15話 危急存亡
バシャリと冷水を頭から浴びせさせられ、クリストフはようやく目を覚ました。
「起きろ」
耳に心地の悪い掠れた声が牢全体に響き渡る。
濡れ鼠になったクリストフの髪は、雫を垂らし、いつもの美しく整えられた髪も台無しになっていた。
「おい、お前。お前は何者なのだ」
両手、両足首には思い鎖がつけられ、牢の壁から突き出た分厚く頑丈な鉄の輪に繋がれている。
「お初にお目にかかります、ヘロルド閣下」
余裕のある笑みで、クリストフは優雅に礼の形をとってみせる。
「おお胸糞の悪いっ! お前のような奴に名前を呼ばれたくはないわ!」
格子ごしに、ヘロルドが不快感を露わにして、大きな口をへの字に曲げる。
「わたしはクリストフ・ブレロ。しがない美容師にございます」
ふんっと鉤鼻を一つ鳴らすと、ヘロルドは後ろに控えていた従者の男から丸めた洋紙皮を受け取る。
目が合った瞬間、従者の男はふっと口元を緩ませ、いやらしい笑みを浮かべた。
(ボリス・・・)
その男こそ、朱音やクリストフを騙し、こうして身柄を拘束したボリスに他ならなかった。
ヘロルドは羊皮紙を広げると、声高々にそれを読み上げ始めた。
「クリストフ・ブレロ、ゴーディアで数年前から人気の美容師・・・。以前、クロウ殿下の整髪の際にもこの城を訪れていたようだな。だが、調べさせてみると、エリックという売れない画家の肩書きや、ロジャーという貴族階級の紳士。他にもあげればきりがない程の名と偽名・・・。なるほど、お前は詐欺師か」
見下したような気味の悪い笑いを含ませ、ヘロルドは言った。
「そうだとすれば、詐欺罪、魔城無許可不法侵入罪、国王誘拐罪全ての罪でお前は審議にかけられる。そうなれば、死罪は免れぬだろうな」
完全にクリストフを落胆させることを狙った罪状の数々。しかし、当の本人はくすりと笑いを零した。
「何が可笑しい?」
クリストフの場に似合わない笑いに苛立ったヘロルドは鉤鼻に皺を寄せて言った。
「いえ・・・、気にしないで下さい。こっちのことです」
ヘロルドのすぐ近くに控えていたボリスが、何かヘロルドに耳打ちをした。
「何っ、それは本当か?!」
目を見開き、ヘロルドは忠臣を振り返った。
「誠でございます、ヘロルド閣下。このわたし、しかとその者の力、目にしました」
ふふふと耳障りな声で含み笑いを零すと、ヘロルドはクリストフの捕えられている牢を潜り、中へと足を踏み入れた。
「風を操ることができるとは本当か?」
落ち窪んだ目がぎょろりとクリストフを見据える。
クリストフは無言のままその目を見返した。
「まさか、我国ゴーディアの軍の出ではあるまいな?」
クリストフは言った。
「ヘロルド閣下、貴方はわたしを過大評価しているようです。わたしの力などとるに足りないものです」
かっとしてヘロルドが唸りたてる。
「嘘を申すな! そこのボリスが、競り市の会場となる程の巨大テントを風で吹き飛ばしたと申していた」
肩を竦め、クリストフは微笑みながら目の前の痩せたひどく姿勢の悪い男を見上げた。
「白を切る気か! ああ! なんといけ好かぬ奴だ! まあよいわ! 調べればすぐにわかること」
ヘロルドは疑っていた。巨大テントを吹き飛ばす程の風を操ることのできる男が、元軍人でない筈がないと。そして、これ程隠したがるには何か訳があるのでは、と。
「脱兵者か?」
何も話そうとしないクリストフの前でヘロルドはゆっくりと屈み込むと、その骨ばった顔を静かにクリストフの耳元へと近付けていった。
「脱兵がどれだけ重罪かは知っておろうな。脱兵したとわかれば、お前には審議の必要すら無くなる。極刑だ」
ぎょろりとした目を細め、愉快そうにそう言い残し、ヘロルドは牢を出ていく。
「ボリス、能無しのお前にしてはよくやった。この男が魔力を使って馬鹿なことをする前に、魔力を封じておけ」
「はい、閣下」
クリストフはぼんやりと濡れた冷たい天井を見上げた。
濡れた身体に地下の空気ははひどく冷える。ふうと息を吐くと、クリストフは朱音のことを案じた。
(当分は身動きすらとれそうにない・・・。アカネさん、無事でいてください)
灼熱の太陽の下、朱音はチッポカという動物の背に跨り、揺られていた。
チッポカは、らくだとロバの中間のような生き物で、もつれたようなワシワシの黒い鬣に、大きなロバのような耳。それに砂漠に適した背のこぶは、らくだと同じ役割をもっているようだ。
アストラの砂漠での旅は、予想を上回る過酷さであった。
ただでさえ貴重な水は、眼帯の大男アリゴが腰ベルトにきつく結わえつけ、朱音にも必要最低限しか与えてくれない。朱音は、流れ滴る汗さえ、もう枯れ果ててしまっているのではないかと思った。
「それにしても、お嬢さん。そんなお綺麗な顔をして一体何をしでかしたんだ?」
にやりと下心を剥き出しにした表情でアリゴが笑いかけた。
「なんのこと」
つんとして朱音は突っぱねた。
アリゴとともに行動をともにしていた禿げ上がった頭の大男パオロとは、子ども達を荷馬車から降ろしたあの場所で別れ、今はこのアリゴと朱音の二人きりである。
この男には、“逃げようなんて馬鹿なことしてみろ、その生っちろい足を歩けねぇように折ってやるからな”と、さんざん脅されてここまで来たが、この砂漠で逃げ出そうものなら干からびてきっと死ぬ運命であろう。
「へっへ、ある男から聞いたのさ。お前さんがサンタシの王の尋ね人だってこたぁな」た
誰からそんな情報を聞いたのは不明だったが、二人はサンタシの王に朱音を会わせることで、礼として大金を貰える筈だと大喜びしていた。
しかしながら、サンタシの王、即ちヴィクトル王に会うには白亜城に向かうということ。つまりはフェルデンに正体を悟られてしまうかもしれないということに気付き、朱音はこのままアリゴにみすみすサンタシに連れられて行くには少々まずいかもしれないと考え始めていた。
「何もしてないけど。人違いじゃないの?」
リストアーニャを離れ、アストラの砂漠に入ってからというもの、人と会う機会のなくなった二人はまだ、サンタシとゴーディアの戦争が再開された事実を知らない。
ふんっと鼻を鳴らすと、アリゴはそれきり口を噤んだ。
(ボリスはちゃんとクリストフさんに会って話をしてくれたのかな? ベッドの下のアザエルは見つけてもらえたかな・・・。子ども達は無事に逃がしてもらえたんだろうか・・・?)
自分の置かれている状況よりも、朱音はそれが気になって、アストラの砂漠を横断中もずっとそのことばかりを考えていた。
あのクリストフが、こんなにも時間が経っているというのに朱音の前に現れないなど、到底考えられないことであった。何か、来られない事情があるのか、様子を伺っているのか、と朱音は判断していた。
それに、クリストフとはぐれてしまってから、連絡がとれなくなったルイが、今どこでどうしているのかを思うと、彼を無理矢理魔城から連れ出したことを、朱音は後悔し始めていた。気の優しい彼のことだ、皆とはぐれ、きっと心細い思いをしているに違いない。
「な、なんだ・・・!?」
突然アリゴの妙な声が上がる。
暑さで霞む視界で、朱音はすぐ隣で体格のいい雄のチッポカに跨るアリゴに目をやった。
「どうかしたんですか?」
アリゴはこの砂漠の太陽で、顔を赤黒く日焼けさせていたが、その顔から少しばかり血の気が引いているのがわかった。 アリゴは口をパクパクさせながら、前方の砂漠を指差す。
「やべえっ、ありゃあドラコだ・・・、間違いねえ・・・!」
焦った声を出すと、アリゴは朱音の乗るチッポカの手綱をぐいと引き寄せた。
「ドラコ? うわっ、て何??」
突然乱暴に引き寄せられ、朱音は驚いてアリゴを振り返る。
「ずらかるぞ! こっちに来い!」
雌のチッポカの背から乱暴にアリゴの乗るチッポカの背へと移されると、アリゴはひどく慌てた様子で、雄のチッポカの尻をぴしりと平手で叩いた。
「グウウウン!!」
驚いた雄のチッポカは大きく身体を揺らすと、今までの穏やかな歩きからは想像もつかない勢いで走り始めた。
「うわっ!? えっ、ほんとにどうしたんだってば!」
状況が全く理解できない朱音は凄まじく揺れるチッポカの背中の上で、朱音は叫んだ。
「うるせえ、黙ってろ!」
アリゴが後ろを気にしながらチッポカの尻を何回も叩く。朱音は懸命に背後を振り返ろうとするが、身体が密着するような形で朱音のすぐ後ろに座るアリゴの身体が大きすぎるせいで、遮られて何も見えない。
ただ、さっきまで朱音が乗っていたチッポカは、砂漠の真ん中で乗り捨てられたようでもう近くにはいない。
(どうしよう、さっきの子、この暑さで放っておかれたら死んじゃうんじゃ・・・!)
朱音がそんなことを心配していると、すぐ近くで別のチッポカが砂の上を走る音が耳に届いてきた。一瞬、さっきのチッポカが追いついてきたのかと思ったけれど、すぐさまそれは違うと気付いた。
なぜならば、その足音は一頭の足音だけではなかったからだ。
「くそっ、この役立たずめ! 走れっ、走れっ!」
このチッポカも可哀相なものだ。こんな大男一人乗せて歩くだけでも大変だろうに、その上少年も一人乗せて全速力で走ることを強要されているのだ。
「止まれ! そこのでかぶつ! 殺されたくなきゃな!」
背後から突然声が飛んできた。
何者かに二人は追われているようだった。
ちらとアリゴの顔を見上げると、これ以上ないというほどの汗を掻いている。この汗が暑さだけからきているものではないのは明らかだった。
「おいっ! まじで止まれ! 殺すぞ!」
ただごとではないと気付き、朱音はアリゴの服を掴む。
「アリゴさん! 止まって!」
アリゴは朱音の言うことを無視し、チッポカの尻を叩き続ける。
「アリゴさん!」
このままでは、本当に殺されてしまうかもしれない。いや、その逆で逃げなければ殺されるのかも。そう思うと、朱音はどうしていいものかわからなくなった。
「!!」
どうっという音とともに、朱音達の乗るチッポカが砂の上に勢いよく転がった。乗っていた朱音もアリゴも勢いよくそのまま投げ出され、砂の上をダイブする。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
「グウウウウン!!」
雄のチッポカは興奮してそのまま砂の上を走り抜けていってしまった。
「ちっ、手間かけさせやがって」
二人を囲むように数頭のチッポカが立ち止まる。その上から何者かの声が降ってきた。
一人の男の手には縄のようなものが握られてその縄で朱音達の乗っていたチッポカの足を引っ掛けたらしい。
「い・・・たたた・・・」
朱音がのそりと起き上がると、カチャリと顎のしたで金属の冷たい感触が触れた。
「金目の物を全て出しな。それに、食料も水も全部だ」
朱音の首元に突きつけられているのは、刀剣だった。
「わ、わかった! 渡す!」
少し離れたところで、アリゴがあたふたと懐をまさぐっている。彼も同じく剣先を向けられているようであった。
「ほら、持ち金はこれで全部だ。まだ商売の途中でこんだけしか持ってない! 本当だ!」
「まだその腰にぶら下ってる水があるだろ。それもよこせ」
朱音は自分の首に剣先を宛てがっている男をゆっくりと見上げた。黒布を頭に巻きつけ、僅かにあいた隙間からは目だけが覗いている。
「あなた達、なに・・・?」
思わず口をついて出てきていた言葉に、朱音ははっとして唇を閉じた。
「くくっ、おいお頭ぁ、このお嬢さん、俺たちを知らないそうだぜ!」
ざっとチッポカの背から砂の上に飛び降りた音が聞こえた後、男の背後からゆっくりと別の人物が近付いてきた。
お頭と呼ばれた男は、朱音のすぐ近くまで歩み寄ると言った。
「世の賊と名のつく者どもは、皆俺達の名を聞くと震え上がる。ドラコの名を聞いて正気でいられる奴がまだこの世にいたとはな」
アリゴが何やら喚いている。
「頼むっ、殺さないでくれ! おれはただの商人だ。何も持ってやしない」
ドラコという賊の頭が、アリゴに言い放った。
「まだいいものを持ってるじゃねえか。俺の目を誤魔化そうったってそうはいかねぇぜ。お前は奴隷売りだろ? こいつをいただく」
朱音ははっとしてその男を見つめた。
(こいつって、もしかしてわたしのこと・・・!?)
アリゴはまだ何か喚いている。
「だめだ、そいつだけは勘弁してれ! ただの商品じゃねえんだ!」
ほうっと関心ありげな返事をすると、頭の男は朱音の首に宛がっていた剣を収めさせた。
「それならより一層いただき甲斐があるじゃねぇの」
ぐいと朱音の腕を掴み上げると、そのままひょいと乗っていた自分のチッポカの背に朱音を乗せてしまう。
「え!?」
朱音がパニックを起こしているのも構わず、頭の男は手下の男達に合図を送る。
「おい、引き上げるぞ」
アリゴに剣を向けていた男も、他の男達も、さっと身を翻しチッポカの背に飛び乗った。
「待て! 待ってくれ! こんな砂漠のど真ん中で、水も食料も奪われちまったら、おれはどうすりゃいい?!」
悲痛なアリゴの声がまるで聞こえないかのように、賊の男達は来た時同様勢いよく駆け出した。
「ねえ、あの人どうなるの!? ほんとに死んじゃうかも!」
朱音は慌てた。
少なくとも、アリゴと一緒に行動を共にしていた方が、サンタシまでの道中の身の安全は保障されていた。しかし、今この謎々の賊の手の中に捕らえられてしまった状況を考えれば、どこにも安全という言葉は無い。
「騒ぐな。あの大男が砂漠で野垂れ死ぬなら運の無かっただけのことだ」
決してあのアリゴという男が好きだった訳ではない。寧ろ、売り物として突然攫われてきた身としては、腹立たしささえ覚える。しかし、あの男を憎んでいる訳でも無かった。
もしもこのままここで置き去りにしたなら、これから先何年も、彼が生きているのか死んでいるのか、はたもや、見殺しにしたかもしれないという罪悪感に何年も苛まれるのは朱音としてはごめんだった。
朱音は、頭の男の腰に結わえ付けてある水の入ったゴムの袋を乱暴に引っ張り取ると、その袋をぽいと、過ぎ去る後ろの砂の上に放り投げた。
「おいコラ!」
不意をつかれて少々驚いたのか、頭の男は少し声をあげたが、諦めたように溜息を吐いてそのまま走り続けていった。
水さえあればアリゴにも生き残るチャンスがあるかもしれない、朱音はそう思うことにした。
「ねえ、どこに行くつもり?」
こうして見ると、顔は巻きつけられた布で見えないものの、頭の男は随分若いようであった。
男は黙ったまま返事をしない。
朱音は観念して、なすがままチッポカの上で揺られていた。
数度の休憩を挟み、走ること数時間。太陽はますます高く昇り、気温は増しているようであった。
手下の男達はそれでも器用に布の隙間からゴムの袋に入った水を飲み、水分を補給していた。朱音にも何度か水分を与えられたが、頭の男はほとんど水を口にしようとしなかった。男は何も言わなかったが、おそらく、朱音が男の分の水を放り投げられたせいらしい。
朱音はなんだか申し訳ない気持ちになり始めていた。自分の分が無いのなら手下に少し分けてもらえばいいのに、彼は決して手下の貴重な水をとろうとはしなかった。
「あと一刻も走れば、アストラの砂漠を抜ける。このまま一気に乗り切るぞ」
「おう、お頭」
渇きをまるで感じさせない頭の男は、ひょいと身軽にチッポカに飛び乗った。朱音はここで放置されても困るということもあって、大人しく男のチッポカによじ登った。
いくらなんでももうこの暑さにも限界がきていた。
頭の中では鐘が打ち鳴らされているようなひどい頭痛がするし、渇ききった口の中。目が霞み、気を抜くと物が二重、三重にも見える。
「お頭!」
こんな中、どこにそんな力が残されているのかという位、手下の男が張りのある声で叫んだ。
気がつくと、一面砂漠の景色が、ところどころ岩がでっぱり、短いながらも緑の草が生え始めている。
「砂漠を抜けたの?」
頭の男は小さく頷いた。
その直後、おもむろに頭に巻きつけていた布をぱさりと脱ぎ去る。
「久しぶりだな! アカネ!」
布の下から出てきたのは、炎のように真っ赤な真紅の髪と、褐色の肌。大きな石の耳飾り。そして、どうして今まで気付かなかったのか。燃えるような緋色の瞳・・・。
「エフ!?」
にかりと笑うと、男は言った。
「本名はファウストだ。ようこそ、我故郷へ」
これは、フェルデンが帰還するよりも少し前の予期せぬ出来事であった。