6話 強き想い
ディートハルトは急いていた。剣士として長年の勘が、不吉を告げていた。
すでに白亜城を出立してから一日半が経過していた。太陽は真上をとうに通り過ぎ、夕刻に近付いてきている。ディートハルトは、決して馬の足を止めることなく、知り尽くしたサンタシの、最短の距離である道なき道を走り続けた。
少しでも気を抜けば、崖下に真っ逆さまという場所や、川の中を馬で突っ切ることもあった。飲み食いの一切をも絶ち、彼はひたすら目的地ディアーゼに向けて馬を走らせてきた。
とは言え、腕の中の少年の様子が気にならなかった訳ではない。
城を発つときから、あまりいいとは言えない顔色の少年王だったが、慣れない馬で長時間揺すられていることもあって、その横顔が死人のように真っ白なのには少々驚いた。ふと、この少年は死んでいるのでは・・・? と不安に思うこともあったが、彼は定期的に黄色い胃液を吐き出すので、それがどうやら生きてはいるようだという確認になっていた。
長旅でぼろぼろになった上に加えて、城での惨劇により血だらけになった衣服は、出立前に白亜城で調達した旅装束に取り替えられてはいたが、彼の顔や頭は未だ砂埃で塗れていた。さすがに風呂に入る時間まではなかったのだ。
だが、なるほどまだ王としては幼い少年王の姿ではあったが、ディートハルトが嘗て目にした“魔王ルシファー”とあまりによく似ていた。
ふとその美しさに見入りそうになるが、気を抜けば彼が目を開いたままふと意識を遠ざけ、落馬しかけるので、ディートハルトは彼の細っこい腕をいつでも掴めるように準備しておかねばならなかった。
「クロウ陛下、貴方はもしかするとしばらく何も口にしておられんのでは・・・? どこかで休みをとりましょうかな?」
そんな余裕はどこにもないが、あまりの具合の悪さに思わずディートハルトは少年王に訊ねたこともある。しかし、死人のような顔で彼はこう答えた。
「いえ。今はディアーゼに向かうことの方が大事です。ディートハルトさん、お願いです。なんとか間に合わせて下さい」
ディートハルトは馬の足を止めることなく、ひたすらに駆け続けた。
「あれは・・・」
朱音は呟いた。
ディートハルトもはっとして幾筋もの煙の立ち昇る遠くの空を見つめた。もう随分ディアーゼの近くまで来ていた。潮の含んだ海風が風を切って走る二人の頬を撫で始めていた。恐らくは、あの空の下では激戦が繰り広げられていることだろう。
「いかん・・・。間に合うか・・・」
渋面でディートハルトは馬の手綱を勢いよく打った。じっと朱音は屈強な老剣士の服にしがみ付き、じっとその下で手を握って祈った。
(どうか・・・、彼が無事でありますように・・・!)
と。
朱音は一面に壁のように張り巡らされた半透明の結界ごしに呆然と見つめた。痩せっぽっちのこの身体の、一体どこにそんな力が残っていたのかと疑いたくなる程、朱音は転げるようにディートハルトの馬の背から飛び降りると、一目散に薄い膜の前に駆けつけたのだ。
馬は、この結界を怖がって、ある一定の距離を越えて近寄ろうとはしない。ディートハルトは仕方なく馬を置いて朱音の後を徒歩で追った。
たった一枚の薄い結界の反対側では、多くのゴーディアの歩兵達が詰め寄り、取り囲んでいる。その少しばかり後ろで、なぜかぽっかりと何もない空間ができていて、その空間に、相対して立ち竦む、二頭の馬と二人の騎士。
一人は槍を握り、もう片方は剣を構えたまま静止していた。
「大変・・・! フェルデン・・・!」
はっとして朱音が結界の表面に触れると、バチリと結界の表面が弾け、結界の通過を阻んだ。火傷のような痛みを僅かに触れた部分に感じ、朱音は唇を噛み締めてじっとその向こう側を見つめた。
「長時間の睨み合いが続いているようですな」
いつの間に追いついたのか、朱音の頭上からディートハルトの低い声が降りてきた。
「ライシェル・ギーか・・・」
「あの騎士を知っているんですか!?」
ディートハルトを仰ぐように振り返ると、朱音はその逞しい腕をぎゅっと掴んだ。
少し目を丸くしたが、ディートハルトはその手を振りほどいたりはせず、小さく頷いて、こう付け加えた。
「わたしが今よりずっと若かったころ、あの男と一度闘ったことがあります。
そのときに負った傷がこれですな」
ケロイドになった大きな顔の傷。今となってはただの傷跡にすぎないかもしれないが、この傷を負った当初、余程酷い傷だったに違いない。
「じゃあ、“三剣士”だっけ・・・? と呼ばれるすごいディートハルトさんにそんな傷を負わせる位、あの騎士は強いの・・・?」
心配そうに見つめ返してくる朱音の大きく美しい黒曜石の瞳に、思わずディートハルトは釘付けられてしまいそうになりながらも、その正当な疑問に答えてやった。
「確かにあの男は、今までフェルンデン殿下が闘ってきた中でも格段に強い。ましてや、同じ剣ではなく槍の使い手だ。やり難いことこの上ない・・・。しかしながら、その頃のわたしはまだ見習い剣士でもありました故。」
朱音は嘗て目にしたことのない、フェルデンの胸甲姿の隙のない騎士姿に、もう一度視線を戻した。しかし、その手は未だディートハルトの逞しい腕を握り締めている。
「ゴーディア一の剣士がアザエルとするならば、あの男はゴーディア一の槍使い・・・ではないでしょうかな?」
はて、とディートハルトは不思議に思う。ゴーディアの国王の座に居るこの少年王が、なぜに自らの強駒である騎士達の存在を把握していないのか、と。
しかし、とある儀式にてこの小さな国王はまだ覚醒して間もないと聞く。それも仕方が無いことなのかもしれないと、屈強な剣士は自らを納得させた。
朱音もなんとなくは分かっていた。空手の師範をしている父がよく言っていた。“強い者程無駄な動きはしないもの”と。相手が強ければ強い程、相手の間合いに踏み入るタイミングをよく見定めなければならないのだ、と。
下手に相手の間合いに飛び込むと、逆に相手から痛恨の一撃を食らう羽目になる。だからこそ、相手の呼吸を読み、空気を読まなければならないのだ。それには、相当の集中力と体力、そして精神力が要る。どれか一つ一瞬でも欠落させたとき、それは敗北を意味する。
実際、二人の運動量は対峙している今、ゼロに近い。しかし、二人の額からは幾筋もの汗が滴り落ちていた。
(あの集中力、殿下は少し見ない間に相当腕を上げたようだ・・・)
ディートハルトはじっと目を細め、嘗ての弟子を見つめた。あんなに小さく幼かった王子は、いつの間にか師の手を離れ、有能な騎士へと成長を果たしていた。二年前、彼に騎士団の指令官の地位を譲ったことは、間違いでは無かったようだ。
「どうしよう、あの二人を止めなきゃ・・・!」
朱音には分かっていた。二人が動いたとき、そのときはきっとただでは済まないということを。
「ディートハルトさん、わたしが出ていって二人を止めます! この壁、なんとかなりませんか?」
ディートハルトは驚いていた。この小さな少年王は、本能で二人の騎士が命を賭けた勝負であるということに気付いていたのだ。
(この少年王、われわれサンタシを出し抜こうとしているとはまるで思えぬ・・・。やはり、城で言っていた通り、玉座を乗っ取られたというのは誠か・・・?)
朱音はきょろきょろと周囲を見回した。目の前を遮るこの半透明の巨大な壁、これは朱音のよく知るあの人物が作り出したものに違いなかった。
「ロラン! いるんでしょ!? この壁を消して!」
突如大声で叫び始めた朱音にぎょっとして、ディートハルトは細っこいその肩に手を置いた。
「クロウ陛下、なぜ彼の名を・・・?」
「わたしは彼の友達なんです。彼にこの壁をなんとかさせないと」
そう言うと、再び朱音は大声を張り巡らし始めた。
「ロラン! 聞こえているんなら返事して!」
覚醒して間もないこの少年王が、なぜサンタシの国王直属の魔術師の名を知り、出会う筈もないのに友人だと口にしたのか、もはやディートハルトには理解出来かねた。
この少年王は狂っているのか、それとも何かの策略なのか。しかし、この必死さを見るに、到底裏切りを狙っているものとは思えない。
「煩い、聞こえている」
意外にも、それ程離れていない岩陰から小生意気な少年術師の声が発された。
朱音ははっとして声のした辺りを振り返った。
そこには、灰色のローブに身を包み、鏡の洞窟でしていたときと同じように静かに座り、巨大な結界の壁に向かって手を掲げている懐かしい少年の姿があった。
「ロラン・・・!」
アザエルによって血だらけになって洞窟内で倒れていた姿からは想像もできない程、彼はぴんぴんしているようであった。そのことにほっとしながらも、朱音は涙ぐみながら少年の元へと駆け寄った。
「僕に話し掛けるな、集中力が途切れるだろうが。それでなくとも、あの槍使いに簡単に破られた箇所の修復に精神を集中させなくちゃならないってのに」
ふんっと鼻を鳴らし、魔術師の少年ロランは口元を歪ませて鬱陶しそうにあしらった。
「お願い、ロラン。早く二人を止めないと取り返しがつかないことになっちゃう」
がくがくと肩を揺す振られ、ロランは集中の為に閉じていた瞳をやっと開いた。
「ああっ、邪魔するな! 僕はお前のような見知らぬ奴に名前を呼ばれる筋合いなどない!」
ルイとは色違いの霞がかった茶の瞳が朱音の姿を映し出した。
驚き、大きく見開かれる目。
「お、お前は・・・」
動揺で僅かに揺れた結界の壁だったが、即座にそれは持ち直された。
「どうやってサンタシの国土に侵入した!?」
彼の目に映ったのは当然ながら朱音ではなく、魔王ルシファーを生き写したかのような少年王の姿であったのだ。ロランはゴーディアへ渡っていた昔、魔王ルシファーの姿を見知っていた。
「わたしはこの闘いを止めに来たの。お願い、わたしを壁の向こうに行かせて!」
「駄目だ」
朱音の願いはぴしゃりと跳ね除けられた。
「一体何を企んでいるのか知らないが、僕はヴィクトル陛下の命を受けて動いている。結界を解除する訳にはいかない! 解いて欲しいなら僕を殺すんだな」
朱音はロランの肩からぱっと手を話すと、ゆっくりと一歩後退りした。
「そんなこと、できる訳ないじゃない・・・」
ぽそりと零れた言葉は、ピロロロと空を旋回しながら飛び回る、バスカの鳴き声に重なり消えた。
朱音の今の姿では、ロランの信用を勝ち取ることなどきっとできないだろう。そして、彼を説得するにはあまりに猶予がなさすぎる。
朱音は矢庭に自らの手を迷いもなく結界に差し込んだ。ロランは我が目を疑い、結界の壁に差し込まれた少年王の手をまじまじと見た。
結界は侵入してきた異物を吐き出そうと、バチバチと青い電気を巻き起こし、激しく朱音の身体を包み込もうとする。
「!!!!」
ライシェルの槍ように、一時的に結界を破ることは可能であっても、結界内を通り抜ける所業があるなどとはさすがのロランも聞いたことがなかった。普通の者ならば全くもって不可能なことである。
とは言え、全身を雷に打たれたかのような痛みに、朱音は苦痛で顔を歪めていた。
「馬鹿かお前! やめろ! いくら魔王の息子とは言え、死ぬぞ!?」
ロランの止めるのも聞かず、朱音は自らの身体を反発する結界内に割り込ませていく。
「うあああああああ・・・!」
強烈な痛みに悲痛な声を上げながらも、朱音は“フェルデンを守りたい”という一心で前進していた。とっくに気を失っていてもおかしくはないと言うのに、信じられないことに、その細っこい身体は、少しずつ少しずつ、結界の向こう側へと通り抜けていっている。
後方で様子を見ていたディートハルトは、目を疑うような光景に絶句していた。何があの少年王の心をああまで突き動かしているのかまでは分からなかったが、あのぼろぼろになった状態でここまでできる程に、何か強い想いが根底にあることだけは確かだった。
「あああああああああ!!!」
結界の反対側でも、異変に気付いたゴーディアの歩兵達が、結界を通り抜けようとする朱音にいつの間にか目を向けていた。
「もうやめろ! そんなことしたって、ぼくは結界を解かないからな! ほんとに死ぬぞ!」
ロランもひどく動揺し、声を荒げている。しかし、その手は結界を決して解こうとはしなかった。結界を解いた途端、敵方が国土に雪崩れ込んでくることは安易に予想できたからである。そういう点では、このディアーゼにおいて、ロランの結界が最後の砦であることは明白だったのだ。
「あああああああ!!!!!!」
ふと空気の流れが変わったことを朱音は感じた。
周囲がざわめいている声が聞こえる。いつの間にか凄まじい痛みはおさまり、近く遠く、波間の小波の音が響く。
「な、何者なんだ、この餓鬼・・・」
「おれたちがどうやったってびくともしなかった結界を通り抜けやがった・・・」
朱音はゆっくりと振り返った。
今も尚そこに存在し続ける結界の壁の向こうで、呆けたようにこっちを見つめるロランの姿と無言のままじっと様子を見守るディートハルトの姿をとらえることができた。
はっとして朱音は二人の騎士が対峙している方角を見た。まだ二人は睨み合ったままじっと動かない。
しかし、二人はここに居てここには居ないようであった。
二人の精神は既に別次元にあり、周囲の情報全てから断絶されていた。ここから叫んだところで、二人の耳にはきっと届くことはないだろう。
「おい、餓鬼! おまえ一体何者だ・・・? 敵か? 味方か・・・?」
歩兵の一人が剣を抜き、朱音へ向けながら投げ掛けた。
「早くあの二人を止めなきゃ・・・!」
我を忘れるほどの美しい朱音の黒曜石の瞳に、一瞬歩兵の男はたじろいだ。
「何言ってる。これは戦だ、止めるなんてできる訳がない!」
そう男が言った瞬間、ライシェルの見えていない目が大きく見開かれた。ほぼ同時に、二人の騎士が馬を突進させていく。猛烈な速さであった。
「やめてーーーーーーーー!!!!!!」
朱音は半ば悲鳴のような声を上げていた。
その直後、朱音はまたあの暗闇に包まれていた。ルイを失ったあのとき、訪れた暗闇と同類の闇だ。
「あれ・・・? わたし、どうしちゃったの・・・?」
こんな暗闇に囚われている場合ではないというのに、今こうしている間にも、フェルデンが致命傷を負っているかもしれない。
「会いたかったよ、アカネ」
ふと背後から抱きしめられ、朱音は驚いて振り向こうとするが、僅かに振り向くことができたのは首だけだった。
聞き慣れる声。朱音の身体を包み込む手は白く、その美しい手はやはり見覚えがあった。
「あなたは・・・、クロウ・・・?」
くすりと耳元で微笑むと、
「会いたかったよ。もう一人の僕」
すっと回された腕を解かれると、朱音はゆっくりと少年に向き直った。
夢で何度も見た、魔王ルシファーとそっくりな容貌。見る者全てを魅了するだろう神懸かったその姿は、まさしくクロウであった。
「ぼくは君が嫌いだった。だって、君はあまりに幸せな日々と、多くの愛に恵まれていたから」
小さく首を傾げ、クロウは穏やかな口調でそうアカネに告げた。
「だけど、君は僕に、たくさんのものをくれた。情、愛・・・。僕がそれまで決して手に入れることのできなかったものたち・・・」
朱音は、クロウによって優しく包み込むように触れられた手に、視線を落とした。
「こうしてあなたから会いにきたってことは、何か言いたいことがあるんじゃない・・・?」
朱音だって馬鹿ではない、自分のことは自分自身が一番よくわかっている。
「ただ、僕はお礼が言いたかったんだ。そして、謝りたくて」
こくりと頷くと、朱音はもう一度美しいクロウの黒曜石の瞳を見つめた。
「わたし、消えちゃうのね・・・?」
悲しそうに微笑むと、クロウはぎゅっと朱音の手を握り締めた。
「ごめんね、アカネ。今の君は、魂が覚えていた残像ようなもの。肉体を離れて、長時間元の記憶を維持し続けることはできないんだ」
朱音は微笑み返す。
「そっか・・・」
予想通りの告知に、朱音は思いの外落ち着いていた。
「知ってたよ。だって、最近じゃ、あんなに大好きだった母さんや父さん、真咲の顔がよく思い出せないんだもん」
朱音はクロウの手を握り返した。
「だけど、あともう少しだけ・・・、もう少しだけ助けて・・・。フェルデンを・・・、あの人をここで失う訳にはいかないんだもん」
クロウはどきりとする程朱音に顔を近付け、「いいよ」と答えた。
ほんの朱音よりもほんの少し背が高い少年に、今度は前から抱きしめられていた。
「もっと別の形で会いたかったな・・・。そしたら、ぼ僕はきっと君を好きになってたのに」
そう耳元で囁かれたと思った途端、急にぱっと視界が明るくなった。
ぼこぼこと地面が隆起し、二人の騎士の間に巨大な土の山が出現していた。
突如出現した山に驚き、二頭の馬はすっかり落ち着きを失っている。
しかし、どうにか間に合ったようであった。
「何者だ! おれたちの闘いを邪魔立てする者は!」
不機嫌な様子で、槍を地面に突き立て、ライシェルが叫んだ。
「闘いを止めたのはわたしです、ライシェルさん。この無意味で馬鹿げた闘いを止めに来たんです!」
砂山の反対側では、フェルデンもその声の主を見て驚きを隠せない様子である。
「わたしはゴーディアの新国王、クロウです。ゴーディアの兵をすぐに撤退させて下さい。これは、国王命令です!」
「クロウ陛下!?」
ここに居るはずのないゴーディアの国王が忽然として現れたことにより、一時ディアーゼの戦場は騒然となった。