EP29:束縛と脚色と友情が一線を越える瞬間
《1》
ヒロは《焚書図書館》の床に足をつけた。それはほんの数日ぶりに過ぎないはずなのに、随分と久しぶりに訪れたような気分になった。
(——ここ数日、内容が詰まり過ぎだもんな……)
思えば、全ての始まりとなったルリとの出会いからもまだ全然月日は経っていない……それどころか、まだ一ヶ月も経っていないことを思い出す。
にも関わらずここまで彼女らと親密になれたのは、常に死のリスクが付きまとう環境に身を置いていて、親密になることを矯正されているからだろうか。それとも、彼女がヒロを「利用」するために、積極的に距離を詰めているからだろうか。
「……ヒロしゃん? 何ぼーっと突っ立ってるんでしゅか?」
「え?」
エントレの声にハッとすると、前を歩くトウジと彼女と、ヒロとの距離は随分と離れていた。どうやら、思ったよりも思考の海に深く潜ってしまっていたらしい。
ヒロは考えるのをやめて、彼ら二人の背中へと走って追いついた。
《2》
ヒナギの《ディア・マイ・シスター》は、正直ヒナギの気質には合わない《ツインズ》だと、彼女と関わってきたルリは振り返る。
ヒナギは確かに、「効能の違う複数の『光』を組み合わせ、それによって精神を治療する」ことを可能とするだけの、人間分析能力を持っている。普段彼女は感情を読み取れたとしても黙っていることが多いので分かりづらいが、彼女の「察しの良さ」はルリに並ぶほどのものだ。
だがそれはどうしても、相手が身内だとうまく働かなくなる。仮に疑わしい言動を見せたとしても、その相手を信じたいという心理が働いてしまうためだ。
それ以外の、つまり身内でない人々に対しては、ヒナギは攻撃的になる。その観察眼も、相手の心情を読み取って適切な発言をするためのものというよりかは、腹の中にある猜疑心を発散させるために用いられる。
それは慣れない環境に放りこまれた猫のようであり、彼女が「ツンデレ属性」を持っているように見える理由である。
だからこそ、《解放教会》はこのヒナギからの寵愛に飢えたオッドアイの少女を、刺客として送り込んだのだろう。ヒナギというボディガードに疑われることなく、ターゲットに接近するために。
「繋いで、《ポイズン・アンド・オア・アフェクション》!」
ジャララララ! と、ピンクと黄緑の鎖がミオの周囲を縦横無尽に飛び交う。この世に存在する全ての「存在」の間に例外なく存在していると言われる「縁」を可視化したそれは、ヒナギとミオの持つ漆黒の大鋏を緑色の方で繋いた。
「これで、あなたと『パンドラ』は強固な『悪縁』で繋がれた……どんな過程を経たとしても、この鋏があなたを傷つけることからは逃げられないッッッ!」
「だったら……なんだって言うのよ!」
当初の狙いは失敗したにも関わらず、私怨を持ち込んで戦闘を開始したミオに対して、ヒナギは《ディア・マイ・シスター》を持ってそれに対抗する。
ルリが《ディア・マイ・シスター》が彼女に合っていないと分析するもう一つの理由が、そこにあった。
戦い、もしくは喧嘩という場面においてヒナギが得意としているのは、武器を持たない徒手空拳の状態での戦闘だ。彼女の優れた空手の技術にアレンジを加えたものを、本来はメインの戦術とする。
このアレンジというのは、「人を傷つけ、打ち負かすために技を振るうのは、本来の武道の目的に反する」というヒナギの考え方によるものだ。どの技も瞬発性を確保するために予備動作を削ったりしてあって、より感覚的に四肢を振るえるようになっている。
しかし、《ツインズ》能力者と相対した時、つまりは武器を持った相手を前にした時、どうしても生身の状態では防御力に欠ける。その防御のために《ディア・マイ・シスター》を取り出すと、片手が埋まり、重心も崩れる。
彼女にとって、「武器を持って戦う」というシチュエーションは本調子ではないのだ。
「ほら、どう? どうッ!?」
「ぐっ……!」
そのルリの考え通り、ヒナギは不利を強いられている。刃を閉じた状態で鈍器として振り回される鋏を前に、ヒナギは杖の柄でそれを防御することばかりしている。攻勢に出る気配はなく、眉を顰めて歯を食いしばりながら、鋏と杖で火花を散らしている。
相手にしているのが友人だということも少なからず手伝ってはいるのだろうが、そのハンデを無しにしたとしても、ヒナギの不利状況は一貫して変わらなかっただろう。
「……私が手伝えていれば……どれほど良かっただろうか……」
ルリは二人の戦闘を、建物の陰から見つめていた。足を酷く怪我していたにも関わらず、部屋の中からかろうじて移動できたその理由は、傷口に貼り付けた大量のページにある。
彼女は震える左手でペンを持ち、《バタフライ・テキスト》になんとか、自分が失血死しないという「展開」を書き込んだ。それを何枚ものページに複製した上で、その全て傷口を覆うように貼り付けた。
こうすることによって、実際に書いたのはごく短い脚本ながらも、かろうじて延命する運命をもたらすことに成功したのだ。
とは言っても、あくまで応急処置に過ぎない。歩くことはできたが、すでにページは血を大量に吸って赤く染まり、ミミズが這ったような文字で書かれた脚本もすっかり読めなくなっていた。この紙が効果を失うのも、時間の問題だ。
ルリが見つめる先からは、「ガギン!」「バゴン!」と、金属同士が激しく衝突する音が響いてくる。《ディア・マイ・シスター》の実体そのものが壊れてしまうのではないかと心配するほどに激しい攻撃の音が、《烏丸珈琲店》の近くの道の狭い一帯に反響していた。
《3》
ヒナギは自分を「甘い人間」であると解釈している。それ故に、他人に対しては強く出ることができないと。
今までこの気質のせいで後悔することは何度もあった。あの時もっとルリを強く止めていればとか、あの時他人の意見に流されるべきではなかったとか、そんな調子のことがたくさん。
彼女は自分の「甘さ」は、「臆病さ」とほぼ同じものであると考えている。人に相手のやりたいようにすればいいと促すのは、自分の確固たる意見を持っていないためにくるものだと。
彼女は事故に遭って天国を見て、その体に姉の意思を迎え入れてから、自分と対話する機会を多く設けるようにした。その手段として武道に勤むようになったのだが、結果として得られたのは腕っぷしの強さばかりで、精神的なものは伴わなかった。
そして今、そのなけなしの腕っぷしの強ささえも否定され、「お前は何もない人間だ」という真実を突きつけられようとしている。よりにもよって、旧い友人の手によって。
「アンタ……どうして宗教なんかに……!」
「私に話しかけるな、裏切り者ッッッ!」
バギィン! と激しい金属音が鼓膜を穿つ。
「納得できないわ! アンタ、今の今までアタシに執着するような素振り見せなかったじゃない!?」
「伊織さんが悪いんだよ……全然伊織さんから連絡してくれないから、私寂しかった。でも私から突然連絡するのは迷惑かなってなって、それで話してない間に、どんどん伊織さんのことが恋しくなって……責任はその命でとってよね……ッ!」
「話を飛躍させるなァッ!」
ヒナギはここでようやく反撃に出た。真上から鋏にかかっている力を、受けている杖を傾けることによって横に流す。それによってバランスを崩したミオの背中を、バットのように持った《ディア・マイ・シスター》で思い切り殴りつけたのだ。
「がァッ——!?」
天使の彫刻の羽が鈍い棘となり、少女の背骨へと強い衝撃をめりこませた。思わず可愛げのない悲鳴をあげたミオは、地面へそのまま顔を叩きつけられる。
「……アンタがその気なら、アタシだって本気出すわよ……?」
「あぁ……!?」
ヒナギの言葉に振り返ったミオの瞳は、今にも暴走しそうな彼女の怒りによって限界まで見開かれている。砂利のついた、ところどころを擦りむいた美しい顔は、醜悪に歪められた。
「伊織さん……あなた……何てことを……!」
ミオの体がノイズがかる。彼女の中に渦巻く怒りを感じ取った《ツインズ》が、彼女へ更なる力の行使を許可したのだ。
「伊織さん……伊織……テメェ……!」
ドゴァッ! と衝撃がヒナギの体に加わる。彼女の腹へとミオが鋭い蹴りを叩き込んだのだ。
「ごふっ——!?」
宙を舞うヒナギの体。彼女は空中で、鬼神の如き形相で己を睨む親友の姿を、その茶色い瞳の中に見る。
「テメェァァァァァッッッ! 許さねぇぞァァァァァァッッッ!!」
怒号が周囲に響き渡る。ミオは血管の浮き上がる手で、ヒナギに念を送るような仕草を見せる。それに応えるように《ポイズン・アンド・オア・アフェクション》の鎖がヒナギへ伸びていく。
彼女と繋がった鎖の色は言うまでもなく緑色で、視界中の塀やら屋根やら植木鉢やら看板やらの全てが、彼女と「悪縁」で結ばれた。
ヒナギの体が落ちる。彼女はどうにかして受け身を取るため身をよじろうとしたが、思うように体が動かない。それが「悪縁」の影響によるものなのか、恐怖によって自らを縛っているためなのかと言うのは分からない。自分が危険な状況にある実感だけが、感じる何よりも早くヒナギの脳内を駆け巡った。
——どさっ。
「かはッ……!?」
ヒナギは身じろぎの一つも取れずにアスファルトに背中と後頭部を激突させる。断末魔もまともにあげられないほどの激痛が、背面全体を襲う。喉の奥が呼吸を拒み、吸おうとした空気が漏れる。「カラン」という軽い音は、自分の手から離れた《ディア・マイ・シスター》が地面に落ちた音。彼女の姉が化けた杖は、そのまま実体を失った。
それが分かった次の瞬間にヒナギの瞳に映ったのは、無作為に放り投げられた大鋏が、近くの適当な電線を切断する光景だった。
「これが『悪縁』の力……私の『憎悪』の力だァッ!」
電線とヒナギが、鎖で結ばれている。不自然な風が、垂れ下がる黒い線の揺れる軌道を操る。
「まずい——!」
事態を察したルリは咄嗟に物陰から飛び出し、《バタフライ・テキスト》を左手に構える。火傷を負い、包帯をぐるぐる巻きにされた右手で、乱暴にページを掴んだ。
(——運命に干渉できずとも、せめて盾になれば……ッ!)
痛みに顔を歪めながら、ページをむしり取る。
「うあァァァァァッ!」
撒き散らしたページが、蝶の姿を手に入れる。運命の綴られていない、無地の羽ではためくそれらは、真っ直ぐヒナギの方へと向かった。重みなどほとんど持たないその体で、一か八か彼女の盾になろうとしているのだ。
しかし、それによって無防備になるものもある。要するに、ルリの本体がミオの視界に入ってしまったのだ。
「見つけた」
プログラムに不調をきたした機械人形のようなぎこちない動きで、ミオがルリの方を振り向く。それと同時に、空中に舞っていた大鋏が彼女の手の中に戻ってくる。『良縁』の鎖によって繋ぎ止められたミオと彼女の《ツインズ》は、たとえ分かてどもすぐによりを戻すことができるらしい。
「貴女も死んで下さい、『楽蝶本の少女』。寧ろ、貴女の方が先に死ぬべきなのです。我ら教会の、悲願の達成のためには」
直後、「ビシュゥッ!」と空を裂き、鋏がルリの喉へと投げ放たれていた。恐るべき速度で放たれたそれは、数秒の間に一気に間合いを詰めた。束ねられた緑色の鎖の力は、確かにルリを仕留めにかかっていると確信できる威力だった。
「——っ!?」
ルリの息が詰まる。今、二人の近くに『不殺人鬼』は、二人の残機を補充してくれる救世主はいない。ここで死ねば、本当に終わる。
しかし、逃げられない。意識が限界を超えた働きを見せ、自分の体含めた全てがスローに見える。抗えない死を悟った時にしか訪れないとされる現象、無駄な足掻きをするための時間の訪れが、我が身に起こっていた。
(——これで……私は終わりだというのか。数十分前に初めて会った、ぽっと出の狂人に殺されるのが、私のエンディングだと!?)
ルリは納得できない思いを抱えながらも、迫ってくる鋏の先をゆっくりと見つめることしかできなかった。
空気抵抗によるものか、その先端がゆっくりと開いていく。まさしく貪欲な獣が獲物を前にして、牙をびっしりと生やした大口を開くが如く。あと十数センチで、喉を噛みちぎられる。
「い……や——ッ!」
ルリは思わず目を瞑った。
——バギン! ゴォッ!
瞼の裏の闇に、緋色の灯りが侵入してきたのが分かった。
《4》
全身に激痛が走る。右手の火傷などどうでも良くなるような、熱さと苦しさ。もう慣れてしまって言及するのも億劫なそれは、間違いなく彼女が追いかける不死鳥のものだ。
(——ヒロ!? まさか、そこにいるのか!? ……でも彼は、アクトのことを探しに行ったはずじゃ……?)
右手の感覚が正常に戻っていく。足の傷もみるみるうちに塞がっていく。それどころか、全身の細胞が新しくなっていき、自分が丸ごと更新されていくような、そんな鮮烈な痛みが全身を包む。
「……『不殺人鬼』、君なのか……?」
炎から全快の状態で現れるルリは、自分の前に背中を向けて立つ人影に、そう呼びかけた。
しかし、言った直後すぐに、それが『不殺人鬼』でないことに気がついた。それは女性の——自分と同じくらいの歳、同じくらいの背丈の少女の、自分よりも強い背中だった。
彼女は赤いチェック柄のシャツを羽織り、ペイズリー柄のカチューシャを頭につけている。履いているジーパンは丈が短いため、華奢な生足を外気に晒す形になっている。
少女曰く、その私服は「古のヲタクファッションのリスペクト」らしいが、オタクの記号的が持つむさ苦しい印象はない。彼女という素材が、文句のつけられないレベルで上物だからだろうか。
「……ルリどのは知らないかもしれませぬが、ワガハイたち《焚書図書館》は『不殺人鬼』から瓶詰めの血液をいただいているのであります。そのため、この便利アイテムだけでワガハイのことを『不殺人鬼』と判断されるのは、正しい判断とは言いかねるのであります」
「ち、チヒロ!?」
振り向いた少女の眼鏡をかけた美貌を見たルリは、想定外の人物の登場によって余計に息を詰まらせた。
「どうして君がここに!?」
「……《焚書図書館》でたまたま、トウジどのや『不殺人鬼』と鉢合わせたのでありますよ。そうしたら、ヒロどのから『ヒナギとヒッテだけが護衛だと心配が残るから、誰か護衛に行ってくれ』と提案があったのであります。それで、手の空いていたワガハイが」
「そうだったのかい……ヒロのやつめ、なかなかニクいことをしてくれるじゃないか。……ところで、ヒナギは?」
「安心するのであります、あの通り無事でありますよ!」
チヒロが指差した方向を見れば、電線はヒナギと接触する直前の位置で、時が止まったかのように動きを停止させていた。よく目を凝らしてみれば、電線に数個の画鋲が突き刺さって、それを空間に固定しているのがわかるだろう。
「ヒナギ……!」
ルリはヒナギに駆け寄る。それにチヒロも続いた。すんでのところで止まっている電線をルリが蝶の羽で細切れにすると、チヒロがヒナギの様子を見た。
ヒナギは後頭部から血を流しながら倒れていた。
「チヒ……ロ……?」
「はい、ワガハイであります! 今傷を治すであります、少し痛むかもしれないでありますが、我慢してほしいのであります!」
「待って……心の……準……備が……」
目薬が入っているような小さい緋色の小瓶から、一滴の血が日凪へと垂らされる。それは一気にヒナギの生命力を活性化させ、彼女の全身を健常な状態に復元した。
「あ……アンタねぇ……!」
目を覚ましたヒナギはノータイムでチヒロに掴み掛かった。
「アンタねぇ! 人が色々苦しいって時に、そんな劇薬使って値量するんじゃないわよ! 熱いったらありゃしないわ! 自分がだんだんこの感覚に慣れてるってのも怖いし……とにかく! あの男は頼りにこそしてるけど、あんまりこういうふうに頼りたくはないのよ!」
「うぇぁぁぁ……!? ヒナギどの、激しいであります〜っ!」
「……羨ましい」
「「はっ!?」」
三人は驚いて、そのドスの効いた声の方を振り向く。
「あなたたち、そうやってヒナギのことを取り囲んで……本当に羨ましい……そして……鬱陶しい……本当に……!」
遠巻きに三人の様子を見ていたミオは、腹の内に抱える一切を全く隠さず全身から放出していた。すなわち、それは嫉妬であり、憎悪であり、《ツインズ》の持つ膨大な生命力である。
「……もしかしてワガハイたち、敵の地雷を踏み抜いてしまったであります? あれ、まさか俗に言う『ヤンデレ』と言うやつでは……」
「やん……何?」
「ヒナギ、まさか知らないのかい!? ああいう一人への狂愛に頭の中の全部を支配された人間をそう呼ぶんだよ。これまでの長い付き合いを考えたら、これくらい基礎知識だろう!?」
「アンタがアタシを趣味に巻き込もうとしないんじゃない! 新しい脚本が書けた時も、『書けた』ってのを言うだけで内容は教えてくれないし! アタシだって気になるのよ、アンタが何書いてるのか!」
「あっ、あれは君に見せられるような内容じゃないんだよ!」
「それが何かって聞いてるのよ!」
いつも通りギャイギャイと騒いでいるルリとヒナギだったが、その二人の間にチヒロが割り込むような仕草を見せた。
「お二方、会話中非常に申し訳ないのでありますが……早くあっちを、『アレ』を見てほしいのであります! 今、すぐにッ!」
「「……え?」」
二人が「仲良く」指さされた方を見ると——
「私を……私を忘れるなァァァァァァッッッ!」
——彼女たちの「敵」として立ち塞がる少女が、正真正銘「敵」としての力を手に入れんとしている。全身から咽せ返るほど甘ったるい雰囲気の負のオーラを放ち、二色の鎖が背中から放射状に広がっている。まるで、獲物を捕える蜘蛛の巣のように。
「あれはまさか、《鏡装》かい!?」
「いいえ、あれは単に暴走しているだけであります! 宿主の強い感情に呼応した《ツインズ》が、自分と宿主の融和を引き起こしているのであります!」
「なんかヤバいってことだけは分かったわ……!」
ルリは《バタフライ・テキスト》を、チヒロは《ステーショナリー・ストリート》を、そしてヒナギは《ディア・マイ・シスター》を自らの手の内に顕現させる。
「私はヒナギのことを片時も忘れたことは無イ! それなのにお前ハ! 会おうとしなイ! 連絡もしなイ! そして私の顔を見ても、それら罪を思い出すことも無イ!」
伸びた鎖が、彼女の全身を包んでいく。緑とピンクの毒々しい繭が彼女の姿を覆い隠す。
「それはお前ガ! 余計な『縁』を持ち過ぎている所為だ! そうだ、そうに違いナい……間違いない、私の言葉に間違イは無い!」
バギン! と、繭の内側から巨大な漆黒の刃が現れる。鋏の刃の片側にも見えるそれは、さらに次々と繭を破って、合計八本が現れた。
「ソれでお前は汚レた! 私の『ヒナギちゃん』じゃなくなった!」
繭の天面を引き裂くようにして、少女の上半身が現れる。黒いドレスのような布で身を包み、両手の指を全て鋏の刃に置き換えられた、八つの目を持つ怪物の上半身が。
「責任ヲ取れ、ソの命で!」
かくして、少女は《ポイズン・アンド・オア・アフェクション》の持つ、果てなき『愛憎』の力に呑まれた。
《5》
彼女たちの出会いは、小学一年生の中頃のこと。夕暮れの公園のベンチに一人腰掛けていたミオを、友達と遊びに来ていたヒナギが見つけたのが始まりだった。
「……?」
ヒナギは不思議そうに、泣いている少女を見つめていた。幼い彼女にとって、ここは友達と来る場所のはず。そんなところに一人でいるその少女へは、意識を逸らそうにも逸せなかった。
「ヒナギちゃん、そろそろ帰ろー!」
「……みんなは先にかえってて! あたし、ちょっとのこる!」
「え? でも、お母さんにおこられちゃうんじゃ……」
「だいじょーぶ! みんな、また明日ね!」
ヒナギは続々と帰っていく友達を、手を振って見送った。そして彼女らの背中が見えなくなると、ヒナギはベンチの少女のもとに向かった。
「こんにちは!」
「……?」
ヒナギが元気よく挨拶をすると、その少女は顔を上げる。彼女はどうやら声は聞こえているものの、「自分が挨拶されている」というのを理解できていない様子だった。しばらくヒナギの茶色い瞳が自分を見つめていることに気づき、ようやくこの活発そうな少女が自分に挨拶していると気づいたようだった。
「もしかして……わたし?」
「うん! あたし、ヒナギ! あなたのなまえは?」
「……ミオ」
「ミオちゃんっていうんだ! よろしくね!」
「よろしくって……?」
いきなり対人関係を築くステップを何歩も踏み出され、整理できていないミオ。彼女のことをそのままに、ヒナギはその隣に座った。
「なんで……となり……すわって……?」
「もちろん、ミオちゃんとおはなしするためだよ! ……ミオちゃんは、どうしてここに来たの? おともだちはいっしょじゃないの?」
「……いないよ、そんなの。ママがおこるから」
そう言って涙を拭ったミオの手には、真っ二つに破られ、ぐしゃぐしゃになった学校のテストが握られていた。チラリと見えた点数は、「九十八点」。
ミオの母親は、世間から「毒親」と非難されてしまっても仕方がないような人間だった。自分が誇りたいがためにミオに高い学力を求め、自分が満足いく基準に届いていなかったのなら、たとえどれだけ社会的に称賛されてもおかしくない点数を取ったとしてもこっぴどく怒鳴りつけた。彼女はミオに、幼い時から「完璧」を求めたのだ。
「おかあさん、おこってわたしのテスト、やぶいちゃったんだ……」
「そんなの……ひどい! いますぐもんく言いにいこう!」
「だめ!」
立ち上がるヒナギを、ミオが引き留める。
「……いつもはこんなことないから……今日はたまたま……」
「じゃあ、いつもくるしいってこと?」
「……」
ミオは首を横に振りたかった。しかし、幼い彼女は嘘をつくことにまだ躊躇いがあった。辛いことを隠すのは簡単だが、辛くないと言い切るのには、まだ純真な心が邪魔をする。
「……くるしくても、ガマンしなきゃいけないんだよ」
この頃のミオは、母親のことを恨んでなどいない。ただ認められたいだけの、真っ直ぐな少女だった。そんな少女の心に革命を起こしたのが、ヒナギの言葉だった。
「それって、ガマンするほどだいじなことなの?」
「——っ!?」
ヒナギは勉強が嫌いで、友達とはしゃぎ回るのが好きなおてんばな子供だった。彼女にとっては友達との関係が最優先で、勉強なんて二の次だった。
ミオの瞳に映るそんなヒナギは、妖精か妖怪か、はたまた宇宙人か何かのようだった。「この少女と自分とでは、住んでいる世界が違う」というのを強く思い知らさせられた。
「——そう……なの……?」
だが、だからこそ、ミオはこの少女に心惹かれた。この少女は自分の知らない世界を知っている、この少女についていけば、自分の知らない世界を見せてくれるかも知れない、と。
「そうだよ! かなしいときは、たのしいことやろーよ!」
ヒナギはにかっと笑って見せた。その笑顔がめらめら燃えている夕焼けの何倍も輝いて見えて、思わず目を瞑ってしまいそうになった。そしてミオは思った。
(——わたしは、天使に話しかけられたんだ)
天使。薄暗く報われない世界に住む自分を、明るくて優しくてたのしい世界へと連れ出してくれる存在。
それからミオにとってヒナギは、「一番最初にできた、一番大切な唯一無二の友達」、あるいはそれ以上の何かになった。その思いは彼女と遊ぶたびに、出かけるたびに、日々を過ごすたびに大きくなっていった。
——しかしヒナギにとってのミオは、まだ「たくさんいる友達のうちの一人」だった。それは二人で出かけたり、遊んだりするうちに「親友どうし」と言えるものに昇華されたかも知れない。しかし、彼女の中でそれ以上の何かが芽生えることはなかったし、ミオと同じくらいに親しい人間もたくさんいた。
それから間も無くして、あの事故——あの世でヒナギが「天使」と出会い、死を知るきっかけ——が起きた。
ヒナギは変わった。暗がりを知り、非日常を知り、臆病さを知った。ミオとヒナギが会わなくなったのは、ちょうどこの頃からだった。
「ごめん……今はアタシ一人にして欲しい」
塾もいらなくなるくらい死ぬ気で勉強を頑張って、ようやく捻出した時間でお見舞いに来たミオは、すでに昔を捨てたヒナギの冷たい言葉で、すぐに返されてしまった。
ミオはそれから、ヒナギに連絡できなくなった。メッセージを打とうとしても、電話をかけようとしても、手紙を書こうとしても、ヒナギのあの冷たい視線が蘇って、怖くなってしまうのだ。
(——もしも、まだヒナギちゃんが一人にしてほしいなら……私が近づいちゃいけない時間なら……私は、我慢しなきゃいけない)
ミオは孤独に耐えた。その不満足を全て勉学にぶつけ、彼女はどんどん学力をつけていった。そして同時に、ヒナギを思う気持ちも肥大化していった。次ヒナギが話しかけてくれた時に恥ずかしくないように、「完璧な自分」になろうと。
しかし、ミオが連絡をしない間に、ヒナギは新しい自分を中心にした、新しい環境を築き始めた。もちろんその中にミオはいない。彼女の中でミオは、完全に「過去の人」になってしまったのだ。
ミオはヒナギのおかげで捨てられたはずの「完璧超人」への未練を掘り起こしてしまい、その苦痛で《解放教会》に助けを求めた。
ヒナギはルリという非日常の化身と出会い、旧友のことなど頭の片隅にも置けないくらい、濃密な日々を過ごすこととなった。
——二人のすれ違いが、悲劇を生んだ。そう言えるだろう。
「アアアアアアアアッッッ——!」
完全に全身が怪物へと変わり果てたミオ——『愛憎』の《ツインズ》、《ポイズン・アンド・オア・アフェクション》は、その鋭い爪に覆われた指をヒナギへと突き出した。
「……ッ!」
ヒナギは軽やかにその手から逃れる。「ガギィン!」と音が鳴ったかと思えば、狙いを外したミオの指が、その鋭利な爪先を以ってアスファルトの路面を粉砕していた。
土煙が立ち上り、そして巻き上がった破片が、的確にヒナギへと襲いかかる。強化された運命操作は「理不尽」という明確な凶器となったのだ。
ヒナギは両腕を胸の前でクロスさせ、その破片を正面から受けんとする。石片の一粒一粒は全て鋭利に尖っており、ぶつけられるというよりも刺されると言った方がしっくりくる痛みが、「バラバラバラ!」と彼女を襲った。
「ぐッ……」
腕から血を流しながらも、ヒナギは石の弾幕をやり過ごした。かと思えば、彼女の上に影が落ちる。彼女が視線を上に向けてみれば、なんとそこには巨大な看板があった。どうやら少し離れたマンションの上から、風に乗って飛んできたらしい。
「どうなってんのよ……これ!」
「ヒナギどの、ここはワガハイにお任せを!」
思わず身を強張らせていたヒナギの隣を、颯爽とチヒロが通り過ぎていく。今日は筆箱に入れずに、直接複数種類の文房具を、仏が背負う光輪のように背中に浮かべていた。
「今日は予定外の出動だったため文房具の準備ができていませんでありましたが……それでもワガハイは負けないでありますッ!」
背中を回る文房具の中から、チヒロはカッターを選び取る。クイと刃先を出してやると、彼女はそれを看板に向けて何度か振るった。
「《ステーショナリー・ストリート》、解釈を広げるのでありますッ!」
カッターの刃は振るう直前に光を帯びて、振るわれた瞬間に「ズバンッ!」と空気を震わせた。そしてカッターの刃——正確には《ステーショナリー・ストリート》が「カッター=切断に使う文房具」の動きに合わせて展開した力場——が、看板を何度も切り裂いた。
初めて彼女の力をきちんと目にしたヒナギは、息を呑んだ。
「すごいわね、アンタ……」
「褒められるのは嬉しいことでありますが、それどころではないのであります! ヒナギどの、次が来るでありますよ!」
「今度は何ッ!?」
ヒナギが振り返るよりも早く、彼女の背後で衝撃が生まれる。
「ぎゃァッ——!?」
「ヒナギどのッ」
チヒロはヒナギの元へと駆け寄ろうとしたが、強烈な揺れによって体勢を崩してしまった。地面に伏せる彼女の目には、黒い蜘蛛の怪物の姿が映った。
ミオはその巨体に反した軽快な動きで跳躍し、ヒナギの後ろに着地していたのだ。黒鉄の巨体が地面を揺らし、その体からは無数の鎖が天へと放たれた。
放物線を描いて、鎖はある一点へと狙いを定めて容赦なく伸びていく。その先にあるのは、勿論ヒナギ一択。
「やばッ——」
「させるか!」
ここでルリが《バタフライ・テキスト》のページを破る。
「飛べ、《バタフライ・テキスト》。その青い羽でヒナギを導け!」
ルリの言葉で、蝶々は加速する。そのうちの一羽がヒナギの頭上を一回転して、彼女に青い鱗粉を振り撒いた。
——ジャララララァッ!
「うわッ——!?」
ヒナギは向かいくる鎖に対して驚き、それらが着弾する直前、大きく後ろに跳ねていた。鎖はあと一歩のところで標的を見失い、「ゴバァァァァン!」とアスファルトに衝突して消滅した。
「因果の力には因果の力、ってことでありますな、ルリどの!」
「ああ。……だが、ヒナギをあれから遠ざけないことには事は始まらない。本来は私が狙われていた身な気がするのだが……まあ、姫と騎士の関係性なんて、男女が入れ替わっても美味しいままだろう」
「今はルリどのが騎士ということでありますね!」
「そういうことさ。チヒロ、私たちで一気に畳み掛けようか!」
「了解であります!」
ルリが更にページを千切るのに合わせて、チヒロは《ステーショナリー・ストリート》の本体たる六色の機関銃を顕現させる。
「《バタフライ・テキスト》!」「《ステーショナリー・ストリート》!」
二人が叫ぶと同時に、鋏足の蜘蛛女へと弾幕が襲いかかった。
「「いっけぇぇぇぇぇッ!」」
——ドルルルルルル! ブワァァァッッッ!
弾幕が蜘蛛の姿を覆い隠す。たとえそれが敵に放たれたものだと分かっていても、思わず目を伏せてしまうほどの「えげつない」としか言いようのない大乱撃だった。
しかし。
「『悪縁』ヲ……断ち切ル」
シュピン、と黒い光が、弾幕の中で一閃した。直後、弾丸と蝶の雨霰が晴れた先にあったのは——
「なにッ……!?」
「今の攻撃を受けて、無傷でありますか!?」
かすり傷一つ見当たらない、黒鉄の蜘蛛少女の体だった。
「まさか……攻撃が自分に当たるという『悪縁』とした上で、鎖にしたそれらを全て断ち切った、ということか……?」
「そんなのインチキであります! ズルでありますッッ!」
動揺を見せながらも、二人はまた攻撃姿勢を取る。
「《ステーショナリー・ストリート》、再び最大火力で——」
「待てチヒロ! ……敵の様子がおかしい」
もうすぐ弾が撃たれようというところで、ルリがチヒロを制止した。ルリの顔には、わずかだが焦燥の色が見える。
「……ふふフ」
ルリの視線の先、『愛憎』の怪物はこちらを見ずに不気味に笑っている。何かを抱えるように組んだ手の中を、満足げに見つめている。
「……チヒロ。私たちは敵を討つことしか考えていなかった。加えて、私たちが放った弾幕は、私たち自身の視界をも遮るほど激しいものだった。だから私たちは見逃してしまったんだ……彼女の足元に何が、否、『誰』がいるのかを……!」
ルリの全身は強張っていた。後悔と焦燥が、彼女を縛り付けた。
「……ヒナギどの!?」
まもなくしてチヒロは、黒く鋭い指の中に、恐怖に顔を歪めるヒナギの姿を見た。




