EP15:胡蝶と呪言と感染性の不審火
《1》
月曜日。それは学校や会社という、多くの人にとって憂鬱なイベントが始まる無情な日である。
だが稲葉瑠璃が電車の中で全身をガチガチに固め、震えているのは、何もそれだけが理由ではない。
(——殺害予告……それが……私に……)
未だにそれに対して実感が湧き上がってこない。そういう言葉の羅列が、ただただ脳内に存在しているだけのように思えた。
己を《羊飼い》とする謎の人物によって募られた人々、その上に立つ千賀藪蛇という男によって、彼女は命を狙われる身となった。
頭から離れないその「事実」。一体なぜ私なのか、なぜ私まで命を狙われなくてはいけないのか、そう考えようとする頭すらも、今の彼女にはない。漠然とした重圧が、彼女を「そこ」に固定する。
「(……ルリ、大丈夫……なわけないと思うけど、さっきから震えが酷いよ。僕が隣にいる以上は守ってあげるから、今のうちは安心してくれててもいいんだけど)」
隣に立つ人影から、彼女に向かって囁かれる言葉。それは紙魚綴幸、《焚書図書館》に身を置く彼女の親友のものだ。
「(……分かっているさ……それに、私も君とこうして登校できている喜びを噛み締めたいのだが……どうにも体がそれを許してくれないようでね)」
本来、スイコウは彼女と共にはいられない身だ。本来であれば《焚書図書館》の中で、黙々と「作業」に勤しまなければならない身、そういうことらしい——しかし、級友の命の危機が迫っている今回ばかりは、特例的に学校へ通うことが認められていた。
「……」
本当はこんな形で——「守られる側」と「守る側」として隣り合うなんて、ルリは望んでいなかった。ただ「親友」として隣にいられればよかったものが、どうしてこうなってしまったのか。
(——私を守るのは不死鳥の仕事だと思っている。不死鳥がいさえすれば、私が死ぬことは絶対にない、だから恐れずに済む……なのに肝心のあいつときたら……また私の見えないところに……ッ!)
ルリはまたしても行方をくらませたヒロに、最早怒りすら覚えていた。そして当の不死鳥はというと——
《2》
「なぁ……まだ採るのか……?」
——ルリと出会いたての時のように、椅子に縛り付けられていた。
彼は柄にもなく顔を青くし、息も絶え絶えという感じで、お世辞にも「不死鳥」の肩書きが相応しいとは思えない。
ヒロは縛られること自体は別にそこまでの苦でない——これは変な含みがあるわけではなく、単にヒロが肉体的及び精神的苦痛に慣れているというだけである——。ただ、それ以上の苦痛の要因が存在する、ただそれだけの問題である。
ヒロの視線は、彼の前に立つフウリンの手元にあった。
「なんだいその目は。私たちに協力を申し出た以上、限界までその特性を利用させてもらう。それだけの話じゃないか」
彼女はそう言って、紙屑、すなわち少し前まで彼女の《ツインズ》、その名を《ゴシップ・オーシャン》とされていたものを、ポラロイドカメラに覆い隠すように貼り付けたものを持った方と反対の手をヒロに近づける。
「文句を言いたいならぁ、さっさと要求した分を差し出したまえ!」
「無理だ……もう干からびそうなんだよ……」
「それはぁ、君の主観に基づく意見だろう? 君が失ったものは、君の体内で生産される量と比べれば、実に微々たる量なんだよぉ。普通の人間ならとっくにポックリ逝ってるんだからさ〜あ?」
ぷすっ、と細い針が、ヒロの皮膚に突き刺さる。シリンダーが引かれるのに合わせて、人間の体液ではまず見られないであろう、緋色の色彩が透明の筒の中に満たされていく。
——要するに、ヒロは血を採られているのである。
「君の血はあらゆる傷を一瞬で塞ぐ、まさに『奇跡』なんだよ」
「だからって……一体注射器何本分採るつもりなんだよ……あっ……俺を前線に出して……その場で再生させた方が効率いいぞ……?」
「残念だが、それはできないんだよねぇ。かのオウル様直々に、君をここに拘束しておくように言われているんだよぉ。採血はそのオマケだよ、オマケ……おぉっと、喋りすぎてしまったかな」
「……え?」
ヒロは血の回りが悪い頭を無理に回し、その言葉を噛み砕いた。
《3》
突然だが、一気に午後三時過ぎまで、時を飛ばさせてもらう。
「今日が……終わったぁ……」
「ちょ、ルリっ!?」「危ないッ!」
ふらりと芯となるものが抜かれたように倒れるルリ。慌ててその背をヒナギとスイコウが支えた。
「そうだよね……突然殺害予告なんてされて、マトモでいられる人間の方が頭おかしい。当然の結果だよね」
スイコウはそう言って、ルリに肩を貸す。学校も終わり今は下校時間、ちょうど彼ら三人は昇降口を出たところだった。ルリとスイコウは帰宅部なので直帰、ヒナギはこれから空手部があるが、ルリを見送るだけ見送ろうとここまで降りてきている状況だ。
ヒナギは今日のルリの姿を思い出してみる。授業を受けているときはずっと上の空で、クラスメイトに話しかけられるたびに素っ頓狂な声をあげて頭を抱える。その様子を心配してきた先生にさえも恐れをなし、何があったのかとヒソヒソ噂されていた。
はっきり言って、ルリは「惨め」だった。
「……アンタ、随分落ち着いてるのね。親友が殺されるかもしれないっていうのに」
「……僕はもう世界の裏側の人間だから。それに……もしルリが殺されそうになっても、守るための力も持ってるし」
ヒナギの言葉に顔を曇らせながら、スイコウは呟く。
その言葉に反応したのか、冷たい汗で額を湿らせるルリが、スイコウの顔を覗き込んだ。その顔にはいつものような威勢も虚勢もなく、ただ疲れた少女としてのルリの表情があった。
「スイコウ……私眠たいよ……」
「そんな今際の際みたいなセリフ言わないの。ほら、帰るよ……」
弱りきったルリの姿は、正直目も当てられないような酷いものだった。彼女の長所は、どんな窮地に立たされても、あの良くも悪くも個性的な態度を保っていられることだ。だが今回ばかりはそれすらも満足にできていない。
(——アタシ、確かにアンタにはあの話し方やめなさいって言ったわよ。でも、なくなるとこうも寂しくなるものなのね)
ヒナギは拳を握った。
「アタシ……まだ受け止められないわよ」
(——なーに眉間に皺寄せちゃってんの?)
「……ヒナタ、うるさい」
(——酷いわね、せっかくお姉ちゃんが来てあげたのに。……スイコウも言ってたでしょ、今のルリは、ああなっても「仕方ない」のよ。普通に……って言うのはちょっと違うと思うけど、子供っぽく生きてただけなのに、突然喉元にナイフを突きつけられたんだから、ああやって震えが止まらなくなっても……)
「……じゃあ、アンタはルリが殺されそうなことそのものにも、そうやって『仕方ない』って言える? ……多分よ、多分だけど、アンタが思ってることにアタシは怒ってない。アタシが怒ってるのは、どうしてルリが狙われなきゃいけないのかってことなの」
ルリは彼女たちの間で、一番最初に『不殺人鬼』に接触して、友人を《焚書図書館》に引き抜かれて、でも、本当にそれだけで、彼女自身には何も無いはずなのだ。
(——それがハッキリ分かってたら、アンタは納得できるの?)
「……できないわよ。でも、せめて……『黒幕』を叩くとか、そう言うことがしやすくなるかもなって……はッ!?」
ヒナギはそこで、自分が周りから見て、虚空に向かって独り言を呟いているだけのヤバいやつに見えていることに気づいた。
「……ッ、ヒナタのやつぅ……まさか分かってて!?」
外で姉と会話しようとするとこういう風に見えてしまうことは、彼女が《ツインズ》能力者になってからずっと悩まされていることの一つだ。彼女から二メートル、下校の人垣が遠のいている。
(——ごめんヒナギ……ウチ完全に忘れてた……)
「謝んないで! もう取り返せないからッ!」
だがそんな一人芝居をしている彼女に、話しかける者がいた。
「……ヒナギどの?」
「あ゛ァ!? ……って、チヒロじゃないの」
そこには、ルリの友の一人にしてこの世の古今東西の性壁をマスターするあくなき探究者、物部千尋が立っていた。彼女の顔は、いつになく真剣で、でも臆病だった。
「あの……ワガハイと一緒に来てほしい場所があるのでありますが」
《4》
「うぅ……スイコウぅ……」
「大丈夫……僕はここにいるから……」
電車に揺られ、二人はルリの家へと帰る。本来スイコウの家はルリとはむしろ反対方向なのだが、《クロノサイド・オウル》の干渉によって、彼本来の「居場所」は《焚書図書館》へと上書きされてしまった。そのために、《ツインズミラー》さえ持っていればいつでも帰れるようになっている。こうしてヒナギが部活で彼女と帰れない時は、彼が護衛になれるようになっているのだ。
「スイコウ……クラスに馴染んでたね」
「そうだね」
「みんな知らないみたいだった。スイコウが行方不明になってたの」
「……オウル様に色々細工してもらったからね」
「オウル様……ね」
ルリは己の潤沢なボキャブラリーから優れた単語を引き上げることをしないで、ただただ己の純粋な心を、素直な言葉で紡ぐ。それは少し恥ずかしかったが、スイコウにならいいかと、今は体力を極力使わない方を優先した。
「……ルリは、《焚書図書館》について知りたいの?」
「そんなの……当たり前じゃん。全部知りたいに決まってる」
「全部かぁ……じゃあ、特別何が知りたい、とかは?」
「……しいて言うなら、《焚書図書館》に言ってからのスイコウの生活とか……『暗部』での仕事ってどんなのなのかとか」
「……そうだなぁ」
スイコウは色々考えてみる。だがどうにも、人に話せるような内容が出てこない。何せ、スイコウは別に戦闘能力を買われて《焚書図書館》に身を置くようになったのではなく、《レター・フロム・ブラックワールド》に隠された能力のために引き抜かれたのだから。
(——最近はほぼ書類整理しかしてなかったし、話題になりそうなもんが無いなぁ…………ん?)
スイコウはふと、向かいに座っている少女と目があった。そしてその少女は、慌てて目線を手元のスマホに落とした。その動作自体は「あ、気まずかったんだな」程度で済まされるものだったが、その少女は、どことなく怪しげな雰囲気を醸し出していた。
少女の格好は、端的に言えば「ギャル」だ。ウェーブがかった髪は先だけ赤く、他は金色に染め上げられ、目元は煌びやかなラメとボリュームアップしたまつ毛で強く強調されていた。
加えて、制服も大きく気崩されていた。制服の型を見るに、どうやらルリたちが通う《籠目東高校》の生徒ではないらしい。少なくとも籠目東でああいうメイクや髪染めは御法度なので、良くも悪くも自由な校風で有名な《籠目西高校》の生徒だろう。
だがそんなキラキラした風貌に反し、少女は緊迫した雰囲気を纏っている。「緊張」ではなく、「緊迫」だ。気持ちの糸が「張」っているだけではなく、何かに「迫」られていて息が詰まりそうになっているような、より強い苦しさ。ちょうど、隣で疲れ果てているルリが現在進行形で感じているようなものだ。
そしてそれとはまた別に、スイコウの興味を引く要素が、そのギャルの少女にはあった。
(——なんか……匂うな)
少女からは、とある強い匂いが漂っていた。だがそれは香水のような華やかなものではなく、むしろ嗅ぎ慣れていて、人によってはある欲を掻き立てるような匂い……。
だがスイコウが答えを導き出す前に、彼の嗅覚に異物が紛れ込んだことで、その思考は中断されてしまった。
「……スイコウ、なんか、焦げ臭い気がする」
隣のルリが呟いた。
《5》
「オウル様」
アサカゲは仰々しく立ち並ぶ本棚の間からそのローブのシルエットを見つけると、その名を口にした。
天使たちの手によって生み出された殲滅兵器たる、《サイダーズ》の第六座、《クロノサイド・オウル》。人智を超えた力を持つ梟面の男は、とある本棚の前で立ち止まり、そこから一冊の大きな本を引き抜いたところだった。
「ホホッ、アサカゲですか……ワタクシに一体何のようです?」
「……フウリンが不死鳥の採血を行っているようなのですが」
「それがどうしましたか?」
「あれは止めるべきでしょうか」
「何故、そう思ったのです?」
「……依代の少年が、今にも死にそうな顔をしていたものですから」
「なんだ、そんなことですか」
梟面は呆れた様子を見せながら、本を開く。
「あれでもマコトと同じ《サイダーズ》の器、軟弱ではないはずです。加えて、第一座の力があるならば、まず失血で死ぬことはないはずですよ?」
「いえ、そうではなく……というかオウル様、私が話している時くらいは、その調べ物をする手を止めてはいただけないでしょうか」
「ホホホッ……」
アサカゲは物怖じせずにオウルへ物を言う。だが当のオウルはその言葉が響いた様子を見せず、あえてゆっくりとアサカゲの方を向いた。梟の仮面に描かれた、文字通りの「張り付いた笑顔」の奥、光のない瞳がアサカゲを見つめている。
「……この資料が、件の少年の過去を握っているかもしれないとしてもですか、『人の悩みに寄り添う者』、進藤朝景?」
「……と言いますと?」
「これですよ」
オウルは資料のあるページを開き、アサカゲに見せた。
「数ヶ月前に、籠目市内の一軒家で起こった惨殺事件。この事件では、そこに住んでいた一家の母親が、もはや見ただけでは人間と分からない姿で発見されています。そして、彼女の二人の息子が、同日から行方不明になっているんですよ」
オウルはそこに載った、兄弟の名前をトントンと叩いた。
「……その二人のどちらかが、『日暮飛路』だということですか」
「ホホッ! やはりあなたは頭が切れますねぇ、アサカゲ。……ですが、そうすると新しく湧いてくる謎がありましてねぇ」
「……その事件記録が何故ここにあるのか。つまりは、何故この事件の記録が表の世界から抹消されているのか、ということですね」
《6》
どうやらその焦げ臭さを感じていたのは二人だけではなかったらしく、たちまち大きくなった騒ぎによって、二人の乗っていた電車は道半ばで止められてしまった。
「まさかとは思うが……ね」
ルリはスイコウの背に隠れるようにして、止まった電車を見つめている。そこでは駆けつけた駅員や警察が、乗客の誘導や電車のメンテナンス、そして乗客の荷物に発火物がないかどうか、一人一人に向けて確認を行っている。
ルリとスイコウも当然検査を受け、「問題なし」と判断された。実際には警察の調べられないところに武器を隠し持っているのだが、わざわざそれを言うほど二人は馬鹿ではない。
「大丈夫、ルリのことは僕が守るから」
「そう言ってもらえると頼もしいよ……私も、いつもの調子を取り戻さなければね」
「そうだね。ルリが普通に喋ってるとこっちまで落ち着かなくなる……もん……ん?」
緊張感とピリつきに包まれる現場だったが、スイコウはその様子を眺めているうちに、さっき目の前に座っていたギャルファッションの少女が、警察に目くじらを立てられていることに気づいた。
「どうしたんだスイコウ。あの女になにか引っ掛かるところでもあるのかい?」
「いや……さっきあの人から嗅いだことある匂いがさ……」
「匂い……?」
ルリも興味を持ったのか、しばらくその少女のことを眺めていた。どうにも荷物の中身を調べたい警察に対し、少女が「見せたくない」の一点張りで反抗し続けているようだ。その態度は明らかに怪しい。
「だ・か・らァァァ! あーしは別に変なモンは持ってねぇっつってんだろ! ずぅーっと言ってんのにまだ分かんねぇの!?」
「それは調べてみないとわからないと言っているんだ! 君はただでさえ怪しい格好なんだ、調べない限り君の疑いは晴れないぞ!」
「はァ!? 今時ギャルファッションも受け入れられないとか、おっさん時代遅れすぎんだろ……てか、今服装は関係ねぇだろーが!」
売り言葉に買い言葉とまではいかないが、双方退くつもりは全くないらしい。語気はどんどん強くなり、本筋に関係のない罵倒語も次々飛び出していく。
そんな醜いとしか言いようのない争いに終止符を打ったのは、警察官の方だった。
「はぁ……仕方がない、君には公務執行妨害の疑いで、署まで来てもらうことにしよう」
「は? ふざけんな、あーしはむしろ被害者だろ……」
「これ以上罪を増やしたくないなら、その口を閉じなさい」
「……ッ!」
警察官が手錠を取り出そうと腰に手をやったその時。
「あはは、もうなんでもいーや、どーせこれから人殺すつもりだったし……罪が増えたところで……逃げりゃいーだけじゃん……!」
少女が突然、バッ! と飛び出して警察官の顔に手のひらを押し付け、そのまま地面に押し倒した。
「むぐっ!?」
「《パンデミック・フレイム》!」
少女がそう言った直後、少女の手のひらから、何やら黄色い煙のようなものが噴き出す。それをもろに顔面に浴びた警察官は、もがき、少女を突き飛ばし、さらに尻を引きずりながら距離をとった。
「ごほっごほっ……き、君、今一体何を」
「邪魔だから燃えてくんねーかなって思っただけなんだけど」
「……燃え……て?」
「そ。燃えて」
直後。
——ボウッ!
警察官の体が、一瞬にして火だるまになった。
「ぎゃあアアアアアアアア!?」
「あっははははは! スゲェ燃えんじゃん! おっさん制服で誤魔化してるだけで、けっこーデブだったんだねー!」
絞り出すように甲高い笑い声を発する少女。
スイコウはその姿を見て、電車内で向かい合った時の、あの落ち着きない態度の理由を理解した。
(——あいつが……あいつがルリを……!)
スイコウの足は、プランを練る前に走り出していた。
「待っ、スイコウ!?」
目の前の光景を受け止め切れないルリは、彼の背中に手を伸ばす。だがそれは空を切り、彼女は取り残されてしまった。
「《レター・フロム・ブラックワールド》!」
スイコウは即座に己の《ツインズ》能力を繰り出す。混じりっ気のない漆黒のインクが、彼の真っ直ぐ突き出した手の指先から、螺旋を描きながら飛び出した。そのインクはその直線軌道のまま——燃え盛る男性に直撃した。
「!?」
てっきり少女を攻撃するために飛び出したものだと思っていたルリは、その行動に驚きを隠せなかった。あのインクはあらゆるものを呑み込み、我が物とする。それは当然人体にも有効で、過去にヒロが対峙した時には、切断された腕を乗っ取られた。つまりあれに被弾すれば死を覚悟するものなのだが——。
「ペンパル、炎『だけ』を呑み込め!」
スイコウが叫ぶと、インクは警察官に着弾する直前に、拡散してその姿を包み込んだ。そしてしばらく漆黒の球体の姿を保った後、スイコウの元へまた螺旋を描いて戻っていく。中から現れた男性の姿は、衣服の損傷や火傷こそあれど、まだ自力で歩けそうに見えた。
戻ってくるインクの螺旋に対して、スイコウは空のメモ用紙を翳した。インクはそこへ吸い込まれるように姿を消し、白かったメモには引っ掻いたような字体で「炎」の一字が刻まれていた。
人々が立ち昇る炎をメモの中に収め、スイコウはそれを懐にしまいつつ、少女と警察官の間に割って入る。そのわずかな間にスイコウは「逃げてください」と警察官に囁く。その言葉に従ってよろよろと走り去る警察官の様子を見た他の人々は、彼に続けてその場を走り去った。
「……あーしの火が……消された……?」
「ねぇ、君」
スイコウはじりじりと、呆然と立ち尽くす少女に詰め寄る。それと同時に、彼の右の手からインクが溢れ出し、それが一本の槍を形成した。漆黒の柄と金色の穂先を持ち、全体が万年筆を模したような、珍妙な姿の槍。
「その《ツインズ》を使って……一体何をしようとしていたのかな」
《7》
スイコウは《焚書図書館》に身を置くようになってから、ある一つのことを学んだ。それは、《ツインズ》能力者同士の戦闘において重要なのは、相手と自分の能力の「相性」ということだ。
「あっつ……ああっ、もう!」
スイコウは自分の肩口から噴き出す炎に直に触れ、「炎」という文字に変換した。だがそれを収めておく空のメモはもう残っておらず、彼の服の下には、そのまま「炎」という文字が残ってしまった。
それと同様に、彼の体には無数の「炎」や「傷」、そのほかにも彼に襲いかかった攻撃の激しさを示す文字列が刻まれていた。
ルリから放火魔ギャルを遠ざけるために武器を手に取ったスイコウは、戦闘を続けながら線路内から離れ、この廃屋まで誘導することに成功していた。だが、戦況は良いとは言えない。
はっきり言うと、スイコウの《レター・フロム・ブラックワールド》と、少女の《ツインズ》、その名を《パンデミック・フレイム》と言うそれとの相性は、悪い。
より正確には、《レター・フロム・ブラックワールド》そのものではなく、スイコウの戦闘スタイルと《パンデミック・フレイム》の相性が悪いと言うことができる。
《レター・フロム・ブラックワールド》の「物体・事象を漢字一文字に変換し、漢字一文字をそれが表す物体・事象に変換する」という能力。スイコウはそれを最大限活かすために、いつもは漢字を記したメモを持ち歩き、それをばら撒く形で能力を使用する。
メモに書かれている文字の多くは、「剣」や「槍」といった殺傷力の高い武器や、「爆」や「燃」、あるいは「溶」のような傷を負わざるを得ない事象を表す漢字である。それらが宙を舞うメモ用紙から突如として現れ降り注ぐ、そんな地獄絵図がスイコウの「必殺技」。絨毯爆撃によって、文字通り相手を「必」ず「殺」す「技」である。
しかしその手はもう使えない。なぜならば、《パンデミック・フレイム》によって、莫大な量のメモが焼き払われてしまったからだ。
頼り甲斐のある攻撃の手段をすぐに失ってしまったスイコウは、いつもの用意周到な戦闘から最もかけ離れた、アドリブ力の求められる戦闘の中に身を置いていた。
(——どうする僕、総画数が二の「刀」くらいなら、ギリギリ地面に書いて実体化できるかもしれない……でもいつもみたいに降らせられないとなると、槍と刀のダブル持ちか……無理な芸当だな)
そうやって考える間も、《パンデミック・フレイム》を実体化させ鉤爪状の武器として振るう、このギャルの猛攻は止まらない。見かけによらず、彼女は猿のように俊敏に躍動する。その立ち回りは、今日のために仕上げてきたものだろう。
こちらが彼女に追い詰められているのか、それとも彼女がこちらを誘導しているのか。どちらにせよ、彼女の手玉に取られているという実感は、確かにスイコウの中に存在していた。
「あっれ〜? お前案外大したことないね! このまま君も倒して、稲葉瑠璃も殺……いや、戦闘になるんだったら『倒す』か……と・に・か・く! 特別報酬を受け取るのはあーしなんだから!」
「人を殺してまでお金が欲しいっていうの? ハハッ、派手好きは見た目だけじゃないんだね、吐き気がするよ」
「ムキーっ! 覚えておけよ文字やろー、お前をボッコボコにして、あーしを侮辱したこと、おでこがなくなるまで謝らせてやる!」
「謝るのは君の方になると思うけど——ねッ!」
スイコウは槍で鉤爪を捌く。武器のリーチ的にはスイコウに軍配が上がるが、能力の有効範囲は《パンデミック・フレイム》の方が圧倒的に広い。
その理由が——
「ほら、もっかい燃えろ!」
ボフン! という音と共に、少女の手のひらから黄色い粉塵が巻き上がる。それは風に溶けるようにして見えなくなってしまったが、確実に彼女の周囲に存在していた。ああなってしまえば、スイコウはたちまち遠距離攻撃の手段を考えなければならなくなる。
(——あの粉、人間の体を燃やす能力で間違いない……僕は何度も喰らったから、流石にもうわかる)
健常な空気を蝕んで空間をトラップ化する黄色い粉塵を見ながら、スイコウは手の甲にある「炎」の文字をさすった。
スイコウの知らない情報も交えて解説すると、《パンデミック・フレイム》の能力とは、「生物の体脂肪を用いて燃焼現象を引き起こすウィルスを生成、散布する」というものである。それは、今も裏の市場で取引されている意思のない《ツインズ》の一種、《ジャンキー・ナイト》の「油分を使役する」能力の発展系と言える。
彼女が時折空気中にばら撒く黄色の粉塵。あれこそが、《パンデミック・フレイム》の能力の根幹を成す「ウィルス」である。あのウィルスは人間、それに限らず様々な生命体の体内に、器官や粘膜から何らかの方法によって侵入する。直後、その体脂肪を食い漁り熱エネルギーを発生させ、寄生主となった生物を火だるまにするのだ。
脂肪を源にする特性のために、太っている人間ほどよく燃え、逆にガリはあまり盛んな炎を生み出せない。だがそれに関係なく、「全身が焼け爛れる痛み」に耐えられる人間はそういないだろう。
射程は大気の流れによっては無限、致死性は高いとは言い難いが、苦痛を与えるという意味では十分すぎる。それはまさに、「感染を広げる炎」=《パンデミック・フレイム》の名に相応しい能力である。
スイコウは炎を文字にすることでかろうじて喰らい付いていたが、そろそろ体に「炎」を刻み込む余裕がなくなってくるだろう。「耳なし芳一」という有名な話があるが、今のスイコウはその言葉で表すことのできるような、全身に呪言を刻んだ不気味な姿となっていた。
(——《鏡装》は昨日無駄撃ちした分、簡単には使えない……受けたダメージを分散して黒塗りになるのを防ぎつつ、相手にダメージを与える方法……残酷だけどあれを使うしか……あっ)
彼は嗅覚に異変を覚えた。あの電車の中で嗅いだ、嗅ぎ慣れていて、欲をそそる香り。スイコウはそれが敵の少女から発されていて、なおかつ何を由来としているかを理解していた。
「そこだッ!」
それは、ジャンクフード、具体的に言えばハンバーガーやフライドポテトから発せられる、脂の匂いである。匂いがする方を頼りに、スイコウはそちら側の床に片手を置き、念を送った。すると彼の皮膚から「炎」や「傷」という字が抜け、床を這うようにして柱の裏へと直進していく。
「君が能力を維持するためには、そうやってカロリーの高いものを摂り続ける必要があるみたいだね。警察に荷物の中身を頑なに見せなかったのも、中身のジャンクフードを見られたくなかったから。その理由が羞恥心なのか、能力のタネを見られるのを警戒したからなのかはわからないけど……でも」
スイコウは、文字のない手の甲を眺める。
「食事を含む『休息』の時間は、戦場では『隙』なんだよ」
柱の裏へ、ゾワッ! と文字が集中する。ドス黒い引っ掻き跡の群体が、少女に襲いかかったのだ。その様相はまるで、鼠の死骸に群がる飢えた蟻のようであった。
「むっ!?」
まだ口に物が入っているのだろう。くぐもった悲鳴のようなものが、スイコウの耳に届いた。どうやら、着弾したようだ。
「《レター・フロム・ブラックワールド》、僕の半身ペンパル。今こそ、文字が有する『意味』を、現実へと解き放つんだ」
次の瞬間、
——ゴアァァァァァッ!
本来スイコウが受けるべきだった傷、炎。その全てが、何にも染まることを許されない色、即ち黒色を伴って、少女へと襲いかかった。
「ゴホッ、がっ、あっ、あ、あああああああああああああッ!?」
口に含んだものを吐き出す音、その後に響く絶叫。噴き上がる血と炎は「生命」のイメージからかけ離れた黒色だった。
《8》
(——死にましたか……ね)
「あれで死んでない方がおかしいよ」
脳内から囁く半身の言葉に声を出して返事しながら、スイコウは柱の裏の少女の姿をその瞳に捉えた。
(——……我ながら、凄惨な出来栄えですね)
少女は表皮を完全に炎に包まれていたのだろう、全身の皮が捲れ上がり爛れていて、赤黒い肉が見えていた。「傷」という文字に込められていた、《パンデミック・フレイム》の鉤爪による裂傷も移し替えられ、生々しく刻み込まれていた。
「——本当に悪いのは、この『バイト』を募集をかけた《羊飼い》だ。でも、この世界の秩序を乱すからには、手加減はできない」
そう言って、スイコウは懐から小さな瓶を取り出す。その中身は緋色の液体で満たされていて、側面のラベルには「不死鳥の血」と書かれている。
「二、三滴でよかったんだよね……」
スイコウはその中身を慎重に、少女の骸に垂らした。次の瞬間、その血から緋色の炎が立ち上り、一瞬にして少女の体を包み込み、さらに爆散する。炎の中からは、眠る無傷の少女が現れた。
もはや説明する必要もないかもしれないが、瓶に収められているのは、フウリンがヒロから採血した、不死の力の断片だ。これさえあれば、ターゲットを「生きたまま拘束する」ハードルが大きく下がると言われ、彼女に持たされた。仮にうっかり出力を間違えたとしても、生き返らせれば再び尋問できるのだから。
(——相変わらず、あの人は倫理ガン無視だよね……さてと)
次にスイコウは、彼女のリュックから漂う脂質の匂いとジャンクフードの山を掻き分け、彼女の財布を取り出す。しかし目当てのものは金ではなく、彼女の身分を証明する何かしらのものだ。
少女が目を覚ますまでの十数分の間に、スイコウはこの少女の身元を調べ、トウジに教えなければいけない。そうして《羊飼い》の正体に近づくための手がかりを得るのだ。
「うっわ」
財布の中身を開くや否や、スイコウは小さく悲鳴を上げた。本来紙幣が入るべきスペースには、何度も折り返された膨大な長さのレシートがみっちりと詰まっており、開いた瞬間にそれが弾けたのだ。
内訳を見てみればそれはどれも飲食店のもので、店のメニューを全て一つずつ頼んだのではないかと思わせるほどの量の注文が所狭しと並んでいた。もちろん金額もバカにならないわけなのだが、レシートの量に反し、紙幣は一枚も見当たらなかった。
その紙束の奥底から掘り起こすようにして、彼は少女の生徒手帳を見つけた。写真の少女は、今の眩しいギャルファッションではなく、大人しめな黒髪かつすっぴんで、印象が全く違った。
「幕内鳴海……やっぱり西高の生徒だ」
生徒の個性を伸ばし、多様な将来の可能性を切り開く。そんな高風を掲げるその裏、都内では稀に見る治安の悪さが近隣から問題視されている、《籠目西高校》。
「……まさか、他の生徒も?」
過去に籠目市内で取り締まった《ツインズ》能力者の中に、西高の生徒が多くいたことを、スイコウはふと思い出した。
《9》
一方その頃、スイコウの手によって現場から逃がされたルリは、一心不乱に住宅街の中を走っていた。空は茜色に染まり、カラスが騒ぎ始める時間の中、息を切らす彼女の姿はやや異質だった。
「はぁ……はぁ……スイコウのやつ、一体どこまで私を走らせるつもりなんだ……そもそも、どうしてまっすぐ家に帰さないんだ……」
ルリはスイコウに言われた場所に向かって走っていた。その住所はルリの家の方ではなく、むしろ遠ざかる方向を示している。
「そろそろ着く頃のはずだが……周りには一般宅しかないぞ?」
確かに、ここまでの道のりは追っ手を撒くのには最適だったと思う。この住宅街のような、情景が変わらない上に入り組んだ場所なら、方向感覚を狂わせ、追跡を逃れることができるかもしれない。
しかし、逃れたところで匿ってくれる当てが無いようでは、わざわざ逃げてきた苦労も、無駄になってしまうのではないだろうか。
(——今日は外泊しろとでも言うのか?《焚書図書館》め、それならばいいホテルに泊まって、後でたっぷり請求してやる……ん?)
ルリの足が、視界にその姿を捉えたと同時に止まった。それは驚きによるものであり、安心によるものでもある。予想外の友人の登場に、動揺を隠せなかったのだ。
「ルリどのーっ!」
大きく手を振る、ルリと同じ制服姿の少女。その隣には、腕を組んで不服そうにしつつも、安心した雰囲気を隠しきれない、茶色の長髪を靡かせる少女の姿が。
「チヒロにヒナギ……どうして君たちがここに!?」
ルリは問う。するとチヒロはふふんと得意げに鼻を鳴らした。
「スイコウどのから話を聞いて、助けに来たのでありますよ! ルリどのの友人の一人として、そして——」
胸を叩き、チヒロは放つ。衝撃的な、告白を。
「——悪しき《ツインズ》能力者から民衆を守る、《焚書図書館リコール》の一員としての、責務を果たすために!」
ハッピーセットのおもちゃって、小さい頃はハンバーガーよりも輝いて見えますよね。本来は「おまけ」であるおもちゃの方が、メインであるはずのバーガーより価値がある……それは「おまけ」のあるべき形なのかと考えてしまう今日この頃を過ごす、クロレキシストです。
今回はスイコウくんがメインの回になりました。《レター・フロム・ブラックワールド》のような応用の効く能力は、バトルを考えるのが他よりも楽しかったりします。その割を食らって悲惨な目に遭っている主人公もいたりしますがね……。今回はそこまで濃い内容ではありませんでしたが、ルリの珍しい姿も書けたので、作者的には割と満足なものになりました。それが皆さんのお眼鏡に叶うといいのですが。
話は変わり……私、三月までは毎週投稿なんて大層なことを言っていましたが、実は別件で二作ほど書き上げなければいけないことに後から気づき、現在めちゃめちゃ焦っています。幸いあと三話はストックが残っているので、三週間以内でその二作を書き上げられるよう頑張りたいと思います。そんな私を応援してくださるという方がいらっしゃいましたら、是非いいねやコメントの方をよろしくお願いします。
本日はこのあたりでサヨナラといたしましょう。例年よりも花粉が飛び始めたそうなので、皆様何卒お気をつけてください。また、十六話の後書きでお会いしましょう。