EP3:鳥と蝶と滲んだページ
《1》
自身の名を「モルフォ」とした稲葉瑠璃は、一切穢れのない、澄み切った表情を見せた。ガラス細工のように儚げな笑顔だ。
彼女は「自分は稲葉瑠璃ではない」と告げるとともに、自らが彼女の《ツインズ》、《バタフライ・テキスト》であると明かした。
ヒロは改めて、彼女の容姿を確認する。ルリと同じショートヘアーの下から覗く青みがかった瞳には、夜空のような美しさがある。形こそ全く同じ顔だが、人格でここまで印象が変わるのか、と軽く感心した矢先、ヒロはふと気づく。
「そうか……意思があるのか……」
「え?」
ここまで当たり前に接してきたが、意思を持った《ツインズ》を宿している人間を見るのは、かなり久しぶりのことだ。いつもヒロが『不殺人鬼』として相手取るような、量産型の《ツインズ》には、明確な意思は存在しないためだ。由来不明の魂によって組み上げられた、純粋な武器として、《ザ・ピンク》や《ジャンキー・ナイト》は取引されている。
どうにも、意思があるとなんとなく扱いにくくなるというのがクズ人間たちの見解らしい。実際はそんなことなく、むしろ、《ツインズ》側から色々調整してくれるおかげで扱いやすいというのが、意思のある《ツインズ》を持つヒロの思う実態なのだが。
「あの、どうしました?」
モルフォの声で、ヒロは我に返る。
「いや、少し考え事をしていただけだよ……大したことじゃないから、気にしないでくれ」
「そうですか」
モルフォはヒロの返答に納得できていない様子だった。どうやら彼女もまた、知りたいことを知るまで満足できない性を抱えているようだった。
《2》
文字通り一心同体のモルフォが言うに、ルリは「殺された」ショックで、今はまともに会話もできないという。そんな状態でも物語を綴ろうとする姿勢は健在で、アイデアが出てこないのも未だ変わらない。
モルフォはヒロに対して、「お見舞いの品の代わりとでも思って話を聞かせて欲しい」と言った。
「……それを『殺した』張本人に求めるのか……恨みとか恐怖とか、そういうのより知的好奇心が勝つなんて、よっぽどだな……」
「それをあなたが指摘するんですね。イチ女子高生のルリちゃんのことを、人の世にいないあなたが……でも、それがルリちゃんなんです、深く考えないでください」
二人は駅から続く大通り沿いの、小洒落たカフェにいた。飲み物代はモルフォの(より正確にはルリの)財布から引き抜かれるとのことなので、ヒロは久しぶりに、人間の嗜好品に手を伸ばすことにした。
(——こんな味だったっけか……?)
絶対に『不殺人鬼』を演じる上では手を伸ばさない、ブラックのコーヒー。目が覚めるような鋭い苦みを期待していたヒロは、その味——酸味やら深みやらがぼやけた不安定な味わいに、カップを口元から遠ざけた。
それを片手に二階テラス席から見下ろす街の喧騒は、水槽の中の魚の渦のような、こちらからは手出しのできない神秘に近しいエッセンスを秘めているように見えた。
「……で、具体的には何が聞きたい? あいにく、答えられるか怪しいこともいくつかあるからな」
「えっと……ルリちゃんからは『生い立ち』と『不殺人鬼になったきっかけ』、あと『最初に人を殺した感覚』について聞いてほしいって言われてます」
「……」
「『不殺人鬼』さん、どうされました……?」
ヒロは黙り込む。さて、己が抱える真実を、いかに伝えるべきだろうか、と。美味くもないのに、飲み物をもう一口含んで飲み込み、さらに彼は一つ、ため息をついてみせた。
「……今の三つは全部、残念だけど、俺には答えられない」
「どうしてですか。ルリちゃんを家に返した時はあんなに苦しそうだったのに、どうしてここで渋るんですか!? あれは……ルリちゃんを殺してしまったことを後悔していたんじゃなかったんですか!?」
「待て、これは俺にも事情が……待て、どうしてお前が、俺がルリを送ったことを知ってるんだ?」
「知らないんですか?《ツインズ》の意識は宿主の意識が休眠状態の時は、優先的に表面化することができるんですよ。あなたがルリちゃんを蘇生した後、私がルリちゃんの足で逃げ出すつもりでした。でもあなたに担がれて、仕方なく気絶したふりを選んだんですよ……あなたの『ごめんなさい』、ちゃんと聞こえてましたよ?」
「……っ」
ヒロはなんだか辱めを受けているような気持ちで、改めて稲葉瑠璃の外形をとった少女を見る。……彼女は意地悪く笑っていた。どうやら宿主も宿主だが、《ツインズ》も《ツインズ》で一筋縄ではいかなそうだ。
「でも、あれのおかげであなたのこと、少しだけ分かったんです。『不殺人鬼』なんて物騒な名こそつけられてますけど、あなたも一人の人間なんだなって」
「……」
その言葉に、またしてもヒロは黙り込んだ。今度は飲み物を口にせず、店の外に広がる社会に目を向けた。
「……俺はそんなんじゃない」
彼は尖った犬歯を、自分の親指の腹に突き立てた。その傷に浮き出た血の玉は、ポンと爆発して、傷を完全に修復した。
「ひっ!? ……あなた……一体なにを……?」
「……俺は『不殺人鬼』だ。誰がなんと言おうとも。何人も殺してきた。何人も発狂に陥れてきた。もし俺の本質が『人間』だったとしても、俺は……もうそっち側には戻れない」
黒ずくめの少年は、小さな爆弾を散らした親指を、血の玉をもみ消すように人差し指の腹で拭った。
「そうですか……でもそれだけ『不殺人鬼』であることに執着するなら、その理由も話してくれないと」
「……それを覚えてないんだよ。俺は気づいたら《ツインズ》能力者で、この街に潜む『不殺人鬼』だった……俺は記憶喪失なんだ。だから、お前の質問には答えたくないとかじゃなくて、本当に答えられないんだ……できることなら、俺も答えたかったさ」
——ヒロが誰かに記憶喪失のことを話したのは、これが初めてのことだ。
「できることならあんな殺しも……したくない。でも俺の《ツインズ》が言うに、それが俺の役割だってことらしい。しかも、それを受け入れてる自分がいるんだ。……記憶を失う前の俺がどんな人間だったか、今の俺は知る由もない。分からない。けど、今の俺は……見ての通りの『怪物』だ……酷いだろ? 理性とか知性とか、止める道具は持ってるのに、それで狂気が自分を侵食していくのに抗わない。どころか、その狂気に全部委ねようとして、全部全部狂ってしまえばいいのにって——ッ!」
ヒロは、そこまで話して初めて、自分の口が言うことを聞かなくなっているのに気づいた。体が独白を止めようとしない。これ以上話せば、脚本家見習いに弱みを握られて、見世物にされる可能性だってある。なのに、言葉は堰を切ったように、喉奥からとめどなくゴポゴポと溢れてくる。気味が悪い感覚だった。
「だからせめて……せめて醜い姿を晒さないようにって、できるだけ原型が残らないように殺してるんだ……でも……ルリさんは……俺が暴走していなければ……あんな無惨な姿にする必要なんてなかったのに……」
吐き出される言葉は、ヒロの知らない色をしていた。微かに震えを伴ったその濁流の根源を、モルフォは実験動物の檻を覗き込むような表情で見つめていた。
「……はぁ……はぁ」
ヒロは氷が溶けてほとんど水のようになったアイスコーヒーの残りを、一気に流し込んだ。喉がびっくりして拒絶でもしたのか、咳が込み上げてきた。
「けほっ、げほッ——俺……何言ってんだろ……」
そして誰に言うわけでもなく、モルフォの瞳も見ず、少年は虚な目で呟いていた。彼の胃がコーヒーで満ちた頃、彼の心はなんともいえない惨めな思いで溢れていた。
「……今言ったことは忘れてくれないか」
「そういうわけにもいきません。予定していたような情報は得られませんでしたが……ルリちゃんが満足してくれそうなことは、なんとなく知ることができました。もう大丈夫です、私はこれで」
モルフォは席を立った。そこにどんな価値があったのかは、定かではない。しかし彼女は、ヒロの言葉に収穫を感じたらしい。「さようなら」と味気なく言い放った彼女の姿は、いつの間にか店の中から消えてしまっていた。
「……」
《3》
同日、日没後のこと。少年は緋色の空の下で抱えた膝に顔を埋めるようにして座り、己に潜む悪魔の返答を待っていた。
「フェニックス……どうして俺は『不殺人鬼』なんだっけ……」
その語気に、人を殺すほどの威圧感はない。明日にすべきことも分からないような、ただの少年「日暮飛路」の姿といえた。
「俗世を離れて『不殺人鬼』になることを、君が望んだから。そういうことじゃなかったかい?」
フェニックスはいつの間にか、ヒロの後ろに立っていた。彼の方を振り返ろうとはせずに、ヒロは顔を上げた。
「……俺が、望んだ?」
「ああ、俺は君に力を貸しただけだ。実際に『不殺人鬼』になる決定をしたのは、他でもない君自身だよ」
「俺が……望んで……?」
それは今のヒロからすれば初めて聞くことだった。しかしながら、それは記憶を失った後のこと、つまり覚えていてもおかしくない時期の事のはず。しかし、ヒロはそのことを覚えていない。もしかしたら、『不殺人鬼』の自分に違和感を感じず、ただ悪を裁く世界の「器官」として振る舞っていたせいだろうか。
そうやって色々考えるヒロを傍目に、フェニックスは話す。
「あの時の君は、『自分』が『自分』である確証を失って不安そうだった。だから俺が、束の間の現実逃避にと、『不殺人鬼』になることを提案したんだよ。……実は、俺の力を取り戻すために利用しようとしたんだけど、思ったよりいい働きをしてくれたからねぇ。このまま放っておいた方が有用そうだなと思って、現在に至るのさ」
「……お前の『力』?」
「おっと、口が滑ってしまったかな?」
フェニックスは誤魔化すように笑うと、背が短く緋い草の上に腰を落ち着かせた。座るヒロの背中に、自らの背中を預けるように。
「何してんだよ……」
「ちょっとした戯れさ。君、こういうの好きだろう? あるいは……好き『だった』、か」
「……前々から思ってたけど……もしかしてお前、俺の昔のこと、何か知ってるんじゃないか?」
「さぁね? 仮に知ってたとしても、俺が易々と口を割らないだろうってことは、君が一番よく知ってると思うけど」
「はいはい、その通りだよ……」
ヒロはたまに、どうして自分がフェニックスと一緒にいるのかわからなくなる。フェニックスはきっと、自分の葛藤や苦しみを、流した血の涙を、ヴィンテージのワインのように嗜んでいる。そんな風上にも置けないクズ男の下でどうして、自分はこうもせこせこ働いているのか。
少年は思う。自分という人間は、この苦しみに居心地の良さを覚えているのかもしれないと。胸を突き刺し貫くような、あるいは首を絞められるような、逃げ場のない苦しみ。それを啜って笑う、己の姿をした怪物。そこにある苦しみは確かに辛いものだが、その辛さが「自分が何者であるか」なんて途方もない問題に答えることをサボる口実になっているのも確かだ。
そう考えると、フェニックスが口にした「現実逃避」という言葉も、案外間違いではないかもしれない。こうして遣われるのも、悪人を殺すのも、全部全部、自分に目を向けないためなのだろう。宿題を前にした学生が、自分の机をせっせと掃除するようなものなのだ、きっと。
「……やっぱり怠け者の俺には、お前の下にいるのがお似合いかもな」
彼は立ち上がる。フェニックスが背中からずり落ちると、その手をとって立ち上がらせる。
「俺の苦しみを味わうのはいいけど、その分ちゃんと力で支払ってくれよ」
「いやだなぁ、俺が支払いを忘れたことがあったかい?」
《4》
次の日、彼はモルフォに連れられたあのカフェにいた。何の理由もなく、ここを訪れたくなったのだ。「モルフォではない、稲葉瑠璃そのものに会えるかもしれない」という、淡い期待に突き動かされたから、と言えるかもしれないが。
彼女に会ったら、頭を下げたい。ヒロはその一心だった。もちろん彼女を殺したことは、絶対に、その程度の謝罪でどうにかなる問題ではない。でもせめて、自分の現実逃避に巻き込んだ分の謝罪——自分の「衝動」で怖い思いをさせてしまったことに対する謝罪だけはなんとしてでもしたかった。
だが店に着いたはいいものの、彼は席に座るわけでもなく、何かを注文するわけでもなく、本当にただ突っ立っているだけの邪魔者になり下がってしまっていた。というのも、彼は無一文だったのだ。
彼は不死の体故、食事を摂る必要もないし病気も死ねば治る。衣服はいくら傷ついても再生するし、特定の拠点を持つことも、きっとこの先ない。だから、金を持つ必要を感じてこなかった。
今まで殺した蛮族からみかじめ料を徴収することもなかったし、身分を偽ってバイトをするようなこともなかった。彼は『不殺人鬼』の肩書なしでは、一文なしの浮浪少年でしかないのだ。
(——仕方ない……帰るか)
商品を注文することもままならないのは百歩譲って良しとしても、稲葉瑠璃の姿も、来る気配すらも感じられない。あれは単純にモルフォが近場の話しやすそうな場所を探して選んだ結果で、ルリの感性には合わない場所なのではないか、と彼なりに考えてみたりした。
とにかく、もうここに用はない。彼は出入り口の扉に引き返そうとした。しかし——
「——待て」
その肩を、後ろから掴む者がいた。ヒロはその声を知らない。自分の態度を怪しんだ店員だろうか、と思ったが、どうもそれにしては無愛想な……否、物騒な態度だ。
振り返って見てみると、一人の少年が、ヒロの肩に手を置いていた。エアリーな髪質と、翠玉のようなパッチリとした瞳が可愛らしい美少年。身長は平均的な男子の身長よりもやや低めのヒロより更に少し低く、年は一年違うか違わないか、そんな程度だろうか。
だが先に述べたような整った容姿に似合わず、彼は全身から溢れんばかりの殺気を漂わせていた。それを押し殺そうとする気配も全くなく、これが同じ空間にいたことに、何故気付けなかったのかと不思議に思うほどだ。
「お前、名を名乗れ」
少年は容姿とよく合った可愛らしい声を持っていたが、そこにドスを効かせて雰囲気を変えていた。これまた不似合いな殺気だ、どうしても怪しさが拭えない。
「……日暮飛路、それが俺の名前だ。『日暮れ時に見える、飛び立つための路』とでも覚えるといい」
しかしヒロは、反射的にその質問に答えていた。『不殺人鬼』としての超然的な立ち振る舞いの片鱗が顔を出したのか、無意識のうちにおあつらえ向きのキザっぽい台詞まで、即興でこしらえていた。
少年は彼の名を聞くと、俯いて口角を釣り上げた。
「そうか……『日暮飛路』、それがお前の名前か……覚えたよ、『日暮飛路』……それが『不殺人鬼』の名前なんだな……!」
「——ッ!?」
ヒロは少年の口から出たその単語——自分の通り名を聞くや否や、その殺意の正体を知った。それは誰でもない自分、『不殺人鬼』を目の前にしたために溢れ出た殺意だった。
咄嗟に店から駆け出して、少年から距離を取る。だが少年は追ってこない。その挙動に、ヒロはさらなる危機を覚えた。今までの経験上、ああいう自分に対して殺意や復讐の意思を持った人間ならば、自分の背中を追うのが相場というものだ。それをしないということは……彼を追うまでもないということに他ならない。
(——まさかあいつ……!)
少し離れて、ヒロが店の方を振り向いた瞬間——
——ドパァッッ!
渦を巻いたドス黒い液体が、ヒロに迫ってきたのだ。
《5》
「チッ、やっぱりか!」
ヒロは咄嗟に街路樹の後ろに回る。液体の渦は街路樹に激突すると「バァン!」と音を立てて、街路樹とともに消えた。街路樹があったところを振り向くと、地面に爪で引っ掻いたような荒い筆跡で「木」と書かれているのを見た。それはまるで、木が「木」という字に置き換わったようだった。
「僕の攻撃に咄嗟に対応できるなんて……それが『野生の勘』ってやつなのかもね」
少年は狂気に澱んだ大きな瞳で、こちらを睨んでいた。その右手には、身の丈ほどある万年筆……いや、万年筆に似せて作られた、金色の穂先を持つ槍が握られていた。
「でも……そんな動物的な挙動じゃ、僕のことは攻略できないッ——!」
少年はそのガラス玉のような瞳をこぼれ落ちそうなまでに大きく開いたまま、ヒロに駆け寄る。右手の筆がシュインシュインと風を切り裂いて、ヒロの喉元を狙って突き出された。ヒロはこれを横に飛んで回避。だがその筆先から漏れるインクの飛沫が、ヒロの手に散った。
——ビシャっ!
「いっ……!?」
腕を襲ったのは、火傷のような痛み。いつもならば、それは自身の能力によるものだっただろう。しかし今は違う。ヒロの右手についたインクが、まるで生物のように蠢いていた。そして彼の腕をモゾモゾと、徐々に徐々に飲み込んでいた。
「なんだこれ……《スーサイド・フェニックス》ッ!」
ヒロは剣を実体化させると、インクの付いた右腕をズバッ!と切り落とした。断面から緋い液体が垂れ、それが炎上する。炎が爆ぜると、その中から元通りの彼の腕が現れた。
(——ギリギリセーフ……間に合ったみたいだな……)
ヒロは十分に少年と距離をとった後、地面に転がった腕を視界に捉える。腕はすぐにインクの黒に染め上げられ、地面に溶け込んだ。そこにはまた、引っ掻いたような書体で「腕」と書かれていた。
「まさか……さっきの『木』って文字も、この『腕』って文字も……お前の能力か? お前が能力で、街路樹や俺の腕を文字に変えたのか?」
「ご名答。僕の《ツインズ》の名は《レター・フロム・ブラックワールド》、能力は見てもらった通り、『インクで物体を侵食して、文字に変える』こと。でもただ文字に変えるだけじゃない……例えば」
少年は槍を巧みに体の側面で回してみせると、その穂先を地面につけた。そして、
「このように、」
彼はそのまま体全体を使い、槍を豪快に、まるで書道のパフォーマンスのような、鮮やかで華やかな動きで地面に文字を書き殴る。そこに書かれたのは、荒々しい書体で書かれた「顎」の一文字だった。
「書いた文字に力を込めれば、」
最後に彼は、槍の石突きで、文字を「行け」とでも言うように払った。次の瞬間、その動きに合わせて、文字が真っ直ぐヒロの方へ、地面を滑って行った。そしてその文字がヒロの足元に来た直後——
「『文字』の『意味』を引き出すこともできる!」
——ガギィィン!
まるで鋼鉄の剣のような牙を並べたような巨大な漆黒の顎が、ヒロのいた場所を噛み砕いたのだ。
「危なッ——!?」
幸い、彼は「顎」の文字が足元に滑り込んだ直後、危険を肌で察知して横に避難していた。
「……チッ、これまた愉快な能力だ」
ヒロは久しぶりに息を荒げ、少年を見た。その目は依然としてエメラルドのように輝いていたが、その奥に塗りつぶされたかのような暗黒色が、殺意に染まった深淵の色が見える。不純物が入っているようで、それを美しいとは言えなかった。
「待て、次俺を攻撃する前に一つ聞かせろ。……どうしてお前は俺を攻撃する? 戦いを早く終わらせる為にも、俺の問いに答えろ。返答次第で、力加減を変えてやる」
「そんなの、答えはただ一つだ。お前はたくさんの人間を殺してきた。それが悪人だけだったとしても、僕はお前を絶対に許さない。殺人はこの世で最も重い罪、それが裁かれないなんておかしい……だから僕が、法に変わってお前に制裁を下す!」
「……正義の名の下に、とでも続けたげだな。俺を知らなければ、そんな凶行には及ばなかったであろうものを」
何故自分の存在が、このような少年にバレているのかはヒロの知り得る所ではない。だが確かに言えるのは、かつての自分の行いを聞かされたこの少年が、自分に対して明確な殺意を持ったということ、それだけだ。
(——構図だけ見れば、絶対に俺の方が悪役だけどね……でも、今更どっちが正義でどっちが悪とか、いちいち考えてるのは野暮かもしれないな)
「……その覚悟は嫌いじゃない。本気で殺り合おうじゃないか」
ヒロは、少年の言い分が正しいと感じていた。加害者と被害者、どちらの味方をした方が。信用を得られるか、それは明白だ。
「ここからは容赦無用で行くぞ——」
「最初から僕はそのつもりだ……『不殺人鬼』——ッ!」
ヒロは剣を構え、鉄仮面のような冷たい表情を作って少年の懐に飛び込む。少年も槍をゴゥンゴゥンと振り回し、ヒロに突っ込む。間合いは一瞬にして詰まり、二人の構える武器となった《ツインズ》が、激しく打ち鳴らされる音が鳴り響いた。
《6》
あの《レター・フロム・ブラックワールド》のインクを浴びれば、ヒロが不死身とて、その身が危うい。侵食された肉体は、きっと再生できないからだ。先ほどのように「侵食された部位を切り離してはいおしまい」とはいかない。何故ならフェニックスの再生には、最低でも三秒はかかる計算だ。その隙に他の部位の侵食を勧められた場合、回復速度を被ダメージ速度が追い抜いてしまう。
(——しばらく観察してたけど……あのインクは槍の穂先、万年筆のペン先に当たる部分からだけ出てるみたいだな……なら、穂先の攻撃が届かない「内側」を狙うしか!)
槍、というより長柄武器全般に言えることだが、その攻撃手段は突き、薙ぎ払い、殴打、他には投擲など、バリエーションに秀でている。相手が穂先による攻撃を得意としていて、そして自分が攻撃を防ぐ武器を持っている今の状態ならば、穂先より接近して攻撃を仕掛けるのが効くだろう。加えて距離を詰めれば、先ほどのように悠長に地面に文字を書かれることもない。
「ハァァァァッ!」
そして計画通り、ヒロは間合いを詰め、少年の槍と鍔迫り合いを起こすことに成功した。「バギィン!」と金属が擦れる音が、不快に二者の間に響き始めていた。
どうやら先ほどのヒロのセリフが(そのような意図は一切なかったが)少年の腹の底に煮えたぎる怒りを引き出すことに一役買ったようで、彼の判断力を奪ったことも大きいだろう。少年は、槍越しに修羅の表情でヒロを睨んでいる。
「これだけ間合いを詰められたら、槍じゃ逆に不利だろ?」
ヒロは槍としのぎを削る剣を、少し横にずらしてやった。少年は支えがなくなって、今まで槍にかけていた力によってバランスを失って、前から倒れかけた。
「あっ——!?」
体制を立て直そうとした少年だったが、ヒロは彼の足に自身の足を絡ませ、更に体制を崩した。そしてその背中を踏みつけ、下手に起き上がれないように拘束する。
「がはっ……クソッ、放せ!」
「仕掛けてきたのはお前だろ、自業自得ってやつだ。俺のことを知らないままだったら平和だったのに……可哀想なやつだ」
ヒロはこのままトドメを刺そうと、彼のうなじに剣を当てた——が、そのとき彼の脳内に、相棒の声が響いた。
(——ヒロ、足元に気をつけた方がいい)
「フェニックス……?」
その言葉に、思わず斬首の手を止める。ヒロの足元には特に、地雷か何かが落ちているわけではない。珍しいものといえば、先ほど地面に染み込んだ、「腕」という字のみ……
(——まさか、これか!?)
次の瞬間。
——ガシッ!
真っ黒に染まった腕が実体化して、ヒロの足を掴んだ。
「お前を知らないことが平和なら……僕はお前を知ることのない世界に……お前のいない世界にするだけだッッ!」
踏みつけられている少年は、搾り出すようにして声を出した。
「《レター・フロム・ブラックワールド》の能力は……『物体を文字にすること』と『文字を物体にすること』の両方……『文字にした物体を再び物体にできる』ことに気づけなかったお前の負けだ、『不殺人鬼』!」
言い切ると同時に、ヒロの足の侵食が始まった。よく熱した鉄の板を押しつけられるような痛みがヒロを襲う。
「ゔあぁっ……クソッ!」
ヒロは掴まれた足を躊躇なく切断する。四つん這いというには四肢が一つ足りないが、とにかく獣のような情けない姿で、少年から間合いをとった。
「これで、お前の足の一本も僕の手中におさまった」
ヒロの足は即座に再生されたが、地面には「腕」に並ぶようにして、引っ掻いたような筆跡の「脚」が刻み込まれた。
「このまま『体』を手に入れて……お前には、自分の体に殺されてもらおうか! その命で! 罪を償え!」
少年は更に殺気を高め、ヒロを睨み続ける。巨大な万年筆を握る手を、有り余る狂喜に震わせながら。
対して、ヒロは自分の両足で立ち直ると、自分の内に語りかけた。
(——どうして……どうしてお前ってやつは、肝心な時にしか出てこれないんだ、フェニックス!)
(——さっきまで寝ていたんだよ、武器にされてようやく目が覚めたんだ。それに、俺が口出しできるような状況じゃなかったしさぁ?)
(——お前ってやつは昼間っから何を……違う、違う! 俺が聞きたかったのはこの状況を打破する方法だ!)
(——そうだね……はっきり言って、俺の回復力じゃ、あのインクの侵食は防げない。さっきみたいに侵食された箇所を切り捨てるしか方法はない……やるとすれば、攻撃される前に一瞬で決着をつける他ないな)
(——それができたらこんな苦労してないんだよ!)
(——そうだねぇ。君の純粋な実力だけじゃ、それは難しいだろう。だけど、俺の力をもう少し引き出せれば、それは不可能じゃなくなる。火事場の馬鹿力ってやつかな? まあこの場合、これから起こる火事は、君が火種になるんだけどね)
(——は……?)
(——おや、理解できていないみたいだね。じゃあはっきり言ってあげよう。この状況を打破する方法は……)
一歩ずつ間合いを詰めてくる少年に対し、ヒロは一歩ずつ間合いをとる。ヒロは逃げを強いられている。そんな彼に、彼の《ツインズ》は言った。
(——君の抱えるものを一気に吹き出させればいいんだよ。この前、あの女にやったみたいにさ)
ヒロの腕が独りでに動き出し、《スーサイド・フェニックス》の切先を、その胸にザクリと突き立てていた。
「がはっ……!?」
胸が熱い。刃の感触が冷たい。それと同時に、全身の古傷がメリメリと開いていく。言葉にするのもおこがましい強烈な痛みが、彼の全身を隙間なく襲った。
「アアア……アアアァァァァァ——ッ!?」
皮膚が裂け、肉が裂け、血管が裂ける。溢れ出るのは緋い血液。全身が炎上して、身体中が極熱の餌食になる。だがその命を現世に縛り付けるように、傷は少しだけ治っては、痛ぶるようにまた開く。ズプ……と胸の剣が引き抜かれた。ヒロ少年は、全身を獄炎に包んだ、魔物のような姿に変わり果てた。
「とうとう文字通りの化け物になったな、『不殺人鬼』!」
「ゔぁ、ァア……」
ヒロは唸り声しか出せない。全身の痛みに耐え続ける苦痛と、不本意に発狂状態を引き出してしまったことに対する苦痛。その両方が同時に襲いかかってきている。視界を覆う炎越しに、ヒロは槍を持つ少年のシルエットを見ている。その姿が、稲葉瑠璃の姿と重なった。
「やめ、嫌……ダ……」
このままでは自分の正義に正直なあの少年のことも、必要以上に痛ぶり尽くして殺してしまうのだろう。ただ自身の願望に正直だった、あの少女と同じように。
「俺ニ……ハ……無……理……」
これ以上、必要以上に、根本は善良な、誰よりも無垢な心を持つ彼らに手をかけたくない。そして何より……自分が「無差別に人を殺す暴走した悪魔」と思われるのは、あまりにも寂しい。思えば、これも己が『不殺人鬼』たる理由の一つなのだろう。
与えられた使命を果たすことで、顔も知らない誰かの平和を守ることで、自分が世界と繋がっている感覚を得たかった。自分が何者であるかを確かめるよりも先に、誰かに自分が存在することを認めて欲しかった。それはただの、路頭に迷った少年の、幼稚なメサイアコンプレックスだったのだ。
自分で自分を定義したくなかった。自分という存在を、誰かが定義してくれるのを待っていた。自分の存在を、誰かに認めてほしかった。ヒロはずっと、それだけだったのかもしれない。
「俺ハ……俺ハ……!」
自分はもう引き返せないところにいる。薄気味悪い海の底に。だが、更に深淵に踏み込んで、何も見えない真の深海に堕ちてしまえば、もう誰とも関わりを持つことはできないだろう。だが、『不殺人鬼』をしなくなるのなら、自分の存在価値はどこに生まれるのだろう。「『日暮飛路』が『不殺人鬼』」なのではなく、「『不殺人鬼』だから『日暮飛路』」。それが今の自分だ。その片方を捨てて仕舞えば、自分は一体、何者になるのだろうか。
「俺ハ……俺……ハ…………?」
ヒロは全身の痛みを、徐々に感じなくなっていった。極限の痛みは感覚を焼き切った。そして極限の苦悩は、彼を自分しかいない世界へと連れて行ったのだ。
「俺ハ……一体…………なんなん……だ…………?」
日暮飛路は、その場に倒れた。全身を覆う火も、身体中に開いた古傷も、徐々に治って消えていった。手に握られていた剣も、彼の体の中へと消えていく。彼は事切れたように、そこにただ倒れていた。
《7》
「これ……終わったってことでいいのかな?」
少年は巨大な万年筆の実体化を切り、体にしまった。地面に刻み込まれていた字も、それによって綺麗さっぱり消えてしまった。
「……にしても、ルリは重労働を押し付けてくれるよね……このために演技指導までされて……断る隙の一つもなかったんだけどさぁ……レターまで乗り気だったし……」
ヒロの行いを恨んでいるように見えた少年——紙魚綴幸は、肩の力を抜いた。その途端に、彼の口からは愚痴が流れ出た。彼は都立高校に通う、立場的には普通の男子高校生だ。人と違うところといえば、比較的恵まれた顔と声、そして彼の体に生まれつき宿る、《レター・フロム・ブラックワールド》を名乗る《ツインズ》。そして——
「いやぁ……素晴らしかった! やっぱり役者に君を選んで正解だったよ、スイコウ。おかげで何物にも代え難いネタが手に入った!」
——稲葉瑠璃という、脚本家を目指す《ツインズ》能力者の女子高生と、友人であるところくらいだろう。彼女は物陰から姿を現すや否や、スイコウに拍手喝采を送り、それから死んだように倒れているヒロに近づいた。
「一見平和な籠目市に潜む悪人に恐怖を植え付ける都市伝説の存在、『不殺人鬼』。だがその本性は、アイデンティティの喪失と自罰の感情に苦しめられた、一少年に過ぎなかった、と……こんなに筆が捗りそうなシナリオ、私は見たことがないよ」
「よく自分を殺した仇にそんなこと言えるよね……僕なんて一度有利を取られただけでも、もう怖くって仕方なかったのに」
「そうだね……あの『被殺体験』は……多少怖いところもあったが、とっても『刺激的』なものだったよ。これで殺される被害者側の心情が想像しやすくなるってものさ」
ルリは笑顔だ。表現者としての素質が極まった果てにある、狂気で染めた笑顔。
「はぁ……《レター》がいなかったら、君と関わることもなかったかもしれないのかな……」
スイコウはそんな友の顔に、思わず背筋を凍らせていた。
「おっと、自分と一生を共にするかもしれない相棒に、その口の聞き方は良くないと思うよ。それに《ツインズ》はすごく助けになるだろう?《バタフライ・テキスト》の助けがなかったら、駅前で『不殺人鬼』と接触することもなかったし、『不殺人鬼』に全力を出させることもできなかったし、彼がこのカフェに戻ってくることもなかった。それにスイコウが『不殺人鬼』に接触できるよう、このカフェに『不殺人鬼』が戻ってくるよう仕向けたのも、騒ぎを見られないようにこのカフェ周辺に人が寄りつかないようにしていたのも、《バタフライ・テキスト》の力だ。……まあ、この暴走は想定外だったけれどね」
ルリは一度呼吸を整えると、また話しだす。
「それに私のモルフォは、すごくいい働きをしてくれた。『不殺人鬼』と接触させて嘘の情報を……『私が殺されたショックで立ち直れなくなっている』と嘘を吹き込むことで、彼の中での私の介入の可能性を断ち切り、同時に彼の自罰感情を増幅させ、更には彼の心中を吐き出させることにまで成功した。モルフォには、今度いいスイーツでも奢ってあげないと無礼に当たるかもしれないな……」
彼女がそう言った後、彼女の自我を抑えてモルフォが顔を出した。
「……でも、『不殺人鬼』さんには、少し可哀想なことをしたと思っています。私たちは本来関わることのなかった『不殺人鬼』さんの運命に関わってしまった訳ですし、何よりあの人の苦しみを膨らませてしまったことも確かです」
更にモルフォの自我を抑え、ルリが戻ってくる。
「私の相棒よ、安心してくれ。確かに私がしたことは悪いことだ。だから、償いはしっかりするつもりさ」
彼女は《バタフライ・テキスト》を無から取り出すと、そのページに書かれていた言葉を眺めた。
「ええと、『不殺人鬼』の名前はなんて言うんだっけ?」
「『日暮飛路』だよ。漢字は……『日暮れ時に見える、飛び立つための路』って名乗ってたから、その通りの漢字を当てていけばいいと思う。僕は……素敵な名前だと思ったな」
「ふむ。確かに良い名前だ。記憶喪失ということは、自分でその名前を付けたんだろうか……『日暮れ時』を『神々の黄昏』のことと解釈するなら……『世界が終わるような絶望から、飛躍という希望の活路を見出す』とでも意味を込めたんだろうか……だとしたら、彼は最初から自分の願いに気づいていたということになるねぇ。人を救い自分が『路』になること、そして自分が救われるための『路』を築くこと。それらが込められた、良い名前だ」
ルリは噛み締めるように「ヒグラシヒロ、ヒグラシヒロ」と何度も呟いてから、うつ伏せに倒れるヒロを転がして仰向けにして、その「ヒグラシヒロ」の顔を覗き込んだ。
「スイコウ、ビビリな君の出番はここまでだよ。今日はよくやってくれた、今度モルフォと一緒に甘い物でも食べにいくといい。もちろん私の奢りだ……それまでに財布を肥やしておくよ」
「え? じゃあその……ヒロさんはどうするのさ?」
「……これから先は、私の選んだ猛者たちと一緒に、ヒロの記憶の断片を見つけに行くとするよ。物語の筋書きは最後まで書き切る、シナリオライターの責務だろう?」
彼女がそう言うと、彼女の元へと歩み寄る人影が一つ。
「全く……アンタは相変わらず狂ってるわね」
長い栗毛の少女は、むすっとした表情でこちらに向かってきていた。
「タイミング完璧だよ、ヒナギ。要件は連絡した通りではなくなってしまったが、いいかな?」
「……どうせこの倒れてるやつを運べとか言うんでしょ?」
「大正解だ! ははっ、やはり持つべきは理解の深い親友だなぁ!」
高笑いするルリを、ヒナギと呼ばれた少女は冷たい目で見た。そしてその目線を、そのままスイコウに向ける。
「アンタ、ルリの協力者でしょ? じゃあコイツ運ぶの手伝いなさいよ。清楚な女子二人じゃ無理だから」
「……清楚?」
スイコウの目には、少なくとも二人はその括りに当てはまらないような気がしていたが、黙っておくことにした。この『不殺人鬼』の少年が、面倒な女子たちの相手をさせられることを、密かに可哀想だと思いながら。