10話 傷だらけの想い
朱音は薄暗い城の廊下を滅茶苦茶に走った。
大広間を出てすぐに、片方の靴が脱げてしまい、もう片方も直ぐに邪魔に
って適当に脱ぎ捨ててやった。ペタリペタリと冷たい大理石の石床を歩くと、すっかり足の指の感覚がなくなっている。
控えていたルイも慌てて朱音の後を追ったのだが、朱音は思いの他足が速く、とっくにその姿を見失ってしまっていた。
城は広く、そして窓の外はいつの間にやらすっかり日は落ちてしまっていた。
(わたしはもう、朱音じゃない・・・)
朱音は、あれ程見たいと思っていたブラウンの瞳が、疎ましそうに自分を避けていた姿を思い出す度に、こんな身体なんて消えてしまえばいいのに、とわざと壁に身体をぶつけて歩いた。
痛みは感じるのに、胸の痛みにくらべたらちっとも痛くなかった。寧ろ、今はそれさえも腹立たしくて仕方が無い。
(無くなっちゃえ、こんなわたしなんて、無くなっちゃえ・・・)
そんな少年王の姿をした朱音は、まるで、飛び立つ度に壁や木にぶつかる方向感覚を失った小鳥のようで、あまりに痛ましいものだった。
もう既に自分がどこを歩いているのか、どこに向かっているのかさえもわからない朱音は、寒さに震えながらも足を動かし続けた。止まってしまうと、またフェルデンの目が脳裏に蘇ってきてしまう。
ふらふらと力なく歩いていると、さっきまで雲に隠されていた月が顔を出し、月明かりがぼんやりと美しい少年王の姿を神秘的に照らし出した。
広く長い廊下の先に、黒い影が浮かび上がった。
数メートル先に壁にもたれかかるようにして座り込んだ影は、じっと蹲って動かない。
朱音は、ぺたりぺたりとふら付きながらその影に歩み寄って行く。
徐々に月にかかる雲が全て取り払われた途端、美しい横顔が照らし出された。
見慣れた金の髪、高い鼻、きゅっと引き締まった薄い唇。そのシルエットは、全くこちらに気付いた様子もなく、俯いたままじっと動かない。長い足は片方は乱雑に伸ばされ、折り曲げて立てたもう一方の膝の上に右の肘を置き、その手に項垂れる頭をもたせ掛けていた。いつも礼儀をわきまえ、どんなときでもだらしの無い格好を人に見せたことのない騎士の青年は、そんなことさえも忘れてしまう程、酷く落胆し傷ついているように見えた。
「フェルデン・・・?」
朱音は驚きのあまり目を見張るが、気付いたときには俯く青年の前に裸足のまま突っ立っていた。
少年の白い足が視界に入り、フェルデンはゆっくりと顔を上げた。
その透けるようなブラウンの瞳は濡れ、頬から顎にかけて涙が幾筋もの跡を残していた。生気の抜けてしまったような目はぼんやりと見下ろす美しい黒髪の少年を見つめる。
朱音は音もなくそっと青年の前に屈み込んだ。
フェルデンがこんなにも悲しい顔をするのを見たことが無かった。そして、そんな悲しい目をしたフェルデンを見てはいられなかった。
すっかり冷え切った手は悴んでいる。こんな冷たい床に座り込んでいるフェルデンもきっと身体中冷え切っているに違いない。それでも、そんなことに気付きもしない程、青年の心は酷く苦しんでいるようであった。
朱音は無意識にフェルデンの頬に手を伸ばしていた。流れた涙の跡を、そっと白い手で拭うと、ぽたりと青年の服に雫が一滴染みをつくった。
「・・・おれはお前が憎い・・・」
フェルデンの低く呟く声。
「お前の覚醒ごときの為にアカネが犠牲になった。お前なんか戻るべきでなかったのに・・・」
憎しみに染まった力ない瞳は、朱音の心をズタズタに引き裂いていく。
「あ・・・」
フェルデンの服に染みをつくったのは、フェルデンの涙ではなく、朱音の頬を伝ったものだったのだ。
「なのに、どうしてお前が泣く、新国王」
今ここで弁解したかったのに、まるで金縛りにあったかのように、愛する青年の残酷な言葉が朱音の心を、身体を強張らせ、言葉を発することさえさせてくれなかった。
「ふ・・・、おれを嘲笑っているんだろ・・・?」
くくくっと喉を鳴らしてフェルデンは笑った。
「今ここでお前を殺してやりたい・・・」
若い騎士は両手を少年王の首に掛けた。
「・・・フェ・・・」
首を締め付ける手に、その冷え切った冷たい手に絶望しながらも、朱音はその大きく男らしい手に自らの白い手を重ねた。
(貴方に憎まれる位なら、このまま貴方の手で殺して・・・)
息苦しいさの中で、生理的な涙を浮かべながら、朱音は目を閉じた。
「殿下! 何してるんですか!?」
突然激しい怒号が響き、何者かの手で、朱音の首に掛けられたフェルデンの手が強制的に引き剥がされた。
「ごほっごほっ」
咳き込みながら床にくず折れると、ぼやける視界に小柄な青年の姿が入ってきた。心配そうに覗き込んでくるモスグリーンの瞳。
「ほんとに、一体どうゆうつもりです!? こんなことして、ただで済むとお思いですか!?」
小柄な青年はいきり立ってフェルデンの胸倉を掴み、自らの拳をその頬に叩き付けた。鈍い音とともに、フェルデンはどさりと床に転げると、小さな呻き声を洩らしてゆっくりと身体を起こした。口腔内が少し切れたのか、薄い唇の端かからじわりと紅い血が滲む。
「クロウ陛下、大丈夫ですか?」
小柄なサンタシの騎士は、そんなフェルデンを放ったまま朱音の身体を起こす手伝いをする。
「申し訳ありません、どうかこの方のしたことをお許し下さい。我国サンタシは、ゴーディアとの戦を望んではいません。どうか・・・」
呆然としたまま、フェルデンは口元の血を手の甲で拭った。自分が今何をしようとしていたのかを悟り、ひどく動揺しているようだった。
「ごほっ、だ、だいじょ、ごほっ」
咳き込みながら、なんとか朱音は答えようとするが、うまく声が出ない。
ほっとしたように、小柄な騎士は朱音の背を支えるようにして起こすと、そっと近くの壁に持たせ掛けた。
「ユリ・・・、おれは・・・」
フェルデンは友の手によって正気を取り戻し、ぐしゃりと頭を両腕で抱え込んだ。
「一体どうしたというんです? 貴方がこんなにも正気を失うなんて・・・」
ユリウスは険しい表情を浮かべて、すっかり消沈してしまった長身の指揮官に投げかけた。
「隠し部屋で・・・黒い棺を開けて中を見たら・・・、アカネが・・・」
震える声でフェルデンは頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
「ああ・・・まさか・・・。なんて事だ・・・」
ユリウスも愕然とした声で、フェルデンの乱れた姿を見つめた。
「アカネの胸には、深く剣が突き刺さっていた・・・。まだほんの少し暖かかった・・・」
「フェル、もういい! それ以上話すな!」
ユリウスが堪らずにフェルデンの肩を揺さ振った。これ以上友の苦しむ姿を見ていられなかったのだ。
(ああ、そうか・・・。フェルデンはわたしの抜け殻を見たのか・・・)
壁にもたれ掛かったまま、朱音は悲しい笑みを零した。
朱音の命の引き換えとなったクロウを殺したいと憎む程、フェルデンが自分のことを想ってくれていたことに、胸が締め付けられる思いがした。
今ここでクロウが朱音だという事実を言ってしまったら、ここにいる優しい青年は、また苦しみに苛まれることになるだろう。大切に想う朱音を、自らの手で殺めてしまいそうになったことを知ったとしたら、彼はきっと自分自身を一生許せなくなってしまう。
朱音は心の中で、このことだけは何があっても絶対に隠し通さなければいけない、と強く決心した。
「殿下は先に部屋に戻っていてください。おれは、クロウ陛下をアザエルのところへお連れしますから」
ユリウスは、悲しい目でフェルデンを見ると、朱音の腕を自らの肩に回させ、立ち上がる手助けをした。
朱音は小柄な騎士に肩を貸して貰うと、もう一度フェルデンの姿を目に入れることをしなかった。もう、これ以上この人の傍に居ることは一時だって耐えられそうになかったからだ。
再び月が雲の中に隠れ、二人の影は薄暗闇の中を、ゆっくりとフェルデンに背を向けて歩んでいった。