19話 魔王降臨
これがこの長き闘いの最後の山場となる予定です。ほんとに長い闘いでした・・・。ほんとここまで読んで下さった皆様には感謝、そして感謝です。
クロウとアザエルは赤き竜の背に、フェルデンはスキュラの背に乗り、王都へと戻って来ていた。
片羽を失った赤い竜が、町外れの森の中で震えているのをクロウが見つけ、血の契約を結んだのだ。
赤き竜には、クロウは血の契約と引き換えに、失った身体の部分を何度でも再生できる力を授けた。そのお蔭で、赤き竜は新たな主人を得、新しい羽も得ることができたのだ。
しかし、王都は、すでにザルティスの軍に占拠されていた。
当初は数千の兵と考えていたザルティスの軍の規模だったが、これから判断するに、数千を優に超した数万はありそうである。
「僕を国外に逃がさない為に、あちこちに兵を散りばめたんだね・・・。この手回し、ほんと母上らしいよ」
ふっと悲しい笑みを溢すと、アザエルに言った。
「ね、これじゃあどこに降りても一緒だよ。ここら辺で降ろしてくれる?」
スキュラはクロウの言った通りに、くるりと空中で旋回すると、降下を始める。
破壊された王都の建物がはっきりと見え始めたとき、数百の矢が天に向けて放たれた。
「すごい歓迎だな・・・」
フェルデンは剣を抜き、次々と降り注ぐ矢を斬撃で薙ぎ落としてゆく。
言うまでもなく、クロウが指先を動かしただけで、身体から現れた黒い靄が薄いベールを作り出し、スキュラとその背に乗る二人を見事に保護していた。
自分達の矢による攻撃が、一切届いていないことを知るとザルティスの神兵が地上で慌てふためていている姿が伺える。
まるで何の障害も無かったかのように地上に降り立ったスキュラと赤き竜から丸く取り囲むようにして立ち塞がった。その兵の手には、どれも二対の蛇が絡みつく紋様が彫られた剣が構えられてる。
フェルデンはの表情は険しい。思わぬところから突然現れた者達の手で、このサンタシが占拠されてしまったことに、ひどく憤りを感じているようであった。
「君達に忠告する。命が惜しい者は今すぐ武器を置いて降伏して欲しい」
クロウはスキュラの背から軽やかに飛び降りると、取り囲む神兵達に言った。
「魔の国王の言葉などに耳を貸すんじゃない!」
「そうだ! 我らザルティスの神兵は命を惜しんだりはしない! 貴様の首をとるまではな!!」
口々に叫ぶ声がし、クロウは黒曜石の瞳を静かに閉じた。
「創造主に代わり、地上界レイシアの幸福と平和の為、死んでもらう!!」
その声と同時、一斉に神兵達が二頭の竜と二人の若き王、そして魔王の側近に斬りかかった。
「うおおおおおおおおおお」
大勢の兵達の凄まじい声が上がる。命をも顧みず、そこにいる誰もが自らの正義を信じ闘いに乗じていることは確かであった。
しかし、赤と黒の奇抜な胸甲の兵達は、フェルデンの剣の前に次々と薙ぎ飛ばされ宙を舞い、アザエルの無慈悲冷酷な血の剣の前に真っ赤な血飛沫を巻き上げて倒れていく。赤き竜は舞い上がり、頭上から炎を吐き出し兵に浴びせ掛けた。
王都は今、地獄絵図と化していた。
山のように折り重なってゆく屍の上を、アザエルの碧い髪が華麗に舞い、それとは対照的なフェルデンの剣が力強く振りおろされていく。その美しさは、この光景に不似合いな程の異様さを放っている。
「フェルデン陛下! クロウ陛下! 我々もお供します!!」
突然神兵の人ごみの向こうから聞こえた聞き慣れた声に、フェルデンは振り返った。
「アレクシ!!」
白銀の獅子に跨り、剣を振り翳して現れたサンタシ騎士団の三番隊隊長の騎士が、今、数人の神兵を薙ぎ倒した瞬間であった。
フェルデンは、この騎士の他にも多くの知った顔が駆けつけてくれたことに気付いた。
師である屈強な剣士ディートハルトは、崩れかけた建物の上に上り、矢を射る神兵を大剣で叩き伏せている。そして、白銀の獅子の上から槍を一振りして数人の敵をやり込めているのは黒の騎士団指令官補佐、ライシェル・ギーである。女性とは思えない程無駄の無い動きで、的確に相手の攻撃をかわし倒してゆく騎士は、黒の騎士団唯一の女性騎士、タリア。その他にも、見覚えのある騎士達がこの悲惨な状況の中で怯むことなく勇敢に剣を振るっていた。
心強い助っ人に、フェルデンは心から感謝していた。
その中で、クロウは静かに瞳を閉じていた。
天を仰ぎ、彼は呼んでいたのだ。天のイカズチを・・・。
『ピシャアアアアアアアア』
ドドドドドという轟きとともに、天から眩い光の矢が落ちた。
いつの間にか、王都の空は真っ黒な雨雲で覆われている。
次々に天から降り注ぐ雷は、痛みを感じる暇も与えず、神兵を墨へと変えてゆく。
ザルティスの神兵達は、天からのイカズチと魔王の強大な魔力を目の当たりにし、恐怖で逃げ惑い始めていた。
今から約二百年前、“マルサスの危機”と呼ばれる歴史的な事件が起こった。
ゴーディアの王都マルサスは、味方の裏切りにより、敵国サンタシの兵の侵入を許したのである。
当時、ブラントミュラー公爵家はゴーディア国内で最も有力な貴族で、その一人息子ロベルトは魔力を持たずして生まれたものの、大層頭の切れる男で有名であった。
ロベルトは、その頭脳を買われ、ブラントミュラー公爵として、国王ルシフ
ァーの命令で大使を務めていた。
ロベルト・ブラントミュラーは真面目で愛国心の強い男であったが、ただ一
つの事が彼を大きく変えてしまったのだ。彼は、決して愛していけない女性に
惹かれてしまったのである。
愛してしまった彼女は穢れなく、どこまでも愛らしく可憐だった。けれど、
彼女は囚われた籠の中の鳥。魔城という籠の中に窮屈に閉じ込められた彼女の
心は、今にも壊れてしまいそうで・・・。
ブラントミュラー公爵は、王妃ベリアルに強い恋心を抱いていた。
しかし、彼女のすぐ側には怖ろしい程美しい容貌と、強大な魔力を持つ国王
ルシファーの姿があった。
一見仲睦まじい夫婦に見える二人であったが、ロベルトには表面的な作られ
たものだということがすぐに分かった。国王は王妃を愛してはいなかったのだ
それでも王妃は、ひたすらに国王を愛し続けていたというのに・・・。
やがて、ロベルトは王妃のよき相談相手として関係を築いていった。彼女の
実らぬ思いと苦しみを聞く度、いつか彼女をこの狭い世界から救ってやりたい
という思いを強く抱くようになった。たとえ、それが国王ルシファーやゴーデ
ィアを敵に回すことになろうとも。
「ベリアル王妃、どうか泣かないでください」
ベリアルは美しく整えられたベッドに横たわり、死人のように動かないまま
何日も過ごしていた。涙は枯れ果てるのではないかという程、大きな目からは雫が幾滴も流れ続け、枕を濡らしている。
「このままでは、本当にお身体を壊してしまいます。どうか、涙を拭いて食事だけでも・・・」
マルサスの危機の直後、裏切りの発覚したブラントミュラー公爵は爵位を失い、大罪人として追われる身となった。それと同時、王妃ベリアルは元老院の手により嫌疑に掛けられ、一旦はロベルト・ブラントミュラーと同罪と見なされ、処刑と決定されたのだが、国王ルシファーの慈悲により、国外追放の刑におさまったのだった。それをブラントミュラーが保護し、予め用意しておいた隠れ蓑に彼女を連れ帰ったという経緯である。
ベリアルの髪は美しいアプリコットから、見る間に白銀髪へと姿を変えていった。
それは、ベリアルの深い悲しみと絶望を鮮明に表していた。
「全部お前のせいよ、ブラントミュラー・・・。わたくしは、もう二度と陛下にお会いすることが叶わなくなったのですから・・・。もう生きていてもなんの意味もないわ・・・」
ブラントミュラーは痛々しい彼女を見る度に胸が締め付けられる思いだった。
彼はただ、どれだけ望んでも愛してくれぬ夫から引き離し、そして窮屈な世界から救ってやりたかっただけだというのに。彼は自分の行いが間違っていたのかと何度も自身に苦悶した。
(否、これが正しかったに違いない・・・! 王妃をあのままあの国王の隣に放置することなどできる筈がない・・・!!)
きっとあのままベリアルをあのままにしておけば、彼女の心が壊れてしまうのは時間の問題だった。
けれど、実際には、ベリアルの心はもう再起不可能に近い程壊れてしまっていた。
「ベリアル王妃、どうかわたしをお恨みください・・・。どれだけわたしを罵ろうと、わたしは構いません。ですが、どうか覚えておいてください。いつでも、わたしは貴女を心から愛し、お慕いしているということを・・・」
ベッドに伏せったまま、ベリアルは静かにブラントミュラーの発した言葉を聞いていた。
「そして貴女の為ならば、わたしは如何なる困難でさえ乗り越えてみせます。愛しい貴女が望むことならば、何だって叶えましょう・・・」
じっと動くことのなかったベリアルが、その言葉を聞いた途端、ゆっくりとベッドに起き上がった。以前より痩せてしまった顔。涙はまだ頬を濡らしている。
「どんなことでも・・・?」
ベリアルの問いに、「ええ」とブラントミュラーは優しく微笑み返した。
「では、わたくしにルシファー陛下を返して頂戴」
そう言ったとき、ブラントミュラーはじっとベリアルの大きな瞳を見つめて頷いた。
「ええ、分かりました。貴女がそれを望むなら・・・」
予想外の返答に、ベリアルは驚きもう一度聞き返す。
「わたくしは“ルシファー陛下を返して”と言ったのですよ? そんなことでができるの・・・?」
ブラントミュラーは真面目な顔でこくりと頷いた。
「このブラントミュラーに不可能はございません。但し、それには多くの時間を有しますが」
いつの間にか涙の止まったベリアルの頬に、ブラントミュラーは愛しげに触れると、言葉を付け足した。
「ゴーディアとサンタシがいがみ合っている隙に、この無人島で我々は密かに兵を集めるのです。増強し、時が来るまでじっと息を潜めて待つのです。そして、一気に叩く」
はっとしてベリアルが口を挟む。
「それで本当に陛下を取り戻せるのですか・・・?」
既に一度魔力を奪う薬だと嘘を吹き込まれるという裏切りを受けたベリアルは、ブラントミュラーに強い不信感を抱いていた。
「今度ばかりは本当です。ベリアル王妃、貴女を騙すようなことをしてしまったこと、深く反省しています・・・。もう二度と貴女に嘘をつかないと誓います」
ブラントミュラーは、国王ルシファーに盛った毒は本当に僅かで、もともと命を奪う為ではなく、一時的に力を弱める為だけだったと何度も説明した。
しかし、“人間の血”が天上人であった国王ルシファーにとって猛毒であることに変わりはなく、その解毒薬が存在しないことも確かであった。
「お前は信用なりません。ルシファー陛下を殺そうとしたのですから!」
そんなベリアルの強い拒否の声にもめげることなく、ブラントミュラーは微笑みを浮かべ続けた。
「そうですね、ベリアル王妃。貴女にそう思われるのは当然の報いです」
この男の揺ぎ無い自信が一体どこから湧いてくるのか、本当に不思議なものだった。
「・・・けれど、こんな大陸から遠く離れた無人島で、兵を集めるなどと、一体どうやって・・・」
よくぞ聞いてくれたとばかりに、ブラントミュラーは嬉しそうに部屋の壁を指差した。
不審に思い、ベリアルが振り返って見た先には、壁に掛けられた一枚の額縁の絵。
「あれです、ベリアル王妃」
「あの絵がどうかしたのですか・・・?」
絵には、天上界の様子が描かれている。
無論、画家が考えた想像上の天上界だが、幾人もの翼を持った天上人達が優雅に天の泉で水浴びをしている。その背後に、眩い光。この光こそが、全ての父である創造主である。
「知っていますか? 信仰こそが人間の強みであり、力となるのです」
この時、すでにブラントミュラーの計画は始まっていたのだ。
「信仰ですって?」
「ええ。わたしが創造主から兵を挙げよとのお告げを受けたと話せば、どれだけ多くの人間がここに集まるでしょうか・・・。今から楽しみですよ」
ふふっと笑いを溢すブラントミュラーの頭脳に、ベリアルは驚き呆れた。
そして、同じくしてこの男にもう一度だけ賭けてみようと、ベリアルは思ったのだった。
「ブラントミュラー! 一体これはどういうこと!?」
白亜城の展望のよい一室から、怒りの声が響き渡る。
二百年前の約束の後、確かにブラントミュラーは予告通り“神のお告げ”とやらを元に兵を募り、ザルティスの神兵という名の数万の兵を率いた。けれど結局のところ、ベリアルが一番望んでいた魔王ルシファーは、あの時の毒が原因で既に還らぬ人となってしまっていた。
それだけでも耐え難い怒りと悲しみだったが、ベリアルはひたすらに耐えた。もともと病弱だったベリアルは、この二百年の間でますます体調を崩していた。あの憎きクロウと、その実の母の息の根を止めることだけが今のベリアルを生かしていると言っても過言では無い。
「落ち着いて下さい、お身体に障りますよ、愛しい方」
怒りで震える華奢な身体を宥めるように、ブラントミュラーは椅子に腰掛けるようにベリアルに言った。
用意されたお茶のカップは、テーブルの上に転がり、中身はすべて床に零れ滴っている。それは、ベリアルが怒りのあまりテーブルを叩いたのが原因している。
「兵の数は圧倒的にこちらが多いのに、どうしてあの少ない人数にこうもやられているのです! 話が違うではないの!?」
ブラントミュラーは、ふっとオリーブ色の口髭を一撫でして笑った。
「大丈夫、予定通り事は進んでいますよ。あの兵は全兵力の半分以下ですし、ただの時間稼ぎにすぎません。本当の勝負はこれからです」
訝しげに何やら企む男を見返すと、貴婦人は訊ねた。
「ただの時間稼ぎ・・・?」
「ええ。今、残りの兵力全てをこの王都に集結させています。ザルティス軍には、あともう少し時間稼ぎをして貰う必要がありますので」
落ち着きを取り戻した貴婦人の手をとり、ブラントミュラーは微笑みを浮かべた。
「全ては愛しい貴女の為に・・・。きっと貴女の望みをこのブラントミュラーが叶えてみせましょう」
まさか、ブラントミュラーが二百年前のあの日、ベリアルと交わした約束を果たそうとしていることなど、彼女はまだ気付いていなかったのだ。
「一体どこから湧いてくるんだ、これじゃあ限が無い・・・!」
アレクシが、さすがに体力を消耗し始めたのか、額から汗を滴らせながら剣を振るい続けている。疲労が出始めているのは、アレクシだけではなかった。
ザルティスの神兵は、クロウの雷で冷静さを失ってはいたが、後から後からまるで湧き出てきているかのように、次々と新たに現れ襲い掛かってくる。
「確かに、これでは流石にこちらの体力が持たないな」
フェルデンが何か得策が無いか考えを巡らせる。しかし、剣を振るう手は休める暇も無い。
「くそっ」
背に傷を負い、一人の騎士がよろめいた。仲間の騎士がフォローするが、その騎士達も疲労で随分動きが鈍くなりつつある。騎士達の中にも傷を負う者も多く出始めてきていた。このままでは、そう長くは持たない。
「アレクシ!! おれが奴らの気を引いておく隙に一旦退け!! このままでは犠牲が出る!!」
「で、でも・・・!」
国王を残したまま退くなどということは考えられず、アレクシは踏み止まろうとする。
「国王陛下のご命令だ、アレクシ! ここはわたしが陛下を助太刀する。行
け!!」
ディートハルトが力強く言った。
アレクシはそんな屈強な戦士の言葉にこくりと頷き、叫んだ。
「一旦退却するぞ! 続け!!」
その声と同時に、フェルデンが全神兵に向けて大声で言い放った。
「よく聞け、ザルティスの神兵ども! 創造主の元に集いし革命軍だと!? 笑わせるな。我らサンタシが崇め敬う創造主は、我ら人の子を愛し、何より平和を望まれている。お前達は偽神兵以外の何者でもない!! 自らの正義の為に神を利用し、冒涜するだけの偽善者どもにすぎない!!」
その声に、多くの神兵が怒りを露わにしてフェルデンを睨みつけた。自らが信じる“創造主”にケチをつけ、その上偽者扱いされたのだ、黙ってはいられまい。
「なんだと!? 我らザルティスの神兵を愚弄する気か!! いくらサンタシの国王と言えど、それだけは許しがたい!!」
神兵の目が怒りに満ちてゆくのがありありと伺えた。
そのお蔭か、仲間の騎士達はとりあえずの退却に成功していた。
だが、怒りを買ってしまったフェルデン達の立場が悪くなったことに変わりは無い。
「余計なことを」
アザエルは煩わしそうに呟く。
「教えてやろう、サンタシの王よ! 我らザルティスの神兵が創造主のお告げにより選ばれし特別な兵であることをな!!」
一層勢いを増した神兵達の攻撃に、フェルデン、ディートハルト、アザエルは剣を構え直した。
「ごめん、フェルデン。今よりこの土地を酷い状態にしたくなかったんだけど、許してよね」
クロウがフェルデンに申し訳なさそうに僅かに肩を竦める。
フェルデンがその理由を聞き返すよりも先に、『ゴゴゴゴゴゴ・・・』という地鳴りが響き、大地が大きく揺れ始めた。地面が割れ、この亀裂に次々と大勢の神兵が塵のように落ちていく。地面は、三人の居る場所だけを残して、沈下と隆起を激しく繰り返し始めた。
「わああああああああああっ」
神兵達の悲鳴が響く中、まだ王都の名残を残していた建物達が、あれよという間に土にのまれ姿を消していく姿を見て、フェルデンは驚きを隠せなかった。
美しく栄えていた王都はもはや見る影も無い。唯一の救いは、生き残った人々が、仲間の騎士達の手で、安全な場所に避難できているという事実だけであった。
あっという間に約八割の敵の兵力を失わせてしまったクロウの魔力に、ディートハルトが思わず感嘆の声を漏らした。そして、こんな強い相手を敵に、サンタシは長い間無意味な戦争をしてきたのかと感じずにはいられなかった。
スキュラと赤き竜は、空で旋回を繰り返しながら、戦況を見守っている。
残った神兵達も、一瞬の出来事に、ほとんどが戦意を喪失してしまったようである。
しかし、その直後、とんでも無いものが天から地に舞い降りたのである。
ひらひらと舞い落ちる漆黒の羽。
ふぁさりと漆黒の翼が羽ばたき、禍々しくも美しい光が差す。
「な・・・、なぜ・・・」
クロウの黒曜石の瞳が大きく見開かれる。
蒼黒の長い髪が艶やかに揺らめき、透けるように白い肌と世にも美しく整っ
た顔立ちに誰もが息を呑んだ。
「魔王ルシファー・・・!」
フェルデンは、失われた筈のその存在が、なぜこうしてここに在るのか理解できずにいた。
しかし、それはここにいる誰もが同じで、あのアザエルでさえ無言のまま嘗ての主の姿を仰ぎ見ている。
「久しぶりね、クロウ。お前に会えて嬉しいわ」
ふと可愛らしい声がしたかと思うと、黒いベールのおりた帽子を目深に被った貴婦人が、お付きの者の手を借りて、ちょうど静かに馬の背から降り立ったところであった。
クロウは、死んだ筈の父に加え、新たに現れた人物に目を丸くした。
「あらあら、あんまり嬉しくて声も出ないのかしら・・・?」
白い手袋をはめた華奢な手が、静かに帽子を脱がせると、現れたのは二百年前にゴーディアを追放された義理の母、ベリアルの可憐な顔が露になった。
「母上・・・」
二百年の月日を経て、少し歳をとったベリアルではあったが、未だその可憐さは失われてはおらず、クロウは只々呆然とベリアルを見つめた。
「アザエル、あなたにもまた会えて喜んでいるのよ、わたくし」
ただ一つ髪の色を除いて変わらず美しい姿のベリアルは、魔王の側近アザエルに言葉を掛けた。
「お前達のせいで、この二百年、わたくしがどれだけ苦しんできたか理解できないでしょう・・・? けれど、その悪夢もいよいよ今日この日で終わるのよ」
ぷくりとした可愛らしい唇が不敵に笑う。大きくくりくりした目は、美しく輝き空にはためく魔王ルシファーに注がれていた。その目はこれ以上無い程に愛おしげで、そして悲しみと悦びの色を帯びている。
「クロウ陛下! 貴方のお父上は既に亡くなったのでは!?」
ディートハルトが当然の疑問を投げ掛けた。
クロウは黒曜石の瞳を見開いたままこくりと大きく頷いた。
「では、なぜあそこにいる!?」
既に死んだ筈の父がこうして姿を現すことなど考えられないことであった。
漆黒の翼を羽ばたかせ、ルシファーはクロウに視線をやった。
「ルシファー陛下はお前を滅ぼす為に蘇ったのよ!!」
ベリアルが壊れたように高く微笑む声が響き渡る。
魔王ルシファーとクロウの同じ黒曜石の瞳が、静かに互いを見つめ合っていた。