5話 切れた効力
ある朝、とんでもないことが起きた。
「******」
昨晩まで確かに理解できたはずのエメの言葉が、聞いたことのない響きとなって、突然理解できなくなったのである。
「な、なに? エメ??」
何度聞き返しても返ってくる言葉は全くもって理解できず、朱音はただ狼狽した。エメの方も朱音の言っていることがわからない様子で、その切羽詰った状況に気付いて慌てて部屋を飛び出していった。
(な、なんで??)
混乱して椅子にへたり込んだ朱音は、テーブルの上で頭を抱え込んだ。
思い起こせば、アザエルに攫われたあの夜にどうして違和感もなく言葉が通じることに異変を感じなかったのだろう。これはひょっとすると、ロランの言うように、自分は本当に頭が良くないのかもしれないと思い始めていた。
「*****!」
勢いよく開かれたドアから現れたのは、息を荒げたフェルデンと、そしてそのすぐ後ろになぜかロランの姿も。
「*****? *****・・・」
心配そうに駆け寄るフェルデンが懸命に何かを話しかけてきてくれているのはわかったのだが、今の朱音には彼の言葉はさっぱりわからない。
「わかんない、フェルデン、あなたの言葉がわかんないよ」
昨夜、部屋を訪ねてきてくれたフェルデンは、いつものごとく朱音の元いた世界について聞きたがり、車や飛行機などの話をしたばかりだった。それに、家族を思い出してはホームシックに陥いる朱音の髪をいつも優しく撫でてくれたのだった。
そんな彼の言葉が理解できない。急にこの世界に一人ぼっちで置き去りにされてしまったような不安と孤独を感じ、朱音はぼろぼろと涙を零し始めた。
「******」
安心させようと、フェルデンが朱音の髪を撫でる。
涙で滲む視界の中で、フェルデンのブーツが泥でひどく汚れていること、そしていつも部屋にやって来るときには必ず置いてきてくれる剣を今日は見につけたままにしていることに気付く。おそらく、訓練を中断してここに駆けつけてくれたのだろう。
「*****、******・・・」
入り口の辺りでその様子を見守っていたロランが何やらフェルデンに話をし始めた。
驚いた様子でフェルデンが立ち上がりロランを振り向く。
「****!?」
「***。********」
二人のやり取りは真剣そのものであった。
「フェルデン殿下、アカネが急に言葉を解さなくなったのは、おそらく、彼女にかけられていた魔術の効力が切れたからでしょう・・・」
「それは本当か!?」
「はい。実際、今アカネの身から魔術の気配は消え去っています」
そんなやり取りがあったことなど知りもしない朱音は、とにかくどうして自分がこんな状況に陥ってしまったのか、必死に考えていた。
「ロラン、君の術でなんとかできないのか?」
いつも冷静で十七という若さで騎士団の指揮官という任に就き、たった二年で数々の功績を挙げてきたこの青年が、この出所もわからないただの少女を前にすると、なぜか取り乱していることに、ロラン自身少々驚いていた。
「できないことはありません。しかし、僕の専門は結界術です。以前かけられていたような術をアカネに施すとなると、相当の時間を要するかと・・・」
戸惑いを隠せず、フェルデンは椅子の上で小さくなっている朱音を見やった。
「これ以上時間を無駄にする訳にはいかない。アカネは元の世界に戻りたがっている。そのチャンスを奪いたくはない・・・」
ロランも小さく頷いた。
時空の扉を作り出すことのできる唯一の場所、セレネの森の鏡の洞窟は百年に一度地殻変動によって出現する未知なる力を持つ聖域で、その力を発揮することができるのは日数にして六十日の間のみ。そしてこの洞窟が出現してから、もう既に五十日が経過していた。
「この際言葉などどうでもいい。この機会を逃せば、アカネはアースに戻る術を失う」
そう言ったフェルデンは、どんなことをしても朱音を元の世界に返してやりたい気持ちでいっぱいだった。
出会った当初は、純真で飾らないこの少女に興味を抱き、幼くして亡くした妹の面影を抱いてはこのままここにいればいいのに、などと不謹慎なことを考えることも度々あったフェルデンだった。
しかし、毎晩家族や元の世界を懐かしんでは帰りたいと泣く朱音の姿を見ているうちに、自分がどれだけ身勝手な願いを抱いていたのかを思い知り、そして深く後悔したのだった。純真で可憐なこの少女の本当の幸せとは、元いた世界で家族と共に暮らすことなのだから、自分はどんなことをしてもその幸せを守りたいと強く心に決めたのである。
「言葉の弊害は厄介ですが、この際送り届けてしまえば何の問題もありません。
術の切れた今のアカネならば、敵に気配を察知される心配もないでしょう」
ロランはいつか自分が約束した、無事アースに送り届けるという言葉を思い出していた。
「鏡の洞窟が力を失うまで既に十日を切りました。あまり早く送り返してしまうと、再び敵がアカネを攫ってきてしまうことも考えられます」
フェルデンはこくりと頷くと、意を決して言った。
「よし、ぎりぎりまで粘るぞ。そして期限ぎりぎりにアカネをアースへと送り返す!」
突然大きな声を出したフェルデンに驚いて、朱音がビクリと身体を震わせて、椅子からずるりと滑り落ちた。
「アカネ!」
慌ててフェルデンが床にペタリと尻餅をついたアカネに駆け寄ると、起き上がるのに手を貸す。
「フェルデン殿下、しかしながら、時空の扉を開くには僕の力をもってしても丸一日はかかってしまいます。それに、先日穢された聖域を浄化する作業もしなくてはなりません」
ロランはちらりと涙目の少女を見ると、すぐさまフェルデンへと視線を戻した。
「どのくらいかかる?」
「穢れの具合によります」
アカネを起こし終えると、フェルデンはロランを見つめた。
「よし、君に全て任せる。陛下にはおれから話して許可を貰っておこう。準備が整い次第直ぐに出立を。敵がまだ潜んでかもしれない。騎馬隊の第三小隊を護衛につけよう」
ロランはフェルデンに礼の形をとると、
「御意に」
と応えるとすぐさま早足で部屋を後にした。
何やら真剣な面持ちでフェルデンとロランがやり取りをした後、突然に早足でロランが部屋から出て行ってしまったことに不安の表情を浮かべている朱音をフェルデンはぐいと引き寄せた。
驚きで朱音は目を見開き、耳まで真っ赤に染める。
二人きりになった部屋の中で、何が起こったのか、朱音はフェルデンの腕の中に抱き寄せられる形で納まっていた。フェルデンの引き締まった長身の身体は、逞しくとても安心できた。服の布ごしに聞こえてくるフェルデンの心臓の音が、朱音の耳にしっかりと響いてきた。
「*******・・・」
相変わらず言葉の意味はわからなかったが、優しい声は朱音のパニックを起こした心に深く沁みこんでくる。
「大丈夫、きっと帰れるから・・・」
フェルデンは、愛おしいと思えた少女を抱き締めずにはいられなかった。
たとえ、言葉が通じなくとも。