7話 相携う者たち
長い間続きを書けない日が続きましたが、ようやく勢いを取り戻しつつあるようです。頭の中の妄想が途切れないうちに、物語の続きを書き綴っていきたいと思います☆
「陛下、遠征で碌な食料が残っておりませんので、こんな物しかお出しできませんが・・・」
朱音は湯気の立ち昇る、温かいスープの器を手にとった。
思えば、何日かぶりの温かい食事だった。日持ちのするパンとスープという簡素なものだったが、それは朱音にとっては十分な食事であった。
ゴーディアの船の中で、朱音は今、丸いテーブルを挟んでライシェル・ギーと向かい合っていた。
盲目の彼が、どうして“新国王クロウ”と名乗る怪しい少年を信用してくれたのかは朱音にも分からないが、彼は疑うどころかすぐさま馬を降りて頭を垂れた。
「無礼な立ち振る舞い、申し訳ございませんでした。まさか、この戦場に陛下御自らお越しになっていようとは、思いも寄りませんでしたので・・・」
朱音はスープを一口啜ると、小さく首を振った。
「いいえ。それより、どうしてわたしを信じてくれたんですか? もしかすると、国王を名乗る別人かもしれないのに」
それを聞いた途端、ふっとライシェルは俯き表情を緩めた。
「確かに自分は陛下のお顔を拝見することはできません。しかし、その分目に見えぬものを感じ取ることができます。そう、身体から発せられる目には見えない色・・・。その色は亡きルシファー陛下のみが携えておられた特別な色です。他の誰にも真似することなどできません」
そう言ったライシェルの顔を見つめた後、彼の琥珀色の眼が本当に何も映していないと思うと、なぜか不思議な気持ちになった。
船の外は未だ張り詰めた空気で満ちてはいたが、一時休戦となっていた。
窓の外には、相変わらず半透明の薄い膜のような結界が張り巡らされている
のが伺える。サンタシ側も、いつ何時仕掛けてくるかわからないゴーディアを警戒し、まだ臨戦態勢を崩していないようだ。
フェルデンを含むサンタシの兵達も、今は自軍の医療班陣営地へと一旦引き上げている。
「ライシェルさん、この戦はわたしの望んだものではありません。嵌められてしまったんです・・・。裏でわたしを陥れようと糸を引いている者がいます」
「それでは、この戦は陛下の指示ではない・・・と?」
ぐっと拳を握り締め、朱音は「はい」としっかりとした口調で答えた。
「もしそれが事実だとすれば・・・」
こくりと頷くと、朱音はこう付け加えた。
「指示しているのは、ヘロルドです」
ぴくりと肩眉を吊り上げると、ライシェルは難しい顔をして考え込んだ。
「ヘロルド閣下ですか・・・。初めっからどうもいけ好かないとは思ってはいましたが、まさかこのような行動に出るとは・・・」
しかしどういうことか、と疑問に思う。たとえそれが最高司令官の座を手に入れたヘロルドの仕業であったにせよ、あの元老院どもが黙ってそれを見過ごす訳が無いというのに。
(ほう・・・、なるほど。あの男、元老院どもの弱みにでもつけ込み、巧く操ったか・・・)
「ですから、お願いです。これ以上多くの人達が無意味な血を流す姿は見たくないんです。ここは引き下がって貰えませんか」
朱音は必死にライシェルに懸命に訴えかけた。
「それが陛下のお望みならば、我々は喜んで従いましょう」
意外にも、すんなりと受け入れられた朱音の願いだったが、その直後、ライシェルの口から告げられた驚愕の事実で安堵感はすぐさま打ち消されることとなった。
「しかし陛下、問題が・・・。我々が大人しく引き下がったところで、戦を止めることはできません。陛下、どうしてこの戦場に“最高司令官”の姿がないのかと疑問には思われませんか?」
はっとして朱音は窓の外に目をやった。
そうだ、ここに居なければならないヘロルドの姿がどこにもない!
「実は我々は囮なのです。本陣はサンタシの背後から攻め入り、こちらの戦場の為に手薄になった城と城下を一気に攻め落とすという計画なのです。奴はその陣で指揮を・・・」
「!!」
驚愕して朱音は椅子が倒れてしまったことも気にならない程勢いよく立ち上がっていた。
「それの到着はいつ頃の予定なんですか・・・!?」
苦い表情のまま、ライシェルは答えた。
「恐らくは、明日、あるいは明後日までには・・・。数日前に入った連絡では、リストアーニャの港に商船として入ったと知らせを受けていますので」
「そんな・・・! なんとかして止めなきゃ・・・!」
「まだ間に合うかもしれません。我々も、陛下にお供致します。すぐに陣営にいるサンタシの指令と連絡を取らせましょう」
ぴりぴりとした空気の中、互いの陣の中間点に簡易テントを設け、そこで速やかに上官だけの会合が開かれることとなった。
甲は取り去ってはいるものの、未だ鎧を身につけたままの姿で、懐かしいあの青年がテントの入り口を潜って中に入って来たときには、朱音は緊張で直視できなかった。
俯いたまま、彼の存在が静かに用意された椅子に腰掛けるのを感じながら朱音は勘付かれない程度に深く息を吸い込んだ。
「国王自ら会合を申し込むとは、一体どういう狙いだ」
突然の声に驚き、朱音は思わずその声の主に視線をやってしまって後悔の念に襲われた。
以前よりも落ち着いた雰囲気を纏ったフェルデンの姿は、いつの間にかすっかり少年の名残も消え、すっかり大人のものへと変わっていた。
しかし、その透けるようなブラウンの瞳は、あの頃となんら変わってはいない。今では耳を覆ってしまう程に伸びた金の髪は、後もう少しで結える日も近いだろう。
朱音は気を抜けば溢れ出そうになる涙を、懸命に押し止め、平静を装って返答した。
「応じてくださって、ありがとうございます。フェルデン殿下・・・。今からお話することは、一刻の猶予を争う内容のものです。先にお願いしておきます。今すぐ結界を解除して、出立の準備を進めて下さい。そして、叶うならば・・・、ディートハルトさんにもこの会合の中身を伝えてください」
嘗て魔城にて謁見の際に見せた、クロウに対する嫌悪の目と同じものが向けられていることに朱音は気付いていた。
それは、身を裂かれるよりも辛いことであったが、朱音は決して彼から目を逸らすことなく話続けた。
「一体何を言っている・・・? そのようなこと承知できる訳がない!」
明らかに怒りを露にしているフェルデンの感情を感じ取り、ライシェルが付け加えた。
「落ち着け、フェルデン・フォン・ヴォルティーユ。陛下が仰りたいことは、一時我らが提携しようという提案だ。何もサンタシを乗っ取ろうという気などない」
フェルデンはじっと何も映してはいないライシェルの目に僅かに視線をやった。
「どういうことだ?」
「フェルデン殿下、この戦争はわたしが指示したものではないからです。今、わたしに成り代わり、国や軍を欺き指示をしている者が別にいるんです。ですから、わたしはこの無意味な戦を止める為にここへ来ました。でも、できなかった・・・」
腕組みをし、フェルデンは伺うように朱音の言葉に耳を傾けた。
「わたしは大きな勘違いをしてしまいました・・・。ここへ来ればきっと、この戦争を止めることができると思っていたのに、実はここでの戦いは囮だったんです。彼は、手薄になった白亜城を背後から一気に攻め落とす気でいます」
「なに・・・!?」
拳をテーブルに強く叩きつけた拍子、上に乗せられていた水の入ったグラスが勢いよく地面に落下し粉々に砕け散った。
「殿下! 何かありましたかっ」
テントのすぐ外で控えていたアレクシが、慌てて中へ飛び込んで来た。
「その話が事実だという証拠はあるのか? お前達ゴーディアの嘘ではないという確証はどこにある?」
先程まで矛先を向け合っていたこの状況で、こうした現状を何の疑いもなく受け入れることはきっと難しいことだった。
「証拠・・・。さすがに証拠は提示できないが、我ら黒の騎士団はここでの戦いを放棄し、現段階から全面的にクロウ陛下直々のご命令に従う意思でいる。疑うのは仕方の無いことだが、そうこうする間に本当に手遅れになってしまうぞ」
ライシェルの言っていることは的を得ていた。もしこのことが本当なら、城に残してきたヴィクトル王の身が危ない。
「わたしたちのことを信用して欲しいとは言いません。ですが、今だけは手を取り合いませんか? ゴーディアも、今は彼の脅威に晒されているんです。ヘロルドを止めないと・・・。彼を止めたいという点では、サンタシも同じでしょう?」
少年王はまるで邪気を感じさせない真っ直ぐな目でフェルデンを見返してくる。その目は、似ている筈もない、いや、決して似ていてはいけないあの少女の瞳にフェルデンには重なって見えた。
僅かに動揺し、初めてフェルデンは朱音から視線を外した。
「フェルデン・フォン・ヴォルティーユ。もしも我が騎士団と手を結ぶというのであれば、そちらの陣営に人員を配置させよう。そう・・・、確かうちの副司令官と相打った騎士が居たな。恐らくは相当の痛手を負っている筈だ。最高の医療班を送ろう」
アレクシは大きな物音がして慌てて入ってきてはみたが、どういう訳か“提携”の話にあがっていることと、あのゴーディアの方から人員を送るとまで提案してきたことに、信じられない思いでいっぱいだった。
「殿下・・・、一体どういった経緯でこうなったのかはわかりませんが、ゴーディアの提案はこちらにとっても損な話ではありません。実際、ここで傷を負った兵の数は多く、ユリウス上官の具合もあまり良くありません・・・。魔族の医療魔術は我々にとっても必要です」
アレクシはそっとフェルデンに耳打ちした。
ユリウスの状態が良くないことも、今回のディアーゼ港での戦いがサンタシ騎士団にとって、予想以上の痛手になってしまったことも、フェルデン自身よく理解していた。
「いや、やはりその提案は引き受けられない」
「まあまあ、そう結論を急ぐことはない」
急にテントの入り口を中年の男がくぐり抜け、姿を現した。
「その医療班の長はこのわしだ。覚えておらんかい?」
薄暗闇のテントの中でじっと目を凝らすと、見覚えのある風貌に、フェルデンはぴんときた。
「あなたは確か・・・。ボウレドで傷を手当てしてくださった街医者の・・・」
「ああ、覚えてくれていたか。まさか、君がサンタシの王子さんだったとは」
フレゴリーは口髭ぽりぽりと掻くと、ぱちくりと目をしばたかせた。
「昔の経験もあって、今回この遠征の医療班の長として引き抜きを受けたんだ」
フェルデンの疑問に答えるように、フレゴリーは付け加えた。
「ゴーディアの副司令官殿も、相当の傷を負ってはいたが、今し方やっと落ち着いたところだ。聞けば、あのときの生意気な小柄坊やが相打ったそうじゃないか。そこでだ、わしに彼を診させてはくれないか?」
フィルマンがいつしか話してい憧れの医者、フレゴリーこそ、今この目の前にいる男であった。
“患者に敵も味方もない”と言ったフレゴリーの言葉に、きっと嘘はないだろう。
「どうだろう、このフレゴリーに免じて、一時ゴーディアの申し出を受け入れてはくれんだろうか? 実際、そちらの怪我人達の状態が気になって仕方が無い」
朱音自身、思わぬ人物の登場にひどく驚いていた。
僅かに考えた後、フェルデンはフレゴリーに問うた。
「フレゴリー、あなたならユリウスを救えるのか・・・?」
「手遅れにならんうちならばな」
間髪入れずに返ってきた自信に満ちたフレゴリーの答えに、フェルデンはこの男ならば信じてもいいと、そう思えた。
「アレクシ、兄上に急ぎ文を送る。危険が迫っていると文に認めろ。バスカに届けさせる。おれはすぐにロランに結界を解除させる」
「はっ」
朱音は咄嗟にフェルデンに頭を下げた。
「ありがとう・・・!」
驚いたようにフェルデンは朱音をまじまじと見下ろした。まさか、ゴーディアの国王が易々と自分に頭を下げるなどと思ってもいなかったのだ。
「おれが信用したのはフレゴリーの人柄だ。いいか、少しでも変な素振りを見せれば、おれたちは全力でおまえたちを潰す」
魔族に妹を殺され、そして更にも朱音を奪われた憎しみは尚も生き続け、フェルデンの中で消えることなく燃え続けている。しかし、残された僅かな時間をこうして近くで過ごすことができることだけでも、朱音にとっては幸せなことだった。
「ええ。必要があればいつでもわたしを殺してくださって結構です」
邪心なくにこりと浮かべられた美しすぎる少年王の微笑みに、フェルデンはなぜか胸の奥が疼いた。
“こちらからディートハルトに最強の手持ちの札を持ってゆかせる。”
そうヴィクトルの手自ら書かれた文に記されていた。きっと、その手持ちの札というのがこの少年王だったのだろう。
どういった経緯でディートハルトが彼を連れてこの地までやって来たのかは分からないが、きっと自分がディアーゼに来ている間に何か白亜城であったのだということだけは想像できた。
「それとアレクシ、サンタシ騎士団で動ける者全てにすぐ出立の準備をさせろ。半刻後、すぐにここを経つ」
朱音は出立の前のディアーゼ港の浜の一端で、小さく座って、遠くの小波を見つめていた。
港は今回の戦いでひどく荒れ、未だ息絶えてしまった兵士や騎士たちの屍があちこちに無残に転がっている。煙をあげて尚沈没していくゴーディアの船に、地面のあちこちに突き刺さった矢。
いつの間にか日が傾き、空は夕焼けに少しずつ浸食され始めている。
慌しく出立の準備に奔走する騎士たちの声が聞こえてくる。
怪我人や騎士以外の兵達はこのディアーゼ港に留まり、傷の手当や港の整
備、復興にしばらくは尽力させられるらしい。
「残像・・・か。フェルデンを見るとこんなにも苦しいのに、この想いさえもただの残像なんだね」
朱音は胸元にしまってあったペンダントを取り出すと、それをぎゅっと握り締めた。
「陛下、そんな悲しいこと言わないで下さい。陛下は陛下ですよ。僕はどんなときもそのままの陛下が好きです」
朱音のすぐ隣に腰を下ろし、ふわりと優しくルイが微笑んだ。
「ルイ、ありがとう」
そう返したそこには、本当は誰の存在もない。
しかし朱音は、振り向けば、「陛下」と笑ってまだそこに居てくれているような気がしてならなかった。
目を閉じれば、あの恐ろしい光景が蘇ってくる。まさしく、あれは灼熱の地獄だった。大切な友人が一瞬にして灰となり消滅してしまったあの日から、朱音は火を見る度に手先が震えるのを止められないでいた。
(もう誰一人失いたくなんかない・・・!)
朱音はふと背後に人の気配を感じてそっと振り返った。
「クロウ陛下」
見上げると、じっと朱音を見下ろすディートハルトの姿があった。
「どうかしましたか、ディートハルトさん」
さっとペンダントを隠すようにして胸元へ押し込むと、何気ない振りをして朱音は言った。
「その手・・・、どうなさったのです?」
目敏い彼は、小刻みに震える朱音の手に気付いていたのだ。
「え、なんのこと? どうもしないけど」
ぱっと手を服の中にしまうと、そっけなく視線を逸らした。
「わたしには、どうもしないようには見えませんな・・・。ひどい顔をしていますぞ」
そう言われて、朱音は初めて自分の顔の異変に気がついた。
朱音は泣いていた・・・。いつの間にか顔中が水にでも浸かったかのようにぐっしょりと涙で濡れていたのだ。
こんな辛いときには、いつだって大好きな父や母、憎たらしいところもある真咲が朱音を励ましてくれていたのに、今は本当に朱音は一人ぽっちだった。
もの凄く皆に会いたいと強く感じるのに、どうしても家族の顔が思い出せない。そしてその声さえも・・・。
「気付かなかった・・・、ごめんなさい。すぐにおさまりますから、他の人には黙っててくださいね」
ぐしぐしと服の袖で涙を拭うと、朱音は懸命に作り笑いを浮かべた。
「わたしは・・・、貴方を誤解していたのかもれませんな。どんなに傲慢な愚王かと思っていたが、わたしには貴方が若くとも立派な王に見える」
朱音が「え」と首を傾げると、ディートハルトはケロイドの傷を引き攣らせながらにかりと笑った。
「フェルデン殿下から事の成り行きは全て聞きましたぞ。サンタシとゴーディアの騎士が手を組む日がわたしの生きている間に訪れるとは思ってもいませんでしたのでな、不謹慎ながらもちょっと胸が騒いでおるのです」
そうして、この素晴らしい提案をしたのが少年王だと知って、ディートハルトはわざわざこの少年王の姿を探して、忙しい最中にここまでやって来たのだった。
「正直なところ、わたしには殿下とライシェル・ギーの戦いを止めることはできなかった・・・。礼を言っておきますぞ、クロウ陛下」
そう言って、ディートハルトはくるりと元来た道に向き直った。
「いいえ。わたしの方こそ、ここまでわたしを連れてきてくださって有難うございました。そして、またしばらく、よろしくお願いしますね」
背中を向けて力強く歩き始めたディートハルトは、大きな左の手を挨拶代わりにひらひらと振りながら立ち去っていった。
朱音はパンと両の頬を自らの手で軽く叩くと、「よし!」小さく掛け声をあげた。
(こんなところで挫けててどうする、朱音! まだ完全に消えた訳じゃないだから、最後まで自分の役目を果たさなきゃ! ここでへこたれちゃ、新崎家の血が廃る!)
それに、朱音はまだ小さな希望を捨てていなかった。ひょっとして、ひょっとすると、神様か天上人だか何だか知らないけれど、不幸な一人の少女を哀れに思って、何か得策を講じてくれるかもしれない・・・! と。