4話 遠い友人
夜明けの海は不気味な程静まり返っていた。
水平線から昇る朝日に、じっと美しい茶の瞳を細め、騎士はゆっくりと立ち
上がった。
「これって嵐の前の静けさというんでしょうか・・・。薄気味悪いですよね」
背後から部下の青年騎士が声を掛けた。
「ああ」
冷やりとまだ冷たい湿気を含んだ風が吹き抜け、いつの間にか耳に掛かるまでに伸びた金の髪が、甲の下から僅かにのぞき揺れる。
「いよいよか・・・」
小さく呟いた声とともに、敵国の侵攻を知らせる狼煙が高台から上がった。
水平線から少しずつ姿を現してくる、敵船の黒い影。一隻、二隻と見えてい
たそれは、近付くにつれて、数えるのも馬鹿らしくなる位に次々と姿を現し始
めた。
「来ましたね・・・」
小柄の騎士がじっと目を凝らして敵船を見つめる。
船には、魔族の象徴“黒翼”の描かれた帆が風で翻っている。魔王ルシファ
ーが天上から降臨した際、蒼黒の翼を悠然と広げていたという伝説から、ゴーディアの国旗として掲げられるようになったと聞く。
敵船が着々とサンタシの兵の待ち受ける港へと迫り来ていた。
フェルデンはディアーゼの港を取り囲むように設置した、石壁の上から海を見下ろし声を張り上げた。
「なんとしても俺たちは、ここでゴーディアの兵の侵攻を阻止しなければならない!」
ぴりぴりとした緊張した空気が張り詰め、サンタシの騎士達は各々の左胸に、誓いの右拳をぐっと握った。
「よいか、まだ焦るな。よく引き付け、計画通り油袋を結びつけた投石で敵船をよく狙え! 弓隊は火弓を絶やすな! とにかく船を狙い続けろ!」
そう言い放つと純白のマントを翻し、フェルデンは勢いよく石壁の急な勾配を滑り降りた。
「敵の歩兵、騎兵は我ら騎士団で落とす!! 続け!!」
繋いであった美しい栗毛の馬に優雅に跨ると、フェルデンはとんと馬の腿を踵で蹴って馬を駆け出させた。
雲の遙か上を、茶色い影が旋回しながら悠々と翔けている。サンタシの王家のみが使用を許される猛禽類バスカ。誉れ高く、本来は手懐けることの難しい野生の鳥であったが、長い年月の間、代々の国王が卵を孵化させ手ずから餌をやり、王家のものにだけ懐くように躾けたのだ。
バスカは夜明け前にフェルデンの元へ一通の文を届けていた。
“なんとか踏みとどめて欲しい。だが、決して無理はするな。こちらからディートハルトに最強の手持ちの札を持ってゆかせる。それまで無事でいて欲しい”と。
リーベル艦隊壊滅の報せと、ゴーディアの魔笛艦隊の予想を上回る速さでの
ディアーゼ港侵攻の事実を知り、ヴィクトル王が何かしらの有力な手札を送り出したらしかったが、いくらディートハルトといえ、早馬を使ったところで、三日の道のりをたったの一日で到着できる筈はなかった。
今は、何とか自力でゴーディアの侵攻に立ち向かうしかない。
後方に続く騎士の先陣に立ち、フェルデンは馬で駆けながら、剣を鞘から抜き去った。
「我が名は、サンタシ国ヴィクトル国王陛下の実弟、フェルデン・フォン・ヴォルティーユ! ここから先は一歩たりとも進めさせん!!」
雄たけびを上げながら、フェルデンは剣を持って続々と敵船から降り立つ兵に勢いよく飛び込んで行った。
海上では激しく敵船に炎が上がり、陸地に到着するまでに火だるまになった敵兵達が、もがきながら海の中へぼとぼとと人形のように飛び込んでいく。
敵船のあちこちから火の手が上がった。サンタシの投石兵と弓兵の攻撃が成功しているらしい。投石で可燃性の強い薬品の入った袋を結びつけ、敵船へ向けて投石を続ける。そして船に火弓を放つ。薬品に引火し、予想以上の早さで船が一気に燃え上がっていた。
それでも、そうした攻撃を摺り抜けた船が着々と陸地につけ、ゴーディアの兵がどっと押し寄せ始めている。ここでみすみす侵入を許す訳にはいかない。
夜明けとともに、激しい戦の火蓋が上がった。
「そんな悲しそうな顔をしないでください」
くすりと笑みを零すと、クリストフは格子越しに見える、僅かな青空を眩しそうに見上げた。
『ホロホロホロ・・・』
ちょんと格子の隙間から顔を覗かせた白い鳩は、もの悲しげな声を上げて鳴く。小さな白い友人は、大好きなクリストフの痛ましい姿に心を痛めていた。
「さあ、もうここに居てはいけません。君まで捕まってしまう。わたしは大丈夫、こう見えて案外しぶとい男なんですよ」
そう言ったクリストフの身体は全身血だらけだった。
もとは紳士的な清楚な身だしなみであった筈が、捕らえられてから日々繰り返される鞭による拷問で、衣服のあちこちがめちゃくちゃに裂け、剥き出した皮膚は血を滲ませて露出していた。ところどころ紫に変色している部分もあり、顔さえ殴る、蹴るの暴行を受けて腫れ上がっている。
もともと細身だった彼だったが、碌な食事も与えて貰っていないせいか、より一層痩せ細ったようである。細くなった手足にはずっしりと重そうな硬い鉄の錠前がかけられ、石壁にがしりと繋がれていた。
リストアーニャで別れて以来、姿を消してしまったクリストフを探して飛び回った白鳩は、明け方にようやくクリストフの捕らえられている、ゴーディアの牢に辿り着いたのであった。
一切の形跡がなかったクリストフの足取りを追うのは至難の業だったが、白鳩は僅かな風の流れを感じ取り、ここへとやって来たのだ。
今や、魔力を封じられてしまってはいたが、彼女は長い間、彼と共に空を飛んできた。だからよく知っていたのだ。魔力を発動していなくとも、彼の身体を包む優しい風がそこにあるということを。
一向にその場から飛び去ろうとしない白鳩に、クリストフは困り果てた。
「さあ、もうお行き。君は今のわたしとは違って自由だ。もう好きなところへ行っていいんだよ」
この魔城の牢に不似合いな程純白で美しい彼女に向けて、クリストフは優しく言った。
『クルック・・・』
小さく喉を鳴らすと、白鳩はちょこん窓の外に飛び降り、パサパサと音を立てて飛び立っていった。
「そう、君は自由な鳥だ・・・」
クリストフは連日の拷問による疲労でうつらうつらし始めた。
眠ると次は目が覚めないかもしれない、とふとそんな馬鹿な考えが脳裏を掠めたが、次の瞬間、またしっかりと覚醒した。
『クルック』
さっき去ったとばかり思っていた、小さな友の声がはっきりと窓の外から響いたのだ。いつあの成り代わり偽王“ヘロルド”がここへやって来るか知れないというのに。
「クイックル・・・!?」
今まで名をつけたことも、呼んだこともなかったというのに、咄嗟に朱音がつけた愛称を口に出してしまっていた。
『クルッククルック』
嬉しそうに二度喉を鳴らすと、白鳩はぽとりと格子の隙間から何かを落とした。
コロコロコロ
クリストフの足のすぐ傍に、リガルトナッツが一粒転がった。
驚いて彼女を見つめると、パサパサと羽を羽ばたかせ、クリストフにそれを食べろと懸命に伝えている。
「これを探して、わざわざ持ってきてくれたのですか?」
そう言ったと同時、再び格子からバサバサと飛び去る音がしたかと思うと、またしばらくすると戻って来てはぽとりとナッツを落とし・・・、という行為が幾度も幾度も繰り返された。
ひどく腕が重く、動かすことも億劫だったクリストフだったが、転がったリガルトナッツをそっと手にとると、静かにその一粒を口へと運んだ。
『カリ』
いつからまともに食べ物を口に入れていなかったのだろうかと、ふとクリストフは思った。身体のあちこちが痛み、もうその痛みさえ麻痺してしまっている。初めは強く感じていた空腹感だったが、いつの間にか脳内でシャットダウンされたのかすっかり抜け落ちてしまっていた。
「まいったな、一口食べたら急に空腹感が・・・」
リガルトナッツはもともと彼の好物の一つであったが、これ程このナッツが美味いと感じたことは嘗て無かっただろう。
夢中で白鳩が運んできてくれたナッツを口へ放り込んでいくと、満足そうに白鳩はホロホロと喉を鳴らした。
「君には助けられてばかりですね・・・。わたしは君に何もしてやれていないというのに。君はただ自由な美しい空の旅人だった。それを、わたしの我儘でこんな道へと引き込む結果になってしまったんですね・・・」
ナッツは、十分とはいかないまでも、少しばかりクリストフの空き切った胃袋を満たしてくれた。
「君は、もう本来のあるべき姿に戻らなければならない時期にきているのかもしれません・・・」
クリストフはほんの少し淋しさを落とした赤く腫れ上がった目で白鳩のつぶらな瞳を見つめた。
「ルシフェルの血を飲んだとき、わたしは風の力を得ると同時に、不老の肉体を得ました。けれど、それからを一人きりで生きるにはあまりにも長い時間で・・・。自由を得る為に選んだ道とは言え、わたしは淋しさに堪えられそうもなかった」
クリストフはそっと目を閉じて、昔、ずっと遠い昔を回想していた。
「お前さん、またこんなとこに隠れてるのかい?」
彼はこの頃の“ぼく”を気にかけてくれる、唯一の人間だった。
「ああ、おじさん・・・。違うんです・・・。えっと・・・、その・・・」
ふっと口元を緩め、彼は笑った。
「なに、わたしゃ誰にも話しゃしないよ」
今から約一千年前、この世界にはまだ、“サンタシ”や“ゴーディア”が栄えていなかった時代。即ち、“魔力”というものがものレイシアにはこのときにはまだ存在しなかった。
しかしながら、いずれサンタシの基盤となる“エアリエラ王国”が現在サンタシが存在する大陸に存在し、文明を築いていた。
そしてもう一方の大陸では、広大な大地に原住民の村が点在し、自然と調和しつつ暮らしていた。
“ぼく”は、その原住民の小さな村の一つで生まれた。村長の家の末息子だった“ぼく”だったが、気丈な兄達に比べ気が弱く、ひどく臆病者だった。
そんな“ぼく”は親兄弟からも蔑まれ、村の中でも除け者にされてばかりだった。
父が亡くなり、長男がその後を継いだ後、何をやらせても足を引っ張ってばかりの“ぼく”に、兄達の苛立ちは最高潮に達し、とうとう陰湿な虐めが始まった。この頃の“ぼく”は三十歳を過ぎ、とうに婚姻を結んで子を持ち一家を背負う一人前の男になっていてもおかしくない歳合だった。なのに“ぼく”は、こうして兄達の目から逃げては村の外れの林で時間を潰していた。こんな“ぼく”に家庭など持てる筈もなかったのだ。
「お前さんも、もういい歳だ。わたしゃお前さんは村を出て、もっと広い世界を見にいくべきだと思うがなぁ・・・」
ぽそりと彼が溢した言葉は、“ぼく”の心になぜか響いてきた。
「・・・でも・・・、村を出るなんて・・・、兄さん達にどう説明をしたらいいんでしょう・・・。きっとひどく叱られるに決まっています・・・」
“ぼく”の存在を疎ましく思っているだろう兄達だったが、この頃、村を出ることは村の教えに反することとして、強く罰せられることになっていた。村を出たいと言ったところで、村の面汚しめと罵られるにすぎないだろう。
「さあてな・・・。そうさな、この林の奥に、昔っから神々が宿るという言い伝えのある泉がある。そこへ行けば、なにかよいお告げが貰えるかもしれんよ」
“ぼく”は彼の言葉を信じた。
彼はこう言ったのだ。
「泉には、時折天上から天神様が舞い降りて来られるそうだ。こんなところで時間を潰している位なら、泉の傍でお告げを待っている方がよっぽど時間の使い方が上手い」
そう言った彼は、半分は冗談のつもりだったのかもしれない。
しかし、そのことを信じて何日も泉へ通い続けた“ぼく”にとっては、それこそが神のお告げだった。
彼の言う通り、“ぼく” の前に天神は現れた。
眩いばかりの光に包まれ、二対の黒翼を広げた天神の神々しい姿は、“ぼく”の目に焼きついた。
天神は問い掛けた。
「そなた、地上人か?」
呆けたままこくこくと頷くと、天神はふわりと泉の脇に舞い降りた。
「地上人には翼は生えておらぬのか?」
またこくこくと頷くと、天神はふむと暫く考えた後、一体何をしたのかはわからないが、一瞬にして二対の翼を消してしまった。
「我が名はルシフェル。そなたの名は?」
この世のものとは思えぬ美しい容貌の天神に目を奪われ、“ぼく”は瞬きすら忘れてなんとか返事をした。
「シ・・・シモン・・・」
「ではシモン、わたしはこの地のことをよく知らぬ。わたしの助けになってくれぬだろうか。もちろん、礼はする」
何を言い出すかと思いきや、この蒼黒の美しい天神は臆病な“ぼく”にこんなことを持ち掛けてきた。
「た、助け・・・?」
助けを求めていたのは”ぼく”の方だった筈だ。
”ぼく”は混乱した。
天神は、どうやらお告げをしに舞い降りたのでは無かったようだ。
「創造主に気付かれる前に、なんとしてもわたしは地上界というところをこの目で見て歩きたいのだ。それには案内役がいる。どうだ、やってくれぬか?」
美しすぎる容貌に似合わず、天神は悪戯好きな青年の口振りで、とんでもないことを口にしてきた。
「あ、あ、案内役・・・!? で、でも、天神様・・・、天神様は天上から地上のことはなんでも見ておられるのでは・・・?」
顔を横に振ると、ルシフェルと名乗った天神は声を顰めて言った。
「それは違う。天上界から地上界を見ることはできないのだ。わたしは創造主から話を聞いて、なんと面白そうなところかと、いつも一度この目で見たいと願ってきた」
“ぼく”はたまげて尻餅をついた。天神が地上を見てみたいだなんて、考えもしていなかった。
「シモン、手伝ってくれぬか? そうすれば、そなたの願いも一つ叶えてやるぞ」
悪戯っぽく笑った天神ルシフェルに、ぼくは思わず口を開けたまま頷いてしまっていた。
「そうか! ではシモン、願いを言ってみよ!」
「ぼくは・・・、ぼくは自由が欲しい・・・」
クリストフは静かに目を開いた。
僅かに差し込む日の光が眩しい。
遠い昔、あまりに臆病な“シモン”が、泉で出会ってしまった遠い友人。
あまりに美しく、穢れのないその男との出会いは、クリストフのその後の人生に多大な影響を及ぼす結果となった。
自由を得、広い世界を自由に行き来する為に選んだ道は、長く厳しい孤独への一歩でもあったのだ。
空から舞い降りたルシフェルは、“シモン”に、自らの血を与えた。それを口にしたとき、“シモン”は不老の肉体と、そして強い魔力を得たのだ。鳥のように自由に空を舞うことのできる、風の力を・・・。
「わたしは大きな間違いをしたのかもしれませんね。君に彼の血を与えるべきじゃなかった・・・」
そして、空で出会った自由な旅人であるこの白鳩に、ルシフェルの血を含ませた餌を与えてしまったことに、クリストフは後悔の念を抱いた。
白鳩はそれを否定するかのように、パサパサと羽を鳴らす。
魔王の血を口にしたことで、彼女もまた、不老の肉体とともに“人語”を理解し書くことのできる力を得ていた。さすがに話すことまではできはしなかったが・・・。
「さあ、行ってください。大丈夫、わたしはまだここでは死ねません。あの子との約束をまだ果たせていないのですから」
リストアーニャ以来、逸れてしまった朱音を思い、クリストフはもう一度弱り切った手に力を込めた。
しかし、手枷はびくとも動かない。
不老とは言え、不死身ではない。あと幾日もこうして繋がれていては本当に命尽きてしまうだろう。あの卑俗な男、ヘロルドはもともと刑にかける気などさらさらなかったのかもしれない。寧ろ、こうして苦しみながら餓死していく様を面白がっているのだろう。
心配そうに覗き込む白鳩に小さく片目を閉じると、クリストフはくすりと笑みを溢した。
「そろそろいい頃でしょうかね。わたしの力の見せどころはここからです。わたしは案外しぶとい男なんですよ? ね、クイックル」