第2章 1話 さよなら
すっかり日が暮れてしまっていることだけはわかるが、何せ朱音は何も持っていない。時間を確認することなどできる筈もなかった。
まだ頬に残る雫を服の裾で拭き取ると、朱音はしっかりとした足取りで歩き始めた。暗い山の中。あの夜と同じ虫の鳴き声や梟の声が聞こえる。
確かにここは朱音の元いた世界だった。いつまでもこんな山の中に座り込んでいる訳にもいかないし、朱音は月明かりのを頼りに足を進めた。
少し開けたところから下を見下ろすと、小さく町のネオンが見えた。あれは朱音の住む町に違いなかった。
(よし、ここは町の裏手にある望月山だ。この山ならそんなに高くはないし、町にも十分歩いて帰れる)
そう確信して、朱音は足を速めた。
山の麓には確か交番があって、駐在さんが日替わりで寝泊りしている筈だ。そこで助けを求めよう、と心に決め朱音は足元に気を配りながらこんなことを思い出していた。
(望月山って名前の由来は、どんなに天気の悪い日でも不思議と雲がかからないから、いつだって月がよく見えるってところからきてるんだっけ。確か、社会の先生がそんなこと言ってたよな・・・)
元の世界に戻って来れたことは本当に嬉しい。でも、もう一つの世界、レイシアに何か大切な物を置いてきてしまったような空虚感は消し去ることができなかった。
ぐっと拳を握り締めると、朱音は突然行方を眩ませた自分を余程心配しているだろう家族に、どんな言い訳をして説明しようかと思考をそちらに逸らす。
(きっとすごい心配してるよな・・・。突然知らない男に拉致された、なんて言ったら信じてくれるかな?)
戻ってきた今も色々と問題は山積みだ。
そうこうするうちに、いつの間にか山の麓まで無事に下りてくることができた。迷わずにここまで来れたことに感動しながら、朱音はとうとう明かりの灯る交番に向かって勢いよく駆け出した。
(やっと家へ帰れる・・・!!)
あと数メートルで交番に着く、というその瞬間、急に自分の足が自分のものではないかのようにぴたりと止まる。
すぐ近くの交番のガラス越しに警官が動く影が見えている。
(な、なんで!?)
ここから叫べば中の警官が気付いて出てきてくれるかもしれない。なのに、声さえ出せない。嫌な汗が背中を流れた。
「申し訳ありません。少しの間術を掛けさせていただきました」
先程まで存在さえ感じながったのに、ふと背後で声がした。振り向こうにもびくともしない朱音の身体は、すぐさま誰かの肩に担がれてしまう。
「!!」
担がれた拍子に視界の端に見覚えのある碧い髪が入ってきた。
(アザエル・・・! どうして・・・!?)
それと同時に、自分がこれからどうなるのか、簡単に想像できた。この男にレイシアに再び連れ去られるのだ。
「このようなことになったのは全てわたしの失態です。あの時、どんな理由があろうとあなたから目を離すべきではなかった」
感情の篭らないアザエルの声は、まるで人形のように担がれている朱音の耳にやけに冷たく響いてきた。
(怖い・・・、この人一体何者なの? なんでわたしなの・・・?)
身体のどの部分も自由に動かすことはできないけれど、不思議なことに、朱音の瞳からはつうと一筋の雫が零れ落ち、地面に吸い込まれていった。
(フェルデン・・・)
恐怖の中で、優しい金髪のあの青年の顔が思い出される。
ぐるりと背中に回した手は、力強く、何者からも自分を守ってくれた。どんなときも微笑み、髪を撫でてくれた。
「あなたが愚かなサンタシの騎士どもに攫われた後、直ぐにお迎えにあがれず申し訳ありませんでした。城の中は厄介な結界が張られており、あなたが結界の外に出てくるのを待つ他なかったのです」
アザエルがなぜこうまでして自分をレイシアに連れて行こうとするのかは朱音には理解できなかった。
「そうして待ち続け、あなたは予想通り再びあの洞窟の前に現れた」
突然アザエルは抱えていた朱音を地面にそっと降ろすと、暗闇の中に僅かに手を翳し始める。途端にバリバリと電気の生じるような音が走り始め、翳した部分に風が集まり始める。朱音は身動きのとれない身体のまま、どうすることもできずにその様子をじっと眺めていた。アザエルの手の中が微かに光り出すと、その光はみるみる大きくなり始めた。時空の扉だ。
遠くで午前零時の鐘が鳴っているのが聞こえる。
あっという間に金色の光の穴は広がり、安定を取り戻す。アザエルは疲れた様子を微塵も見せず、横たわった朱音の身体をもう一度抱え直す。
美しく冷たいアザエルの顔は、フェルデンの優しい微笑みとは似ても似つかなかった。
無言のままアザエルは光の中に足を踏み入れた。
その瞬間、朱音は元いた世界と完全に糸を断ち切られたかのような絶望感に襲われた。なぜか、もう二度とこの世界に戻ってくることは適わないと確信したのだ。
さよなら・・・。
既に自分が泣いているのか、そうでないのかもわからなかった。
光の中を抜けた先は、見覚えのあるあの洞窟。すぐさま背後で消失していく光の穴は、以前のように少しずつ小さくなるというよりは、突然テレビの電源をブツリと切られたような無くなり方だった。
そして、洞窟の中では数人の兵士が倒れていた。誰も彼も、何かに切りつけられたように血を流している。
(ひどい・・・!)
彼らが既に息をしていないことだけは確かだった。
朱音は、懸命に目だけを動かして、自分の知る人物の姿を探した。
ロラン、フェルデン・・・。この中に彼らの姿がないことを祈るが、その希望はすぐ様打ち消された。
「ううっ・・・」
洞窟の隅でうごめく小さな影。目を凝らしてみると、それはどこかで見たローブだった。
(ロラン・・・!)
恐ろしいことに、ロランのローブから血が染み出していた。
「なかなかしぶとい様だなロラン、この裏切り者の犬めが」
アザエルが冷酷な笑みを零す。
朱音はぞっとした。
「・・・ア・・カネ・・をどうするつもりだ・・・」
ロランは息も切れぎれにそれでも怯むことなくアザエルを睨みつける。
「我が国王を裏切った者に話すことは何もない。せめて一思いに死なせてやろう」
アザエルが無慈悲にも空いた左手をロランに振り上げようとした。
(やめてーーーーーー!!!)
「やめろ!」
アザエルが一体何をしようとしていたのかはわからないが、洞窟の入り口からの鋭い制止の声にピタリとその手を止めた。
アザエルがじっと暗闇の中その声の主を見据えている。
暗闇の中、月明かりに映し出されたその姿は、紛れもなくあのフェルデンであった。
幸い、この場を離れていたのか彼には傷はないようだ。白く美しい軍服には血液の染みはついていなかった。
「フェルデン・フォン・ヴォルティーユか」
アザエルはフェルデンを見知っているようだ。
「貴様、ロランから離れろ! 一体何を・・・!!」
声を荒げたフェルデンは剣を抜こうとしてはっと手を止めた。
「誰を抱えている・・・!」
月明かりの下のフェルデンからは、洞窟の中の様子は暗くてよく見えないらしい。
さっきまであれほど会いたかったフェルデンがすぐ近くにいるというのに、朱音自身は声を出すこともできなかった。
それに、先程アザエルにかけられた術の影響か、朱音はまたこちらの世界の言葉を理解できることに気が付いた。
「フェルデン、そこをどけ。どかなければその腹切り裂いてでも通らせてもらうぞ」
冷たく恐ろしい男。この男ならば本当にフェルデンを殺してしまいかねない。
まるでフェルデンが存在しないかのようにアザエルは洞窟の入り口の方へと向かって歩いていく。
フェルデンは刀身を抜いてアザエルに向けて構えた。
徐々に明るみに近づいてくる恐ろしく冷酷で美しい魔王の側近。
その肩に担がれているものが見えたとき、フェルデンは怒りで震えていた。
「アカネ!」
先程鏡の洞窟の最後の力を利用して、ロランの術で扉を開き、腕をもぎ取られるような思いで元の世界に送り返した筈の朱音が、ダラリと人形のように力なくこの男の肩に担がれている。
「貴様っ、アカネに何をした!!」
アザエルはさして興味もないかのようにその声を無視してその隣を通り過ぎようとする。
一瞬のことだった。
フェルデンの鋭い剣の切っ先がアザエルの首に宛がわれている。先がほんの少し喰い込み、タラリとそこから血が僅かに滲んだ。
「ほう。ヴォルティーユの坊やはすっかり怯んでただ見ているだけだと思ったのだがな」
アザエルは無表情のまま静かに言った。
「少しでも動いてみろ、貴様の首を撥ね、その面をルシファーに送りつけてやる」
フェルデンの手に力が加わるのが朱音にも感じとれた。
「やめておけ。お前の剣の腕は噂で聞き及んでいる。今は無理だが、いずれ魔術抜きで剣を交えたいところだ。どうしても今だと言うのならば、わたしは惜しくも魔力でもってしてお前を殺してしまうだろう」
フェルデンは少しの迷いもなく剣を納めようとはしない。
「アカネをみすみす連れて行かせる訳にはいかない。それに貴様にそう簡単に殺られる訳にもな!」
勢いよくフェルデンが剣をアザエルに突き刺した。
しかし、それは風のようにさっと避けられてしまう。
「愚かな」
アザエルが朱音を抱えていない空いた左手をフェルデンに振り下ろした。一瞬にしてアザエルの手からどす黒い尖った釘のようなものが勢い良く無数に放たれた。
「やめてーーーー!!」
「うっ・・・」
朱音の声がセレネの森に響き渡った。
何がどうなったのか、朱音は自分の身体が動くことに気付き、慌ててアザエルの肩の上で無茶苦茶に暴れ回った。流石のアザエルも不意の事態に対応仕切れず、思わず手の力を緩めてしまった。
その隙を狙って、朱音は勢いよくアザエルの肩から飛び降りた。足元で呻くフェルデンの元に素早く駆けつける。
「フェルデン!」
攻撃の瞬間にうまく身体を僅かに逸らしたのか、急所は外れているようだ。
でも、左肩には深い傷を負っていた。白い服にはどす黒い血が滲み出し、腕を伝って幾筋もの血液が流れ出していた。
「困りましたね、魔力を持たない筈のあなたが私の術を破ってしまうとは・・・」
アザエルがフェルデンと朱音を見下ろす。
「その男から離れてください。あなたまで傷つけてしまいます」
アザエルは再び手をフェルデンに向けようとしている。
「ダメー! 殺さないでっ」
朱音は地面に肩膝をついて痛みに耐えるフェルデンの長身の身体を必死に庇おうとする。
「アカネ、馬鹿なことをするな・・・! おれのことはいいから、離れろ・・・!」
朱音はかぶりを振ってしてフェルデンから離れようとしない。
「では、わたしの条件を呑んで下さるのならば、その男の命は助けましょう」
アザエルは呆れ返った様子で朱音に言った。
「アカネ、耳を貸すな・・・!」
しかし、深い傷を負ったフェルデンがこの危機を逃れる為には、もうアザエルの出す条件を飲むこと位しか選択の余地は残っていない。
朱音は泣き腫らした目でぎっとアザエルを睨みつけると、こくりと頷いた。
「懸命なご判断。わたしの条件は実に簡単なことです。あなたがわたしに大人しくついてくる、たったそれだけのこと」
そのことが意味するのは、即ち、朱音がサンタシの敵国である魔族の住まう地、ゴーディアに行くということ。
“贄”という言葉が頭を過ぎる。
しかし、目の前の大切な青年の命を思うともう覚悟を決めるしか無かった。
すっくと立ち上がった朱音は、重い足取りでアザエルの元へと近付いていく。
「アカネ! やめろ! 行くな!」
痛みをこらえてフェルデンが朱音に訴えかける。
しかし、朱音は目をぎゅっと閉じてアザエルの言葉に素直に従った。
「では、参りましょうか。それまで少しお眠りください」
アザエルがとんと朱音の額に手をやると、がくんと朱音の身体が急に力を失った。
眠りに落ちた朱音の身体を再び肩に担ぐと、アザエルは何事も無かったかのように洞窟の外へと歩き始めた。
「くそっ、待て! アカネをどうする気だ!」
掠れた声でフェルデンが叫ぶ。しかし、出血の量が多く、体が思う様に動かず、足に力が入らない。
フェルデンは氷のように冷たい碧眼と碧髪の男を心底殺してやりたいと思った。そして、こんなにも無力で、大切な人さえ碌に守りきることさえできない自分を呪った。
洞窟を出た途端、アザエルは掻き消えるようにして姿を消した。
その後の静寂の中で、フェルデンは悔しさで唇を噛み締めた。
「アザエル・・・、貴様は絶対に許さない・・・!」
そして、愛らしい黒髪の純真な少女を思い、何度も洞窟の壁に自らの拳を血が出るまで打ち付け続けたのだった。