8話 夢幻と少女
白亜城へ向けてサンタシとゴーディアの騎士達が疾風の如く馬を走らせる最中、朱音の異変を感じ取ったのは馬に同乗していたライシェルその人であった。
「陛下?」
突然脱力したかと思うと、その華奢な朱音の身体は危うく落馬しかけたのだ。寸でのところでライシェルはだらりと力無く気を失っている朱音の腕を捉えた。
サンタシ騎士団の後に続き、黒の騎士団の先陣を切って駆けていた馬を突如急停止したので、後に続いていた騎士達も慌てて自らが乗っている馬の手綱をいっぱいに引き、砂埃を巻き上げながら停止させた。
「ライシェル指令官補佐、どうかなさったのですか!?」
黒の騎士団で唯一の女騎士、タリアが、心配そうに馬で近付いた。
ライシェルはとりあえず朱音の身体を馬の背で安定するように抱え直すと、ぼそりと一言溢した。
「熱い・・・」
タリアはその意味を感じ取り、少年のように短く刈った海松色の髪をふわと揺らして、ひょいと馬から飛び降り、そして朱音のぐったりした額に手を触れた。
「・・・すごい熱ですね・・・。今までよく平気な振りをしておられたものです・・・。見たところ、酷いお姿をしておられますし、相当疲労が溜まっておられるようです」
前を走るサンタシの騎士達の姿は、既に視界から消えていた。
「このペースでの疾走はもう無理だ。この辺りで少し休みをとる。お前達は先に行ってサンタシ騎士団に合流しろ。おれが追いつくまでは指揮はお前に任せる」
「はっ」
再び馬に跨ったタリアに、ライシェルは付け加えた。
「余計な疑心を生みたくはない、フェルデン・フォン・ヴォルティーユに、陛下が意識を取り戻し次第すぐに追いつくと伝えておけ」
こくりと頷くと、タリアは他の騎士達を引き連れ、勢いよく駆け出した。彼女には遅れをとった分を取り戻し、尚且つサンタシの指令官に言伝をするという重要な任務が加わったのだ。
少しでも速く駆けられるようにと、両国の騎士は皆、僅かな武器のみを身につけた軽装備で出立していた。ライシェルも、今は胸甲を身につけていない。赤い刺繡の入った美しい藍の衣に、琥珀色の髪を高く小さくまとめた姿がやけに東洋めいて見える。
これまで休みなく走ってきたが、夜もかなり更けていた。すっかり深まった闇の中で、ライシェルは朱音の身体を馬に預けたまま、少し道を外れた場所へと馬の手綱を引いた。もともと目の見えない彼にとって、夜の闇も昼間となんら変わりは無い。
ライシェルは、自らの藍のマントを取り外すと、成る丈寝心地のいいだろう草の上を探してそれを敷いてた。そして馬からそっと抱き下ろした朱音の身体を横たえてやる。
そしてふと思った。この華奢な身体で、これまでどれだけ過酷な旅をしてきたのかと。
「アザエル閣下は貴方を選び、確立してきた地位や名誉さえも投げ打ってまで貴方に忠義を尽くした・・・。その理由が、今ならよくわかる。貴方ならば、両国の長き闘いに終止符を打つことができるかもしれない・・・」
「姉ちゃん」
久しぶりにこんなにも穏やかな気持ちで眠ったかもしれない。こんな安眠を手にしたのは、何週間、いや、何ヶ月ぶりだろうか。
「姉ちゃん!」
熟睡程の幸せは無い。いつまでも、この柔らかい布団に寝そべっていたい。
「おい! お姉ちゃんったら!」
思い返せば、どうしてここ最近はこんな眠っていなかったんだろうか? と、ふと疑問が浮かび上がる。けれど、今となってはどうでもいいことのようにも思える。
(ま、いっか。きっと受験勉強にでも勤しんでたせいだな・・・)
なんて暢気に寝返りを打とうとすると、
「このやろう! いい加減にしろ!」
と乱暴な怒鳴り声と同時に幸せの為の“布団”という魔法を無理矢理引き剥がされる。
「・・・っさいなあ・・・。人がせっかくいい気持ちで寝てるっていうのに・・・」
重い目をこすりながら、朱音はのっそりと起き上がった。
まだ半分夢の中にいるような気分である。
見慣れた自分の部屋と、壁に貼られた人気アイドルグループJ’sのポスターが視界に入ってくる。参考書とノートが開けっぱなしの勉強机には、食べかけのジャガリコの容器が載っかっている。
湿気てしまっていなければいいが・・・、とちょっぴり不安に駆られる。
「姉ちゃん、もう昼だぜ? 母さんがいい加減起こしてこいって」
ぶすっと不機嫌に引き剥がした布団を床にばさりと置くと、真咲が言った。
「ああ、もう、わかったってば」
嫌々ながら姉を起こしに来たことは賞賛に値するが、今の朱音にはそれさえも腹立ちの要因となりえる。
「あー、姉ちゃんまた散らけたまま寝てる! ってかまた菓子の蓋くらい閉じとけよ! 知らねえよ、ゴキが湧いて出ても」
苛々の頂点に達し、朱音はとうとう枕を真咲に投げ付ける。
「って! こんにゃろう、おれとやる気か? 道場跡継ぎのこのおれとやる気なのか!?」
こんな狭い部屋でやり合ってたまるか、と朱音は馬鹿馬鹿しくなってベッドから置き出した。
「おい、臆病者! 逃げる気か?!」
ふんっと一瞥すると、朱音は真咲に言い捨てた。
「ばっかじゃないの。あんたよりわたしの方が数段上なんですけど? あんたなんかに跡継ぎ務まってたまるかっての」
べっと舌を出すと、後ろから「むきーっ」という怒りの喚叫が響いてくる前に、そそくさと退散した。
台所へ向かう為、階段を降りながら朱音はふと胸に引っ掛かりを覚えた。
昨日と何も変わらない日常で、ありふれた休日だというのに、妙に懐かしく感じる。それに、なんだかとてつもなく長い夢を見ていたような気もする。
けれどどんな夢を見ていたのかは思い出せない。朝起きると、見た夢をすっかり忘れてしまうことなんてよくあることだ。
「朱音、おはよう。ご飯は?」
エプロンをつけた母が台所から顔を出す。
「おはよう・・・。あれ、なんかいい香りがするけど」
甘い香りに誘われ、匂い嗅いでぴんときた。ホットケーキである。
「真咲が朝御飯に食べたのよ。冷めちゃってるけど、食べる?」
「うん・・・」
寝ぼけ眼で椅子に気だるげに掻けると、ラップのかかった皿を朱音に手渡してくれた。
オレンジジュースの紙パックが出しっぱなしでテーブルの上に置いてあって、朱音は昨晩寝る前に飲んだまんまのマグカップにこぽこぽとそれを注いだ。
蒸気でしっとりと湿ったサランラップを剥がすと、ちょっぴりふんわり感が抜けてしまったぬるいホットケーキを見つめて「あ」と声を出す。
「なに」
と、母の声。
「マーガリンと蜂蜜・・・」
面倒くさいと思いながらも、朱音はよっこいせとのろのろと立ち上がり、冷蔵庫をバタリと開いた。
涼しげな風と、独特の冷蔵庫のにおい。
目的のマーガリンの容器と蜂蜜のチューブを取り出すと、朱音は再びどすんと椅子に腰掛けた。
冷めたホットケーキにマーガリンを塗る作業はなかなか骨がいったが、そこは根気強く丁寧に塗りつけ、仕上げはたっぷりの蜂蜜の筈だった・・・。
しかし、蜂蜜の透明チューブを手にした途端、透き通った蜂蜜色になぜかその手が止まる。
「この色、どっかで・・・」
とろりとした蜂蜜をじっと見つめるが、一体どこでその色を見たのか、やっぱり思い出せない。
「母さん、わたし、この色どっかで見たことあるんだよね」
そう言った娘の言葉に、母は苦笑しながら答えた。
「そりゃそうよー。蜂蜜なんて、普段いっつも見慣れてんだから」
そう言われても、朱音はどうもまだ納得できない。
「そうじゃなくてー・・・」
はっとして朱音は待ち密のチューブをテーブルに置いて見つめた。
「そうだ・・・。この色、夢に出てきてた・・・!」
馬鹿らしいかもしれないが、これは重要なことのような気がしてならなかった。
「へえ、夢? どんな夢? ホットケーキの夢とか?」
母はまな板の上でウインナーに切れ込みを入れながら冗談半分で返してくる。
「違うってば。なんか・・・、ちょっと悲しい夢だった気がする・・・」
しみじみと話す娘に、母はちょっと意外だったのか、「へえ」と真面目な相槌を打った。
蜂蜜を見つめながら、朱音は、なぜか忘れてしまった夢がとても重要で、どうしても思い出さなければいけないような焦燥に駆られる。
けれど、思い出せなくて・・・。
蜂蜜を見る度に胸が苦しくなるような感じを覚えるのだった。
「殿下、様子が変です! 先程まで我々のすぐ後を走っていた黒の騎士団達の姿がありません!」
アレクシがフェルデンに声を掛けた。
「やはり、おれたちは嵌められたのか・・・!?」
騎士達の中に動揺が走り始める。
「あいつら、まんまとサンタシへ入り込み、囲い込むつもりなんじゃ・・・」
『ピロロロロロロロ』
頭上で黒い影が弧を描いて翔け回る。バスカは夜目がきく。
バスカに運ばせたヴィクトル王宛ての文はすでに王の元へと届けられていた。
無言のまま、フェルデンは馬の速度を僅かに落とすと、左腕をバスカの止まり木代わりに掲げた。ファサ、と優雅に舞い降りた王家の鳥は、駆け続ける馬の上で足に結わえつけられている文を主人に差し出した。服の袖に準備してあった干し肉をバスカに咥えさせてやると、やれやれというように、鳥は再び空中へと舞い上がった。フェルデンは片手で器用に文を広げていく。ともすれば、走る風で吹き飛ばされそうになる羊皮紙の切れ端を手の甲でうまく固定し、書かれている文字に目を走らせた。
“忠告は受け取った。今のところまだ進軍の情報は入ってきてはいない。しかし、迎え撃つ準備はしておくつもりだ。僅かな兵力しか手元に残ってはいまいが、王の務めを最後まで果たす覚悟でいる。
遅くなったが、この度のディアーゼ港での働き、ご苦労であった。そなたの働きは王家の誇りだ。”
読み終えた羊皮紙をぐっと握り締めると、無意識のうちに、フェルデンは出立前からずっと頭から離れようとしないフレゴリーの一言を復唱していた。
出立直前、フレゴリーが医療具を部下にサンタシ陣営まで運ばせる際にフェルデンに話かけてきた。
それというのも、小柄の騎士ユリウスの状態が気になるだろうとフレゴリーが気を回してくれたのだが、これが結果的に出立後もフェルデンの心を掻き乱すこととなってしまった。
「そろそろ出立だと聞いたんだが、今、話しても?」
馬の背に食料の荷を結わえつけている最中であったが、フェルデンはその手を止めてフレゴリーに向き直った。
「ええ」
中年の医者は、ごほんと咳払いを一つすると、ユリウスの状態について分かりやすく話し始めた。
「まあ、簡単に言えば命に別状はない。急所は外れているし、そちらの医療班の応急処置が適切だったこともある。けれど、それより問題なのは剣の刺し傷というよりは、別の傷・・・。メフィスの植物による攻撃を受けた傷ですな」
命に別状はないと聞いてほっとしかけた矢先、フェルデンは顔を顰めた。
「その傷がなにか?」
ふむ、と頷くと、フレゴリーは口髭をぽりぽりと人差し指で掻きながら続けた。
「植物に毒が含まれていたせいで、今は昏睡状態に陥っている。解毒薬を作って飲ませたが・・・、しばらくは目を覚まさないかもしれない」
油断はできない状態かもしれないが、彼の命に別状が無いことに心底安堵した。
「フレゴリー、あなたにはいつも助けられてばかりだ。大した礼もできないが・・・」
敵国の医者だというのに、フレゴリーには、自らの命だけでなく、部下であり友人である者の命まで救って貰ったことになる。若き頃のフィルマンが彼に憧れ、目標にしてきたと話したこと、今ならその気持ちがよく理解できる。
「いいや、わしは大したことはしとらん。確かに傷の手当はしたが、実は傷自体よりも本人の“治りたい”という意志が何より重要なんだ。君の怪我は、君自身の意志が治したのさ」
その言葉は、フレゴリーの謙遜というよりは、真にそう思って医者を続けてきたというような口振りだった。
「そんな謙遜を。あなたは素晴らしい医者です、フィルマンもそう言っていました」
おお、あのときの若造か! っと、フレゴリーは嬉しそうに微笑んだ。彼は若き頃のフィルマンを記憶に止めていたようだ。
「さて、そろそろ患者の様子が気になる。この辺で失礼するよ」
去り際にぴこりと頭を下げると、フレゴリーは意味深なことを言い残していった。
「全く、ここへ来てからはびっくりし通しだ。あのときの怪我人はサンタシの王子だというし、看病に来ていた別嬪のお嬢さんはゴーディアの国王だというし・・・。一体どうなってる、次は一体何が飛び出す? 王妃か? お姫さんか・・・?」
ぶつぶつと言いながらテントへ戻って行ったフレゴリーの背中を見つめながら、フェルデンは眉を顰めた。確かに、ゴーディアへサンタシの遣いとして行った際に、傷の悪化の為に急遽ボウレドへ立ち寄り、フレゴリーの診療所で世話になった記憶ははっきりと残っている。
しかし、看病してくれていたのは、フェルデンの記憶が正しければ、旅の同行をしていたユリウスだった筈だ。当然のこと、“お嬢さん”なんて人物が診療所に訪ねて来た記憶は全くもって無いし、仮に意識を失っている間に来ていたとしても、そうだとしたら、きっとユリウスがそれをフェルデンに伝えている筈だ。
それなのに、フレゴリーは確かにはっきりと、“看病に来ていた別嬪のお嬢さん”と口にしていた。
もう一度、熱に浮かされたあの晩の記憶を辿ってみる。
確かに、フェルデンはあの晩不思議な夢を見ていた。
温かい手の温もりや、懐かしいチチルの実の甘い香り。
「きっと良くなるから・・・」
と、耳元で囁く優しい少女の声。
あれらは全て、痛みと熱がフェルデンに見せた夢幻だとばかり思っていたが、それだけではなかったらしい。
(どういうことだ・・・? それに、フレゴリーはそれをゴーディアの国王だと言わなかったか・・・?)
出立を直前にて、不謹慎ながらも、ユリウスに事実を問い質したい思いに駆られたが、生憎彼は未だ意識を取り戻してはいない。
ユリウスがどうしてこのことを自分に隠していたのかを考えると、ますます分からなくなってくる。
一度は朱音の命を引き換えに覚醒したクロウに憎しみすら抱き、その首に手を掛けてしまったというのに、どうしてその当の本人が、敵国の王子の看病の為にわざわざ城を離れやって来たのだろうか。
(まさかとは思うが・・・、城を空けた隙に国王の座を乗っ取られたということはないだろうな・・・? いや、まさか・・・な。憎むべき敵国の俺に、どうしてあの王がそこまでする必要がある・・・?)
けれど、初めてゴーディアで少年王に謁見したとき、切なげにこちらを見るめていた彼の表情や、その美しい頬を伝って零れた一粒の涙が何度も思い出されて仕方が無い。
そしてあの夜、彼の首に手をかけたとき、あの世にも美しい少年王は、抵抗の一つもせず、じっと声もなく泣きながら瞳を閉じていた。まるで、フェルデンに自らの命を捧げるつもりかのように・・・。
(お前は一体、何なんだ・・・、クロウ・・・!)
馬の手綱を握る手に思わず力が入るが、突然すぐ脇から、
「フェルデン様!」
と、女の声で呼び掛けられた。
はっと現実に戻って隣をに視線をやると、ゴーディアの女騎士がすぐ隣を馬で走らせていた。
「お前は・・・」
「ゴーディアの黒の騎士、タリアと申します。ライシェル指令官補佐から伝言を預かって参りました」
馬の走る速度を落とさないまま、フェルデンはタリアにこくりと頷いた。
「実は、クロウ陛下が疲労でお倒れになりました・・・。ライシェル指令官補佐は陛下の意識が戻られるまでは少し休みをとると、そして、その後必ずこちらに追いつくとお伝えするように命令を受けました」
「倒れた・・・?」
傍で一部始終を耳にしていたアレクシが、疑わしげな目でタリアを睨んでいたことに、フェルデンは気付いてはいなかった。
「ええ。陛下はかなり過酷な旅をして来られたようです。体力的にも、精神的にもとうに限界を過ぎておられます。心配はご無用です。ライシェル指令官補佐なら、一日程度の遅れならすぐに追いついて来られますから」
相当の速さで駆けさせているにも関わらず、それでも一日程度ならば追いつけるというタリアの自信あり気な言葉に、フェルデンは、
「わかった、信用する」
と、意外にもあっさりと返した。
しかし、心中はひどく動揺していた。なぜかはわからないが、自分が何か重要な事柄を見落としてきたのではないか、という胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
 




