14話 帰ってきた紳士
白銀の毛の獅子の群れが王都を一望できる崖上に佇んでいた。
美しく風に靡き、さらさらと毛が揺れる度、獅子たちははあはあと荒い息を立てながらその凛々しく利口そうな目を細めてじっと風にまかせていた。その背には、それぞれ灰の軍服に身を包む騎士達と、白い軍服に身を包む騎士達が跨っている。
「これは一体・・・」
ディートハルトは逃げ惑う人々の悲鳴や、燃え盛る王都の街を見下ろし、愕然とした。
「くそう、間に合わなかったってことか・・・!」
くやしそうなアレクシの声に、サンタシの騎士達は皆込み上げてくる怒りと悲しみの入り混じった感情で、誰しも涙を堪えた。
美しかった王都は今や見る影もない。しきりに上がる黒い煙に、炎。あちこちに不気味な焦げた穴が地面に口を開けている。
「いや、まだ悲しむには早い。両の目を凝らしてよく見てみろ。まだ諦めずに闘う者がいるということを」
ライシェルは何も映すことのできない琥珀の瞳で、じっと王都を見つめ、何かを感じ取っているようであった。
「あれは・・・」
最初に声を上げたのは黒の騎士団唯一の女騎士、タリアであった。
彼女は確かに街の中で懸命に闘う者の姿を認めた。
この距離でははっきりとは見えないが、赤い炎の塊のようなもので王都を破壊していく何者かを妨害しようとする何者かが街の中にいるようだ。
城は見たところまだ目立って外傷は無い。王都の惨状から想像するに、白亜城は敵に占拠されている可能性が高い。
「先に行かれたフェルデン殿下です、きっと」
「恐らく、クロウ陛下もどこかにおられる筈」
サンタシの騎士達とゴーディアの騎士達は、互いに顔を見合わせた。国は違え、今、二つの国と二つの種族の目的は一つに一致していた。
「急げ! お二人の援護に参らねばなるまい!!」
ディートハルトは太く逞しい左の腕の拳を振り上げた。
銀獅子の背に跨った騎士達は勢いよく崖を駆け下りた。一つの目的の為に。
朱音は背中の痛みに堪えながら、駆けた。
しかし、身軽に建物の屋根を飛び移りながら街を破壊していくファウストには、地上からではとても追いつくことはできない。
(どうしよう、彼に追いつけない・・・!)
崩れ落ちてくる障害物を避けながらの追跡は、かなり応えた。かと言って、ここにゾーンを呼び寄せるには抵抗がある。ゾーンは暑さを嫌うことも一理あったが、彼を呼べば、間違いなく巨大な彼がファウストの攻撃の的になることは目に見えていた。これ以上、彼をこの闘いに巻き込むことなどできはしない。
「全部わたしのせいなんだね・・・。ルイやアザエルはわたしがお城を空けることを止めてたのに、わたしは自分勝手にお城を抜け出してきた・・・。わたしがそんなことしなかったら、きっとこの戦争は起こることはなかったのに・・・・」
朱音は、動かなくなった我子を抱き、泣き崩れる見知らぬ母の姿に、ただ呆然として立ち止まった。
「遠かれ近かれ、起こるべくして起こったこと。陛下が嘆くことはありません」
アザエルは立ち止った朱音の後ろから感情の篭らない声でそう言った。
朱音は今だ流れ続けている涙を手の甲で拭うと、アザエルを振り返った。
「ファウストを許すことはできない・・・。だけど、それ以上にわたしはわたしを許すこともできない・・・」
朱音は残された最後の時がもう目前に迫ってきていることを知っていた。
これ程の緊迫した中というのに、先程からひどい眠気を感じることも。そして、次に眠ったとき、自分が今こうしているように目覚めることがきっと無いであろうことも。
ふと、ファウストが炎弾で破壊するその向こうから、何か巨大なものが迫り来ることに朱音は気付き、黒曜石の瞳を大きく見開いた。
巨大な竜巻。
それは、ちょうどセレネの森あたりから音もなく近付き、木々や緑を片っ端から巻き上げ飲み込みながらゆっくりと王都へ近付いていた。
「何・・・、あれ」
「自然現象などではないようです・・・、あれは風の魔術・・・」
じっと碧い目を細め、アザエルは巨大な竜巻の中心に誰か発現者が存在することに逸早く勘付いた。
「と、止めなきゃ・・・!」
しかし、その一方でファウストはその風の存在をもともと見知っていたかのように、向かい来る竜巻とは逆の方向へと身軽に移動を始め、王都の外へと脱出しようとしていた。ここで彼を逃せば、今度は他の街を破壊しに向かうだろう。彼をみすみすここで見過ごす訳にもいかない。
ファウトは時計台の頂点に立つと、片手を上げて何か合図をしている。
ゆっくりと勢力を増しながら着々と王都に近付いてくる竜巻。
合図の後に突然空の上から現れたのは、一頭の飛竜。燃えるようなファウストの髪に相対するような赤みの鱗。背には蝙蝠のように大きく尖った翼が生え、ファウストはその背にひょいと身軽に飛び乗った。
「陛下、わたしがあれを追います」
アザエルの手にはすでに水の剣が創造されていた。
「うん・・・!」
朱音は瞳を閉じた。嘗てのクロウの記憶が鮮明に湧き上がる。
飛竜を追うには飛竜でなければならない。そして、血の契約をせし飛竜をここに召喚する法もまた、知っている。
すぐにでも駆け出そうとしているアザエルに「待って」と待機を促すと、ふと空を見上げた。
雲よりもずっと高い場所に小さな黒い影。羽を畳み、まっすぐに降下してくるそれは、クロウの飛竜であった。
真っ黒に光輝く光沢のある鱗に、ぐりぐりした大きな爬虫類の眼。それは、念じた朱音の元でファサと羽ばたき、とても静かに舞い降りた。
「アザエル、この子を使って。彼を追うにはこの子の速さが必要だよ」
朱音が眠っている間に、どうやらクロウが既にこの飛竜を近くへと呼び寄せていたようだ。
まだ子どもの飛竜は、久しぶりに主に会えたことを喜び、グルグルと喉を鳴らし大きな利口そうな頭を朱音に摺り寄せた。頭に生えかかった角はまだ未熟で、てっぺんが少し出たばかりだ。
「こんにちは、スキュラ」
朱音は不思議と恐れを抱くことは無かった。懐かしい気持ちになり、嘗てクロウが彼をそう呼んでいたように、飛竜の頭を優しく撫でてやった。
「なかなか立派な飛竜をお持ちじゃねぇか、クロウ陛下」
赤い鱗の飛竜の背に跨り、朱音達の頭上を旋回しながらファウストが言った。
彼の飛竜はスキュラよりも一回り程大きく、成長した優雅な動きだ。
「ファウスト、絶対に逃がさないから・・・!」
ぎっと緋色の眼を睨み返すと、朱音はスキュラに小さく耳打ちした。
「飛竜を扱える奴が俺の他にこの世界にいたとは思わなかったぜ、クロウ陛下。俺を追って来い」
ファウストは赤い飛竜の上でにっと笑いを浮かべると、大空へ舞い上がった。
「アザエル、竜巻を止めた後わたしもすぐに向かうから、あいつを足止めしておいて」
スキュラは朱音は背を差し出すように地に伏せると、大きな目で朱音を見つめ返してきた。
「スキュラ、アザエルをお願いね」
アザエルは静かに礼をとると、スキュラの背に跨った。
飛ぶことの楽しい幼い竜の子スキュラ。畳んでいた真っ黒い翼を広げると、一羽ばたきでぐんと雲の近くまで飛び上がった。
(あんたたちの好きにさせてなんかあげないから・・・!)
朱音はぐっと拳を握り締め、王都の目前まで迫った竜巻を見上げた。これ以上の王都の破壊をここで食い止めなければならない。あの竜巻に飲まれでもすれば、王都は塵だけを残してきっと消滅してしまうだろう。
まだ、この王都には多くの人々が生き存えている。ヴィクトル王やフェルデンが愛し、守ろうとしたこの国を、ここで諦めることなどできはしない。
「クロウ陛下、到着が遅くなってしまいました」
振り向くと、銀の獅子に跨るライシェルの姿がそこにあった。
「ライシェル!」
その後ろから続々と銀獅子に跨り現れた騎士達の姿に、朱音は驚き眼を丸くした。
「クロウ陛下、ここからは我々も尽力しますぞ」
「ディートハルトさん・・・!」
心強い味方の登場に、朱音は少し落ち着きを取り戻すことができた。
「クロウ陛下、フェルデン殿下は今はどこに・・・」
アレクシの不安そうな問いかけに、朱音は表情を曇らせ、俯いた。
「まさか、殿下に何かあったんじゃ・・・」
騎士達がざわつき始めたその時、背後から凛とした声が響いた。
「俺はここだ」
皆が振り向いたそこには、煤だらけになった、真っ白い軍服に身を包むフェルデンの姿。
「殿下・・・! ご無事でしたか!!」
ひどく嬉しそうにアレクシが喜びの声をあげたが、フェルデンはいつになく真剣な面持ちで続けた。
「ヴィクトル・フォン・ヴォルテヴィーユ陛下がお亡くなりになられた」
「何!?」
ディートハルトは信じられない思いでフェルデンを見つめた。
「敵の大将は偽指令官ヘロルド。その手先である炎使いファウストが我らの王都を破壊し、陛下を殺害した」
まるで第三者の視点から見ていたかのように、フェルデンは表情を変えないまま話した。きっと、上官としての威厳を保ち続けようと、必死でいるに違いない。
「俺は、陛下がお亡くなりになる前に国璽を受け賜った。これより、ヴィクトル陛下に代わり、このフェルデン・フォン・ヴィルティーユがサンタシの国王として即位する」
彼の即位に反対する者は誰一人いなかった。
彼が若くとも、王としての十分な気質を携えていることを知っていたこともある。そして何より、彼は精神面だけでなくこの大国をも背負ってゆける程の剣の腕を持ち合わせていた。
フェルデンは、若く、美しく、そして強い。
「いいか、王としてサンタシの騎士達に命ずる。王都には、まだ多くの民が怯えながら逃げ惑っている。一人でも多くの民を、安全な地へと誘導しろ!!」
「はっ」
ヴィクトル王の死は騎士達にとっても深い哀しみを抱かせたが、それをも感じさせぬほどのフェルデンの勇ましい声に奮い立たされ、白い軍服に身を包んだ騎士達は、ぐっと拳を胸に掲げると、静かに頭を下げた。
「お待ち下さい、新国王フェルデン陛下。我々の魔力も何かの役に立つかもしれません。わたしたちもご一緒しましょう」
ライシェルが銀獅子を歩ませ、フェルデンの前に進み出た。
「ライシェル・ギー・・・。ああ、頼む」
フェルデンはライシェルの手を握った。
不思議なことに、フェルデンはライシェル達の申し出を不快に感じることは無かった。あれ程憎んでいた魔族と共に、こうして互いに手を取り合っていることに、何ら違和感を覚えることは無くなっていた。考えてみれば、人間と魔族も姿形はほとんど同じだということに気付いたのだ。少し前までは、魔族と言えば無慈悲で冷酷だと思っていたけれど、それはひどい思い違いだったようだ。今は、この盲目の騎士が、とても心強く感じることができる。
朱音は再び王都に迫り来る巨大な竜巻に目をやる。
(だんだん大きくなってる・・・!)
もう、これ以上こうしてここで止まっている訳にはいかない。
「わたしはなんとかして竜巻を止めてみます! 皆さんは、どうか一般の人たちを助けてあげてください!!」
朱音は駆け出した。誰かが後ろで何か叫んでいる。
しかし、もう朱音は止まらなかった。
(止めなきゃ・・・! フェルデンの国を守らなきゃ・・・! 皆を守らなきゃ・・・!!!)
そうは言っても、今の朱音には、一体どうやってあの巨大な竜巻を止めればいいのか見当がつかない。
ただ、クロウの身体が何かを覚えているだろうことを信じるしか術は無い。
(クロウ・・・! お願い、どうやったらあの竜巻を止められる・・・!?)
朱音は心の中で懸命にクロウに呼び掛けた。
(ねえ、クロウ、わたし、一体どうしたらいいの!?)
しかし、クロウの返答がある筈もなく、朱音はそれでも諦めずに竜巻の向かい来る方へと全力で駆けていた。
(クロウ!!! あれを止めなきゃ、サンタシが滅びちゃうんだよ!? 貴方ならどうすれば救えるのか、知ってる筈でしょ!?)
「お手伝いいたしましょうか? 姫君」
ふと通り過ぎようとしていた柱の影から、何者かの声が投げかけられた。
「!!??」
竜巻は、もう、本当に王都のすぐ脇まで迫っている。
近付くにつれて、空へと吸い込むような強風が巻き起こり始めている。そろそろこうして走って近付くには辛いものを感じ始めていた、そんな時であった。
振り向いたその先に、ゴーディアの兵が一人、柱にもたれ掛かるようにして朗らかに微笑んでいた。
見慣れた揉み上げに、彫りの深い焦げ茶の目。
(ああ・・・、いつも貴方はそうだ。いつもわたしが助けて欲しいと願ったときに、どこからともなく現れてくる)
朱音は、目尻からじわりと熱いものが込み上げてくるの感じた。
「泣かせるつもりはなかったんですが」
困ったように優しく微笑むと、その人は柔らかく朱音の肩を抱いた。
そして、朱音はひどく驚く。もともと痩せ身だった彼だったが、以前よりもより一層痩細ってしまっている事に。
「一体、何があったんですか、クリストフさん・・・!?」
滲む視界で、朱音は震える声で訊ねた。
「合流がすっかり遅くなってしまって、申し訳無かったですね、アカネさん」
彼に只ならぬ何かが起きたことだけは確かだった。けれど、問い詰めたところで、きっと彼は自分から何があったのかを朱音に話すことはしないだろう。
優しい彼だからこそ、朱音に心配を掛けるようなことは決してしない。
「ルイが・・・、ルイが・・・」
「わたしがいない間、とても辛いことがあったようですね」
労わるような優しい声に、朱音は思わず堪えきれなくなった涙を溢した。
「でも、アカネさん。今はまだ泣く時ではありませんよ? あれをなんとかしないと、王都ともども、わたしたちも塵と化すことになります」
クリストフの言葉に、ふっと引き戻された朱音は、涙をごしごしとこすり、尚巨大化を続ける竜巻に目をやった。
「うん、そうだね、早く止めなきゃ・・・!」
そうは思うものの、どうやってあの大きな竜巻を止めればいいのかが未だわからない。
「だけど、どうやって・・・」
クリストフは朱音の手を自らの手首に握らせた。
そこで得た感触は、あの時の手枷の感触によく似ていた。あのアザエルの魔力を封じていた手枷とそっくりの物。
「アカネさん、まずはこれを外してくれませんか?」
クリストフの腕に嵌められた手枷は、確かに魔力封じの手枷であった。恐らくは、何者かがクリストフを捕らえ、脅威となるその魔力を封じようとしたのだろう。
「分かった、やってみる・・・!」
あの夜と同じように、朱音は目を閉じ、クリストフの手枷に触れた。
『カッ』
以前よりも難なくその手枷は外れ、金の彫刻を施されたそれは、土のうえにぽさりと落ちて転がった。
「ありがとうございます。さて、では参りましょうか?」
片目を閉じて合図すると、朱音は小首を傾げた。
「久しぶりに解放された魔力です。どうも力が疼いて仕方無いんですよ!! 今日は思う存分飛ばしますよ!!!」
そう言うと、クリストフは漲る風の力を発動させた。
突如巻き起こった風に朱音とクリストフの身体がふわりと宙に吹き上げられた。
「うわっ!?」
不意の出来事に驚き、思わず声を上げた朱音だったが、すぐにその懐かしい感覚に安心感を覚えた。クリストフの起こす風はひどく優しく心地良い。
巨大な竜巻に近付くにつれ、二人を包む風は次第に強い風に変化していった。
すぐ近くまで近付いたときには、二人を包む風は竜巻へと姿を変えていた。
二人は、その中心である目の中で宙に静かに浮いていた。
しかし、巨大化する竜巻には、大きさでは決して敵わない。二人の竜巻の三倍の大きさはあるに違いない。
「アカネさん、まずはこの竜巻をぶつけることで、進路を逸らすことからはじめましょうか」
クリストフの提案通り、朱音はこくりと頷いた。確かに、大きさでは敵わないかもしれなが、体当たりすることで、きっと進路くらいは変えられる筈である。
クリストフはいつもにも増して、強い風の魔力を発揮していた。
逆回転の竜巻を数回ぶつけることで、進路を変えることを狙ったクリストフの風は、ゆるやかに巨大竜巻にその身体をぶつけにかかった。
しかし、思いの他強力だった風に、クリストフの創り出した風は安易に弾き返される。
「まだ風の力が十分では無いようですね」
台風の目の中、クリストフはぐっと力を加えるように、更に注ぐ魔力を増大させていく。この強風を操るには、クリストフ自身かなりの体力と集中力を有していることだろう。
力を増大させて、更に大きくなった竜巻でもう一度試してみるが、またもや弾き返されてしまい、歯が立たない。
とうとう巨大化した竜巻の端が王都に足を僅かに踏み入れてしまった。一瞬にしてその部分の物という物が巻き上げられ、風の中に飲み込まれていく。
朱音は、この中に逃げ遅れた人がいないことを強く願った。
その心中を察してか、クリストフがほんの少し汗ばんだ表情で優しく微笑んだ。
「大丈夫です。きっと騎士達が住民の避難を進めてくれていますよ」
どうして彼がそんなことまで知り遂せているのかが不思議だったが、いつだって何もかもを知り尽くしているクリストフならば、そんなに驚くことではないか、と朱音は妙に納得していた。
そうしながらも、クリストフはまた力を加え始めた。
こうした強風を巻き起こすことは、例えると短距離走で必要となる云わば瞬発力と同じようなものである。クリストフが今している行為は、そう長く保ち続けることのできない類のものだった。
「きっと、これが最後でしょう。もう、これ以上は力を維持するのが難しい・・・!」
クリストフは、残された自らの力を全て出し切るつもりで、最大の魔力を発動させる。ぐんと巻き起こった風がクリストフの竜巻に加わり、大きさを増す。
しかし、それでもまだ巨大化し続ける竜巻の大きさには及んではいなかった。
朱音は胸にしまってあるペンダントを強く握り締める。
「クリストフさん、わたしに一つ考えがあります・・・!」
じっと見つめ返すクリストフの表情はひどく辛そうだ。
「いいでしょう、貴女の考えをぜひお聞きしましょう」
まだ何も言わないうちから、クリストフはこくりと頷き同意の意志を示してくれる。
これが失敗すれば、きっともう後は無いだろう。
しかし、朱音はこの紳士の信頼に応えるかのように、しっかりとした口調で言った。
「クリストフさん、風の向きを逆に変えることはできませんか? あっちの竜巻と同じ向きにするんです」
「ええ、勿論可能です。しかし、それではきっとあの竜巻の進路を変えることは・・・」
そう言いかけて、はっとしてクリストフは口元に薄い笑みを浮かべた。
(なるほど・・・、アカネさん、考えましたね・・・)
残った体力で風向きを逆に変えることは、相当の精神力が必要である。
クリストフは深く深呼吸をすると、じわじわと巻き上げた風を逆方向へと吹かせ始めた。
はじめはあまり変化が見られなかったが、ゆっくりゆっくりと、掻き混ぜた水を逆向きに掻き混ぜるかのように、クリストフの竜巻は逆回転に風を巻き上げ始めた。
クリストフの息はすっかり荒くなっている。もう、維持するのには限界が近付いていた。
「最後の試みです。さあ、今度こそ上手くいってくださいよ」
クリストフは、ゆっくりと巨大化する竜巻に自らの竜巻を近づけていく。
朱音は胸のペンダントを握り締めながら、瞳を閉じてただ風の音を聴いていた。クリストフの起こした、優しい心地のよい風の音を・・・。