いように見える。しかし、強がりだがその実繊細なヒナギと異なり、ヒナタは根っから強い人間である。
その魂がどれほど強いかというと、もし彼女が幼年で命を落とさず今まで生きていて、学生だったならば、確実に西高の番長もしくはそれに近しい役職についていただろうと言い切れるほどだ。
二人とも同じ《ディア・マイ・シスター》という、戦闘に適さない力を持ちながらも、その使い方は全く異なる。ヒナギは「天の光」の特性を使って相手を「落ち着かせる」。しかし、ヒナタは自らの拳や光という現象そのものの特性、そして「アイテール」なる未知の力など、持ちうる全てを複合した戦術によって相手を「黙らせる」。
「ヒナギどの……じゃなくて……ヒナタ……ど……の……え?」
人間の常識の通用しない《異類隔離区》で育ち、《ツインズ》絡みの荒事に多く立ち会う《焚書図書館》で働くチヒロでさえも、その攻撃性を前にこの通り萎縮してしまっている。
「あれが……ヒナギどのの《ツインズ》……?」
「驚いただろう。あれがヒナギの『姉』、《親愛なる妹へ》の名の通り、妹のためなら自らの身をいくらでも削ってみせる、暴力的な天使の姿さ」
「……『天使』でありますか」
チヒロは改めて、飛ぶように蜘蛛の周りを跳ね回り、隙間なく拳の連打乱撃を叩き込む「天使」の目は、蜘蛛のみを見つめていた。
「ワガハイたちのこと、それに周辺の被害のことを、全く気にしていないように見えるのでありますが……」
「怒りで周りが見えなくなるのはそう珍しい事じゃないだろう。それに彼女は元から『無我の境地』に至ろうとしている。強い感情によって雑念を排斥しているあの姿……そうだね、あれはとても——」
ルリは目を閉じる。拳や瓦礫の鳴らす衝撃音が耳を衝く中で、彼女は『不殺人鬼』の顔を思い浮かべ、ヒナタの姿をそれに重ねた。
「——私が求める『主人公』の姿に近しいものだ」
《4》
(——やめて)
全身に満遍なく叩き込まれる光。それは衝撃を彼女の体に与えながらも、心には一種の「余裕」とでも言うべき——冷静な部分が生まれ始めていた。
(——もう、嫌)
その冷静な部分は、「正気」と言い換えることができる。
一度は狂気に身を委ねた彼女にとっては、ノイズと割り切るべき部分。それが彼女に何を引き起こしたかは、言うまでもない。
彼女の視界の天地は一回転する。天地が返り、色彩が抜け、更に世界は暗転する。最後に彼女の目に映し出されたのは、一人の少女の姿だけだった。
「ミオちゃん、いらっしゃい」
「……こうやって会うのは久しぶりだね、『パンドラ』」
——融合した自我の「分離」。
一時的に融けて混ざっていた『機織美緒』と、その《ツインズ》である『パンドラ』の意識。その二つが、ミオ側が正気を取り戻したことによってそれぞれを取り戻したのだ。
二人が姿を持って邂逅することのできているここは、彼女の精神世界ということになる。そして《ポイズン・アンド・オア・アフェクション》を構成する二者が揃ったことによって、この空間は二つの人格の認識に対応した形に組み替えられる。
「……」
ミオは自らの「心象風景」を、忌々しげに見た。壁を覆い尽くす無数の写真や、いくつかの刃物、そして部屋の中心に、まるで生贄でも捧げるかのように配置されたベッド。その上に、自分と同じ姿をした少女が、鎖で両手をベッドに繋がれた状態で座り込んでいた。
「パンドラ、悪趣味な真似はやめて」
「なんで? 私たち、いつもこうだったじゃない」
パンドラは恍惚とした笑みを浮かべながら、両手を広げる。まるでミオの抱擁を受け入れんとするかのように。あるいは、ミオからの抱擁を望んでいるかのように。
ジャラ、と彼女を縛り付ける、一対の鎖が擦れて音が鳴る。若草色と桜色、「良縁」と「悪縁」両方の縛りが、小さく唸っている。
「……確かに、私たちはいつもこうだった」
ミオは壁の写真に視線を向けた。
「私は親から愛を得られなかった。人本来の、温もりを知らなかった。だから、それを教えてくれたヒナギと一緒にいようとした」
「でもヒナギさんは、あなたを拒絶した。だから、あなたは自分の中に私——『パンドラ』というイマジナリーフレンドを生み出した」
得られなくなった、人の温もりを求めて。
「でも、あなたはそれでは満足しなかった」
パンドラは妖艶に笑って見せた。自分と同じ顔だと分かっているのに、ミオは背中に冷たいものを感じた。
「あなたは更なる愛を欲した。際限ない愛を渇望した。その欲望が私に働きかけて——《ポイズン・アンド・オア・アフェクション》が生まれた。全ては、あなたが寵愛を得るために」
「……」
「私から得る愛じゃ、それがどれだけ激しいものでも、あなたは満足できなかった。そりゃそうでしょう、私はあなたの一部なんだもの。自分と交わったところで、気持ちよくなれるわけがない」
パンドラは鎖を引きずりながら、ミオに少しだけ近づいた。
「あなたは愛を欲した。愛に壊されたかった。温もりで全てを忘れてしまいたかった。だから私は、あなたが愛へ走るための、ちょっとした手助けをした。それに、あなたを自由にするためにも色々した」
「それって……《解放教会》と私を繋げたこと?」
パンドラは頷きもせず、はいともいいえとも言わず、にったりと笑って、鎖に繋がれた手をミオの顔に伸ばした。鎖は彼女をこの部屋に拘束しておくには、少し長すぎるように感じられた。
「《解放教会》……いい名前だと思わない? あなたは血の繋がりとか、周りからの期待とか、そういうものに縛られていた。でもあそこのおかげで、あなたは躊躇いも迷いも捨てて、愛を求める本心をさらけ出せた——」
「でもッ!」
ギリギリと、ミオは無意識に拳を握り締めていた。
「その中で……たくさんの人を傷つけた……失った……」
彼女は思い出す。棚から落ちたトロフィーが、仕掛けた「悪縁」が、一番自分に愛を注いで欲しかった人を——惨めに殺したことを。
「もう私は……自分の欲望なんかのために力を使いたくない!」
ミオは泣いていた。顔を両手で覆って、大粒の涙を流しながら叫んでいた。苦しみが耳が痛くなるようなカタチで彼女から溢れ出して、部屋中を呑み込んでいく。
「ふふふ。あなたって、そんなふうに嘆けるんだね」
その中で、パンドラは笑った。最早拘束具としては意味を為していない鎖に繋がれた両腕は、いつの間にかあの怪物と同じ、鋏の刃のような指を有する怪物のものに変わっていた。
「そんなに辛い事なら、私が忘れさせてあげる。ほら、私の腕に抱かれて、その全てを私に委ねて……!」
「黙れッ!」
——ドゴっ。
ミオの拳が、パンドラの胸に放たれた。
《3》
時を同じくして。
「これで……終わりだァァァァッ!」
——ビギャァァァァン!
ヒナタの拳から放たれた一条の光が、怪物の胸を穿った。物理的ダメージのない、精神を貫く《ディア・マイ・シスター》の光。
「やったでありますかッ!?」
「それを言うなチヒロッ! 言いたくなる気持ちは分かるが!」
戦いを傍目に見る二人が騒ぐ中で、怪物の動きが止まる。錆びついた機械が無理に動こうとしているような、ぎぎぎぃ、という耳障りな音が、その巨体のあちこちから鳴る。
「あ……ガ……」
バキン! と甲高い音が鳴ったかと思えば、怪物の指の一本が脱落する。また一本、続けてもう一本と、怪物の体は徐々に崩壊していく。最後、怪物が剥き出しになった本来の腕で天を掴もうとしたかと思えば、その巨体は一気に崩壊し、土煙が視界を覆った。
「どぎゃーッ!? こほっこほっ……すごいであります……っ」
「くッ……ヒナタ!」
視界を阻まれながらも、ルリは冷静に仲間の名を呼ぶ。
「怪物は!? ミオさんはどうなった!?」
「……」
「ヒナタ!」
「……安心しなさい、ちゃんと生きてるわよ」
砂色の壁の向こうから、友人の声が聞こえてきた。その内容にルリは一息つきたいところだったが、どうにもその声からは、緊迫感が抜けていない。
「まさか……まだ何か起きているのか!?」
「そーゆーことよ」
春の太陽はいつの間にか傾いていて、宵の色が黄昏を喰らいつつあった。そんな空の下で次第に土煙は晴れ、事の全容が顕わになる。
「これは……?」
ヒナタは能力使用を解除し、元々のヒナギに限りなく近い姿で佇んでいる。しかしながら警戒心は全く緩めていない。拳を握り、いつでも繰り出せるようにしている。
彼女の目線の先には、ミオが立っていた。少女は両足を大きく開いて立ち、上体をだらりと不気味に脱力している。艶のあった黒髪は土埃を浴びて酷く汚れており、その姿は亡霊のようであった。
「ふふふ。『あなた達』って、本当に酷い『姉妹』ね」
「……ッ」
その言葉遣いを聞き、ヒナタの顔が曇る。あれはミオのものではない。「別の何者か」が、彼女の体で語りかけてきている。加えてその何者かは、ヒナギの体にヒナタという「近しい存在」が住み着いているのを理解している様子だった。
「チヒロ、あれは……」
「はい、大方ルリどのの予想通りかと思われるのであります……」
ルリとチヒロも、それぞれが《ツインズ》をもう一度顕現させ、構える。緊迫感、瓦礫まみれの風景、そのどれをとっても、すっかりここは戦場と呼ぶに十分な場所となっていた。
「ついさっきまで宿主と混ざりかけていた、ミオどのの《ツインズ》。恐らく、宿主の意識が弱くなった隙を突いて、肉体を乗っ取ったのだと思われるであります」
「長ったらしい説明ありがとう、《焚書図書館》のお嬢さん。……私はパンドラ。ミオの生み出した『愛玩人形』よ」
「……人形?」
ヒナタが思わず聞き返すと、パンドラは妖艶に笑う。
「そうよ、人形。あなたの妹さんがミオに構ってくれないから、私は生まれた。私っていう都合のいいイマジナリーフレンドに盲目的な愛を囁かせて、空っぽな心を埋めようとしたの。でも」
パンドラはゆらりと歩き出す。まさしくその容姿通り、「亡霊」のような、あるいは「屍人」のようなおぼつかない足取りだった。
「あの子は満足しなかった。それはそうよね。人形で得る快は、生の暖かさには勝てない。でもあの子は、私以外でそれを満たすことができない、私以外を求めても、拒絶されるだけだからと知っているから。だから私に溺れた、私を求めた、私を愛した!」
ヒナタは動けなかった。気圧されているわけではない。彼女の体の本来の持ち主が、激しい動揺を露わにしているのだ。
「……私にとって重要なのは、あの子が満たされないことなの。あの子から渇望が消えれば、私の存在価値は無くなってしまう。だから聞きたいことがあるの。ねぇ、『伊織日凪』さん」
語り終わる頃には、ミオは手を伸ばさずともヒナタに触れられる距離まで接近してきていた。
「……っ!」
いつの間にか、その体の主は妹の方になっていた。ヒナタが《アイテール》を消費して力が弱くなっていたこと、ヒナギの感情が異常に高まってしまったこと。この二つの要因が、強がりな妹を表舞台に引き摺り出したのだ。
(——私のせいなんだ)
ヒナギは今にも泣きそうな表情だった。
(——私がミオを追い詰めたんだ)
今更だと言えば、そうなのだろう。ヒナギは真実を知った今になってやっと、自分のことを「ただ一人の」友人だとして見てくれていた一人の少女と、向き合おうとしていた。
そんな追い詰められたヒナギへ、パンドラはしっとりと問うた。
「ヒナギさん。あなたはミオのことを、諦められる?」
「……諦めるって……どういうこと?」
「簡単よ。さっきまでは、ミオのことを助けたいなら、あなたがあの杖から光を放つだけで済んだ。でも今は違う。私がこの子の体を乗っ取っているから、直にはその光は届かない。あの子を助けたければ、まず私を引き剥がす必要があるのよ」
「……そうか」
「物分かりが良くて助かるわ。……ここに、あの不死鳥はいない。あそこのお嬢さんが持っている不死鳥の血も、《ツインズ》を分離できる量はない。あなたがミオを助けることは、できないの」
「……ッ」
ヒナギは唇を噛んだ。ヒナタが乱暴に扱ったせいで酷く疲労が溜まった体でも、その悔しさは無限に力になり得る気がした。でも、その力が無意味なものであることは明らかだった。
「安心しなさい、私はこれ以上あなた達を傷つける必要はないと思ってるわ。損害も出してしまったし、このままじゃ《模倣派》の使徒様に怒られてしまうかもしれない……だから、早く聞かせて頂戴」
パンドラはヒナギに、改めて囁く。
「あなたは、ミオのことを諦めると言いなさい」
ヒナギは答えなかった。代わりに、彼女に背を向けた。
「……ヒナギ? まさか、言われた通り諦めるつもりなのか!?」
彼女の向かう先に立っているルリは、声を荒げる。
「君はそんなことをするような奴じゃないだろう!? 確かに私のような、君の言うところの狂人と比べれば、慎ましい方かもしれないが……やるべきことはやる人間だろう!?」
「……」
「なんとか言ってくれよ、ヒナギ!」
「……」
「おい、嘘だろう、ヒナ——」
ルリの訴えかけは、他でもないヒナギの手によって中断された。
ヒナギは彼女から、《バタフライ・テキスト》を奪い取っていた。
「ちょっ……ヒナギ、一体何をしているんだ!?」
「……ッ」
ルリの言葉には耳を貸さず、ヒナギは彼女からさらにペンまでもを奪って、その青い本に、荒々しく文字を走らせ始めた。
「おいおいおい……! 一体どういうつもりなんだヒナギ、私のモルフォを雑に扱わないでくれるかな!」
「ルリどのステイであります! ヒナギどのの行動は確かに理解に苦しむものでありますが、今、この状況下で仲間割れするのは非常にマズいでありま——」
二人の間に割って入ったチヒロの言葉もまた、ヒナギによって切られてしまう。ヒナギは今度は、チヒロのポケットから、貴重な不死鳥の血液が入った瓶を奪い取ったのだ。
「あァーッ! それは《焚書図書館》の貴重な軍備品ーッ!?」
チヒロもこれは流石に耐えかねたか、止めるべき立場の彼女もまた、ルリと一緒になって奪われたものを取り返そうとした。しかし。
「五月蝿い」
「「うわぁっ……!?」」
二人は目を覆う。ヒナギが《ディア・マイ・シスター》で全身から光を放ち、二人の視界を奪ったのだ。
「ぎゃーッ!? まぶしいでありますーッ!?」
「ヒナギ! 君は一体……一体……?」
目を開く前に、ルリは手のひらの違和感で事態を察した。どうやら青い蝶々の描かれた本は、彼女の手に戻ってきたようなのだ。
光が落ち着く。そうして回復した彼女の視界に映ったのは——
「!?」
ルリは、目を疑った。
「諦め……られるかァァァァァァァァァァァァァァァァッッッッ!」
ヒナギは破りとった《バタフライ・テキスト》のページと、不死鳥の血が入った小瓶を両手に持って絶叫していた。さらに彼女はぐしゃぐしゃに丸めたページで自分の鼻と口を覆い、運命の力を宿した鱗粉を余さず吸い上げると、小瓶を足下に落として、それを踏みつけた。
——ボゥワッッ!
小瓶に収められた生命力が、一気に彼女の全身を覆い隠す。
「なん……だと……!?」
「ヒナギどの……狂っているのであります……!」
二人は理解を拒んだ。それほどまでに、あの少女は大胆だった。
「あああああああああああああああ——ッ!」
全身を灼かれながら、全ての細胞が生まれ変わる感覚を味わいながら、ヒナギはその痛みに絶叫する。新たな自分が生まれる感覚に。
「ミオ……アンタは……私が……絶対……助けるッッ!」
火柱が内側から爆ぜる。ヒナギの姿はすでに無い。彼女は人間離れした脚力で、パンドラに、親友にしてその敵に飛びかかっていた。




