EP12:スープと郷愁と帰りたい場所
《1》
ヒロは混乱していた。さっきまで意識空間で激痛と激辛に苛まれていたのに、今は《冥界》だかなんだか知らないが、いつも踏みしめている大地とはまた別のどこかの一角、役所のような場所を出たところだった。
一応、自分が知らない間に自分に何が起きていたかは、ルリの友達らしいヒッテという少年に教えてもらったのだが、それを聞いてもなお、混乱は晴れなかった。
「俺がフェニックスに乗っ取られて、メアさんとヒッテくんが乗っ取られてた俺と戦って、メアさんの《ツインズ》に幻覚を見せられたフェニックスが、意味深なことを言いながら爆散した……?」
「ヒッテが何度もそう言ってただろ。バカか」
「バカで悪かったですね……でも仕方がないじゃないですか」
相当苛立っている様子のメアだが、その理由が自分の《ツインズ》にあることを知っているヒロからすれば、あまり二人だけにはしてほしくない相手ではある。
だが少し離れた場所で、何やらスマートフォンのようなゴテゴテしたアイテムを難しい顔で弄っているヒッテを邪魔するわけにはいかないので、仕方なくこの悪魔の相手をする他なかった。
結論から言うと、日暮飛路、もとい《スーサイド・フェニックス》を《冥界》のどこかに封印するという計画は、ヒッテの《ツインズ》である《マックスエンド・スパイス》として存在している悪魔、スコーヴィルの要求によって凍結されることになった。
スコーヴィルはかつて行われた《冥界》と《天界》の戦争において大きな働きをした上、その後の《冥界》の文化にも大きな影響を与えた功労者。太古の偉人を前に《冥界》の上層部が慌てる姿は見ものだったとメアは語る。
だがそのメアへの、《サイダーズ》を逃したことへの責任追及は避けられず、彼女は《基礎世界》の監視の役割を外され、左遷されることとなった。その再配属先は——「《サイダーズ》第一座監視」。
七人の《サイダーズ》の中で唯一組織を持たず、何十年間も行方知れずだった、第一座。実力は不明、どのような思想を持っているかも分からないそれを、たとえ計画が実行不可になったとしても野放しにしておくわけにはいかない。
そこでスコーヴィルは、責任を負うべきメアを監視に回し、その行動を毎日《冥界》に報告させることで不死鳥の行動を制限することを提案した。仮に不死鳥が暴走し、《基礎世界》の民間人に危害を加えるような事態に発展した場合は計画を再始動し、《スーサイド・フェニックス》を《冥界》の最深部に封印することで同意した。
(——そうだよな、フェニックスは「兵器」だもんな……)
今まで取るに足らないような街角の争いだったものが、異界をも巻き込もうとしている。自身を中心に争いの渦が広がっていることに、ヒロは僅かに恐怖した。同時に、最初に自分の身を世界の陰に投げ出した、記憶を失いたての自分が憎くなるようだった。
「なあヒッテまだ終わらないのー!?」
そんな少年の悩みなどどこ吹く風という面で、メアはデバイスをいじるヒッテへと叫ぶ。これだけ切り取るとメアが無遠慮に見えるが決してそうではなく、ヒッテは実際に二人を待たせてしまっている。どれくらいかというと、もし《基礎世界》でヒッテが同じ時間二人を待たせた場合、太陽光が十五度ほど傾きを変えているくらいの時間だ。
実はヒロも待ちくたびれているのだが、自責の念と助けてもらった恩義、もとい申し訳なさのせいでそれを言い出せなかった。なのでこの時ばかりは、メアへと小さく、ほんの分からない程度頭を下げざるを得なかった。
「なあヒッテー!」
「うっさいなぁ、僕だって僕なりに頑張ってるんだよ!」
「じゃーどうして一時間以上も待たせてんだテメェ!」
「設定が難しいんだよ!《冥界》に向かうだけだったら転移先固定だから問題ないんだけど、帰りは細かい住所指定しないといけないから面倒臭いの!」
「てかそもそもテメェは何してんだよ!」
「帰りのゲート開こうとしてんだよ!」
ヒッテは手に持っていたものをメアへ向けた。少し大きめのスマートフォン、というような容貌だった。だがもちろん、それだけで説明を終わらせていい代物ではないだろう。一般的なスマートフォンに比べ、モノトーン調で纏められたそのボディは少々分厚く、「板」というよりかは「薄めの箱」と言うのが正しいくらいだ。
画面は棺のような縦長の六角形、それを囲うように八本の棘のような装飾が施されている。画面には二つのテキストボックスが表示されており、上側には《冥界》、下側は《基礎世界》の文字と、詳細な住所を記入しろと言うような空白が設けられていた。
画面の下の、旧型のスマホならホームボタンがあるべき場所には、トリガー付きのリングがついている。形状から考えて、あの引き金を引きながらリングを下にスライドすると、引き出しのように画面の下あたりが開くのだろう。反対側、画面の上には何やら四角いボタンがついており、用途は不明だが、どことなく触るのはあまり望ましくないような感じがした。
「何だよそれ……!?」
メアは信じられない物を見たというような顔をしていた。
「僕にもよく分かんないけど、マスターが遠出する前に僕にくれたんだよ。後々、『違う世界でも通話できること』と『簡易的な世界観移動ができるゲートが作れること』が分かったんだけど……」
「バカヤロー、それアタシら悪魔が使ってるような異位相世界間通信機の最新モデルだよ!」
「いいそう……なんて?」
「『異位相世界間通信機』!」
メアはヒッテとの距離を一気に詰めるとその手から通信機を奪い取り、目から星が溢れ落ちそうなワクワク顔でそのデバイスをベタベタと触る。
「スゲェ! 見た目通りちょっと重いけど、フレームの手触りはひんやりしてて気持ちいいし、見た目かっこいいし、しかもタッチパネル搭載!? しかもしかも、違う世界に行けるゲートまでついてるなんて……なんで《冥界》はコイツを量産しねぇんだ!?」
「ちょっ、メア姉ちゃん!? それ大事なやつだからあんま触んないで! 住所の入力とかまだ全然終わってないし、このままじゃ《基礎世界》帰れなくなっちゃうからッ!」
「住所の入力ぅ? ……これをこうして、こう?」
メアは少し寸詰まりなテンキーをパチパチと弾いて、難なく住所を入力する。入力を終えて次のページに進むと、その住所のストリートビューが表示されていた。
「ここでいいか?」
「ここって籠目駅の近くじゃ……なんで!?」
ふふん、と得意げにメアは鼻を鳴らす。ヒロの目には、年上かつ身長も高い彼女が、その時だけ優越に浸る子供のように見えた。
「アタシら《基礎世界》偵察の悪魔はな、自分の担当区域のほとんどの情景を把握してるんだよ。しかもネット上に投稿された《ツインズ》能力者の情報から一瞬で場所を割り出せるように、そっから住所を求められるように特訓されてんだよ!」
「すっ、スゲェ記憶力……普通に尊敬できるよメア姉ちゃん」
「だろー!」
「いつもと違って」
「テメェはいつも通り一言余計だなッ!」
メアは通信機と逆の手でヒッテのケツをしばいた。ヒロはそれを遠巻きに——蚊帳の外から眺めていたが、「微笑ましい」という感想と「邪魔しちゃいけないな」という理解が同時に脳に生じた。
「で、これで決定でいい?」
「うん。ねぇ、ゲートの出し方は分かる?」
「ご丁寧に画面がアナウンスしてくれてるから何とか……こうか?」
メアは腕を前に突き出し、「この通信機が目に入らぬか!」的な感じに、通信機を画面が外側を向いた状態で構える。そして本体の上に付けられたあのボタンを押し込んだ。
——バリン!
不安になる音と共に、画面が強い光を放った。白と黒のマーブルで不気味ながらも芸術的に彩られた、画面と同じ形の「ゲート」、それが勢いよく画面から飛び出したのだ。
「……えっこれ画面割れてないよね?」
「不安になるのは分かるけど割れてないよ。なんでも世界を繋ぐ儀式……本来なら合わせ鏡を使うやつを、内部で簡易的に再現して、さらにその状態を維持したまま展開できるようになってるって、説明書に書いてあった気がする」
「説明書同封……ってことはやっぱ新品確定じゃぁん……」
「そんなに羨ましいの? ……まあいいや。ヒロくーん」
「あッ」
二人だけの世界だったものに急に引き込まれて、ヒロは素っ頓狂な声をあげてしまった。思わず口を押さえ、きまり悪そうに二人の姿を見る。
「ほら、ルリのとこ行くよ」
「わ……分かった」
ヒロは二人の背中を追って、少し不気味なゲートに入る。入った瞬間、彼の体は強い浮遊感に包まれた。いや、浮遊感というのは適切ではないかもしれない。確かにフワフワとした感覚は覚えるが、「浮遊」なんてお気楽でメルヘンなイメージではなく、むしろ急激に落下するような、内臓が決まった場所に留まらないような不安定さを覚える、そんな感覚。
そう思った次の瞬間には、真逆の圧迫感、全身が上から押さえつけられるような、上りのエレベーターのような重力を感じた。肌に触れる風も何もない中で乱高下を繰り返し感じさせられる。胃の中から何かが迫り上がって来かけたが、それが最悪の状態に陥る前に、突如として視界が開けた。
(——着いたのかな)
パチ、と瞼を上げる。薄暗い路地裏、上を見上げてみれば、こちらのことなどどこ吹く風というような、白々しいほどに澄み切った青空が見えた。
「……てかさ」
その声の方を向くと、メアとヒッテが並んで立っていた。どうやらゲートをくぐる際には時間がおかしくなるらしく、自分よりも先にゲートに入った二人は、すでにゲートで世界を渡った実感を噛み締め終わり、ヒロのことを待つ時間を雑談に費やしていた。
「こんなスゲェモンをタダでたかがバイトに渡して、しかも店任すって、あのマスターは結局何モンなんだよ」
「僕だって分からないよ。マスターはマスターだからさ」
《2》
「ぐへぁ——ッ!?」
ヒロがルリと再会して放った第一声がそれだった。
「……『不殺人鬼』が町から姿を消した……それが大衆に流布するくらいの時間、君は行方不明だった」
正確に言うと、ヒロは意図してその怪奇な音を放ったわけではない。ヒッテが先に店に入り、その後にヒロを店に招き入れた直後にそれは起こった。ヒロがドアを開き、ルリの姿を視界に捉えた直後、ヒロの体は店外へ投げ出されて、尻餅をついていた。そして鳩尾の辺りに、そこまで強いわけではないが、体の芯まで響く痛みを感じる——ルリが、ヒロの胸を殴っていたのだ。
「それが何を意味するか……それは至極単純で、それだけの時間君を待った人間が、当然存在したということだ。それは『正義の執行者』の帰還を待っている人がいたということでもあるし、『敵討ちの対象』の帰還を待っている人がいたということでもあるし、何よりも、ゆうじ——いや、『観察対象』の帰還を待っている人がいたということでもあるんだよ」
その口調は、いつも通り演説をするかのように尊大であった。しかしその中に覚えのない感情を感じることができた。色で言えば瑠璃より深い青、だが明暗で言えば明、解き放たれた何かが一気に押し寄せて、それを抑えきれなかった結果生み出されたものが、あの拳なのだろうという、そんな確証が得られるような感情。
「さあさあ私の大切な題材、『不殺人鬼』クン、何か言うことは?」
「……」
ヒロはその言葉は必要なものだと理解している。だがどうにも、それがスムーズに出てこない。地の底へと連れ去られる前には理解できなかった、ルリが、ヒナギが、アクトが抱いていたあの感情。多分、今ヒロが抱えているのは、ヒナギのものに近いのだろう。
腰を上げて、店のドアのところに立つルリに近づく。少しだけ顔を赤らめながら、でもはっきりと、その言葉を発する。
「……心配かけて、悪かった……ごめん」
ルリはその言葉……というよりも、その言葉を発する過程においてヒロが見せたその表情に対し、まるで天地がひっくり返る様を見たかのような驚きを見せた。
「……あ、ああ。構わないさ」
その言葉はぎこちない。いつもの語調が崩れかけているような感じ、と言えば伝わるだろう。それほどまでに、彼女は動揺していた。
「君、この短期間——まあ私に、私たちにとっては決して短い時間じゃなかったわけだが——の間に、随分と人間らしくなったようだね。一体何があったのか、詳しく聞かせて欲しいものだ」
「……? 俺は別に、いつも通りだと思うけど……」
「ほら、そういう表情だったりの話をしているんだよ! 前みたいな不安定さや冷たさが感じられない顔だ……興味深い」
「そ、そうか……な……」
彼女の言っていることの意味は、ヒロには分からなかった。だがルリの嬉しげな表情を見ていると、こちらまでなんだか暖かくなってくるような気がした。
そんなことを考えていると、残りの二つの声が店の中から聞こえてくる。一つは、パワフルな女の子のもの。もう一つは、落ち着きのある少年のものだ。
「ルリ、何抜け駆けしてんのよっ!」
「ヒナギ落ち着け。……だが、そうやって外で立たせるのも良くないだろう。早く入ってくるといいさ」
ヒロはルリに背中を押され、《烏丸珈琲店》の店内へと足を踏み入れる。どことなくノスタルジアを抱かせるセピア調の世界観に包まれた店内は、落ち着く雰囲気を持っていた。ここに来るの初めてのヒロにも、幼い頃か、はたまた前世か、遠い昔にここを訪れたような錯覚を与えるような場所だった。
そしてその植え付けられた懐かしさの中に、正しい意味での懐かしさを覚える二人が座っていた。
自らの双子の姉妹を異能力としてその身に宿す、文字通りの《ツインズ》能力者、伊織日凪。
かつての栄光も汚名も背負い、牙が如き双剣を振るう元・都市伝説『夜盗』、黒崎亜玖斗。
「久しぶり……もう会えないと思ってたんだよッ!?」
「不吉なことを言うな……まあ……可能性としては有り得たわけだが……無事に戻ってきてくれて何よりだ、ヒロ」
二人はヒロを迎え入れている。もちろん、ヒロを店内へ招き入れたルリもだ。そしてここまで案内してきてくれたヒッテも、店の入り口をくぐり、ヒロの背中を見ている。
ヒロもそれに応えるべく、その口を開いて、四文字の言葉を言おうと口を開いた。
「みんな……ただい……っ」
——だが、自らの口がそれを許さなかった。その言葉を言おうとしたところで、まるで喉に栓をされたように、肺から空気が上がってこなくなったのだ。彼の頭には、とある記憶が蘇ってきていた。
(——俺はルリを殺した)
顔面に剣が刺さったルリの姿。
(——ヒナギとアクトの運命を捻じ曲げた)
漆黒の棘で息絶えた二人に、自らの生命力を注ぎ込んだこと。
(——それだけじゃない、何人もの人間を狂わせてきた)
道を踏み外していて、《ツインズ》を持っていたとはいえ、多くの人間の四肢をもいで、首を切り落として、肉塊にしてきた。その上それを蘇らせて、本来は知らなくて済んだ「死の恐怖」を、鮮明に脳裏に焼き付けてきた、『不殺人鬼』としての自分の記憶。
(——俺は『不殺人鬼』だ、人間じゃない……そんなやつに、帰る場所が与えられるなんて、許されないかもしれない)
それは『不殺人鬼』を続けていれば、《スーサイド・フェニックス》の下僕として生き続けていれば、ルリに出会わなければ感じる必要のなかった感情。
それが「道徳」なのか「倫理」なのか「常識」なのかは分からないが、フェニックスならば、それを「障害」と称したであろうもの。
より抽象的で易しい言葉に置き換えるなら、「人間らしさ」——あるいは「優しさ」とでも言うべきものだろうか。
「……ヒロ、一体どうしたんだい?」
ルリは訝しんだ。先ほどまで再会の喜びを噛み締めていたヒロが、みるみるうちに、あの無感情で自嘲的な『不殺人鬼』の顔に戻っていく。すなわち、自らに生じた「心」を、押し殺している。
「……なんでもない」
沈黙の果てにヒロの口から出たのは、とても幼稚な言葉だった。
《3》
それを見たルリは、思わず笑った。
「……私は、君がなんて言って欲しいのか分かったよ。それに、私が君に執着する理由もね」
彼女はヒロの手を握った。
「今の君はどことなく、モルフォに出会う前の私に似ているみたいだ。……昔の私は、周りに馴染めなくてね。どこに行っても異質で異端で、そのうち、私は人間ではないんじゃないかと思うようになっていった。そして自分を必要以上に責めた。『お前がこの世界に馴染めないのは、お前がこの世界の人間じゃないからだ』ってね。だから私は、あるべき場所に還ろうとした。そんな時に、私の中のモルフォが目を覚ましたんだ」
ルリの意識が飛び、そして彼女の半身が、ヒロの手を握り直す。
「……私は苦しそうにしていたルリちゃんを、励ましたわけでも、貶したわけでもありません。肯定も、否定もしませんでした。私がルリちゃんにしてあげたのは、『だから何なの?』って、そういう感じで接してあげただけなんです。だからあなたにも言ってあげます……『不殺人鬼』だったら、何なんですか?」
「……え?」
ヒロはその言葉がはっきりと聞こえた。あまりにもクリアに響きすぎたがために、肝心なところを聞き逃したような気がした。
「ナルシストって呼ばれるような人がいるじゃないですか。ああいう人が挫けない理由って、周りからどう思われてるかとか気にしないからなんです。つまりそれって、自分がどういうあり方をしていたとしても、変わらず自分を認めている。『変わっている』とか、『馴染めない』とか、そんなのは知ったこっちゃない。暴虐武人かもしれないですけど、それが一番楽なんです。だから、例えどんなに人と違っていても、普通の人と同じように、むしろそれよりも楽観的に、何も考えずに生きていればいい。それに文句を言う人がいるなら、そんなの知るかってくらいに堂々としていればいいんです」
再び、ルリの意識が顔を出す。
「君の過去の罪を肯定するつもりも、否定するつもりも、私にはこれっぽっちもない。私に何をしたかなんて、わざわざ思い出して苦しむ必要はない。だってそれを私が気にしていたら、とっくの昔に君から離れているはずだろう? 私が君の近くにいる以上、君は気にする必要はないんだ。そういうのを考えるのは……それこそ、君を咎める人が束になって、君を挫けさせにきた時くらいでいい」
ルリがヒロへ放つ言葉は、ヒロの心へ向かう刃となった。しかしその刃が切り裂くのは心そのものではなく、それに絡みついた鎖の方だ。ヒロはその言葉の一つ一つが、自分を危うくしていると、今の自分を拘束するものを壊していると理解していた。
「私は君の意思を尊重しよう。そしてそれをあえて軽んじて、私のやりたいようにやらせてもらおう……ヒロ」
次にルリが放った言葉が、ヒロを「壊した」。
「——『おかえり』。待っていたよ、私の『友だち』」
「……?」
ヒロの頭は理解を拒んでいた。それでも何かが決壊したのが分かった。ヒロにとって決定的な何かが。
「おっと……少し効きすぎてしまったみたいだ……これはモルフォのせいにでもしてしまおうかな」
ルリは冗談っぽく言ってみる。その態度が余計に、ヒロの胸を締め付けた。つぅ、と温いものが頬を伝う。
「……た」
溢れるように、言葉が漏れた。
「……ただ……いま……」
胸の中をぐるぐるする苦しさに目を回しながら、ヒロはそう言った。温いものは勢いを増す。
「う……あ……」
血で、肉で、そして苦しみで塗り固めていた、数多の欲望。生きた人間の温もり、より豊かな感情、そして、「居場所」。徹底して切り捨ててきたものが、今、ヒロの眼前に一気に現れたのだ。
「うわあぁぁぁ……あああああ……!」
膝から崩れたヒロは、大きな声で泣いていた。満たされた分だけ、溢れ出した。そんな涙だった。
「ちょっ、何泣かせてんのよルリ! なんか良さげなこと言ってるなぁって感心してたのに!」
「いいじゃないかヒナギ、これは感涙、嬉し涙なんだから」
「そうだけど……でもこの後どうするのよ! せっかく私たちで盛り上がろうとしてたのに、気持ちよく始められないじゃん!」
「そんなしけたこと言わないでくれたまえよ! ヒロの帰還は話していた通りに行うつもりだ……ヒッテ! 疲れているところ申し訳ないが、早速調理に移ってくれないか?」
「うん……こんなの見せられちゃったら、断れるわけないじゃんか」
「それは良心で言っていると信じていいんだね?」
「当たり前じゃん何疑ってんの!? ……でも流石に一人はちょっとキツイかもな……ヒナギ、悪いけど手伝ってくれない?」
「アタシなの!? メアさんも来るって話だったじゃんそっちに手伝ってもらいなよ!」
「誰があの料理下手に頼むかぁ! メアさんおにぎりもロクに握れないんだよ!? それにメアさんはここの下宿に住むことになったから、前の家から物持ってきたりで到着遅くなるんだよ。それまでに間に合わせたいから、頼んだよ!」
「はーい……あーもう、せっかくヒッテのタダ飯が食べられるってウキウキしてたのに……ヒナタにやらせようかな……って、起きなさいよヒナタ! 何イビキ立てて寝てんのよ! わざとらしいわよ!」
「流石双子、お互いの思考が完璧に読めているね」
「うっさい! アンタはそこの泣き止ませなさいよ!」
「うっ、ぐすっ……ごめんなさい……」
「ほーら責められて余計ウジウジしてしまったじゃないか! ヒナギ、もう一品追加で作って悔い改めるんだ!」
「あーッもう!」
すでに日も暮れかけだと言うのに、近所迷惑になりそうなくらい騒がしく、少年少女は笑い、泣き、感情を弾けさせる。それは酷く向こう見ずで馬鹿らしかったが、『不殺人鬼』が拒み続け、ヒロが本当に望んでいたものだった。
そんなカオスを横目に、アクトは一言だけ呟いた。
「鬼の目にも涙、いや、『不殺人鬼』の目にも涙……か」
《4》
「ううっ……美味しいっ……味がするよぉぉぉっ……!」
ヒロはまた泣いていた。今まで味のしない(正確に言うとヒロの味覚が麻痺していただけで、実際は血の味がした)変な塊しか食べていなかったヒロにとって、ヒッテとヒナギの共作したミネストローネは想像を絶する美味しさだったようで、泣きじゃくりながらも、ヒロはどんどん赤いスープを飲み干していく。
「きっ、君ぃ……どれだけ腹を空かせてたらそんな勢いでスープが減っていくんだい……!?」
「うっ……だって……そもそも人が作った料理とか……ちゃんとした『人間の食い物』食うのなんて、いつぶりかわかんねーもん……」
「その苦しみは……ちょっと私には想像できないな……」
一応それなりに熱いはずなのだが、そんなことは知ったこっちゃないという勢いで、それこそマラソン直後の水筒の中身の如き勢いで減っていくミネストローネ。最後に具材をハムスターみたいに頬張って咀嚼する姿は、随分面白いことになってしまっている。
「あんだけバコバコ早食いして、味分かってんのかな……」
少し引き気味のヒナギは、ミネストローネの入った寸胴に目をやる。本来はオムレツにかけるデミグラスソースを作るための物らしいのだが、ヒロの尋常ならざる食欲を前に、急遽動員されたのだ。
「ていうかヒッテ、これだけ早いペースで出して大丈夫なの? 具に味が染みないと思うんだけど」
「一応圧力鍋使ってるから、普通に作るよりかは早い時間で染みるはずだけど……味見しても問題なかったと思うし」
「味見……? あーっ忘れてた! ルリに続いてアンタまで抜け駆けしやがってこのやろー、許すまじ!」
「ちょっ、暴れないでよ! ごめんって!」
「そもそもこのままのペースで出し続けたら、ほとんどヒロの腹に消えてアタシたちの分なくなっちゃうわよ!」
「うわマジじゃん! じゃあ別の! 別の作ろう! 僕オムレツ作るから、ヒナギもなんか適当に作っちゃって!」
「アンタがこの店慣れてるからって、食材の場所も種類も教えずに何作れって言うのよ! てかオムレツ作るならソースどうすんのよ、今日デミグラス仕込んでないでしょ!?」
「そこはケチャップで妥協してもらうから!」
厨房の二人も何やら騒がしい。お祭り騒ぎのムードの中、アクトは少し肩身が狭そうに店のドアの方へと歩く。突然運命を狂わされたヒロと違い、アクトは生まれながらにして、こういうポップなバカ騒ぎを経験することのない星の身。上手く馴染めない彼は、少し外の空気を吸おうとドアに手をかけた。
(——ルリとモルフォはああいう風に言っていた……無理に馴染もうとして、空気を悪くしてしまうよりかは良いだろう)
そうしてドアを開こうとした、その時。
「ルリちゅわーん会いたかったよーッ!」
ドアの方が独りでに「バゴン!」と外に開き、その向こう側から長身の女性が暴走トラックのように突っ込んできた。
「!?」
一切身構えていなかったアクトは、その衝撃をもろに全身に受け、床に倒れる。そして突っ込んだ後のことを何も考えていなかった女性もまた床に倒れ込み、アクトは女性に押し倒されたような形になってしまった。しかもちょうどその女性の胸の辺りがアクトの顔の来てしまったために、アクトは彼女の豊満な物によって呼吸を封じられてしまったことになる。
「〜〜〜ッ!?」
「ありゃ? こりゃルリちゃんじゃないな……わわっ、よりにもよってアクト!?」
「————」
アクトは息ができないのと、生きてきた環境のせいか女性免疫が皆無に等しいのとが相まって、目を回して気絶してしまった。
「うわーっ洒落になんねぇ! これどうすればいいの!? どうすればいいのーッ!?」
「メア姉ちゃんうっさい!」
思わずヒッテの怒号が飛ぶ。思わず手に取ったケチャップを握力で爆発させそうになったが、なんとか持ち堪えたようだった。
「ごめんって……んで、コイツはどうすればいいの?」
「テーブル席の長椅子に寝かせて……はぁ……やっぱりメア姉ちゃんってポンコツだよね……」
「ポンコツ言うんじゃねぇよ! アタシはテメェよりも年上だし、ほら見てみろよこのボディラインと服装……えっちなダウナー系お姉さんって感じだろ?」
「えっちなダウナー系お姉さんはえっちなダウナー系お姉さんって自己宣告しません男の夢舐めんなはい論破」
「一言一句酷いし速い!?」
「さっさとアクト寝かせろやゴラァ!」
ヤクザめいた二発目の怒号とともに、今度は割ろうと手に取っていた卵を握りつぶしかけるヒッテ。だが幸い、卵の耐久性が持ち堪えたようだった。
《5》
メアの到着によってピークを迎えたヒロの帰還記念パーティーだったが、全員その後すぐに体力の限界を迎えたらしく、数名が力尽きて静かになっていた。
「うへへぇ……ルリちゃんは相変わらず可愛いねぇ」
「気色悪いセクハラジジイみたいな声音を出さないでくれよ……というかメア姉、いつまで私にくっついているつもりなんだい? 酒臭いし、いい加減離れて欲しいんだが」
「全く素直じゃないなぁ……うりうり……」
「……っ」
ルリはもう抵抗する気力もないようで、完全に出来上がったメアに、容赦なく頬擦りされている。……まだお互いに気力があった間は胸を揉まれてたりしていたので、大分おとなしくなったほうではあるのが恐ろしい。
その隣のテーブルでは、厨房の激戦を終えたヒッテとヒナギが、お互いの料理とミネストローネを食べているところだった。
「相変わらずアンタの料理は本当に美味いわね……どうやったらアタシと同じ年数しか生きてない癖して、こんなんが作れるのよ……」
「中学卒業してからは、家で自分の飯作るか、この店でお客さんへの料理作るかしかしてなかったからかな。あと、僕にはスコーヴィルっていう料理の師匠がいるからね……」
「でもスコーヴィルの得意ジャンルって中華でしょ? どうやったらコレに辿り着くのよ」
「スコーヴィルは『技術ももちろん大切だけどよォ、大切なのはセンスと心得なんじゃい』って言ってたよ。味覚と手順さえ間違ってなければ、誰でも美味しい料理が作れるっていうのが持論らしいし」
「なーんか理想っぽい文言だけど、アンタのこと見てると、そうとも言い切れないのがなんともねー……」
「……これ、僕は褒められてるのかな?」
などと交わしている更に隣、目を覚ましたアクトとヒロが、並んで座っていた。ヒロは腹十分目まで食べたにも関わらずまだ入りそうなケロッとした表情だったが、対するアクトは気絶していたぶんを取り返そうと爆食したせいで若干苦しそうだった。
「……ヒロ、さっきから神妙な顔をして、一体どうした?」
「はっ? あ、えっと……」
両目を泣き腫らしたヒロには、他のメンバー同様疲れが見て取れる。だがその原因は、パーティだけにはないと確信が持てた。
「……フェニックスが静かだから、ちょっと違和感があってさ」
「確か、メアが悪夢を見せて倒したと言っていたか……」
先ほどのパーティの中、メアが得意げに語った内容によれば、フェニックスは現実に重ねるように、過去のトラウマに起因する悪夢を見せられて——この「現実の視界に悪夢を投影する能力」を、メアは《インフェルノ・ムーン「レッド・リアリティ」》と呼ぶことにしたらしい——敗北したという。そしてその間にフェニックスが取った行動についても、一部始終を聞かされた。
「フェニックスはさ、なんやかんや可哀想なやつだと思うんだ」
ヒロの言葉は、悲しげだった。自分を『不殺人鬼』に仕立て上げ、不死身の力をあまりにも残虐な行為に使わせた、悪魔のような奴に対して——憐れむような口調だった。
「フェニックスは確かにクズだよ。嘘つきだし、自分で主導権を握りたがる割には失敗ばっかだし、それに何より、『受けた苦しみは百倍にして返す』って性格だし」
最後のは俺にも感染っちゃったんだけどね、とヒロは笑った。その上で、話を続けた。
「でも、その裏には確かに何かがあるって気がするんだ。フェニックスは兵器として生み出されて、同じように生み出された奴らと一緒に、多くの命を葬らなきゃいけなかった。……でももしかしたら、その仲間たちにさえも見捨てられたかもしれない……それって、あんまりじゃないかなって思うんだ」
「……そうだな。なんというか、他人事とは思えない」
アクト——かつて大企業の御曹司として生まれ落ち、会社の跡継ぎになることを宿命として背負って生きてきたにも関わらず、その宿命からも、会社の倒産という形で見捨てられた少年——は、確かな重みを持ってその言葉を口にした。
「フェニックスって、人間の文化に興味があるらしいんだ。あれが嘘か本当かは分かんないけど、もし本当だったなら、ヒッテの料理を味わってもらいたいな」
「……叶うといいな」
「……うん」
ヒロは頷く。その様子を見て、アクトは思う。なんて優しい人間なのだろう、と。会社が倒産してからというものの、自分が生き抜くことしか考えてこなかった彼からすれば、ヒロの敵にすら慈しみを見せるその様は、同じ種族の生物とは到底思えなかった。
(——きっとこいつが『不殺人鬼』になったのも、《スーサイド・フェニックス》の言葉を断れなかったからなのだろう……あまりにも優しく、破綻した人間だ)
「……あのさぁ」
その空気に区切りを入れるように、ヒッテは話を始める。
「もう夜遅いし、みんな自分の家帰る気力もないだろうからさ……今日は下宿に泊まってかない? 今は僕しか住んでないけど、ベッドも布団も余ってるし、ソファも使えば人数分の寝床はあると思うよ」
「なるほど……でも風呂はどうするんだい?」
「浴槽は元々無いし、シャワーそのものは三台あるから、ちゃちゃっと入っちゃえば問題ないよ。それが嫌なら、銭湯ここからそう遠くないし、そこ行けばいいよ。体力残ってたらの話だけど」
「着替えは?」
「それは仕方ないよ。でもこれだけ疲れてたらもうその格好でも寝れるんじゃない? ……ヒロとアクトは元からずっとその格好だろうし、問題無いよね?」
「ああ、俺は問題ない。ヒロ、お前は?」
「……そもそも屋内で寝られるのが久しぶりだから、文句はないよ」
「あっ、ごめん……女子二人は?」
「その二人にアタシ入ってねぇの?」
「メア姉ちゃんは元からここ住むことになってるからいいでしょ、なんなら着替えとかも持ってるだろうし……で、どうするの?」
「……お言葉に甘えさせてもらうよ。安心したせいか、今日はいつもの何倍も眠たいんだ……」
「アンタはいっつも夜更かししてるツケが回ってきただけよ……でもアタシもそうするわ。今日はちょっとやばい……でも明日学校あるし、どうしよ」
「いいよいいよ一日くらいどぉーってことない!」
「ヒッテ……まさか私たちが退学になればいいとか思っていってないだろうね?」
「それは流石に疑い深すぎるって!」
こうして、ヒロの帰還を祝う会は幕を閉じ、各々眠りの支度を始め、そして瞬く間に眠りにつくこととなった。
ヒロは久しぶりのシャワーを済ませたあと、その熱が冷め切らないうちに、上着と帽子を外しベッドに倒れる。
(——そういえば、フェニックスがまだ目覚めてないってことは、俺は夢を見ないってことなのかな)
久しぶりの柔らかい寝床の感触に感動する暇さえ与えず、睡魔は彼の意識を虚空へと引き込んでいく。
(——やっぱり、それはそれで寂しいな)
かくして、ヒロは人の心を取り戻し、自らの寝床で眠りについた。
——明日、また一時的な別れが訪れることなど、考えもせずに。
《6》
とっくのとうに皆が眠りについている時間だというのに、その部屋の読書灯は光を放っていた。だがその机に本は開かれておらず、暖かい色のライトは、不安げに俯いた少年の横顔と、天板に残る細かな傷を照らすばかりだった。
「明日……あの人がルリたちのところに……」
ぼそっと呟いたタイミングで、部屋の扉から三度のノックが聞こえた。少年だけでなく、まだ起きている人がいたようだ。
「スイコウ、起きてるか?」
少年——紙魚綴幸は立ち上がり、部屋の扉を開いた。
「やっぱりか。君なら起きてると思った」
扉を開けた先にいたのは、一人の少年。別に寒い季節でもないというのに、サイズのやや大きい純白のウィンドブレーカーを羽織って、そのフードを被っている。健康状態を疑うほどに肌は白く、その目元のところには酷い隈ができていて、ドアをノックしたのと反対の手には、恐らく手に入る中で最も強いエナジードリンクが握られている。不摂生をしていることは一目瞭然だった。氷属性を思わせるシアンの髪を伸ばしているため目元が陰る上、フードで更に影になるのも手伝い、隈は更に濃く刻まれているように錯視できた。
「トウジくんは……いつも通り夜更かしか」
少年の名は、氷渡凍路。《焚書図書館リコール》に所属する天才少年ハッカーであるとともに、図書館のメンバーたちを現場へ転送したり回収したりも行う、この組織で一番忙しい人物だ。
「夜更かしの付き合いなら他を当たってよ。ほら、僕と一緒でもう一人、ザワザワして落ち着かない人がいるはずでしょ?」
「寝てるかもしれない、というか十中八九寝ているであろう女子の部屋に凸れだなんて……スイコウは大胆だね」
「そうは言って……いや……そういうことになるんだけどさ……」
深夜帯なのにも関わらず平常テンション、と言うよりも深夜こそが活動時間帯のトウジと違い、スイコウは眠気を引きずりながらも眠れないほど頭が回ってしまう、と言うような調子なのでテンションが低い。トウジの冗談にも昼間なら付き合ってやらないこともないが、今はそう言う気分ではないスイコウであった。
「それで……スイコウはなぜ寝ていない。……どうせ、フウリンとジンのことだろうけれど」
「『どうせ』って、二人に失礼だよ……それに、二人とも年上なんだからさん付けしたほうがいいって……まあ、半分はそうだよ」
「半分? じゃあもう半分は一体……ああ、そういうことね」
トウジはずい、とスイコウに顔を近づける。
「《バタフライ・テキスト》のことか」
「……うん」
スイコウは頷く。頭の中に、その親友が繰り出す、破り捨てたページから生まれた青い蝶々の姿を思い浮かべながら。
「僕たちがアイツに手を出すってことは、当然ルリと戦わなくちゃいけないってことになる……ちょっと、辛いなって」
「スイコウ、君は甘い。僕ら暗部の人間が、いちいち人情とか昔の縁とかにこだわってたら、世界は簡単に、混沌の渦の底に呑まれている。そもそも、ああいう野良の《ツインズ》能力者は放っておくべきではないんだ。本来なら駆除対象、君がオウル様に直談判してなかったら、とっくの昔に《異類隔離区》送りになってる」
「……うん」
スイコウは小さくなった。一言一句の重要性をよく理解しているからこそ、それに反する自分の意思が憎くてたまらない。
「……決心がついていないなら、これは渡すべきじゃないな」
「? 一体何渡すつもりだった——ッ!?」
スイコウはトウジが取り出したものを見て、息を呑んだ。
「《ツインズミラー》……もしかして……僕に!?」
「そう。スイコウに渡すよう、オウル様に言われた。お前の部屋をこうやって覗きに来たのも、それが理由。……カードは持ってるだろ」
トウジに言われ、スイコウは机の方に目をやる。わざわざ額縁に入れて保管されている、万年筆のような絵が描かれたカード。
「……うん」
「使い方ももう教わってるだろ。……僕より新参の癖に、先に《鏡装》を許可されるなんて、よっぽど期待されていたんだね」
「プレッシャーかけないでよ…………分かった、オウル様からの命令なら、僕も覚悟を決める。もう友情なんかに構ってる暇はないんでしょ……ならとことん裏切ってみせるよ」
スイコウはトウジの持つ、《ツインズミラー》に手を伸ばす。スマホ大の「薄い箱」という感じのその機械は、見た目通り適度な重さを持っている。スマホでいう画面の部分は鏡になっており、スイコウ自身の覚悟を決めた顔が映り込んだ。
「……お前、すっかりこっち側の人間だな」
「え? ……確かに、トウジ君よりかは遅かったけど、僕ももうそれなりにこの組織にいるはずだよ……?」
「こっちの話だ……明日は朝早い予定だろう。僕と違ってスイコウは前線に行くんだ、今のうちに体力を蓄えておけ……くれぐれもあの二人のように、無様な姿をオウル様の前に晒すな」
「素直に『無事に帰って来い』って言えばいいのに」
「それだと僕が心配しているみたいだろ。僕はただオウル様の伝言を伝えに来ただけだ……君は寝ろ」
トウジは会話を遮るように、部屋の戸を閉めた。「バタン」という音は、静かな部屋の中では嫌によく響いた。
「おやすみトウジくん……それにしても、《鏡装》か……」
スイコウは《ツインズミラー》を観察してみる。男児向けのおもちゃのような、見ようによってはふざけた代物。だがこの中には、様々な禁忌の知識を元にした技術が詰め込まれている。合わせ鏡をベースにした世界間移動に始まり、次元を超えた通信、そして、《鏡装》。
(——一度だけやったことあるけど……本当に耐えられるのかな)
(——スイコウ様。そうやって後ろ向きに考えてしまっては、できるものもできなくなってしまいますよ)
「わぁっ!?」
脳内に響く自分と異なる声に、思わず素っ頓狂な声が漏れる。それが自身の《ツインズ》であるペンパルのものと分かっていながら。
「分かってるよ、ペンパル。《ツインズ》は意思の力、認識の力……できるものもできないって思ってたらできなくなる」
(——そうです。そして、逆もまた然り。《ツインズ》は不可能を可能にする力なのですから)
「それだけ聞くと、ほんとおめでたい事言ってるみたいに聞こえるよね……本当に、おめでたいやつだよ」
(——今日はもう就寝なさるのですか?)
「……いや、ちょっとだけ『準備』してから寝るよ」
(——そうですか。くれぐれも夜更かしはしすぎないように……と言ってももう手遅れかもしれませんが。ですがあまりにも睡眠を怠るようでしたら、私がスイコウ様の体を乗っ取り、無理にでも寝てもらいますからね)
「それだけは勘弁してよ! ……君に乗っ取られるの、トラウマになってるんだからさ」
スイコウは机に向かい、小さな正方形の紙に、指先を走らせる。指先から黒い液体が染み出し、紙に文字が書かれていく。
「『剣』、『槍』、『針』……あとは……」
できるだけ殺傷力の高そうなものを書き出していく。かくついた筆跡の細い文字は、どことなく引っ掻くようにして書いたような印象を与える。この行為に一体何の意味があるかは、彼の能力を踏まえればすぐに分かるだろう。
「……」
その中で不意に、額に入れたカードが見えた。
「僕は《焚書図書館リコール》の紙魚綴幸、そして『黒塗』の《ツインズ》……《レター・フロム・ブラックワールド》だ」
「たまにはこういう、明るめな話があってもいいよね」な、戦闘大好きバーサーカー・クロレキシストです。
皆様、明けましておめでとうございます。タイミング的には遅い方ですが、これが2024年初の投稿になりますので、せっかくなので挨拶させていただきました。と言っても、
最近は少し私生活の方が忙しく、主にメンタルを中心に環境に虐げられ、それでいて適度に励ましの言葉を受ける、「ナイフで滅多刺しにされながらも回復薬をぶちまけられている」ような、何だか「生殺し」という言葉の似合うモヤモヤとした状態が続いております。明るいなら明るいままで、暗くなるならとことん暗くなりたい私からすれば、この状態は非常に頂けないものなのです。贅沢な悩みかもしれませんが。
さて、フェニックスの暴走もメアとヒッテの奮闘によって収まり、今回は戦闘のない日常回……と思わせての、今後の展開を暗に示す回となりました。スイコウくんの再登場、名前だけだったトウジくんの顔出し登場と、伏線回収をしつつも、新たに示された《鏡装》という謎のワード。束の間の平穏を経て、インプロアの物語は加速します。
次回からは、本格的に《焚書図書館》の面々が登場します。どうぞお楽しみに。では、また次回の後書きで。