2話 魔王ルシファー
目が覚めても、朱音は起き上がる気にはなれなかった。
洞窟で肩に大怪我を負ったフェルデンのことが未だ頭から離れなかったのだ。それに、夥しい血を流して倒れていたロランの安否が気になって仕方がない。
鏡の洞窟からこのゴーディアの魔城までの道のりは、長いものだった。
まず、セレネの森を抜け、サンタシの国土を休み無く早馬で走り抜け、常人なら一週間はかかる距離をアザエルは三日という驚異的な記録で到達した。
それから、中立国の隣国ナジムに入り、商業船の行き交う港へと直行し、自国へと帰る船の船長に話をつけて乗船。その後は術を解かれた朱音は退屈な商船の中で約十日間過ごした。そうしてやっとゴーディアの地へと辿り着いたのだ。
その後も長い魔城からの迎えである馬車に詰め込まれ、朱音はひどく疲労しきっていた。
ここ、ゴーディアの魔城と呼ばれるこの城は、黒の大理石調の石を存分に使用した魔王の城に相応しい城で、ヴィクトル王の白を基調とした白亜城とは対照的な印象を与えた。魔城はどこか妖しげな空気を漂わせていたが、美しい城であることに変わりはなく、ゴーディアの民の誇りであることは疑う余地もない。
そしてこの部屋も例外ではない。
コンコンというノックの後に、見たくもない男が姿を現す。
吸い込まれそうな碧い瞳と長く碧い髪の美しいこの男は、魔王ルシファーの側近であり片腕であるアザエルだった。
朱音はもぞもぞと毛布を頭まで被り、ぷいとアザエルに背を向けた。
「まだお加減が優れませんか」
応えが返ってこないのに、アザエルは気にもしない様子で、朱音の眠るベッドの傍に寄ると、無言でその淵に腰掛けた。
「今日はあなたに会わせたい方がいます。このところのように、ほとんど食べ物を口になさらないのでは、本当に身体を壊してしまいます。昼食を用意させますので、召し上がってください」
アザエルが相変わらず感情の篭らないトーンで朱音に言葉を連ねる。
この男は魔王ルシファーの命で動いているだけであって、本当に朱音のことを心配している筈がなかった。この男にはもともと人の心というものが備わっていないのかもしれない。
「・・・あんたなんか大嫌い・・・。顔も見たくない・・・。出てってよ」
しばらくの沈黙の後、アザエルが諦めたのか、静かにベッドから立ち上がった。
「わかりました。また後程お迎えにあがります。ですが、必ず食事は摂ってください」
アザエルがそう言い残して部屋を出て行ったのを確認すると、朱音は毛布からもぞもぞと這い出した。
(どうせわたしが食べないと自分がルシファーに叱られるから義務的に言ってるだけなんでしょうよ)
ふんっと鼻を鳴らしながら、朱音はぎゅっと目を閉じた。
どうせ、贄にされる身なんだから、今更食事したところで何の意味も無いように感じた。
しばらくして給仕がスープやサラダなどを載せたワゴンを押して入ってきたが、朱音は気付かない振りをして不貞寝し続けていた。
一刻程粘っていた給仕だったが、全く起きてくる気配のない朱音に諦めて、せめてというようにテーブルに冷めても口にできるパンをバケットごと置いて部屋を出て行ってしまった。
(魔王ルシファー・・・、もし会うことがあったら、死ぬ前に思いっきり文句言ってやる! きっとこれだけ傲慢な人なんだから、誰にも文句言われたことなんてないだよ!)
怒りで思わずベッドのシーツをぐしゃりと握り締めてしまっていた程だ。
「どうやら昼食も口になさらなかったようですね」
おそらくノックをしてはいたのだろうが、怒りのあまり朱音が気付かなかったのだ。
ふいにベッドのすぐ後ろで声がして、朱音はビクリと身体を強張らせる。
「さて、今からあなたに会わせたい方がいます。ついて来ていただけますか?」
アザエルの言葉には有無を言わせない強さがあった。
この男の言いなりにはなりたくはないが、ここで朱音が意地を張ったところで、この冷酷な男はまた妙な術をかけて担いででもそこへ連れて行ってしまうだろう。
「・・・・・・」
俯いたまま、のそりと重い身体を起こすと、朱音は渋々アザエルの元へと歩いた。
それを確認すると、魔王の側近は朱音を誘導するように城の中を歩き始めた。
城の中は黒っぽい壁面のせいか昼間だというのになぜか薄暗く感じる。でも、奇妙なことに懐かしい気がするのはどうしてなのか、朱音はそれが不思議でならなかった。
ギギギという腹に響くような音がしたと思うと、アザエルが石壁を開いているところだった。ぼうっと歩いてきたせいで、ここまでどうやって来たのかはもう思い出せない。
「さ、会わせたい方はこの部屋の中です」
アザエルが視線をやる先は、石壁で囲まれた薄暗い部屋。窓は一つもなく、勿論のこと人の気配など何も感じない。壁に吊り下げられている蝋燭に、アザエルが静かに火を灯していった。
少し明るくなった埃臭い部屋の真ん中に、美しい彫刻で模られた対になった黒い棺が二つ。それ以外にこの部屋には何もない。
「こちらへ」
アザエルが片方の棺の前で足を止めると、ゆっくりとその蓋を外し始めた。
ごくりと朱音は息をのむ。
まさか、おどろおどろしい骸骨やミイラなんかが飛び出しては来まいかと、内心びくついていたのだ。しかし、蓋が全て外されても、中のものが勢いよく飛び出してくることはなかった。
アザエルに促されるまま、一歩、一歩と棺に近づき、意を決して中を覗いてから驚きのあまり、朱音は後方に数歩後退りしてから尻餅をついた。
「こ、この人・・・」
棺の中に横たわっていたのは、恐ろしく美しい黒髪の男だったのだ。
長い髪は漆黒で、肌はそれとは対照的な白。眠っているようにも見えたが、生気はまるで感じられない。
「ゴーディアの国王、ルシファー陛下です。そして、あなたのお父上です。」
「う、嘘・・・!」
首を振りながら、朱音はずりずりと壁際へとにじり寄る。
「ルシファー陛下は、一千年の長きに渡って、その強大な魔力をもってして、このゴーディアを治めてこられました。しかし、四百年前に始まったサンタシとの長き戦いで、莫大な量の魔力を断続的に使用し続ける羽目になったのです。そしてそれは陛下の身体に大きな負担を強いていました。」
朱音はアザエルの言葉を信じられない思いで聞いていた。
「二百年前のことです。味方の裏切りによって城内へ敵兵の侵入を許してしまったことが唯の一度だけありました。その頃はサンタシの王、セドリック・フォン・ヴォルティーユの時代のことです。陛下とベリアル王妃には陛下の血を色濃く受け継ぐお子のクロウ王子がおられましたが、まだ幼かった王子をサンタシの手から守る為、お二人はある儀式によって王子の魂のみを異世界に送り出されたのです。」
朱音は両手で耳を塞ぎ、小さく蹲った。
自分が魔王ルシファーの息子の筈などない、そう心に言い聞かせて。
「本来なら、陛下がお亡くなりになる以前にあなたをお迎えに挙がる筈でした。しかし、鏡の洞窟が出現するのは百年に一度のみ。残念なことに出現するのを待たずして、陛下は亡くなってしまわれた。ですから、私は陛下のあなたの魂を呼び戻せという最期の命に従い、こうしてあなたをここへお連れしたのです」
小さく蹲った朱音のすぐ目の前で、アザエルは膝を折って頭を深く下げ礼の形をとった。
「なんでわたしなの? わたしがそのクロウ王子の魂だというその根拠は?」
朱音はアザエルの碧い目を強く睨みつけた。
「それはあなた自身がよくわかっている筈です。突然懐かしい思いを感じたり、奇妙な感覚に囚われることはありませんか? それはあなたの魂の記憶です」
「・・・・・・」
確かにアザエルの言うように、そのような不思議な感覚に見舞われることは何度かあった。信じたくないのに、魔王ルシファーの亡骸を目にしたときの衝撃。あれは“悲しみ”という感情に他ならないのではないだろうか。
同時に、フェルデンのゴーディアを深く憎む姿が脳裏に浮かぶ。
十年前、幼い妹を魔族の手によって殺されたと打ち明けてくれたあのひどく淋しそうな顔を・・・。そして、君も妹と同じような運命にさせたくない、と呟いたフェルデンの横顔。
もし朱音が憎き魔王ルシファーの子だと知ったら、彼はどんな顔をするだろうか? 今までと変わらない微笑みを向けてくれるだろうか? あの優しいフェルデンに、冷たくされることや、憎しみの目を向けられることを考えると、朱音は絶望の淵に立たされた気分になった。
アザエルはそんな朱音の手を緩やかにとると、その甲に触れるだけのキスをした。
かっとなって、朱音はその手を振り解く。
(この男は、わたしが絶望したり悲しんだりする反応を見て面白がっているんだ・・・。どこまでも魔王ルシファーの僕で、わたしのことを本当に考えてはくれていない・・・。この人が見ているのは朱音ではなくてクロウ王子だけ)
まるで何も感じないかのような整ったアザエルの顔に、朱音は吐き気を覚えた。
「わたしに触るな・・・!」
小刻みに震えながら、アザエルに口付けられた手を庇うと、視線を決して合わさぬよう、じっと石の床を睨みつけていた。