3話 いざ、ボウレドへ
「さて、我々もそろそろ出発しましょうか」
クリストフは、肩の上で毛づくろいをするクイックルの足を優しく手の平に乗せてやる。
ルイは不機嫌な顔で眉に皺を寄せた。
「ぼくは貴方を信用した訳ではありません。今度は一体どこへ連れて行くつもりなんですか」
従者の少年は今朝方、クリストフの手によって、旅をするのに君の従者服は不似合いだ、と半ば強制的にだぼりとした薄黄色のカッターに、寒さを凌ぐ為の大きめのトレーナーを羽織らされていた。
勿論、この小さな小屋のような家が、クリストフのものだとはまだ気付いていない。
「ボウレドです」
小屋の外へと二人を誘いながら、クリストフは小声で白い鳩に何か囁くと、それを空へと放った。
霧は晴れ、日もすっかり昇っているようである。
「なんですって、ボウレド!? ボウレドなどにどうして行く必要があるんです!? サンタシの遣いは国へ帰るんですよ? 大陸の東の先端、港街メトーリアに向かうのが通常でしょう!」
朱音が二人の後について小屋を出ると、ルイが声を荒げていることに気付き、慌てて二人の間に割って入った。
「ルイ、どうしたの? 落ち着いて?」
ルイは突然現れた謎多き美容師の正体が、ひょっとすると元老院かヘロルドの手先かもしれないと思い始めていた。民間人で、あれ程の魔力を発揮し、誰にも気付かれずに魔城に忍び込むなどの所為をいとも簡単にこなしてしまうことに嫌疑を掛けていたのである。そう考えると、サンタシの遣いが魔城を訪れていたことを知っていたことや、その遣いがサンタシの王子フェルデン・フォン。ヴォルティーユだという情報を得ていたことにも納得がいく。
「小鳩に空から調べてきて貰ったのですよ。夜明け前、港街メトーリアに向かった筈の使者達を乗せた荷馬車は、道を大きく逸れ、ボウレドの街に向かったそうです。なんらかの事情で立ち寄らざるを得なくなったのでしょうね」
朱音は、朝霧の中で小屋の窓を叩くクイックルの姿をふと思い出した。
「クイックルが調べてくれたの!?」
目をきらきらさせてクリストフの傍に寄り付く黒髪の主に、ルイはあたふたとする。
クロウを陥れようおとする者達の仲間かもしれないのに、疑がう心を微塵も見せない純真な主が、あまりに心許無く、従者の心に不安を掻き立てる。
「クイックル?」
ぱちくりと瞬きをして首を傾げるクリストフに、
「そう。わたしがつけたの! クリストフさんの小さなお友達」
ああ、と手をぽんと軽く叩くと、クリストフは破顔させた。
「彼女に名前をつけてくれたんですね! 素敵な名前です」
朱音は少し驚いてぽりぽりと筋の通った鼻を搔いた。
「クイックルって女の子だったの? わたしはてっきり男の子だとばかり・・・」
すっかり打ち解けた雰囲気と距離に、ルイが思わずはらはらして割って入る。
「そんなことより! ボウレドですよね!? で、どうするんです?」
疑り深い目を向けるルイに、クリストフは苦笑を洩らしながら言った。
「昨日、元老院がアザエル閣下の暗殺の為に刺客を放ったと言っていましたよね? クイックルの情報によると、まだ彼らは無事な様子ですし、刺客はまだ仕掛けてはいないようです。・・・となれば、ボウレドで何か起こるかもしれませんね・・・」
すらりとした指でクリストフは揉み上げに触れた。この仕草は、何か考えるときの彼の癖のようである。
「それってやばいよね!? わたしたちも早く追いつかないと・・・」
朱音が血相を変えてクリストフの顔を見つめ返した。
アザエルに危険が迫っていることもあり、ルイは仕方無く今は男の言うことに素直に従うことにした。しかし、この謎多き男がいつ正体を現すかもわからないし、何か企んでいる可能性は捨てきれない。朱音がいくらこの男を信用していようとも、自分だけは決して信用しないで主を守ってみせる、とルイは心の中で決心した。
「ボウレドまではここからだとまだ随分距離があります。風に乗って行きましょうか」
何でもないことのようにクリストフは言ったが、ルイは内心ギクリとしていた。実は、二人には言ってはいなかったが、ルイは極度の高所恐怖症だったのだ。
「ルイ?」
霞みがかったルイの灰の瞳が大きく動揺しているのに気付いた朱音が心配そう顔を覗きこむ。
「では、いきますよ!」
その瞬間、再び突風が巻き起こった。
木の小屋が吹き飛ぶのではないかという強風。
三人の身体がふわりと宙へと舞い上がった。
「!!!!!!」
気持ち良さそうに風に身体を任せる朱音と、声も出せない程に顔を引き攣らせる灰の髪の少年、そして謎の美容師クリストフはボウレドに向けて旅を再開させたのである。
「これはひどい・・・、こんな傷でよく今まで旅を続けてこられたものだ・・・」
街医者のフレゴリーは熱に浮かされた青年の肩の傷を手当てしていた。
フェルデンの意識は朦朧としており、ひどい高熱で額に大粒の汗を浮かべている。
「今すぐに傷を切開して悪い血を出さねばならん・・・」
フレゴリーは切開用のメスを医療具の入った引き出しから手にとると、アルコールの入ったトレーの中に浸して殺菌を始めた。
ユリウスはごくりと唾を飲み込んだ。尖ったメスがぎらりと光を反射する。
「彼は助かりますか?」
切開用のメスを清潔な布で拭うと、フレゴリーは細く小さな目でじっとユリウスを見つめた。
「今まで、毒素が脳や心臓に回らなかっただけでも奇跡的だ。傷から血を抜いて、腫れがうまく引けばいいが・・・。とにかく、このまま高熱が続けば彼が危険なことに変わりない」
ユリウスはこんなになるまでフェルデンの異変に気付くことができなかった自分の不甲斐無さを浅ましく感じた。
「これだけの高熱だ、おそらく痛みは麻痺しているだろうが、念の為だ、彼が動かないようにしっかりと押さえていてくれ」
フレゴリーがメスを構えた。
ユリウスは痛ましい光景に目を背けそうになりながらも、無言で街医者の指示に従った。
全体重をかけてフェルデンの身体、主に腕に圧し掛かる。曝け出された上半身の尋常ではない熱さがローブごしに伝わってくる。
フレゴリーがそれを確認すると、ゆっくりとメスをフェルデンの傷口に宛がった。
「うあああああああああ!」
フェルデンが耳を覆いたくなるような呻き声をあげた。
フレゴリーの言うように痛みは麻痺などしておらず、フェルデンは痛みから逃れようともがいた。ユリウスは暴れる腕と足を必死で押さえ込む。精神力の強いフェルデンがこれほどまで苦しむ姿を見ると、傷の痛みは相当なものと予想される。
傷口からはどす黒い血液が夥しく流れ出している。
フレゴリーは蒸留水で何度も何度もその血を洗い流した。
「す・・・まない・・・、アカ・・・ネ・・・」
フェルデンは虚ろな目で天井をじっと見つめたまま、うわ言のようにそう繰り返していた。
「さて、悪い血は抜いた。縫合するぞ」
フレゴリーの手は不気味に真っ赤に染まっている。使用を終えたメスはトレーの中に沈み、カランと音を立てた。途端、トレーに張られたアルコール水がピンク色に変色する。
フレゴリーが開いた傷を縫い始めても、フェルデンは数回「うっ」と呻いただけで再び暴れることはしなかった。それでもユリウスは、友の痛みが少しでも紛れるようにとずっとその手足を握り締めてやっていた。
「さあ、ご苦労さん。傷の手当はとりあえず終わった。後は彼の回復力にかけるしかない・・・」
フレゴリーは水桶で手に付着した血を洗い流すと、緑色の液体を綿に浸し、ピンセットで丁寧に傷口につけていく。
「これは自家製の傷薬だ。傷の治りが早くなる」
ユリウスはこくりと頷いた。
そしてフェルデンの額に浮かぶ汗を布で拭ってやった。
「きみは彼の友達かい?」
「はい」
フレゴリーの質問に、ユリウスは間髪入れず返答した。
診療所の前に停めた荷馬車にはアザエルが残っている。腕を拘束はしているが、あの男が逃走したのではないか、と急にユリウスは不安になった。
診療所の窓から慌てて荷馬車の方を覗くと、荷台の上にフードを被った影が変わらぬ姿勢で座っているのが確認できた。
いつの間にか日はどっぷりと暮れてしまっている。
ユリウスはほっとしながら窓際の腰掛け椅子に腰を下ろした。
「それにしても、きみ達は何者かね? アザエル様と一緒に旅をしているとは・・・」
そもそも、ボウレドに到着したのは日暮れ時で、アザエルがこの診療所へと向かうようにユリウスに指示したのである。
口を噤んでしまった小柄の青年に気付き、フレゴリーはその質問をすぐに取り消した。
「彼はしばらくこのまま動かさない方がいいだろう。今夜はうちで彼を預かるから、きみとアザエル様はどこか宿をお探しなさい」
フレゴリーは信用できる街医者のようだった。
アザエルの顔利きだと聞いたときは、どんなにあくどい医者だろうかと考えたりもしたが、ユリウスはあの冷酷な男にもまともな知り合いがいることに少々驚いていた。
「大丈夫、高熱は続いてはいるが、今すぐにどうのということはない。今日は君も疲れただろう、ここはわしに任せて休みなさい。今度は心労が祟って君まで倒れてしまうぞ」
ぐいと背中を押されて、ユリウスは気掛かりな気持ちを捨て切れないまま、フレゴリーによって診療所の外まで連れ出されてしまった。
「いや、でも・・・」
ユリウスの声を無視して、フレゴリーは荷馬車の後ろに腰掛けたままのアザエルに声を掛けた。
「アザエル様、治療は終わりました。今夜は彼をうちで預かりますから、こいつを連れてどこか宿をお探しください」
“こいつ”と呼ばれてかちんとしながら、ユリウスはフレゴリーを振り返った。
すっかり暗くなったことと、深く被ったフードのせいで、フレゴリーからはアザエルが手を拘束する縄は見えず、何も気付いてはいなようである。
「わかった。いつもすまないな、フレゴリー」
感情が篭らない口調はそのままであったが、氷の男の口から飛び出した労わりの言葉にユリウスは思わずぎょっとした。
「そういう訳にはいかない!」
ユリウスがきっとアザエルを睨みつけると、再び診療所内に戻ろうとした。
「お前はヴォルティーユの者よりは少しは利口だと思っていたが、思い違いだったか?」
ユリウスはぴたりと足を止めた。
「フレゴリーはその辺りの藪医者とは違う。任せておけ。寧ろお前がいると仕事の邪魔だ」
見下した口振りに、ユリウスはかっとして荷馬車の上の男を振り返った。暗がりの中の魔王の側近は、相変わらず無表情のままだ。
くくくっという堪えた笑いがし、ぱっと視線をやると、フレゴリーは「ごほん」というわざとらしい咳払いを一つして、笑いをうまく飲み込んでいた。
「アザエル様は相変わらずのようだ。おっと・・・、また口がすぎてしまいましたかな」
フレゴリーは愉快そうに微笑み、その隙をついて診療所の扉をバタリと閉じてしまった。
「あ!」
慌てて扉に駆け寄ってみるが、既に内側から鍵がかけられている。
「あんのくそじじい! 鍵までかけやがって!」
ユリウスはぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
「おい! あんた、一体どういうつもりだ!? 部下のおれをフェルデン殿下から引き離すなんて!」
つかつかと荷台に歩み寄り、ユリウスはきっと荷台上の碧髪の男を睨みつけた。無表情の魔王の側近は、興味をなくしたように、ふっとユリウスから視線を逸らした。
何も言わないアザエルに、ユリウスは諦めの溜め息を洩らした。
「でもまあ・・・、フェルデン殿下を助けてくれたことには礼を言うよ・・・」
ユリウスは暗がりの中で、ぼそりと小さくそう呟いた。