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AKANE  作者: 木と蜜柑
第3章  旅編 
37/63

    17話  霧晴れ

 

 朱音の頭上でファウストが手を翳す。

「魔王ルシファーの息子と言え、大したことねぇのな」

 ファウストは、カサバテッラが偶然にして生み出した、至上最高の傑作であった。彼は生まれながらにして、炎を操るという高等魔力を兼ね備え、同時に自らが作り出した炎で飲み込んだ相手の力を吸収してしまうという、特殊能力を持ち合わせていたのである。

(クロウ王、お前に闘志が無いのなら、俺は遠慮なくその力をいただく!)

 ファウストは褐色の手に炎を集め始めた。

「お頭っ!」

 背後の少し離れた位置で突っ立っていた手下の青年が叫ぶ。

 その瞬間、『ゴゴゴゴゴゴゴ・・・』と地鳴りのような音を立てた地面が少しずつ揺れ始め、その揺れは次第に大きなものへと変わっていった。

(なんだ・・・!?)

 次第に立っているのも難しくなり、パラパラと天井の土が通路内に降り始める。

「お頭!」

 バチイと強い静電気が翳していた手に起こり、ファウストは咄嗟に手を引っ込めた。

 固い地下通路の上で蹲っているクロウの身体から、無数の静電気の筋がパチパチと音を立て発され始め、蒼黒の髪先はまるで無重力の空間にいるかのようにふわりと逆立つ。

「ちっ」

 ファウストは、一歩後方へ飛び退くと、電流の掠めた右の手を確かめた。その手は僅かに焦げついている。


 今、朱音は湧き出る怒りと哀しみで我を失っていた。

 身体の内側から溢れ出てくる負の感情は、朱音の理性では到底抑え切ることのできないものであった。

 怒りは目の前のファウストだけに留まらず、寧ろ“神”というものが存在するならば、それにあたる人物へと向けられていた。

「・・・して・・・、どうしてわたしから何もかも奪ってしまうの・・・? 家族も・・・、大切な人達も・・・! わたしはただ、平凡に暮らしていたいだけだったのに・・・!」

 朱音の体表を包むような禍々しい黒い気体がゆらゆらと湯気のように出現し始める。

「なるほど・・・! すげえ魔力だ」

 数々の魔族の魔力を奪ってきたファウストだったが、これ程の興奮を覚えたことは未だ嘗て無かった。魔王ルシファーがカサバテッラを消滅させてしまったあの日でさえ今のような興奮は起こらなかった。あの頃はまだ、自身に今程の魔力と自信を持ち合わせていなかったこともある。

 しかし、今ならば魔王の息子の魔力にでも少しは対抗できるような気がしていた。

 朱音の周りだけがまるで空気も時間の流れも止まったかのような静けさに包まれる。

 時折バチバチと音を立てて起こる電気の筋。

「んじゃあ遠慮はしないってことで!」

 ファウストは勢いよく腕を振り上げると、思い切り炎を放った。

『ボウッ』という音とともに、確かにファウストの炎は朱音の身体を包んだが、すぐさまそれは吹き消された蝋燭の火のように消失した。

「なに!?」

 予想に反した状況に、ファウストは僅かに怯んだが、炎を放つ手を尚止めることはしない。

 しかし、ますます朱音の身体から出る黒い気体は容量を増し、炎をいとも簡単に弾き返してしまう。

「・・・くなればいい・・・。全部無くなっちゃえばいいんだ。わたしも・・・、この世界も・・・」

 ぐるぐると渦を巻き始めた黒い気体は、より一層容量を増し、地下である筈のこの空間に生温い風を巻き起こし始めた。

「!?」

 突如足元がぐらつき始め、ファウストを始め他の手下の男達もバランスを崩し近くの壁に腕をつく形で寄り掛かかった。

 地揺れの原因は自然現象などでは無く、朱音の深い哀しみと怒りによる魔力の暴走によるものであった。

 気付いた時には、朱音の身体は黒い気体に全て覆われ、その瞳の色は死人のように周囲の何も映してはいない。

 パラパラと天井の土が崩れ始め、石壁にも幾筋もの亀裂が走り始める。

「お頭! まずいっすよ、一旦引きましょう!」

 頑丈な造りになっている筈の地下の壁が崩れ始めるのも時間の問題だった。

「黙れ。そんなに逃げたきゃお前らだけでずらかりな! 俺は今ここでクロウ王を倒して世界の頂点に立つ野望を叶える!」

とっくに静電気の域を超えてしまった電流達が空間を迸り、『バチイ』と電光を何度も起こす。

「うおおおおおおおおおお!!!」

 ファウストは踏ん張った足で両の手に今現在持ちえる全最大魔力を注ぎ込んでいく。

「やべぇっ、お頭がまじでやる気だ・・・! ずらかるぞ!」

 手下の男達は血相を変えて撤退していく。

「くたばれえええええええ!!!!!」

『ドウッ』と放たれた先程とは比べ物にならない炎は石の壁を一瞬にして鉄釜のように熱っした。

(流石に奴も無事では済まねえ筈!!)

 渾身の魔力を放ったファウストはくっと唇の端を吊り上げた。

 石壁はジュウと音を立て、炎の勢いで二人の周りの通路はばらばらと音を立てて崩れ始めていた。

「なに!?」

 炎の渦巻く中で人影がちらりと蠢いた。

 ファウストは数十メートルという距離を後方に跳ね飛ばされ、逃げ出した手下のすぐ近くの石壁に強烈な勢いでのめり込んでいた。

「ぐはっ」

 壁にめり込んだ身体のあちこちが衝撃でいかれてしまったようである。

 ファウストは口からどす黒い血液を吐き出した。それは、口の中が切れたというよりは、内臓のどこかが傷ついてしまったもの。

 ひゅうひゅうと喉を鳴らす(かしら)の姿に、手下の青年達は目を丸くした。そして、逃亡も忘れてファウストを見つめたまま佇んでいた。

「お・・・、お頭っ」

 やっと正気に戻った手下の一人がファウストに駆け寄る。

 ファウスト自身、一体今自分に何が起こったのか全く理解できていなかった。

「あははははははっ、あはははははははっ!!」

 バラバラと崩れる石壁と土埃りの向こうで、傷一つどころか衣服の繊維一つ焦がした様子もない少年王が立ち上がり、仰け反ったまま声高々に笑っている姿が、ドラコの面々の目に映った。

「・・・完全にイカれてる・・・」

 その場に居たドラコの手下達は、ゾクリと肩を震わせた。

「あはははははははっ、この僕を殺すだと・・・? 笑わせるな。魔王クロウが何もかも皆消してやる、塵も残らぬ程にな。あはははははははっ」



 朱音は暗闇の中を彷徨い歩いていた。

 何も見えず、何も無い真っ暗闇の中をただ一人。

「ルイ・・・? クリストフさん・・・?」

 どこまで続くかわからないこの暗闇は、朱音の不安を掻き立てる。

「誰か、ねえ、ここはどこ・・・? 皆どこに行っちゃったの?」

 今にも泣き出しそうな朱音の視界の端に、何かきらりと光るものが映る。

(なに・・・?)

 手探りでその光を目指し、朱音は走った。

 とにかくこの恐ろしく孤独で淋しい場所から抜け出したい為に。




 美しく彩られた大広間。

 華麗な音楽が流れ、煌びやかなドレスや宝石を身に纏った女性達が楽しそうに話に華を咲かせている。

 ダンスをする男女。

 一流のシェフが力を注いだであろう美味そうな料理が皿にずらりと並び、品目は数え切れない程。

 黒を基調とした石を使った美しい彫刻の施された壁や柱達。

 朱音はここに見覚えがあった。


「ご機嫌麗しゅう、ベリアル王妃。貴女の美しさは衰えるどころかますます磨きがかかったようでございます」

 五段程高い位置に設置された玉座の下で、優雅にどこぞの公爵かが膝をつきベリアルの中指の大きな石のついた指輪に口付けていた。

「まあ、ブラントミュラー公爵。相変わらずお上手だこと。この度はわざわざ遠い地からわたくしの誕生祝いに駆け付けてくだすったこと、感謝いたしますわ」

 アプリコットのふわりとカールした髪の合間からほんのりとピンク色の愛らしい笑みが伺え、その場にいた誰もがその美しさに溜息をついた。

「しかし、この戦の最中にこのような盛大なパーティーを開催なされるとは、ゴーディアの国政は順風満帆のようでございますね。ベリアル王妃がルシファー陛下のお隣に居られれば、この国も安泰でございましょう」

 はははと笑うブラントミュラー公爵に、ベリアルは恥ずかしそうに遠慮がちに微笑んでいた。

 このとき、ベリアルを魔王ルシファーの正妃として迎え入れてからすでに五十年が経過していた。

「しっかしこの国、一時は資金不足でどうなるかと思ったが、ベリアル王妃様が嫁いで来られて本当に救われたな。なんてったって、ご実家は世界の大商人コンコーネ家だもんな。それであの愛らしさだ、恐れ入るよ」

 その様子を見ていた貴族階級の男達が小声でひそひそと話をしている。


「それにしても、ベリアル王妃。貴女のお子はますます陛下に似てこられましたね。これは将来が楽しみでございます」

 ブラントミュラー公爵の言葉に、ぴくりと眉を引きつらせるとベリアルはふいと不機嫌に近くに立つクロウから目を逸らした。

 そのことに何も気付いていないのか、公爵はすっと立ち上がり、クロウの前に(ひざまず)いた。

「お久しぶりでございます、クロウ殿下。ブラントミュラー公爵でございます。覚えておられますかな」

 真っ白な肌に蒼黒の髪の少年は、美しく刺繍の施された黒の礼服を身につけ、母ベリアルの横に静かに佇んでいた。

「貴方のような人、僕は知りません」

 肩に掛かるさらりとした黒髪の下から、表情の無い少年がぽつりと返答した。

「はは、そうでございますか。無理もない、わたしがクロウ殿下にお会いしたのは、殿下がもっと幼い時でございましたので」

 興味のないようにクロウはブラントミュラー公爵をじっと見下ろしていた。

「ブラントミュラー公爵、その子に何を言っても無駄ですわ。その子、感情がありませんの」

 えっとした顔をして公爵がクロウの顔をまじまじと見つめる。

「まさかそのようなことは・・・。昔、殿下と戯れたことがございましたが、その際は可憐に微笑んでおられましたが・・・」

 ベリアルは卑しいものでも見るかのように、クロウに一瞬だけ目線をやる。

「何かの記憶違いでは? 母であるこのわたくしにさえ、ただの一度も笑顔など見せたことが無いのですから」

「ベリアル」

 静かに王妃の言葉を黙って聞いていたルシファーだったが、王座からついにベリアルを諌めた。

 余程気に障ったのか、ベリアルはきゅっと血色のいい唇を噛み締めると、椅子から立ち上がり、淡いオレンジのドレスを翻して大広間をつかつかと飛び出して行った。

「ベリアル王妃・・・?」

 驚いたように、ブラントミュラー公爵ははたと可憐な王妃の後ろ姿を見つめた。

「すまなかったな、ブラントミュラー。ベリアルは近頃あまり体調が優れない」

 静かな口調で王座からルシファーが公爵に声を掛けた。

「ルシファー陛下・・・」

 ブラントミュラー公爵がふとルシファー王に目をやった瞬間、ぼとりと王の手から金の杯が滑り落ち、赤い敷物の上にカラカラと転がって紫色の酒を染み渡らせてゆく。

「陛下」

 すっと脇に控えていた魔王の側近が王の靴にまで飛び散っているだろう雫を、懐から取り出した灰の布で拭い始める。

 透けるように長く美しい碧髪に、それと同じ色の目。決して、ガタイがいいとは言えないが、今やこの男が魔王ルシファーの次に力をもっているということは、国内外問わず誰もが知っていることであった。

「何でもない、ただ手を滑らせただけだ」

と、側近を下がらせようとするルシファー王に、

「ルシファー陛下、何やらお顔の色が優れないようでございますね」

とブラントミュラー伯爵は言った。

 しかし、その言葉に何か含みがあることに気付き、側近であるアザエルは指に付着していた酒を自らの口に運び眉を顰める。

「・・・毒」

 きっと鋭く目を細め、アザエルは腰の剣の握りに手を添えた。

「噂通り察しのいい方のようですね、アザエル閣下」

 公爵はすっと立ち上がると、パチンと指を鳴らした。

「きゃっ」と会場のあちこちからあがる悲鳴。いつの間にか大広間は剣を手にした男達に包囲されている。賓客と偽り、城内にサンタシの兵を忍び込ませていたのだろう。まさに用意周到な襲撃。 

「あの兵服はサンタシの・・・。貴様、裏切りか」

 公爵は、

「これも全てはベリアル王妃の為なのです、わかってください」

と、申し訳無さそうに話した。

 これ位のたかだか人間の兵ならば、魔王ルシファーであれば、その魔力でひねり潰すことくらい安易なことであった。しかし、ルシファー王はそうはしなかった。いや、できなかったのだ。

 王自身も、自らの身体の異変に気付いていた。

 アザエルがブラントミュラーに手を翳そうとする。

「動くな!」

 何者かの腕が、クロウの首を絡めとりその身体が傾いたことに気付き、アザエルはぴたりとその手を止める。クロウの首にはすでに剣先が宛がわれており、その切っ先が僅かに喰い込み血を垂れ流していた。

 クロウに切っ先を向けていたのは、なんとゴーディアの近衛兵の一人だった。つまりはサンタシの間諜ということになる。

 そんな状況にも関わらず、クロウはなんの表情も浮かべないまま、ただじっと父とその側近を見つめていた。

 魔王ルシファーは毒による痺れで魔力を発動できないない状態にあった。これはが普通の人間であるならば、今頃はとっくに死に絶えていたものである。

 首に刃を据え付けられたまま、クロウは引きずられるようにして広間を連れ出されていく。

 すぐ後を追わなければならないことはアザエルにも分かってはいたが、忠誠を誓った王の傍を離れることはさすがに憚られたし、アザエルの力をもってすれば、一部のやり手の者を除いて大広間にいるサンタシの兵を一掃することは決して不可能なことではないこともわかっていた。

「ルシファー王を捕らえよ! 城を占拠するのだ」

 ブラントミュラー公爵の指示で、貴族達を人質にとっているサンタシの兵が剣を構え玉座を取り囲んだ。

 アザエルは今すぐにでも魔力を発動させようと手を構えた。

「アザエル、これしきのことでわたしがくたばるとでも? あの子はまだ力の制御がうまくできぬ・・・。あの子を止められるのはお前だけだ、行け」

「はっ」

 王直々の命に、アザエルが従わぬことなどできる筈もなかった。

 アザエルの手から放たれた威嚇の為の鋭い無数の水針。空気中に含まれる僅かな水分を瞬時に変換させたもので、殺傷力には些か劣る。

しかし、取り囲む兵に一瞬の隙を与えるには十分の代物だった。兵達が若干怯んだ隙に、アザエルは風のように素早く、クロウのと間諜の後を追った。

なんとしてもクロウに追いつき、最悪の事態を避けさせねばならなかった。


 

 クロウはアプリコットの髪のベリアルと無言のまま向かい合っていた。

「化け物・・・」

 可憐なぷくりとした唇から漏れた一言はまだ少年の域を出ない王子の心をひどく傷つけるにはあまりに十分すぎる言葉であった。

 一見なんの表情も無いかのように俯いた王子の足元には、今や肉塊と化した元近衛兵の残骸が無残に転がっている。鉄臭い死臭。

 どうして彼がこうなってしまったのか、クロウにはまだ理解できなかった。

「お前はなんて醜い生き物なの・・・! ああ、恐ろしい・・・!」

 恐怖に慄いたベリアルの瞳。何か恐ろしいものでも見たかのように、彼女はがくがくと自らの肩を抱きしめると震えながら王子から目を逸らした。

「は・・・、母上・・・?」

 どれ程愛していても、決して受け入れてくれなかった偽の母。

 しかし、クロウは彼女が偽の母とわかってはいても彼女にいつか受け入れて貰えると信じ、愛することをやめなかった。

 肉塊を踏みつけていることにさえ気付かず、クロウはベリアルに一歩近付いた。

「お前の母になった覚えなど一度だってありません! ああ、浅ましい! お前などいなくなってしまえばいいのに!」

 ベリアルは震えたまま一歩後退すると、いつもは可憐な口元をひどく歪ませる。

「母上・・・、僕・・・、母上が・・・」

 クロウがまた一歩踏み出すたびに、ベリアルは同じだけ後退してゆく。

「お前が存在したせいで、わたくしは陛下の愛を手に入れることができなかった。お前さえいなければ・・・、お前さえいなければ、わたくしがこんなにも心を乱すことなどなく、幸せに生きていけたのに・・・!」

 表情も何もない筈のクロウの黒曜石の瞳から、ぽろりと雫が零れ落ちた。

「わたくしがこんな身体でなければ、陛下のお子を宿し、卑しい妾の子であるお前など城から追放してやれたのに・・・! 忌々しいっ」

 とうとう壁際に追い詰められてしまったベリアルは、壁にかけられていた剣の飾りを抜き取り、王子に剣先を向けた。

「近寄らないで! それ以上近寄ればこれでお前を突き刺してやるから!!」

「母上・・・、僕・・・」

 ベリアルの振り回した剣先がクロウの頬を僅かにか掠め、つうと一筋の血が筋になって流れ落ちる。

「来るな! ああっ陛下・・・! お助けください!」

 すでに発狂しかけているベリアルを前にして、明らかにクロウの纏う空気の色が変わり始めていた。

 哀しみのあまり、王子は我を失いかけていたのだ。

「きゃあああっ!!」

 クロウの周囲に起こり始めた得体の知れない空気に触れたとたん、ベリアルの愛らしいオレンジのドレスが弾かれた。

「そこまでです、殿下」

 大きく見開いた瞳が驚いたように背後を振り返り、そのままぐらりと身体を傾かせた。

 突然姿を消した黒い空気に、ベリアルはぺたりとその場にへたり込み、握っていた剣を転がした。

 いつもは結われた碧く美しい髪は、今はさらりと水のようにクロウの頬を滑り落ちていく。後ろから抱きしめるような形のアザエルの手にはしかと短剣の柄が握られていた。

 ぱくぱくと何か話そうと口を開いたクロウだったが、その美しい黒曜石の瞳は開いたまま見る間に輝きを失い、人形のようにだらりと動かなくなった。

 王子の胸に深く突き刺さった短剣。

「殿下・・・、お許しください」

 ベリアルに一礼すると、アザエルは少年の身体を大切そうに腕に抱き、静かに地下へと向かった。

 見開いたままのクロウの目蓋に美しい手をやり、閉じさせた後、黒く美しい彫刻の施された棺の中に王子の身体を丁寧に横たえた。

「しばしお眠りください。せめて、僅かな眠りの間だけは貴方の魂に平穏が訪れますよう・・・」

 そう呟いた魔王の側近はゆっくりと棺の蓋を閉じていった。




(なに・・・、あれはクロウの記憶・・・?)

 再び訪れた暗闇の中で、朱音は目を数回ごしごしと(こす)りつけた。

 また視界の端にきらりと光るもの。

 朱音は思わず振り返る。

「今度は何?」

 光にじっと目を凝らすと、何やら楽しそうな声が響いてくる。




 聞き覚えのある声。

 あれは、朱音自身の声だった。

「ちょっと、真咲(まさき)! またあんたわたしのおやつ摘み食いしたでしょう!?」

「なんだよ、ケチ! 将来有望な空手師範にちょっとくらい融資しとく気ないのかよ!」

 懐かしい真咲の声変わりのしていない声。朱音はぐいと真咲の服の袖を引っ張っている。

「姉ちゃん、おれとやるのか!? よし、じゃあ勝負だ」

 ふんと腰に手をやると朱音はまだ自分より背の低い弟を見下ろした。

「わたしの方が数段上なのよー、勝てると思う訳? 容赦しないから」

 姉弟喧嘩はいつものこと。ただし、新崎(にいざき)家では少々喧嘩の色が違っていた。

 二人は対峙したまま構えをとる。しばし睨み合った後、『ガラリ』とふすまが開かれた。

「ちょっと、またあんたたち喧嘩? こんなところでやめてちょうだい。ふすまや障子の修理代も馬鹿になんないんだから」

 うんざりしたように言い放つと、二人の母は履いていたスリッパをおもむろに脱ぐと同時に二人の頭目掛けてスパンと投げつけた。

「いた!」

「いてっ!」

 はいはい、やるなら道場でやってらっしゃい、と半ば無理矢理部屋から追い出される。これはよくある朱音の日常の一ページであった。


 


 再び訪れた暗闇。

 朱音はごしごしとまた目を擦った。

(今度はわたしの記憶・・・?)

 どうしてクロウの記憶と朱音の記憶がこうも織り交ざって朱音の前に現れるのか、朱音には理解できない。

 しかし、どちらもひどく懐かしい確かな記憶。

「陛下」

 すぐ近くで声がして、朱音は驚いて顔を上げる。

「ルイ!?」

 そこに、優しげに微笑む少年が暗闇の中でいつの間にか佇んでいた。

「陛下、お願いです。いつもの陛下を取り戻してください。いつものお優しい陛下に・・・」

 悲しげに目を伏せるルイに、朱音は思わず首を傾げた。

「え?」

 じっと暗闇の奥を指さすルイの視線の先を追うと、うっすらと不気味な黒い気体が渦を巻いているのが見える。

「あれはなに?」

 きょとんとして朱音はルイに向き直る。

「あれは陛下です」

 ルイの言う意味がわからず、朱音はもう一度じっと目を凝らした。


 禍々しいほどの黒い空気。

 (ほとばし)る電流。不気味で高らかな笑い声。

 その手は、すでに意識を手放そうとしている血だらけの褐色の少年の首を掴み、今まさにその首をいとも簡単にへし折ろうとしていた。


「今のはファウスト・・・?」

 異常な出血量。すでに地下道の壁は崩れ、あの空間を保っているだけでも奇跡的と言えた。

「陛下、お願いです。陛下」

 いつの間にかルイによって掴まれていた朱音の手には、預けられていたペンダントが握られていた。

「あれは・・・、クロウ・・・」

 怒りにより我を失い、暴走している少年はクロウに違いなかった。

「今の陛下ならば力の暴走を抑えられる筈です。陛下、お願いです」

 朱音はぐっと手を握り締めた。

 アザエル・・・、魔王ルシファー・・・、ベリアル王妃・・・。

 そして、真咲・・・、朱音を生み育ててくれた母・・・。そして父。

(そうだったんだ・・・。クロウと新崎朱音は別人なんかじゃなかった・・・。彼の記憶も力も、その全部は今のわたし自身だったんだ・・・)

 視界を遮っていた霧が晴れたかのように、朱音は胸の底から漲る力を感じていた。自分を包み込む、万物の力を。




「・・・ぐっ、クロウ王・・・」

 朱音は血だらけの青年の首からぱっと手を離した。

 もうこの辺りの地下の壁も長くは持つまい。少し離れたところで、数人のドラコの手下たちが呻き声をあげて(うずくま)っていた。

 どさりと硬い地面に転がったファウストは虚ろな目で朱音を見上げていた。

「早くここから逃げて。ここの天井はもうすぐ崩れるだろうから」

 渦巻いていた黒い気体は消え去り、少年王は狂気に満ちた笑みから元の穏やかな表情に戻っていた。

「な・・・ぜ・・・、俺を殺らねぇ・・・」

 朱音ははっきりと、しかし静かに言った。

「わたしはわたしだから」






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