第4章 1話 招かれざる客人
その日、白亜城では忙しなく人々が動き回っていた。
サンタシが誇る騎士団の出陣が間近に迫り、兵や周囲の者もそれに備えて着々と準備を進めていた。
フェルデンはそんな中、リストアーニャで遂に見つけることのでき無かった少女の行方を案じていた。
本来ならば、兄であるヴィクトル王に旅の報告を済ませた後、再び彼女の捜索にあたるつもりだった。それが、戦の再開でそれも叶わなくなってしまったのだ。
既に数日前にディアーゼ港からゴーディアの魔笛艦隊を迎え撃つ為にヴィクトル王が艦隊を送り出したばかりだった。ヴィクトル王の放った間諜から、ゴーディアの魔笛艦隊がサンタシを目指し、海を最短距離で突っ切ろうとしているという最新の情報が入った為だ。
あの嵐の一件以来、リーベル号の船長アルノが辞任を申し出ていたが、その願いは却下され、彼が再びその艦隊を率いることとなった。
しかしながら、このリーベル艦隊はこの十年に戦闘に備えて着々と準備を重ねてきたゴーディアの魔笛艦隊の船に比べると、明らかに劣っていた。そして、船の数から言っても圧倒的に敵側の方が勝っている。
おそらくは海上での闘いは負け戦になるだろう。そうなれば、フェルデン率いる騎士団を中心とした地上戦は余儀無くされるだろう。サンタシの領土に攻め込んで来るだろうゴーディアの兵を食い止める為、騎士団はこの日、戦場と化すだろうディアーゼ港へと出立する予定でいた。
フェルデンは自らの過ちにより、戦が再開されたことをひどく後悔していた。そして、この戦でたとえ命を失うことになろうとも、このサンタシの地と、
兄であるヴィクトル王を命懸けで守り抜くと密かに心に決めていたのだ。
「フェルデン殿下」
ふと、馬の背に必要な物資を結びつけているその背後から、部下である騎士に声を掛けられた。
「ユリウスか」
何か物言いたげな小柄の騎士は、真剣な眼差しでそこに立っていた。
「何か用があったんじゃないのか?」
何か言おうとして、言い出せずにいるユリウスに、フェルデンが先に問い掛けた。
「ユリ。リーベル号での嵐の晩、おれはあの船の一室でアカネに会ったと話したよな?」
こくりと頷いたユリウスに、フェルデンは続けた。
「あの暗闇の中で、アカネはおれと一度も言葉を交わそうとしなかった・・・。それだけじゃない、おれから逃げようとまでしていた・・・」
フェルデンはあの夜のこと思い出していた。
激しく揺れる船内。倒れた積荷の下敷きになりかけた少女を庇い、二人は互いの心臓の音が聞こえる程までに近くにいた。
確かに香ったチチルの香油の香り。
「アカネなのか・・・!?」
と訊ねたけれど、彼女からの返答は無かった。怯えたように自分を押し退けるようにして離れた彼女。
そしてそこへあのロジャーという紳士が現れた。
「私はアカネさんの友人です。今はそれだけしか申し上げられない」
彼ははっきりとそう言い、更にこう付け加えた。
「それは、彼女が貴方に会いたいと願わないからです。貴方は悲しみのあまり、あまりに盲目になりすぎている。もっと心の目で物事を見てみてください。そうすれば・・・真実が自ずと見えてくる筈です」
彼の言った言葉で、フェルデンは盲目だった自分に気付くことができた。失ったとばかり思っていたアカネが、別の姿で存在していることを知った。
けれど、フェルデンはその一言が気掛かりでもあった。
これ程彼女に会いたいと願っても、当の彼女が自分に会いたくないかもしれないという考えがどうしても頭から離れないのだ。
「アカネは・・・、おれとの再会を望んでいないのかもしれない・・・。彼女はおれを恨んでいるのかもしれいないと思ってな。もしおれがアカネに会いたいと行動することが、彼女にとっては迷惑でしか無いとしたら・・・」
フェルデンが全てを話し終える前に、ユリウスが言葉を挟んだ。
「殿下、アカネさんはきっと今でも殿下に会いたいと願っていると思います。だって、そうでなければあんなに近くまで戻って来たりしないと思いません? きっと、殿下に直接会えないような特別な理由があったんですよ」
ユリウスの読みは正しかった。けれど、まだ二人は朱音とクロウ王の関わりについて気が付いてはいない。
苦笑いをしたフェルデンに、ユリウスが励ますような顔で言った。
「殿下、何があっても、この戦を勝ち取りましょう・・・! そして、サンタシを守り、その時こそ必ずアカネさんを捜し出しましょう!!」
こくりと頷き、フェルデンはユリウスの小柄な背をぽんと叩いた。それは、フェルンデンの精一杯の感謝を込めた返事であった。
すぐにでも彼女を見つけ出し、連れ帰りたい思いは変わらないままだったが、その思いは今はそっと胸の中に仕舞っておくことにした。自分の我儘で部下や仲間達の命を危険に晒すことはできはしない。
「ユリ、騎士団を城門前に集結させろ。ディアーゼ港に向け出立する」
ヴィクトル王は疲労しきった目蓋を左の指で指圧していた。もう眠りにつかないままこうして机と玉座を行ったり来たりしている日が何日か続いていた。
「いけませんな、陛下。お顔の色が優れませんぞ。今貴方がお倒れになれば、それこそサンタシの行く先はありませぬ」
呆れたように、ディートハルトが傍の腰掛け椅子から声を掛けた。
「分かっている。しかし、そう暢気に眠っておれる状況ではあるまい・・・」
今頃、負け戦と分かっていながら送り出したリーべル艦隊が海上でゴーディアの魔笛艦隊と激しい闘いを繰り広げている頃である。
「愚かであった・・・。もっと戦闘用の船の開発に費用を注ぐべきであった。いや、もっと人材を育成しておくべきだったのか・・・」
すっかり艶をなくしてしまったヴィクトル王の金のウェーブがかった髪は、より一層疲労を際立たせて見せる。
「確かに軍事費に割いた費用はこの十年少なかったでしょう。しかし、わたしはこの十年に陛下がなされてきた政策があながち間違いだったとは思いませんぞ」
ディートハルトは先王の後を継ぎ、このサンタシを支えてきた歳若いヴィクトル王の姿を一番近くで見続けてきた。
この十年の間に、絶対不可能だとまで言われた停戦まで持ち込み、更に長い戦争で苦難を強いられてきた民のことを一番に考え、軍事よりも生活向上に費やしてきた。
そのお蔭でサンタシの民がどれ程救われてきたことか。“賢王”とまで呼ばれるに値する、王としての責務を全うしてきたことに変わりは無い。
「サンタシの街や村々を見てみなされ。今やどの国よりも治安は安定し、民の暮らしは潤っております。警備隊の長官を担っておる身ではありますが、わたしの仕事はこの二年ほぼ無いに等しいものでした。せいぜい民衆同士の喧嘩の仲裁程度のものです」
だからこそ、こうしてヴィクトル王の傍に仕えることができたというのも事実であった。
「ディートハルト、お前はわたしを責めることをしないのか? 艦隊の敗北は明らかであるのに、わたしはそれをみすみす送り出したのだぞ」
有能なアルノであるからこそ、きっと祖国を守る為に最期まで退くことはしないだろう。例えそれがどんな不利な状況に追い込まれたとしても、残りの一隻になるまで魔笛艦隊に果敢に立ち向かっていくことは分かっていた。
だから困る、とディートハルトは溜息を漏らした。
王はいつだって国を守る為に部下を利用しなくてはならない。たとえそれが、使い捨ての駒になろうとも・・・。それを知っているだけに、この王は賢王と呼ばれるに値する男になりえたのだろう。
しかし、それはいつだって自らの首を絞め続けてきた。
「陛下、我国の誇れるものは、艦隊ではありません。ですが、海上戦である程度戦力を削ぎ落とすことができれば、我々に勝機は十分に有り得ます。彼らは愛する母国を守る為の犠牲ならば、たとえそれがどんな結果になろうとも本望な筈です。それは、このディートハルトも同じこと・・・。そして、貴方の実弟、フェルデン・フォン・ヴォルテヴィーユ殿下はサンタシ最高の騎士です。彼の率いる騎士団が必ずや地上戦で敵の侵攻を防いでくれる筈です」
逞しい腕をぐっと胸の前に構え、ディートハルトは顔の傷を引き攣らせながらにかりと笑った。
「陛下。このディートハルトに、今一度騎士団復帰のご許可を! そして、フェルデン殿下の手助けをぜひともわたしに!」
驚きとディートハルトの歳をも感じさせない言葉に、ヴィクトル王はふと顔を上げた。
「ディートハルト、我弟の助けとなってくれると・・・!?」
頼もしい剣士の一言で、ヴィクトル王は僅かに希望の光を見た気がした。
すっと椅子から立ち上がったディートハルトは、ヴィクトルの机の前で礼の形をとった。
「よし、そちに騎士団総司令官補佐役を命ずる。良き軍師として、良き戦友として、我弟を頼む」
「はっ」
ディートハルトがふっと口元を綻ばせて顔を上げるほんの僅か直前に、慌しく家来が部屋のドアを叩いた。
「陛下・・・! 陛下・・・!」
「何事だ、入れ」
息せき切って入室してきた近衛兵は、慌てて跪くと、報告を始めた。
「陛下、ゴーディアの新国王を名乗る不審な輩が城を訪ねて来ました。不審な点が多いので、捕縛しようと試みたのですが、城内でまんまと逃走、現在も捜索に全力を挙げております」
不可解な報告にヴィクトルは眉を顰めた。こんなに厄介なときに、人騒がせな悪戯をするどこぞの誰がいたものだ、と呆れて溜息を溢す。
「こんな時に一体何をしておるのだ。その自称ゴーディアの国王とやらは一体どんな馬鹿なのだ」
近衛兵はごほっと咳をすると、顔色を伺いながら報告を続けた。
「まだほんの子どもです。ひどく汚らしい格好をしていましたので、この騒ぎに紛れて金品を盗みに入った泥棒猫か乞食でしょう」
その話を聞いて、思わずディートハルトは苦笑した。
「おい、ここの兵はどうなっておる。この緊迫した時期にこの気の緩み用はなんたるか! たかが子どもに城の警備を簡単にすり抜けられるとは、この城には腑抜けの兵ばかりが残っておるのか!」
どすのきいたディートハルトの怒鳴り声に、ひっと近衛兵は飛び上がり、頭を下げた。
「もっ、申し訳ありません・・・! すぐに捕まえて参ります・・・!」
物凄い勢いで部屋を飛び出して行った近衛兵の後姿を見送った後、ヴィクトル王はやれやれと椅子の背もたれにもたれ掛かった。
「しかし・・・、その餓鬼んちょとやらは、本当にこの時期に何を考えておるのか・・・。ゴーディアの新国王を名乗り、一人で城に乗り込んで来る気概さは認めるに値するが、なんと命知らずな・・・」
「はあはあはあはあ・・・」
相手が子どもだと思って油断していたこともあり、案外簡単に城内に入り込むことができたことに、朱音は驚いていた。
いや、よく考えると以前この城にいたときに比べると、兵の数が格段に少ないようにも思える。いつも騎士達の訓練の声が堪えない中庭も、今日はしんと静まり返っている。
(まさか・・・)
朱音は頭を振った。まだこんなところで立ち止まる訳にはいかない。
(早くヴィクトル陛下にお会いしないと・・・! 全てを話して、この戦争を止めて貰わなきゃ・・・!)
朱音は身を潜めていた馬小屋の影からゆっくりと立ち上がると、呼吸を整えて駆け出した。