3話 目覚め始めた記憶
愛していた・・・。
僕を殺そうとした人・・・。
可憐で、そして穢れを知らない美しい人。
皆の愛を独り占めした人・・・。
なのに、たった一人の愛を手に入れる為に、全てを裏切った人。
僕は何一つ望んでなどいなかった。
僕はただ、貴女に気付いて欲しかっただけだったのに。
ここに、それでも貴女を大好きなちっぽけな自分がいることに、僕はただ気付いて欲しくて。
傷つけたくなんかなかったのに・・・。
これは、父ルシファーがブラントミュラー公爵の手により毒を盛られた直後、母ベリアルとの間にあった悲しい記憶・・・。
「さあ、もうこの辺りでいいわ」
アプリコットの髪を揺らせながら、可憐な王妃は近衛兵に目配せをした。
こくりと頷くと、静かに近衛兵は突きつけていた剣の刃を引き下げると、胸の内側から小さな小瓶を取り出した。
「クロウ、怖かったでしょう? こんな乱暴なことをされてひどく混乱しているでしょうね・・・」
ベリアルは嘗て一度もクロウに向けたことのない優しい表情を浮かべ、クロウにそっと歩み寄った。
「母上、父上は一体どうしたんですか・・・?」
「あなたは何も心配いらないの。いいこと、今から母が言うことをしっかりと聞いてちょうだいね」
クロウの白い頬に滑らされた華奢なベリアルの指。こんなにも近くにクロウの近くに母が居たことはきっとなかっただろう。
「でも、母上、サンタシの兵が、この城に・・・」
「お黙りなさい。何も心配しなくていいと言ったでしょう?」
きっと大きな目を吊り上げ、ベリアルが諌めた。
近衛兵から小瓶を受け取ると、クロウにそれを包み込むように握らせる。
「母上、これは・・・?」
「今、この国は新しい王を迎え入れ、生まれ変わろうとしているのです。それには、もう強大な魔力も魔王という地位も只の足枷でしかない・・・」
恐ろしい母の告白に、クロウは黒曜石の瞳を大きく見開いた。
「心配などいりません。これは薬です。魔力を失くさせる薬・・・。ただの人間になりたいでしょう? クロウ」
どんなに冷たくあしらわれようとも、クロウは決して母を疑ったりはしなかった。それは、母がどれだけ父である魔王ルシファーを愛しているかをクロウが一番よく知っていたからだ。
「父上を・・・、ゴーディアを裏切ったのですか・・・?」
不機嫌にクロウから目を逸らし、ベリアルはふんと鼻を鳴らした。
「・・・あんたって本当にどこまでもムカムカする生き物よね・・・。人がせっかく下手に出て優しくしてあげたというのに、、可愛げの欠片さえもない。わたくしが陛下を裏切ったですって? 人聞きの悪い!」
豹変した母の態度に、クロウは驚き表情を強張らせた。
「わたくしはただ、陛下の為を思って契約を交わしただけのことです。あなた、陛下がこの国と民を守る為にどれだけ心労を重ねてらっしゃるか知らない訳ではないでしょう?」
さっきまでクロウに触れていた手が卑しくて堪らないというように、ベリアルは唇を歪めて手をぱんぱんと払う。
「契約!?」
「ええ。何を驚いているの? 陛下の強大な魔力さえさくなってしまえば、陛下はもう無理をして国王なんかを務める必要などなくなるでしょう。ブラントミュラー公爵が陛下の魔力と魔城の引渡しを条件に、陛下とわたくしの安全と平穏を約束してくれたのです。これからは、彼が代わってこの国の王として立派に国を導いてくれるでしょう」
愚かな母は、あまりに無知であった。
国政や人間の闇を知らないベリアルは、ブラントミュラー公爵の口約束にまんまと乗せられてしまったのだ。
「母上、それはきっとブラントミュラー公爵・・・、いえ、サンタシの策略です。母上はきっと利用され、騙されたのです・・・」
憎らしげに、ベリアルはクロウの顔を見つめた。愛する夫、ルシファー王を生き映したかの容貌。
しかし、確かにその黒曜石の瞳の中に、ルシファーがこの世でただ一人愛した女の存在をはっきりと彷彿させた。その母子は一見あまり似ていないせいか、他の者が決して気付くことは無い。しかし、ベリアルだけはクロウがその女とよく似ていると感じて止まなかった。何もかもを見透かしたような目や、魔王ルシファーの期待を一身に受けるその姿が、クロウの実の母である女とひどく似通っていた。
「お前はわたくしが馬鹿で愚かだと、そう言いたいの・・・!?」
怒りで華奢な肩を震わせる可憐な王妃は、ぎっとクロウを睨み見た。
「ベリアル王妃・・・、ここに長居はできません。早く脱出致しましょう。城外で馬車を待たせてあります・・・!」
後ろを気にした様子で、傍にいた近衛兵が焦って口を挟む。
「うるさく言わなくたってわかっていますわ! さあ、お前もさっさと薬を飲んでおしまいなさいな」
クロウが手にしていた瓶の硝子の蓋を、まどろっこしそうに抜き払うと、その瓶をクロウの胸に圧し付けた。
瓶の中身は薄い桃色の、とろりとした液体であった。蓋を開けた途端鼻をくすぐる甘ずっぱい香り。それは父が好んで口にする“ルト”という赤い実の酒の香りによく似ていた。
しかし、その香りの中に、決して混じってはいけないものが含まれていることに、クロウは気付いてしまったのだ。
「母上・・・、まさか、これを父上に飲ませたのですか・・・?」
真っ青になりながら、クロウは愚かで美しい母の目をじっと見つめた。
「ええ、陛下の魔力を失くす薬です。ブラントミュラー公爵が長年をかけて開発した特別なもの」
クロウは瓶をぎゅっと握り締めると、近くの窓を乱暴に開けてそこから瓶を外へ投げ捨てた。
「なんてことをするの!?」
ベリアルが慌てて瓶が落ちていった窓に駆け寄り、叫んだ。
「毒だ・・・、毒が入っている・・・。それも猛毒・・・」
「え・・・?」
驚き、目を丸くするベリアルに、クロウは青い顔で言った。
「でも、たかが毒じゃ父上は殺せない・・・。だけど・・・」
傍でちっと近衛兵が舌打ちした音が、クロウの耳には確かに届いていた。
「な、なにを言っているの?」
「母上、あの瓶には僅かですが、人間の血が入っています。酒に混ぜて薄めたら、きっと匂いだけでは気付かないかもしれない。けど、確かに血が混ぜられています」
急に諤々と震え始めたベリアルは、口をわなわなと震わせた。
「う・・・そ、嘘よ。いつもわたくしがとっていた態度に腹を立てて、その仕返しのつもりでしょう・・・?」
クロウは青い顔のまま、取り乱した母の顔を黙って見つめた。
天上人ルシフェルは不老不死であった。しかし、禁忌を破ったルシフェルを地上に永久に追放した際、創造主はルシフェルを滅ぼす為にほんの少しの細工をしたのだ。人間の血を口にすると、たちまちそれが彼にとっては命をも奪う、猛毒になるようにと。
創造主はこの時、既に知っていたのかもしれない。地上に住まう、人間の欲深さを。そして、自らの手で滅することのできなかった愛すべき息子ルシフェルを、彼らがいつの日か滅ぼすだろうことを・・・。
ベリアルは、誰よりも愛しい男に自らの手で毒を盛ってしまったのだ。
どんなに欲しても手に入れられなかった、魔王ルシファーの愛を手に入れる為に・・・。彼女を取り巻く全てを裏切り、その犠牲をも厭わずに。
しかし、皮肉にもそれは最悪の結果を招いてしまった。まさかこんな形で、愛する男を自らの手で破滅へと導くことになろうとうは・・・。
「ベリアル王妃、クロウ殿下は貴女を城に留めようと、嘘を言っておいでなのです」
近衛兵はひどく動揺するベリアルにそっと耳打ちした。
「まあ・・・、なんて子・・・! 」
こうして存在するだけでベリアル自身を惨めにさせるこの少年。お前がいなくなればいいと何度願ってきたことか。しかしほんの一抹の良心が、魔力を奪い、どこか遠くの地へ追放してしまうに留めてやってもいいと美しい王妃は思った。
だが、やはりこの憎らしい子どもにはそうした情けも無用だと、ベリアルは考えを改める。ここで根絶やしにしておかねば、いつまた自らとルシファーの邪魔立てをするかわからない、と。
「わたくしは先に馬車へ行きます。お前はこの子とルシファー陛下の側近を殺してから追いつきなさい。生かしておくと碌なことがありません。それから、陛下は必ず無傷でお連れするようにと、ブラントミュラー公爵に伝言をしておきなさいな」
軽蔑したようにつんと横を向くと、ベリアルはアプリコットの髪をふわりとなびかせて歩みを始めた。
「母上! 待って下さい!」
クロウが駆け寄ろうとしたその前に、鞘から刀身を抜き払った近衛兵が立ち塞がった。
「ふん、ただのイカれた餓鬼だとばかり思っていたが、さすがはルシファーの息子、混入された血に気付いて命拾いしたか。だが、それもここまで」
近衛兵の纏っていた空気が、明らかに別人のように殺気を放つものに変わった。これは、もともと暗殺者として訓練され、送り込まれた者に違いない。
「・・・もともと僕を殺す気だったんだね・・・。そして父上も・・・」
ふっと僅かに唇に笑みを浮かべて、男は剣を勢いよくクロウに突き立てた。
一瞬目の前が真っ白になった。
次に目を開いたとき、足元にはぐちゃぐちゃになった肉塊と血溜まりができていた。自分が一体何をしてしまったのか、どうしてこうなってしまったのか、少年には理解できなかった。
『息子よ、お前には特別な力が備わっている。今はまだその力をうまく使いこなせはしないが、わたしは信じている。お前がいつの日かこのゴーディアを引き継ぎ、ゴーディアの民を守ってくれるだろうことを』
穏やかな父の声がクロウの頭の中をふと過ぎった。
“魔王”と呼ばれるには優しすぎた父。その心は、いつもゴーディアの民のことでいっぱいであった。
そして、息子であるクロウと過ごす時間もそう長くはとれていなかった。
しかし、父はクロウにとって偉大であった。強く、優しく、そして誰よりも温情深い国王だと・・・。
「化け物・・・」
恐怖に慄いた可憐で美しい王妃のぷくりとした可愛らしい唇から残酷な言葉たちが次々と紡ぎだされる。
「お前はなんて醜い生き物なの・・・! ああ、恐ろしい・・・!」
心が粉々に砕け散るのは十分すぎる言葉であった。
完全な拒絶。
クロウは泣いていた。
「母上、僕は・・・、僕は・・・」
「大丈夫ですかな? ひどい顔色をしていますぞ」
ディートハルトが頭上から朱音に声を掛けた。
あれから、二人はすぐに白亜城を出立し、ディアーゼを目指して最高速の馬で駆けているところであった。
思えば、何日も疲労による気絶と駆け足を繰り返しながら、這い出るように地下道を脱出してからというもの、朱音の記憶はひどく曖昧になっていた。
ときおり白昼夢を見ることも多くなり、そこで見た記憶は朱音自身の記憶、即ち、真咲や父や母、ただの中学生だった頃の記憶と同じ位鮮明になりつつある。それと同時に、時折ひどくルシファー王を懐かしく思うことや、義母ベリアルを思い出しては胸がジクリと痛むことも多くなった。
何より、死んだかもしれないとばかり思っていたアザエルが、生きて目の前に現れたことに、ひどく安堵している自分がいた。あれ程、朱音の全てを奪い去ったあの男を、吐き気がする程憎んでいたというのに・・・。
「平気です。気にせず走らせ続けてください」
朱音の顔色は何日も眠っていないヴィクトル王といい勝負かもしれない。
(魔王ルシファーの死はベリアル王妃の裏切りが原因だったんだ・・・。そして、クロウの魂のアースへの転生も・・・)
朱音は蘇ったクロウの記憶から、クロウのアースへの転生までの経緯を知った。
現代の、舗装された道を車に乗って走るのとは訳が違い、酷い揺れと振動とで、朱音は何度も吐き気を催した。
しかしここで弱音を吐くなどできる筈などなかった。今は一刻を争う事態なのだ。
普通は三日はかかる道のりを明日までになんとかしなければならないのだ。でなければ、到着した頃には焼け野原と死体の山だけになったディアーゼ港の姿を拝むことになるかもしれない。
「ディートハルト・・・。悪いがすぐに戦地へ向かってくれ。魔笛艦隊が我領土内に侵攻するのは明日だそうだ・・・。沈めた船の数は三分の一にも満たかった。予定よりもかなりの勢力を残して乗り込んでくる。そなたが行くまでフェルデンが持ってくれれば良いが・・・」
あの嵐の夜に船上で接触して依頼、朱音にはフェルデンの所在は一斉わからなくなってしまっていた。
しかし、その後サンタシの白亜城まで無事に帰還を果たせていたようだ。
「ディートハルト・・・、フェルを頼むぞ。あいつはサンタシの最後の希望なのだ・・・! 決して死なせるな・・・!」
「ヴィクトル陛下、仰せのままに・・・」
ディートハルトがひどく顔色の優れないサンタシの国王の前で礼の形をとった。
フェルデンの無事を知り、ほっとしたのも束の間、彼は既にゴーディアの侵攻軍を迎え討つ為、騎士団を引き連れて王都の西、海に面したディアーゼの街に入ってしまっていた。そう、もっとも激しい戦場と化すであろう場所へと。
「ディアーゼの街は火と血の海と化すやもしれぬ・・・」
「では陛下、わたしは直ぐにフェルデン殿下の元へと向かいます」
ディートハルトは一礼すると、早足で国王の前から立ち去っていく。彼はディアーゼへいち早く馬を飛ばし、フェルデンの指揮する騎士団に一刻も早く合流しなければならなくなった。
「待ってください・・・! わたしも一緒に行きます・・・!」
気付いたときには、朱音はディートハルトに向けて声を発していた。
ぎょっとした表情を浮かべたディートハルトであったが、顔面のケロイドの傷をくしゃりと歪めて彼は小さく頷いた。
「ヴィクトル陛下、確かにそれは良い案やもしませんぞ。ゴーディアの国王が一緒ならば、敵国の侵攻軍にうまく働きかけることができる」
正直なところ、ヴィクトル王はこの少年王を信用し兼ねていた。今は純粋で穏やかな王を演じてはいるが、いつ突如手の平をひっくり返し、本性を現すかしれない。
しかし、もし少年王が言うように、本当に彼が居ぬ間にゴーディアの国王に成り代わろうとする者が存在し、裏で糸を引いているならば、この少年王の存在は戦場となるディアーゼにおいて強力な手札となる。
これは一種の大きな賭けでもあった。
もしディアーゼで少年王が裏切りを犯したならば、その時はおそらくサンタシの最後となるだろう。
「わたしは魔族の王の言葉など信用できぬ」
朱音は懸命にサンタシの王ヴィクトルに訴えかけた。
「お願いです、命を賭けてもいいです。絶対にわたしは貴方を裏切ったりしません! フェルデンを・・・彼を助けたいんです・・・!」
ヴィクトル王は、怪訝に思った。どうしてこの少年王は、よく知りもしない敵国の王子などにこんなにも一生懸命になるのかと。
フェルデンが打ち明けた、アカネを殺された怒りでこの少年王の首を絞めたという実弟の過ちだけが、ヴィクトル王の脳裏に思い当たった。
しかし、それは少年王が怒りを抱くことは考えられても、フェルデンの安否を気にすることの理由にはならないようにも思えた。
「フェルデンは、ゴーディアでお前の首を絞めたそうだな。にも拘わらず、自分を殺そうとした相手をなぜに助けたいと思う?」
ぐっと言葉を飲み込み、朱音は悲しく微笑んだ。
「彼はそんなことはしていません」
アザエルの冷たい視線が向けられていたこともあったが、朱音は白を切った。
「以前、私は彼に助けられました。私はただ、恩返しがしたい・・・。それだけです」
“彼を愛しているから”なんていう言葉は、今のこんな姿になってしまった今は言える筈などなかった。しかし、朱音がディアーゼに向かう理由はそれ以外にはどうしても見当たらない。
「そうか。だが、やはりお前を信用することはできぬ」
ヴィクトル王は、自分が聞き及んでいる他に、フェルデンと少年王の間に何かがあったのかもしれないとふと感じ取った。
少年王は、それでもヴィクトル王の顔を揺れる瞳でじっと見つめて懇願していた。良く見ると、ぼろぼろになって血に染まった衣服に身を包んでいたせいで今まで気がつかなかったが、少年の唇はかさかさに乾き、身体はひどく痩せ細っているようだった。ひょっとすると、何日もろくに睡眠や食事を摂っていないのかもしれない。よくこんな身体でこの城まで辿り着けたものだ、とヴィクトル王は柄にもなくそんなことを思った。
「ヴィクトル陛下。そんなに心配なのでしたら、そこにいる魔王の片腕をこの城に留めておいてはどうです? 彼が人質とあれば、ゴーディアの国王も寝返ることなどできまいでしょう」
感情を持たない碧い目を細め、アザエルはじっとディートハルトを見やった。
「さて。魔族の王よ、どうする?」
ヴィクトル王は、少年王を試すかのように問いかける。
ぐっと唇を噛み締めると、朱音はヴィクトル王というよりも、アザエル自身に返答するかのように、はっきりと言葉を綴った。
「わかりました。アザエルをここへ人質として置いていきます」
美しい碧髪の男は、それでも尚なんの表情も浮かべずに、じっと佇んでいる。
「アザエル・・・、いつか、“あなたがわたしに命令を下せば、チェスの駒を動かすようにいとも簡単にわたしは動くというのに”と言ったことがあったでしょう? わたしが命令だと言ったら、あんたはわたしを助けてくれる?」
暫しの沈黙の後、アザエルは静かに口を開いた。
「ええ。わたしを動かすことができるのは、クロウ陛下、あなただけです」
朱音はゆっくりと立ち上がり、そろりそろりと美しい碧髪の男に近付き、彼を見上げた。
「じゃあ、命令するよ。アザエル、わたしが戻るまで、ヴィクトル陛下をお守りして。これは、ゴーディアの王としての命令だよ」
驚きのあまり、ディートハルトとヴィクトル王ははっと息を飲んだ。
それを聞いた途端、アザエルは朱音の前に跪くと、美しい微笑を浮かべ答えた。
「陛下の御心のままに」
「もう、あまり時間が無い・・・」
ディートハルトの走らせる馬の上で、そう言った朱音の横顔は、ひどく儚いものだった。
「大丈夫、フェルデン殿下はそうヤワではない。このわたしが認めるに足る男です」
ディートハルトはこの少年王が、なぜか消えて無くなるのではないかと心配になった。
しかし、その直感は、きっと正しかった。
朱音自身、だんだん鮮明に思い出されるクロウの記憶とともに、“朱音”としての人格が少しずつ小さくなり、代わりに“クロウ”としての人格が身体を支配し始めていることに気付いていた。
(きっと、もうすぐ“朱音”は消えてしまう・・・。朱音として彼に会えるチャンスは、これで最後になるかもしれない・・・)
朱音は、朱音としての人格が消滅してしまう恐怖を感じ始めていた。きっと、今感じている、フェルデンを一人の少女として愛していたことも、人格が失われたときにはすっかり消えてしまうのだろう。
「もう・・・、わたしには時間が無い・・・」
小さく呟いたその声は、馬の蹄の音に掻き消され、ディートハルトの耳には届くことはなかった。