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AKANE  作者: 木と蜜柑
第3章  旅編 
28/63

     8話  一欠片の記憶


「陸地を離れて一週間、このところ刺客が送られて来ないからって、ちょっと気を抜いてたんじゃねぇの?」

 背後から若い男がぼそりと呟いた。

 アザエルは男の気配に全く気付くことができなかった。

 この激しい揺れと波や風の音が原因していることもるが、アザエル自身も疲れがピークに達していたということもある。それに、今は船内で行方不明となっている少年王の姿を探すことに意識をとられていたのだ。

 揺れ動く船で背後から男がアザエルの背にただ体当たりしただけではなかった。

「間諜か・・・、うまくやったな」

 男の手を伝い、赤く黒い血液が筋になって床へと零れ落ちていく。

「そりゃどうも」

 アザエルの背に深く突き刺された短剣は、男の手により乱暴に引き抜かれた。

 アザエルが腰の剣を鞘から引き抜いたと同時、男はひょいと身軽に背後へと飛び退いた。

「そんだけの傷を負っておいて、まだ動けるとはな! そりゃあ今まで送り込んだ下衆共じゃ到底敵わねえ訳だ」

 男は、リーベル号の船長であるアルノの助手の青年だった。

「まさか船長の助手が間諜だなんて思いもしなかったろ?」

 青年は常から被っている紐を編んだような風変わりな帽子を脱いだ。帽子の下からは無造作な深紅の髪が現れる。

「その髪・・・、ファウストか・・・!」

 じっと目を細め、アザエルは青年をじっと見据えた。

「光栄だね、かの有名な魔王の側近様に名前を見知っていただけていたとは」

 くくくっと笑うと、ファウストはがくりと膝をついた碧髪の美しい男に向かって言った。

「これでも、俺は魔王ルシファーの右腕と謳われたあんたを尊敬してんだ。あんたを殺すって任務さえなけりゃ、ぜひとも魔力の戻ったあんたとやり合ってみたかったね」

 内臓のどこかが傷ついたらしい、アザエルはごふりと鮮血を口から数回吐き出した。

「止めをさすまでも無さそうだな。じゃ、あばよ」

 褐色の肌の少年は再び帽子を被り直すと、深紅の髪を外界から全て覆い隠してしまった。 

 激しく揺れ続ける船の中で、ファウストは軽い足取りでアザエルに背を向け、船外へと駆け出した。

「あ! 言い忘れてたけど、あんた、面白いもん連れて来てくれたよな。まさか同じ船にあのクロウ王が乗船してるなんてな! それに、いつも近くにいるあの風使い・・・。しばらくは退屈しなくて済みそうだぜ。礼を言うよ」

 アザエルは口から垂れ流した血液を服の袖で拭うと、ゆっくりと立ち上がった。その頃には、既にファウストの姿は無かったが、まるで暇つぶしのおもちゃでも見つけたようなファウストの口振りが、妙にアザエルの胸に引っ掛かった。

 魔王ルシファーの(めい)通りに朱音をレイシアへ召還し、クロウを覚醒させ王位を継がせることを全うしたことで、自分の役目は全て完了した筈だった。

 そしてそれにより、自分の存在価値は既にもう無いとも。

 しかし、アザエルが考える程クロウ王は思うように動いてはくれなかった。クロウ王は魔力も記憶も失いひどく混乱し、国王としての責務を果たそうとしないどころか魔城からさえも逃げ出してきてしまった。

 そして、その今や非力で儚く尊い魂は、多くの危険に晒されている。

(本当に、貴方という人は・・・)

 そうなるとアザエルは、まだここでくたばる訳にはいかなかった。あの男、“ファウスト”をクロウ王の近くにのさばらせておくにはあまりに危険すぎる。

 しかしこの傷だと、そう長くはないことも経験からアザエルは察していた。

 長い年月をかけて、アザエルが手に掛けてきた人々の多くの傷を目にしてきたからである。最後までクロウを守りきることはできそうにはないが、せめて命が尽き切る前に、クロウを今ある危機から救い出す必要があった。 

 痛みを感じない訳では無かったが、アザエルはいつもと変わらぬ冷淡な表情のまま少年王の姿を探し続ける。

 アザエルの歩いた場所には点々と赤い血の道筋ができていった。


 この嵐がこの船にもたらしているダメージは甚大で、あちこちがひどく軋み、不気味な音を船内に響かせていた。しかし、リーベル号はなんとか転覆することなく持ちこたえている。それは、この船の船長であるアルノの的確な指示の賜物だとも言えるし、船乗り達の果敢な働きによるものだとも言えた。

「ルイ!」

 マストの柱に縄を縛りつけ、その縄を頼りに危険な船外に朱音を捜す為だけに来てくれていたらしい。朱音はずぶ濡れになった従者の少年を見るなり、こんな危険な目に遭わせてしまったことへの申し訳無さで涙が出そうになった。

「ルイ! 今からアカネさんをそちらに渡します! しっかり腕を掴んでください!」

 クリストフが自らの首に回させていた朱音の腕をゆっくりと外すと、その身体を身長にルイの元へと引き渡そうとした。

 しかし、常にシーソーのように揺れる床では、滑り台のように傾いた側に二人の身体が流されてしまい、うまくルイの手に引き渡せない。

 甲板に流れ込む海水は容赦なくクリストフや朱音にぶつかり、体力を消耗させていく。

「うああああああ!!!」

 すぐ傍で、船乗りの一人が水流に飲まれて海へと流されていくのが視界に入った。

「ニックが流されたぞ! ダメだ、もう助けられない!」

 他の船乗りの声が聞こえる。

 ニックという船乗りは、まだ生きていた。

 しかし、あっという間に彼の姿は黒い海の波間に消えてしまった。

 朱音は急に恐ろしくなり、クリストフの腕にきつくしがみ付いた。

「大丈夫、アカネさんをあんな目には遭わせませんよ。ですからわたしを信じてください、ね?」

 自分さえ今にも海水に飲まれそうになっているというのに、クリストフはそっと朱音の耳元で優しく囁いた。

「いいですか、手を伸ばしてルイの手を取るんです」

 船が再び逆の方向へと大きく傾いた。 

 船が逆方向に傾くその途中、水平になる瞬間が一度だけある。ルイの手を掴むならばその一瞬を狙うしかない。

 クリストフは、船に縛り付けてある荷の縄の端を自らの腕に巻きつけ、かろうじて甲板に留まっていた。船が傾く度、縄はクリストフの手首に強く喰い込んでいた。

「ごめんね、クリストフさん・・・! 痛いでしょ?」

 クリストフは、いいえと呟くと、小さくウィンクして見せた。

「さ、また船が傾きますよ。わたしが合図したらわたしから手を離してルイの手に!」

 ミシミシっと軋みながら船が逆方向へと傾き始めた。

「さ、準備してください」

 朱音はこくりと頷き、クリストフから手を離す準備をする。

「今です!!」

 ぐいと背中を押された瞬間、朱音は思い切って踏み切り、ルイの手をがっしりと掴んだ。

「陛下!」

 ルイはしっかりと両の手で朱音の腕を掴み、ぐいとマストの辺りへと引き上げてくれた。

 しかし、安心するにはまだ早い。

 クリストフはまだ今にも海に飲まれかけている。彼を船の甲板に繋ぎ留めているのは、手首に巻きつけた縄だけだ。彼の表情が相当辛いことを物語っている。容赦なく打ち寄せる波と海水で、クリストフはひどく疲労していた。

「クリストフ! 貴方、風で安全な場所まで移動するとか、何か方法はないんですか!?」

 ルイは、クリストフに向けて叫んだ。

 しかし、クリストフから返ってきた返事は絶望的なものだった。

「馬鹿を言わないでください。こんな場所で風を起こしてみてください、船長の腕でなんとか浮き続けているこの船は、あっけなく転覆するでしょうね」

 呆れたことに、クリストフはこんな時でさえ可笑しそうに微笑んでいた。

「何を悠長にしているんです!? なんでもいいですから、とにかくなんとかしてこっちに来てください!」

 じっと微笑んだままクリストフはルイと朱音を見つめて言った。

「いいえ、先にお二人は船内へ戻っていてください。わたしは必ず後から戻りますから」

 朱音ははっとして叫んだ。

「ダメだよ! クリストフさん、貴方を置いていけない!」

「いいえ、早く船内に戻ってください。早く!」

 今まで微笑みさえ見せていたクリストフは、なぜか急に焦って二人を追い立てるようにして言った。  

 次の瞬間、朱音はクリストフが一体何を言いたかったのかを瞬時に悟った。

『ミシミシミシッ』

 二人の命綱でもある縄を括り付けてあるマストが大きな音を立てて軋み始めたのだ。

「マストがもう持ちません! 巻き込まれる前に早く縄を切り離して、船内へ!」

 ルイは懐から果物用のナイフを取り出すと、縄を切り離しにかかる。

「ルイ、待って? このままだと、倒れたマストがクリストフさんを直撃してしまうかもしれない!」

 朱音の気持ちは百も承知していたが、ルイには我主を危機から救い出す為にはこの言葉は聞こえない振りをするしかなかった。

『ミシ・・・ミシミシ・・・』

 マストがゆっくりと傾き始める。

 傾いた先にはクリストフがまだ辛うじて手首に巻き付けた縄で船上に留まっていた。

「マストが倒れるぞー!!」

 どこかで船乗りが叫んでいる。

「ルイ! クリストフさんが・・・! ルイ!」

 悲痛な朱音の声を無視して、ルイは縄をナイフで完全に切り離した。

 途端、マストはスピードをあげクリストフ目がけてぐしゃりと倒れこんでいった。

「うそっ! うそでしょ、クリストフさん・・・!」

 真っ青な顔で朱音はマストが倒れていく瞬間を見つめ続けた。

 巨大な折れたマストの下敷きになっていたとしたら、クリストフは無事である筈がない。

折れたマストは、次に訪れた波に攫われ、黒い海へと流されていく。

「彼はきっと大丈夫です。陛下も知っているでしょ? 彼は風を操れるんですから。陛下、彼が言ったように、船内へ戻りましょう」

 ルイはわざと冷静を装い、パニックを起こしかけている朱音の腕を引いた。

命綱を失った自分達も、決していい状況とは言い難いことをよく理解していたからだ。

「ルイ、あれを見て!」

 朱音が指さした先は流されゆくマストの残骸だった。しかし、その中に僅かだが人のようなものが上半身を乗り出すような形でしがみついているのが確認できた。

「クリストフさん! 」

 二人が気をとられている間に、船に大きな波が襲い掛かった。

「!!!」

 命綱をなくした二人はあっという間に海水に飲まれ、気付いたときには船から投げ出されていた。

 ルイとは逸れてしまった。酸素を得ようと必死に水面に上がろうとするも、次々と荒れた波が朱音に圧し掛かり、嫌という程塩辛い水を飲んでしまう。

 焦ってもがくけれど、余計に体力を消耗するだけで、朱音の意識は次第に薄れていった。




「母上は、僕のこと嫌いなのかな?」

 見覚えのある庭。

 黒調の石壁から透明な水が流れ出し、美しく彫り飾られた石段の周りには赤い薔薇の園が広がっている。

 五歳程の黒髪の幼い少年は、その石段の傍で(うずくま)り、泣きべそをかいていた。

「まさかそんな・・・。お母上は殿下を愛していらっしゃいますよ」

 少年の背後から、藍の軍服の男が声を掛けた。

「違うもん! 母上は僕のこと避けてるんだ・・・」

 大きな黒い瞳は潤み、涙を目いっぱいに溜めて少年は男を見上げた。

「殿下、そうではありません。お母上はご病気なのです」

 見上げてみた男は美しい碧い髪と碧い目をしていた。 

 少年はわあっと大きな声を上げて男に駆け寄ると、男の腰にぎゅうと抱きついた。

「僕はこんなに淋しいのに・・・っ、僕はこんなに母上が好きなのに・・・!」

 男はほんの少し悲しみを含ん、優しい笑みを浮かべ、少年の頭をぽんぽんと優しく撫でた。

「殿下の傍にはいつでもこのアザエルがおります」

 少年はしゃくり上げながら大きな目でじっと男の顔を見つめた。

「アザエル、きっと傍にいてよ? ずっとだよ、絶対絶対約束だよ?」

 にこりと女性のように柔らかな笑みを溢すと、男は囁いた。

「ええ、約束です。殿下はきっといつかお父上のように偉大な王になられます。わたしは、どんな犠牲を払ってでも、必ず殿下をお守りします・・・」

 


 


 ひどく遠い昔の夢のようだった。

 いや、あれは遠い記憶・・・?

 あの黒髪の少年は遠い昔のクロウ自身、クロウの記憶の断片なのかもしれなかった。

 それに、あの碧い髪と碧い目、氷のように冷たいアザエルが、あんなにも優しく微笑むことができていたなんて今からは想像もできない。

 しかし、あの夢はひどく懐かしい気がした。

「目をお覚まし下さい、クロウ陛下・・・」

「ごほっ・・・」

 気管に入っていた海水を吐き出し、朱音は意識を取り戻した。

 飲み物を飲むのに失敗して(むせ)たようなひどい苦しさと、そして多量に海水を飲んだことでのむかつきで朱音は胃物を吐き出した。ム

 朦朧とする視界の中で、唯一目に入ってきたのは、碧く長い髪。

「もう無茶はお止しください」

 ようやくはっきりと見えてきたところで、朱音は自分が今どこにいるのかを知った。

 そこは、船上でもなく、海上でもない、何もない岩の上。ごてごてと尖った岩の上で擦りむいたのか、手足はありこち擦り傷だらけだ。荒れた波のはまだおさまってはいないようで、空には暗雲が立ち込めたままだ。

 周囲は海に囲まれ、何も見えない。流された朱音を目の前にいるアザエルが救出し、この岩場まで運んでくれたようであった。

「アザエル・・・」

 朱音は混乱していた。

 先程見た記憶の断片のアザエルが、クロウにとってひどく懐かしくそして安心できる存在だった気がした。クロウの記憶が自分のものなのか、それとも彼のものなのか、境目がはっきりとせず、まるで朱音自身がアザエルにそういった感情を抱いているようにも感じた。

 朱音はぬるりとぬめった様な奇妙な手の平の感覚に違和感を覚え、何気なく手の平を見下ろした。

「な・・・に・・・?」

 まだ夜が明けるまでには間があり、暗い中だったが、朱音はそれの正体が何かを瞬間的に察知した。

「血・・・?」

 暗闇の中でも分かる程てらてらと朱音の手にべったりと付着した血液は、朱音のものではないことは明らかだった。

 はっとして朱音はアザエルの服を掴んで引き寄せる。

「どこか怪我してるの・・・!?」

 掴んだ服自体が既に多量の血液が染み渡っていることに気付き、朱音は驚いてアザエルの顔をじっと見つめた。

「陛下、わたしはもう長くありません。陛下がわたしを憎んでおられるのは承知で言います。陛下、緋の眼の男が陛下を狙っています。奴に捕まる前にあの風使いとルイを連れて身をお隠し下さい・・・」

 アザエルは意識が朦朧としているのか、座ったまま何度も後ろに倒れそうになるのを何とか耐え忍んでいるようだった。

「アザエル・・・? 貴方がそう簡単に死ぬ訳ないよ、そうでしょ?」

 朱音はアザエルの服の袖をぎゅっと掴み、碧い眼を見据えた。

 しかし、辛うじて開いている綺麗な碧い目は、見る間に輝きを失いつつあった。

「奴・・・は・・・、野蛮な賊です・・・。欲しい物を手に入れる為には・・・、ど・・・んな手でも使う・・・。 クロウ陛下・・・、ご無事で・・・」

 固い岩の上にトサリと横倒れになり、アザエルは動かなくなった。

「アザエル? 嘘・・・。約束したじゃない! いつでもわたしの傍に居るって、貴方そう言った!!」

 あれ程憎くて仕方無かった魔王の側近が、朱音の全てを奪ってしまったあの憎くて憎くて仕方の無かったアザエルが、居なくなるなんて清々する筈だったのに、なぜか朱音は流れ出でる涙の雫を止めることができなかった。

 これがクロウの感情なのか、朱音の感情なのかはよくはわからないが、アザエルはどちらにしても今の朱音にとって、とても大きな存在だったのだ。

「一人にしないで! アザエル! 戻って!」

「その人を助けたいですか?」

 ふわりと岩の上に舞い降りた風とともに、落ち着いた声が降りてきた。

 横たわるアザエルに縋り付く朱音のすぐ足元に、クリストフが立っていた。

「・・・クリストフさん・・・?」

 困ったように微笑むと、クリストフは口を開いた。

「すみませんでした、すぐに助けに行けずに・・・。船から離れないことには、風を無闇に使うこともできませんでしたので。風と船は相性が悪いのですよ、ほら、強風は船を転覆させてしまうでしょう?」

 肩を竦めてクリストフがふっとアザエルに視線を落とした。

「それよりも、今ならまだ彼を救う方法はあります」

 朱音は無意識に立ち上がり、クリストフの腕を掴んでいた。

「本当!? どうすればいいの??」

 クリストフは、朱音の目を見つめたまま言葉を続けた。

「彼の腕の手枷を外すのです。幸いここは水を操る彼が魔力を最大限生かせる場所。周囲を全て水に囲まれています。手枷さえ外せれば、後はなんとかなる筈です」

 クリストフがなぜこんなことまで知っているのかという疑問はあったが、朱音は今は彼の言うことを信じることしかできなかった。

「わかった。でも、どうやって・・・?」

 朱音は、アザエルの手首についた手枷の存在を確かめると、なんとか取り外せないものかと両手で引っ張ったり押したり躍起になる。

「その手枷は力で外すことはできません。その手枷を外すことができるのは、この世でただ一つ。魔王ルシファーの魔力のみ」

 その言葉の意味を理解できず、朱音はクリストフの焦げ茶の瞳を振り返った。

「そして、今はその血を受け継ぐ貴方の魔力です」

 朱音はふるふると首を横に振った。

「ダメだよ、わたしには魔力なんて無い! 手枷は外せない・・・!」

 絶望して、へたりと朱音はアザエルのすぐ傍で座り込むと、ぱたぱたと涙を溢した。 

「アカネさん、貴女ならきっとできます。彼の鼓動が完全に止まってしまえば、それも叶わなくなってしまいます。自分の力を信じて・・・」

 クリストフは静かに腰を下ろし、そっと朱音の手に自らの手を添えた。

 朱音はぎゅっと瞳を閉じると、もう一度アザエルの手枷に触れる。

「さ、手の平に気持ちを集中させてください」

 朱音は手枷に触れた手に意識を集中させるが、何も変化は起こらない。

 見る間にアザエルの白い顔から血の気が引いていく。

「ダメだよ、やっぱりわたしにはできない」

 閉じた目尻から涙を浮かべながら、朱音は手に賢明に力を込める。

「アカネさん、自分を疑っていてはいけませんよ。魔力は自然を味方につけることのできる力です。自分を疑っていては、自然の力が共鳴することはできません」

 クリストフが静かに諭す。

「あなたは万物と共鳴することのできる程の魔力を秘めています。自分自身を信じてください」

 朱音は手枷に触れていた手から全ての力を抜いた。


 ふと朱音の頭に尊敬する父の道着姿の背中が横切った。

 どんなに冬の寒い朝でも、父は道着一枚でよく道場の真ん中で座禅を組んでいたものだった。

 真咲が一度、どうして父さんは毎日座禅を組むのか、と訊ねたことがあった。

 その時、父はこう言った。

“本当の強さとは何も身体ばかり鍛えることじゃない。心を空にして、万物を心で感じる。空気と一体になることで本当の強さを得る”と。


(心を空にして、万物を心で感じる・・・。空気と一体に・・・) 

強い悲しみに囚われていた朱音の心は、父の言葉をきっかけに冷静さを取り戻した。

 ただの一度だって座禅など組んだことはなかったけれど、父が放っていたぴんと張り詰めた独特の空気は肌で覚えている。

 そして今、やっと父の言おうとしていたことがわかるような気がした。

 

 吹き付ける風の唸り。

 波が岩をこする音。

 雨粒の一粒一粒が海に落ち、風に当たり、飛ばされる音。

 そして朱音自身の呼吸の音・・・。

 

 その全てがまるで別録りしたように鮮明に耳に届いてくる。

 心臓の刻むリズムが、大自然の中の一部と化したように心地よく響いてくる。

 朱音は空気と一体になっていた。

 

 急に冷え切っていた筈の身体の奥底から温かさが沸き起こり、えも言われぬ感動に朱音はゆっくりと瞼を開いた。

 もう一度ゆっくりとアザエルの手枷に手をかざし、心で強く念じる。

『カッ』

 固い手枷がいとも簡単にアザエルの手首から外れると、と音を立てて岩の上に転がった。

「は・・・外れた・・・」

 安心した途端、今まで感じていた暖かかく心地よい感覚は急に消え去り朱音はひどい眠気を覚えた。

 不思議なことに、海の中からシャボンのような小さな水の玉がふわりと浮き上がり、アザエルの身体に次々に吸い込まれていく。

「手枷が外れたことで彼を守護する水の力が、彼の僅かな魔力に共鳴して引き合っているのです。後は回復を待つしかありません」

 その声を聞きながら、朱音はそのままぱたりと意識を手放した。

 その傾いた身体が岩に打ち付けられることのないように、予め構えていた腕の中にクリストフは朱音を受け止めた。

「さて、あなたの望み通り、自分探しのワンピースを手に入れることができたようですね・・・。はたして、最終的にあなたはどんな答えを見つけるんでしょうか・・・」

 クリストフは寝息を立てる腕の中の朱音の額に小さく口付けを落とした。






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