2話 二人の国王
苦労の末に、やっと城内を逃走していた子どもを捕縛することができたとの近衛兵の報告を受け、ヴィクトルは疲労しきった身体を引き摺るようにして、謁見の間に訪れていた。
壇上から見下ろすような形で、縄に縛られた子どもが兵に剣をつきつけられたまま膝をついている姿を遠目に見つめた。
なるほど、確かに薄汚れた格好をしている。髪は砂埃ですっかり白くなり、かなり遠くから旅をしてきたのだろうか、服のあちこちは擦り切れてまるでぼろ切れのようになってしまっていた。そこからは性別までは判断がつけられないが、薄汚い格好と短い髪から少女というよりは少年のようにも見える。
ヴィクトル王はそんな子どもを見つめたまま、静かに王座に腰を降ろした。
「そこの者、面をあげよ」
ヴィクトル王の声に反応して、子どもがゆっくりと顔を上げる。
「!!!」
その瞬間、驚きでヴィクトル王は勢いよく玉座から立ち上がっていた。
そして、それは玉座の近くに控えていたディートハルトも同じで、目を丸くしている様子が視界に入る。
「なぜお前がここにいる!?」
もの凄い剣幕で衣を翻しながら壇上から降り立ったヴィクトル王は、子どもの胸倉を乱暴に掴み上げ、護身用の短剣をその首に押しあてた。
「陛下!?」
その場にいる近衛兵達が、息をのむ音が聞こえてくるようであった。
「・・・どうかわたしの話を聞いてください、ヴィクトル陛下。わたしはその為にここへ来ました」
怯えた様子も無く、真っ直ぐにヴィクトル王を見つめる黒曜石の瞳にヴィクトル王は僅かにたじろいだ。
今ヴィクトル王の目の前にいる子どもこそ、この最悪のシナリオを招いた張本人、ゴーディアの新国王クロウに他ならなかった。
砂埃で薄汚れた髪や肌で多少見劣りはするが、この顔は忘れる筈もない知った顔であった。今は亡きゴーディアの国王で、サンタシのはるか昔からの天敵魔王ルシファーは絶世の身を兼ね備えた恐ろしい男。少年の顔はまさにその顔と瓜二つのものだったのだ。
「今更話すことなど何も無いわ! よくものこのこと、この城へやって来れたものだ!」
憎々しげに睨みつけるヴィクトル王の表情に、朱音は胸の奥がツキリと痛んだ。
「ヴィクトル陛下、誤解です・・・!」
「うまく城へ忍び込んだものだな。お前にとってはこれもほんのお遊びのつもりであろうがな! 何が目的だ! わたしの首をとりに来たか!」
いつもは冷静なヴィクトル王であったが、我国を脅かす脅威が突然に目の前に姿を現したことで、怒りと興奮を溢れ出させているようであった。
懸命に彼に事実を伝えようと朱音は試みるが、彼の耳、元より心にはその声はそう簡単に届きそうにはなかった。
王の異様な雰囲気を察し、この少年が招かれざる客だと気付いた近衛兵全てが、いつの間にやら少年に剣の切っ先を向けて取り囲んでいる。
「話を聞いてください! わたしはただ、戦争を中止してもらいたくて・・・!」
「黙れ、この汚らわしい魔族め! そんな嘘にこのわたしが騙されると思っておるのか。あのような惨い方法で我国を裏切っておきながら、今更戦争を中止したいだと!? 今度はどういう企みだというのだ!」
はっとして朱音は怒りに震えるヴィクトル王を悲しげな目で見つめた。
この王が自分の立場を顧みず、サンタシの民や国の為にどれだけの苦労と努力を続けてきたのかは話に聞いていた。その話は、実の弟フェルデンが白亜城に匿われていた頃の退屈な少女朱音に聞かせた話の中の一つであった。
「・・・貴方の怒りはよくわかります・・・。貴方のこれまでの苦労と、努力を踏み躙ってしまったゴーディアの罪は全てわたしが被ります。こんなことになってしまったのは、わたしのせいに他なりません・・・」
はらりと音もなく黒曜石の瞳から零れ落ちた一滴の涙に、ヴィクトル王は困惑した。
「汚らわしい・・・! ならばここで大人しく首を刎ねられるがよい! さすれば、この長きに渡る戦争も終結し、我国は魔族の脅威に怯えることなく、平和に安穏に暮らしていける!」
ヴィクトル王は、持っていた短剣をかなぐり捨てると、傍にいた近衛兵の剣を奪い取ってクロウの前に振り上げた。
「レイシアの為に死ね!!!」
ヴィクトル王の振り上げられた剣が振り下ろされる瞬間、『パシリ』と剣の刃が何者かの手によって遮られた。
「・・・ふっ、そういうことか・・・」
憎々しげにヴィクトル王は突如入った邪魔を睨み見た。
「敵国の城に単身で乗り込む程馬鹿ではなかったのだな・・・。しかし、そなたが生きていたとは・・・」
朱音がの前に立ち塞がるようにして現れたすらりとした身躯は、その手に構えた剣の刀身でヴィクトル王の剣を難なく受け止めていた。
一つに束ねられた美しい碧い髪は、さらりと僅かに揺れた。
「アザエル・・・!」
死んだかもしれないと思っていた彼が、今こうして目の前に現れたことに動揺し、朱音は無意識に名を呼んでいたことに気付いていなかった。
「愚王、ヴィクトル・フォン・ヴォルティーユよ。このまま貴様の息の根を止めてやろうか」
冷ややかなアザエルの言葉に、ヴィクトル王はぐっと剣の刃に力を込めた。
「殺ってみるがよい。但し、わたしが死んだところで我国は滅びはせぬ。寧ろ、サンタシの新たな始まりだ。わたしの後は最高の王が引き継ぎ、そなたの主の息の根を必ずや止めに行くであろう」
ヴィクトル王の言う最高の王とは、弟であるフェルデン・フォン・ヴォルティーユを指していた。
ヴィクトル王は、自らがとる国政よりも、いつの日か弟のフェルデンがずっと素晴らしい国づくりをしてくれると、密かに夢に描き続けてきた。彼が一人前になるまでと、先王からのほんの僅かの期間のみ引き受けたつもりの王の地位。この場所が自分に相応しくないことなど初めっから承知のことであった。
しかし今、フェルデンは騎士団を率いる程までに成長し、その器は十分に出来上がりつつある。そう、ヴィクトル王の役目は終息に近付いていたのだ。
「そうはさせん!!」
一瞬の隙をついて二人の間に割って入ってきた凄まじい剣気。
びりびりと空気を伝い、肌を刺すような気迫に朱音は息をすることさえ忘れていた。
ヴィクトル王を庇うように大剣を構える大男は、歳を重ねてはいるものの、屈強な身体と恐ろしい程の剣の腕を持ち合わせ、その雰囲気だけで素人の朱音の目にも彼が相当の人物だということを知らしめるには十分な空気を身に纏っている。
「ヴィクトル陛下、お下がりください。ここはわたしが・・・」
ディートハルトには今のヴィクトル王の気持ちは手に取るようにわかった。
とっくに役目を果たしたと思っているヴィクトル王であるが、フェルデンの師でありヴィクトル王の傍に仕えてきた彼はそうは思わなかった。
フェルデンにはヴィクトル王の存在が必要で、そしてこのサンタシ国にも賢王ヴィクトルの存在が必要不可欠だと信じて疑わない。何がなんでもディートハルトは国の為にヴィクトル王の身を守り抜かねばなるまい。
「その大剣・・・。貴様、レイシアの三剣士の一人、ディートハルト・アルデンホフか」
「いかにも」
冷ややかなな笑みを浮かべ、アザエルは剣の構えを変えた。
「魔王の側近と謳われたおぬしの腕、この老いぼれの目に叩きつけてみよ」
朱音は直感で感じた。この戦いはどちらにとってもただでは済まないということを・・・。
(アザエル、だめ!)
『ビュンッ』
『ガキィィィ』
凄まじい剣気と張り詰めた空気の中で、どちらも引けぬ剣が激しくぶつかり合う。
「アザエル! やめてっ」
朱音が叫ぶが、このときばかりはアザエルも手を止めることなどできなかった。
「ほぉ、噂通りなかなかの腕だ。しかし・・・、その鈍らでわたしの剣の刃を受け止め続けることなどできるかな」
くっと唇を引き上げると、ディートハルトはアザエルの間に合わせの剣に視線をやる。
接触の際に火花の飛び散る程の斬撃に、僅か数回の攻撃を受け止めただけのアザエルの剣の刃は既にあちこちが刃こぼれし、使い物にならない程になっていた。
冷たい目で一瞥すると、アザエルは流れるような動きで空いた手で別の攻撃を加えていく。
掌から発射される無数の針はディートハルトに絶え間無く襲い掛かる。
しかし、湿気の少ないこの室内では、空気中の水分は十分に殺傷力のある水針へと形を変えるには至らない。
ディートハルトはそうしたアザエルの攻撃を斬撃で弾き飛ばし、僅かなかすり傷のみという偉業を成し遂げていた。
アザエルの剣はゴーディアを出立前にどうやら元老院に奪われてしまったらしい。あり合わせの剣ではディートハルトの剣に所詮敵う筈などない。アザエルの剣が折れるのはもう時間の問題と言えた。
「どうした、魔族よ。お前の実力はそんなものか? 老いぼれを落胆させるな」
「口の減らぬ死に損ないが・・・」
魔力を使用し、これ程のディートハルトの攻撃を受け流しながらも、息一つ乱さないアザエルの姿に、朱音はやはりこの男は魔王ルシファーの右腕だったのだと実感する他無かった。
音もなく流れる水のように動く碧髪の男の姿は、異様に怪しい光を放っていた。
近衛兵でさえ二人の緊迫した闘いの様に見惚れ、そしてその場にまるで打ち付けられたように足が動かない。
『ザンッ』
瞬時に紅い飛沫が宙を舞い、近衛兵の一人が声を出す間もなくドサリとその場に倒れ込んだ。
そのすぐ傍で、返り血を浴びた氷の目をした男が、美しい顔からぽたりぽたりと鮮血を垂れ流しながらサンタシ最強の剣士を見つめる。
みるみるいちに床に広がっていく紅い血だまり。生暖かい血は倒れた近衛兵の首の動脈から今もどくどくと脈打つ度に流れ出ている。
朱音はあまりの光景に呆然とした。
近衛兵の中には、一体何が起こったのか理解できていない者もいたようだ。
アザエルは使い物にならなくなった剣を投げ捨てると、両の手をディートハルトに向けて翳し始めた。
「!!!」
絶命した近衛兵の今なお流れ出す血液がアザエルの手に吸い込まれるようにして、その掌にはみるみる紅黒い剣のようなものが形作られていく。
「血の剣だと・・・」
ディートハルトは目を見張り、大剣を構え直した。
「ちっ、強度がまだ足りぬか・・・」
そうアザエルが呟くと同時、今度は朱音の隣に立っていた近衛兵がどさりと鈍い音を立てて倒れ込んだ。
『ゴロゴロゴロ・・・』
光沢のある石の床面に転がったものは、置物などではなく、兵士の頭である。
「ひっ」
悲鳴を上げ、朱音を取り囲んでいた近衛兵達が向けていた剣のこともすっかり忘れ、恐怖で真っ青になりながら後退していく。
その間にも、切断された首からは鮮血が噴出し、朱音の衣服をも真っ赤に染め上げていった。
アザエルは冷笑を浮かべ、その血さえも掌の武器へと吸収し続けていく。
「その減らず口を永久に閉じてやる」
室内に篭る生臭い鉄の臭い。惨劇に朱音は吐きそうになるのをじっと堪えた。
「もう止めて・・・。これ以上誰が死ぬのも見たくない・・・」
強硬な武器を手に入れたアザエルが今まさにディートハルトに切り掛かろうとしている。
「お願いです、あの二人を止めて・・・!」
朱音は真っ赤に染まった手でヴィクトル王の腕を掴んだ。
「なぜ?」
まだ生暖かい血に濡れた少年王の手に掴まれ、ヴィクトル王は自らの腕を振り返った。その横顔は、なぜかフェルデンの表情に重なって見えた。
「ヴィクトル陛下、どうかお願いです。このままではあの人はアザエルに殺されてしまいます。どうか・・・」
「なぜわたしがお前の言うことなどを聞いてやらねばならぬ」
あまりフェルデンと似ていないと思っていたヴィクトル王の吊り上った隙の無い目、しかしふと下を向いたときに落とす睫毛の影が、二人がやはり兄弟だということを朱音に思い出させてくれた。
「ヴィクトル陛下、わたしが憎いというのならわたしは貴方の意向に従います。煮るなり焼くなり殺すなりお好きにしてください・・・。だから、どうか二人を止めて・・・!」
懸命に腕にしがみ付いて懇願する少年王の姿を目にし、ヴィクトル王はその姿を凝視した。
ここにいる少年王は、噂に聞いていた我儘で横暴な少年王の姿からまるで想像もつかないものである。血だらけになって必死に敵国の国王に訴えかける様子は、サンタシを裏切り戦争を再開させた張本人の演出にしてはあまりに妙な行動であった。
「では、お前は一体何をどうしたいというのだ。お前には強大な魔力がある筈であろう。それを使い二人を止めればよかろう」
朱音は首を振ってそれを否定した。
「わたしはただ、貴方と話がしたかっただけなんです。それに・・・、わたしは力をまだうまくコントロールできません・・・」
アザエルの血の剣がディートハルトの大剣と何度も接触し、二人とも一歩も退かない状況が続いている。
「アザエルはあの人が攻撃を止めるまではわたしの言うことをきっと聞いてくれません。ですから、ヴィクトル陛下からあの人に攻撃を止めるように言ってください・・・! どうぞお願いします。これ以上の犠牲が出ないうちに・・・」
少し黙り込んだ後、ヴィクトル王が口を開いた。
「ディートハルト、もうよい。クロウの身柄はサンタシが預かった」
ぴたりと二人の剣の動きが静止した。
「ゴーディアの国王クロウ自らサンタシに降伏を申し出た。我国の勝利がここに証明された」
バシャリとアザエルの手に握られていた剣がどす黒い元の鉄臭い血だまりへと姿を戻す。
「ヴィクトル陛下・・・、わたしはそれでも構いません・・・。でも、あともう少しだけわたしに時間をください。戦争はまだ終わっていないんです・・・。例え私が降伏しても、今のゴーディアはきっと止まることをしません。もう既に、国が別の者の手によって動き始めてしまったんです」
ヴィクトル王は怪訝な顔で朱音の血に濡れた表情を見つめた。
「一体何を申しておる」
解せない様子で、眉を顰める。
「別の誰かが“国王に成り代わった”のか?」
いつの間にやら息が上がってしまっていたことに気付き、ディートハルトは大剣を静かに鞘へおさめた。
「我国王の座に相応しいのはクロウ陛下唯お一人。陛下の留守をいいことに、“国王に成り代わろうとした”愚かな反逆者が一人いたようだが」
アザエルの言葉に反応し、朱音が目を丸くして振り返った。
「アザエル、貴方知って・・・」
予想外の展開による過重なストレスと、不眠不休で長くいすぎたせいか、どっと疲れが噴出したヴィクトル王は、ぐらりと足元をふらつかせた。
「ヴィクトル陛下・・・! ほら言わんこっちゃない・・・」
先程の気迫からは想像もできない程呆れた声でディートハルトはヴィクトル王のふらついた腕をがしりと引きとめた。
「ヴィクトル陛下・・・。少し休んでください。わたしは逃げも隠れもしません。ただ、ゴーディアの国王の最後の仕事として、ゴーディアの後始末は全て責任を持ってわたしが片付けてきます。それまで、わたしに時間をいただけますか・・・?」
黒曜石の瞳は、悲しい色を含みながらも国王としての責務を全うしようと必死にヴィクトル王に訴えかけていた。
「わたしに長年の敵国の王を信じ、みすみす放てと?」
血の気の失せた顔でヴィクトル王は吊り上がった眼をじっと細め、朱音の瞳を見返した。
「無理を言っていることはわかっています。だけど、今暴走しているゴーディアを内側から止めることができるのは、サンタシやヴィクトル陛下ではなく、きっとゴーディアの国王の地位にあるわたしだけだから・・・」
アザエルは、朱音が国王としての自覚を持ち始め、以前とは違い、その責任を果たそうとしていることに気付いた。今、朱音はゴーディアの国王として相応しい王へと変化しつつあった。
逃亡から始まったこの旅は、朱音にとってはきっと必要なものであった。
けれど、それには多くの犠牲が払われた。こうした経過でさえ、有能な魔王の側近アザエルの当初の計画に、これら全てが練り込まれていたのかもしれない。その真実はこの有能な魔王の側近の心の内だけが知っている。
さっと視界に茶色い塊が宙を横切り、その物体がディートハルトの逞しい腕にがしりと舞い降りた。
「鷲!?」
この凄まじい空間に、悠々と入ってきた立派な鷲のような鳥は、鋭い足に結わえ付けてある紙切れをくいとディートハルトに差し出した。
「これは・・・!」
険しい顔で紙を開いたディートハルトは、その文面に目を走らせた後、表情を曇らせてヴィクトル王にそれを渡した。今にも倒れそうな王の表情が、それを読んだ途端きっと唇をきつく結び鋭い目つきを取り戻した。
「リーベル艦隊が全滅した・・・」
予想はしていたものの、あまりに過酷な現実。
アルノは華々しく海で散っていったのだろうか。彼が城を後にしたときに見た背中が、ヴィクトル王が彼を見た最後の姿となってしまった。
「ディートハルト・・・。悪いがすぐに戦地へ向かってくれ。魔笛艦隊が我領土内に侵攻するのは明日だそうだ・・・。沈めた船の数は三分の一にも満たかった。予定よりもかなりの勢力を残して乗り込んでくる。そなたが行くまでフェルデンが持ってくれれば良いが・・・」
朱音の嫌な予感は的中した。
あの愛する青年が、戦火に今にも飛び込もうとしている。
「ディートハルト・・・、フェルを頼むぞ。あいつはサンタシの最後の希望なのだ・・・! 決して死なせるな・・・!」