第3章 1話 追いつ追われつ
ゴーディアの夜風は冷たく、朱音とルイは唇を真っ青にしてがたがたと震えていた。
「やはり寒かったですか、どこかで暖をとらねばなりませんね」
クリストフはいつもと何ら変わらぬ様子で言った。
「クリストフさんは寒くないの?」
朱音とルイは痩せた美容師がさして暖かい格好をしているわけでもないこともあり、なぜこうも平然としていられるのか不思議でならなかった。ましてや、細身の彼は、体脂肪がある訳でもないというのに。
「わたしは風に乗ることには慣れっこなんですよ。少しくらいの寒さなら平気です。しかしそれよりも、人を乗せた風を操るというのはなかなか集中力が要るんですよ。安全に飛行する為には長距離の飛行は不向きでしょうね」
朱音はどうしてこんな山の中間部で舞い降りたのかとクリストフに訊ねようとしていたところだったが、それはやめておくことにした。
おそらくは、ここがきっとクリストフの飛行距離の限界点だったのだろう。
それに、これ以上冷たい風に晒されたとしたら、朱音とルイはきっと低体温症に陥ってしまっていたに違いない。
ここには明かりの代わりになるものは何も見当たらず、今晩は二つの月も雲に隠されていて、それさえも当てにはならない。
「寒い・・・」
朱音は凍えながら、がちがちになった身体を両の手で摩った。体の芯から冷え、なんでもいいから温かいものにありつきたい衝動に駆られた。
「こんな山中に舞い降りてしまい、申し訳ありません。しかし、万が一追っ手につけられてしまったときのことを考え、とりあえず王都からは脱出することが先決でしたので・・・」
魔城から王都マルサスの上空を飛び、三人は王都を囲むようにしてそびえ立つ、キケロ山脈の山中にいた。
山と言っても、朱音が見慣れている木々が生い茂るようなものではなく、ところどころ岩肌が露出した、短い草原の広がる山であった。山の頂上付近には雪が降り積もるような山並みである。山道は塗装などされている筈もなく、明かりもない今の状況で突き進むには無理があった。
それに、山頂まではまだ暫く距離があるように思われるし、そして何より夜があまりに更けすぎていたのである。
「仕方がありません、ここから少し外れた所に、人知れぬ小さな山村があります。そこにわたしの知り合いの家がありますので、今晩はそこで泊めてもらいましょう」
クリストフは落ち着いた口調のまま、短い草を掻き分け山道を外れていく。
朱音とルイは顔を見合わせ、慌ててその後を追った。
「大丈夫、あそこは村民以外の者には知られていません。さあ、こっちです。ついて来てください」
その頃、魔城では、アザエルの後任ヘロルドが地団太を踏んで悔しがっていた。
「くそう、あのくそ餓鬼どもめ、よくもわたしを出し抜いたな・・・!」
ヘロルドは昼間の件でひどく腹を立て、唯一の忠臣であるボリスにクロウの寝首を搔くように命じていたのだ。
ボリスが深夜、新国王の私室に忍び込もうと部屋向かったところ、扉の前に控える近衛兵がいることに気付き、どう対処しようかと慮っていたちょうどその時、王の私室の扉が、勢いよく風とともに開け放たれたのである。
強風が新国王の部屋中に吹き込んでいた。物という物が吹き飛び、扉の前に控えていた近衛兵も一瞬にして廊下の向かいの壁に叩き付けられた。慌てたヘロルドの忠臣は、咄嗟に廊下の角へと身を潜め、しばらく様子を見守っていたのである。
ボリスは、吊り上った目を見開いて、トカゲそっくりな顔を興奮の色で上気させた。
「物凄い強風でしたよ、ヘロルド閣下! その後、立ち上がった近衛兵が慌てて国王の私室に入っていきましたが、もう中は蛻の殻でした」
ちっと舌打ちすると、ヘロルドは忠臣の腹に膝で一撃を入れた。
「この役立たずが!」
ボリスが冷たい床上で呻いて腹を抱えこんだ。驚いて主人を見上げている。
「わたしは何とお前に命令した? クロウを殺せと言ったのだ! それが見ろ、お前は殺すどころか近付くことすらできておらんではないか! なぜすぐに後を追わなかった!」
ヘロルドは床で転がったままの忠臣の頭を固い靴底で踏みつけ始めた。
「うっ、も、申し訳ありませんでした、ヘロルド閣下・・・」
痩せ身のボリスは、頭を踏みつけるヘロルドの靴を退けようと、その足首に指を這わせた。
「いいか、無能なお前を拾ってやったのは一体誰だ? このわたしではないか! よいな、役立たず、今すぐ奴の後を追い、その命を必ず奪うのだ!」
ヘロルドの恐ろしい物言いに、ボリスは床の上でブルッと一つ震えた。
「で、でも・・・、ヘロルド閣下、新国王には魔力が無いとおっしゃっていましたが、あの風・・・、とてもそうは思えませんでした・・・。わたしなどが王の命を奪うことなど・・・」
怯えたボリスが全てを言い終わらないうちに、ヘロルドはもう一撃を忠臣の腹に入れた。
「うぐっ!!」
「黙れ、この役立たず! 無能は無能らしく相手に見くびらせて隙をつくという姑息な手があるだろうが。この馬鹿めっ」
ボリスは歪んだ視界でもう一度頬骨の出た、痩せた主を見上げた。
「いいか、よく聞け。お前がもしその手でクロウを暗殺できたなら、わたしは晴れてこの国の国王だ。そうなれば、お前をわたしの側近にしてやらないでもない」
ヘロルドが大きな口元を気味悪く引き攣らせると、ボリスはその目を嬉しそうに見つめた。
「ヘロルド閣下! 今度は巧くやります・・・!」
クリストフは暖炉に火をくべ、温かくて甘いココアのような甘い飲み物を二人に手渡してやった。
「クリストフさん、この家、留守みたいですけど、こんな風に勝手に入っちゃって平気なんですか?」
朱音は、クリストフがどこからか調達してきた毛布にくるまりながら、湯気の立つカップに口をつけた。
「いいんですよ、彼とはとても親しいんです。こんなこと位で怒るような男じゃない」
クリストフは、長くカールした睫で一つウィンクし、再び暖炉に木をくべ始めた。
オレンジ色の炎がパチパチと音を立て、部屋の冷えた空気を少しずつ暖めていく。
山道を逸れた小さな村は、少し落ち窪んだ場所にひっそりと存在していた。
こじんまりとした木の家が四軒程建ち並び、三人が入った家はその中でも特に小さな山小屋であった。
小屋の中には小さな古いベッドが一つと、暖炉、そして丸い二人用のテーブルが一つ。部屋のあちこちにスケッチ用の道具が散在し、いくつか家主が描いただろう絵も壁に貼り付けられている。その多くは自然を描いたものばかりであった。
「この家の人、絵描きさんか何かかな? ね、ルイ?」
ずずずっと飲み物をすすると、黒髪の少年が近くで同じように毛布に包まっている灰の髪の少年に振る。
「え、あ、そうですね・・・」
急に話を振られてあたふたとするルイを尻目に、クリストフが言葉を重ねた。
「そんなことより、そろそろ聞かせては貰えないですか? クロウ陛下。貴方がなぜ白い鳩でわたしを呼んだのかを、そして、これからどうしたいのかを・・・」
朱音は静かに瞼を閉じた。毛布と暖炉の温かさが身体を包み込み、実のところ、まどろみそうになっていた。
「そうですよ、クロウ陛下。一国の王が城を空けて出てくるなんて、一体どういうおつもりです?」
ルイは羽織っていた毛布をがばりと外し、ずいと朱音に詰め寄った。
「そうだよね、二人には何も話さないで巻き込んでしまって、ほんとに悪いことしたよね、ごめん・・・。だけど、今のわたしではどうすることもできなくって、クリストフさんとルイの助けがどうしても必要で・・・」
ごとりとカップを木床に置くと、朱音はルイとクリストフの顔を交互に見た。
「クリストフさん、わたしはある人達が無事に故郷に辿り着くのを見守りたいんです。手伝っていただけますか?」
ルイは信じられないことを耳にしたという表情で、呆けたまま朱音の顔を見つめている。
「その、ある人達、とは一体どなた達です?」
薪をくべる手を止めて、クリストフが真剣な眼差しで朱音の顔を覗きこんだ。
「・・・サンタシの遣いの者達です・・・」
クリストフは変わらぬ表情のまま言った。
「フェルデン・フォン・ヴォルティーユですか・・・」
ただの美容師であるこの男が、なぜサンタシの遣いの正体まで知っているのか、と朱音とルイは驚きの顔でクリストフを見つめ返す。
「サンタシとゴーディアは敵国同士ですよね。十年前にサンタシの玉座にヴィクトル王がついてから、やっと得た停戦状態ですが、その関係もいつ崩れるかもわからない・・・。そんな敵国の王族騎士を、なぜ貴方は見守りたいと?」
ルイは魔城で朱音が打ち明けてくれた事実から、なんとなくその理由に気付いていた。
即位パーティーであの男、フェルデンに会ったときのクロウの様子は尋常では無かった。それに、その夜の悲劇もきっとあの男が関係していることは薄々感じていた。少年王の魂、即ち元の少女の魂が、サンタシの騎士に抱く特別な感情を。
「えと、つまりですね、ちょっと事情があって詳しくはお話できないんですけど、以前に、彼にはすごくお世話になって・・・。その恩返しと言うのか、何というか・・・」
誤魔化し笑いをする朱音に、ルイは自分が気付いてしまったことを悟られまいと、ふっとよそよそしく目線を逸らし、カップに口をつけた。
「彼らに危険が迫っているんです。ゴーディアの元老院達が、アザエルから情報が漏洩することを怖れて腕利きの刺客を放ったんです」
クリストフの目がじっと目を細めた。
「なるほど・・・、アザエル閣下が自ら身柄をサンタシに委ねたという話は本当だったのですね」
この男は、本当にどこまでも知り得ない情報をどうやってか掴んでいるらしく、謎は深まるばかりである。
「では、話は簡単ではないですか。アザエル閣下程の魔力を持った方が近くにおられるのでしたら、直接刺客に狙われていることを知らせてやればいいではないですか?」
朱音はとんでもない、というようにぶんぶんと首を大きく横に振った。
「なぜです?」
クリストフもルイも興味深げに真っ青になった朱音の顔色を見た。
「だ、駄目だよ! だいたい、アザエルは今魔術を封じられているし、フェルデンに直接会うなんてできない!」
あの優しい目にもう一度憎しみの色を浮かべられたら、もう朱音はきっと耐えることはできないだろう。
「アザエル閣下は魔力を封じられているのですか? それは少々きついかもしれませんね・・・」
ふむと腕組みをしてクリストフは考え込んでしまった。
「しかし、サンタシの王族騎士に直接会えないというのは・・・?」
動揺して急に落ち着きをなくした朱音は、被った毛布を無駄に引っ張ったり、乱れてもいない髪を手櫛で整えたりし始める。
「えっと、その、だから・・・」
そんな主の姿に堪らず、ルイはとうとう口を口を挟んだ。
「サンタシの王子は陛下を覚えていないのです。記憶をなくされたようで、今は敵国としての認識しかありません。そんな相手に、国王自ら近付いて、我国が刺客を送った、などと直接話などできますか? そんなことを言えば、今より国同士の確執は強くなるでしょうね」
「まあ、確かに・・・」
ルイの機転のきいた嘘に、納得はしていないようだが、クリストフは取り敢えず理解は示してくれたようだった。
クリストフは、空になった朱音のカップを受け取ると、古ぼけた丸テーブルの上にことりと置いた。
「わたしは無理に全てを聞きだそうとは思いません。陛下が望んだときに話してくださればれでいいですし、話さずずっと心の中に仕舞っておかれるのも自由」
驚き見開いた朱音の真っ黒な瞳には、暖炉の火が映り込み、その中でオレンジ色に美しく燃えていた。
「ただ、一つだけ質問することをお許しください。いつか、陛下は今の自分が自分じゃないと話しておられましたね。陛下、これは自分探しの旅ですか?」
ルイが見守る中、朱音はしっかり頷いた。
「うん、そうかもしれないね。今のわたしは中身と器がちぐはぐだから・・・、今生きてる意味を探さなきゃ」
ふっと目を緩ませて、クリストフは笑みを零した。
「それを聞いて安心しました。陛下が望むのであれば、わたしはサンタシの遣いの者達から着かず離れずの距離をとっての旅の手助けをすると誓いましょう」
優雅にお辞儀をすると、クリストフは静かに朱音の白い手をとった。
「これでも、私は人を見る目があるのです。でも、これだけは覚えておいてください」
濃げ茶のくるくるとカールした髪をふわりと揺らして、クリストフは膝を床につき黒髪の朱音の目をじっと見た。
「わたしは、自由な男です。誰からも束縛されない。わたしを動かすことができるのは、わたし自身の意思だけだということを・・・」
そして目鼻立ちのくっきりした謎のこの男は、にこりと邪心の無い顔で微笑み掛けた。
「即ちわたしは誰の命令でもなく、わたし自身の意思で陛下の自分探しの旅にお付き合いするということです」
ルイはまだこの謎多き美容師の男を信用仕切れない気持ちでいっぱいだったが、なぜかもう少し様子を見ていようと、そう思えたのである。