6話 鏡の洞窟
一ヶ月以上もの間、城の部屋の一室に閉じ込められるような形で過ごした朱音だったが、この日は朝から様子がおかしかった。
いつもなら煌びやかなドレスをエメに半ば強制的に着せられるのだが、今朝は動きやすいスリットの入った上着にぴたりとしたズボンを着せられ、何度もエメは目を潤ませながらしきりに何かを訴えかけてきていた。
そうするうちに、フェルデンの手により慣れない馬に乗せられてやって来た先は、あの見覚えのある山。いや、森である。確か、以前ヴィクトル王がセレネの森と話していた。
それに今日初めて城の外に出たことで驚くべきことがわかった。
部屋にあったあの絵画の中の城は、朱音自身がいた城だったのだ。
言葉が解らない為、フェルデンに城の名前を訊くことは適わなかったが、城の周囲に広がる広大な野や美しい湖、そして崖下に広がる森は絵のものとそっくりであった。
(わたし、あんなに綺麗なお城で暮らしてたんだ・・・)
崖下に広がる森が今朱音達のいるセレネの森であった。すぐ裏手にあるものだとばかり思っていた森だったが、切り立った崖を降りることはさすがに難しく、ぐるりと馬で回って森へ降りた頃には、すっかり日が落ちていた。
「******」
フェルデンが朱音に何やら囁くと、懐かしいいつしかの洞窟が目に入ってきた。
「あっ・・・」
驚いてフェルデンを振り返ると、ブラウンの瞳がふわりと優しく綻んだ。
フェルデンは、朱音を元の世界に返してくれようとしている。今思えば今朝のエメの必死な訴えは、別れの言葉を朱音に伝えていたのかもしれなかった。
「*****!」
フェルデンと朱音の乗る馬に気付いた見張りの兵士が何やら叫んで敬礼をとると、洞窟の周りで護衛をしていた他の兵士達も慌てて敬礼をとった。
フェルデンは自分が先に馬を降りると、朱音が降りるのを手伝う。朱音は、すっかりこの青年の優しさに甘えきってしまっている自分を恥じた。
一人の兵士の案内で、二人は洞窟の中へと足を踏み入れた。
朱音は息を呑んだ。
一ヶ月前、アザエルに連れ去られたあの日に見た、あの金色の光の穴が、洞窟の奥にぽっかりと口を開いている。穴のすぐ近くには、しばらく見なかったロランが呪文のようなものをぶつぶつと唱えながら、穴に向かい合っていた。
ロランの顔には疲労の色が濃く見られる。おそらく、ここ数日徹夜でこの作業にあたってくれていたのだろう。いつかした朱音との約束の為に・・・。
朱音は胸が熱くなるのを感じた。
あれだけ憎まれ口を叩いていても、ロランは朱音を見捨てたりはしなかった。
そしてフェルデンも・・・。
今夜は雲が多く、二つの月は見えない。
「ロラン・・・」
朱音はロランのすぐ近くまで寄ると、小さな声で『ありがとう』と言った。
この言葉は、エメから教わった、数少ないこちらの世界の言葉だった。ロランの霞がかったブラウンの瞳が驚きで見開かれている。その頬にちゅっと朱音は軽く口づけた。みるみる赤く染まる。思い返せば、こんなに豊かな表情を見せたロランは今が初めてかもしれない。
金色の穴は既に安定していて、今なら悠々と朱音が入っていけるだろう。
(帰れるんだ・・・)
喜びで手が震えそうになりながらも、チクリとなぜか胸が痛んだ。
「フェルデン・・・」
振り返ると変わらない笑みの青年が立っていた。でも、その顔はいつもよりもどこか淋しそうだ。
別れの時が迫っていた。これを逃すともう元の世界には戻れない、なぜか朱音はそんな気がしていた。
でも、この一ヶ月という期間、自分を自分の妹のように気に掛け、励まし、優しく接してくれたこの青年の温かくて逞しい手と永久にさよならするには、あまりに辛すぎた。
はらりと頬を伝うものに気付き、朱音は手の甲でそれを拭う。息もできない程の辛さ。
(そうか、わたし、いつの間にかこの人のこと好きになってたんだ・・・)
今更気付いてしまった自らの想いに、思わず苦笑してしまう。
ふと見上げると、美しい青年の顔がすぐ近くまで迫っていた。
「フェル・・・」
名を呼び終えぬうちに、朱音はぐいと強くフェルデンの腕の中に引き寄せられた。
「ラ・レイシアス・・・」
切なげに朱音の耳元で囁いた言葉の意味はわからない。でも、朱音は懸命に背伸びをしてフェルデンの背中に腕をまわし、抱き返した。一層強く抱き締められる形になった朱音だが、次の瞬間驚きで目を見開いた。
唇にあたる温かい感触。フェルデンが自分の唇に口付けていたのだ。
ほんの数秒後、勢いよくフェルデンに突き飛ばされた朱音は、そのまま金色の穴の中に入ってしまった。
「や・・・!」
次に目を開けたとき、朱音は草の上で一人倒れていた。
金色の穴は朱音が通った直後、ロランの手によって素早く閉じられてしまったのだろう、周囲にそれらしきものは見当たらない。
「う・・・そ・・・。」
愕然としながら朱音はそこら中を暗闇の中探し回る。
「フェルデン・・・!! フェルデン!」
さっきまですぐ傍にあったフェルデンの気配はどこにも感じられない。もう、二度と彼に会うことは叶わないことだけは朱音にも理解できた。
「ラ・レイシアスってどういう意味だったんだろ・・・」
朱音は草の上にへたり込み、まだ耳に残る優しいフェルデンの声を何度も頭の中で反復していた。