7話 サンタシの遣い
儀式の後、癇癪を起こして眠ったあの日から、冷たい氷のような男、アザエルとは一度も顔を合わせていなかった。
魔王ルシファーの死去は城内でも一部の者にしか知らされていない事実であり、国王が不在であるゴーディアを代わりに取り仕切っているのは実質上あのアザエルだというのだから、相当忙しい身に違いない。でも、そんな状況に朱音は喜び、隠れて何度も舌を出した。どうせなら、忙しすぎて過労死でもしてしまえばいいのに、なんてこともよく願ってしまう。
「ほんとにこの鳩、一体どこからやって来たのでしょうね。ゴーディアには珍しい品種ですよ。こっちの鳩は灰色が普通なんです。突然変異でしょうか?」
朱音はぎくりとしながらも、平静を装って、鳩に朝食時にとっておいたパンを千切って与えていた。
「さあ? でもすごく可愛いよ? クイックルって名前をつけたんだ」
真っ白の鳩を愛しげに見つめる黒髪の主は、ルイが知っている厳然とした重々しく怪しいオーラを身にまとった魔王ルシファーとはひどく懸け離れた可憐さを放ち、何度もその差異に戸惑うことが多かった。長き眠りから覚めた主は、確かにルシファー王の血を色濃く受け継いだ容貌をしてはいたが、その心は清く穢れを知らないままだったのだ。
「クイックルですか? 可愛らしい名前ですね」
ふふっとルイは笑みを零すと、そんな心美しき主に心から仕えたい、この主の役に立ちたい、と思えた。
儀式から三日経ち、クロウの身体は着実に回復へ向かっていた。まだときどき立ち上がった際にふらついたり、手足を扱いにくそうにしていることはあるが、心理的には随分安定しているようにも思える。きっかけは、美容師のクリストフの来訪だった。
あれからというもの、クロウの表情が少し明るくなり、ルイともよく言葉を交わすようにもなった。話し上手なクリストフが閉ざされかけたクロウの心を溶かしてくれたようだ。
でも、二百年前のアースへの転生の儀式で眠らされたクロウの記憶は未だ戻らないようで、クロウはときどき妙なことを口走ることがあった。
“わたしは朱音という名前だ”とか“元の世界に帰りたい”だとか、“家族にもう一度会えるだろうか”ということである。
その度に、ルイは困った顔でこう言うのだった。
「いずれアカネという記憶は薄れ、思い出になる日がやって来ます。僕はその日まで、クロウ殿下のお傍にいますから」
黒髪の主は、まだ元いた朱音という少女の記憶を、幻から解き放たれずに苦しんでいるようだった。そんなクロウの姿を痛々しく思い、ルイはただただ傍に仕えることで慰めようとしていた。
「これはこれは、はるばるサンタシの地からようこそ」
アザエルは目深にフードを被った遣いの男と、その横に控える小柄な男に心にも無い労いの言葉を述べた。
遣いの男は、フードを外すと済んだブラウンの瞳で碧い男の目を射た。
「お久しぶりです、アザエル閣下。セレネの森以来でしょうか?」
張り詰めた空気に、ユリウスはフードの下から二人の様子を伺っていた。
なるほど、書類だらけのデスクの前に腰掛けているのは、透けるような碧い髪と碧い眼をしたどこか女性的な美しさを秘めた男、魔王ルシファーの側近アザエルであった。噂に違わず氷のように冷たい表情。この男がフェルデンに瀕死の重傷を負わせた張本人だと思うと、よくもこんなに平然としていられるものだ、と卑しむ気持ちを抑えきれない。
「生きておられたようで安心した。わたしも、あの場で貴殿程の剣の腕を持つ者を失くすのは少々惜しかったのです」
冷ややかな微笑を浮かべると、アザエルは羽ペンを静かにデスク脇に横たえた。
「書状には目を通されましたか」
心中では腸が煮えくり返るような思いでいっぱいだろうに、流石に騎士団を率いるだけの器、フェルデンは落ち着いた口調で述べた。
「ええ。ですがまさか王家の血を引くフェルデン・フォン・ヴォルティーユ殿下が御自らおいでになるとは思いもしなかっものですから、少々驚いていますが」
ユリウスは、何を白々しい! と心の中で吐き捨てると、いざという時にフェルデンの助太刀ができるよう、じっと隠し持っている剣に手を添えて静かに時を過ごした。
「ヴィクトル国王陛下も、今回の件では決して穏やかではありません。十年前にやっと成立した停戦条約を無碍にするようなゴーディアの行動の真意を直接ルシファーー王に問い質したい」
アザエルはしばしの沈黙の後、突飛なことを淡々と口にし始めた。
「意外だな。サンタシの王ヴィクトルは賢王と聞いていたが、まさか本当に気付いていないとは」
フェルデンはアザエルの感情のない目をじっと見つめた。
「どういうことです?」
落ち着いたフェルデンの声は先程よりも少し熱が入り始めている。
「ルシファー国王陛下はお亡くなりになられた」
「なに!?」
「なんだって!?」
俯いていたユリウスでさえ、勢いよく顔を上げ、大声を張り上げていた。
「国王が不在の今、国内の混乱を避ける為、わたしと元老院者達が意図して公表をしなかったのです。貴殿も王族ならばお解かりになる筈」
兄ヴィクトルが言っていた推測は正しかった。
フェルデンは衝撃の事実に自失した。
「よって、今回の事情は全てわたし個人の起こしたこと。国家は何も関わってはいないということだ」
やられた、とフェルデンは氷のような男を臍を噛む想いで見つめた。
こちら側は、ゴーディアが起こした条約を蔑ろにするような行為を引き合いに出し、有利に会談を進める手筈だったというのに、この狡猾な男は国王が死去したという事実を提示し、自分一人が罪を背負うということで、ゴーディアの立場をサンタシと同等のものへと見事引き戻して見せたのである。
「そうですか。しかし、いくら国王の意思ではないとは言え、貴方はルシファー王の側近。国家間を揺るがすような不穏な行動を、見逃す訳にはいかない」
ユリウスは感情に任せて掴み掛からないで自らの任を果たそうとする賢明な上官の姿を、固唾を呑んで見守っていた。
「貴殿の言うことは正しい。わたしの身柄はサンタシに委ねましょう」
まるで他人事のような口振り。
憎い男の身柄を得ることができ、この男に勝利した筈なのに、なぜかまんまとしてやられたという敗北感がフェルデンの癪に障る。
最初から、アザエルの狙いはここにあったのかもしれない。ユリウスは漠然とそう思った。そして、ここにいる碧髪碧眼の男を、恐ろしいとも。
「しかしながら、今日は大切な日。わたしは逃げも隠れもしまい、あと少しの間待っては貰えないだろうか」
「大切な日? 復活祭は三日前に済んだ筈では?」
フェルデンが怪訝そうに眉を顰める。アザエルが言う祝いの日が復活祭であるならば、既に過ぎたと山道ですれ違った壮年の男に話は聞いていた。
「如何にも。年に一度の復活祭は大盛況をおさめました。貴殿があと数日早く城に到着していれば、復活の儀式にも立ち合っていただけたというのに。残念でしたね」
ユリウスは反射的にフェルデンの腕を引っ掴んでいた。
その行動は正しく、ユリウスがフェルデンの腕を掴むとほぼ同時に、アザエルの濃い藍の詰襟にフェルデンは掴みかかっていた。
「貴様! アカネをどうした!!」
小柄なユリウスの力では、全身全霊の力を込めていなければ長身のフェルデンに振り落とされそうになる。
「フェルデン殿下! 落ち着いて下さい!」
「放せ、ユリ!」
すっかり我を忘れている上官に、ユリウスは懸命にしがみ付いた。今ここで力任せにアザエルを殴りつけてしまったとなると、一気にこちらの情勢が悪くなる。
そうなれば、アザエルの思う壺である。
「えらく興奮されているようだが、大丈夫か?」
わざとフェルデンを挑発するような冷淡な言葉は、アザエルの戦略の一つだとユリウスは悟った。
「もう貴殿の耳には入っていることと思うが、二百年前に行なわれた儀式によって長き眠りにつかれていたルシファー陛下のお子、クロウ殿下が、復活の儀式で覚醒されたのです。今日はそのクロウ殿下の即位式が執り行なわれる」
嫌な予感は的中した。既に儀式は済んでしまっていた。贄として攫われた朱音がどうなったかなど、想像もしたくない。
フェルデンのアザエルの詰襟を掴む手が緩んだ。
「フェルデン殿下、まだアカネ様が儀式の贄になったとは決まっていません。きっとまだこの城のどこかにいます」
ユリウスは、そっとフェルデンの耳元でそう囁いた。まだ、友にここで希望を失って欲しくはなかったのだ。
良くない考えは捨て切れなかったが、フェルデンは僅かな希望を胸に、自らのみ掻き乱れた心を落ち着かせるよう律して、大きく息を吐き出した。
「あなた方はゴーディアの大切な客人。ぜひ今夜の即位パーティーにご参加ください。そして叶うならば、新たな若い国王に祝辞を。きっとお喜びになるでしょう」
ユリウスは、小さく目でフェルデンに合図をすると、頷いた。これは城内を朱音を探して歩くには又とないチャンスかもしれない。
「・・・わかった。お受けしよう」
アザエルは冷笑を浮かべると、掴まれていた詰襟を何事も無かったかのように静かに整え言った。
「では、フェルデン・フォン・ヴォルティーユ殿下。それに騎士殿。その姿ではパーティーに出席できまい。礼服を用意させましょう。夕刻までまだ時間があります。侍女に部屋を用意させていますので、暫しお寛ぎを」
「なんだか今日は騒がしいね。何かあるの?」
朱音は復活の儀式の日の慌しい城内の様子を思い出し、身震いする。
「ああ、殿下の即位式の準備ですよ」
霞がかった灰色の目をきらきらと輝かせながら、従者である少年がにっこりと可愛らしく微笑んだ。
「は!?」
がたりと音を立てて朱音は椅子から立ち上がり、がくがくとルイの肩を揺さぶる。
「何それ!? そんなこと一言も聞いてないよ!? どういうこと!?」
激しく揺さぶられ、何度も舌を噛みそうになりながらも、ルイはなんとか言葉を紡いだ。
「何、と、申、され、まし、ても、殿、下、が、この、国、の、王、に、なる、ん、で、す、」
またしても、朱音の意思を完全に無視して、とんでもない方向へと話が進んで行ってしまってる。そのことに腹立たしさを抱き、朱音は掴んでいたルイの肩から手を離すと、バンと大きな音をたててテーブルを両手で叩き付けた。
大きな音にびくりと飛び上がったルイは、
「クロウ殿下・・・?」
と、恐るおそる顔色を伺っている。
「ルイ、もう我慢できない! 今直ぐアザエルをここに呼んで!」
灰色の少年は言い難そうに、小さく呟いた。
「あの、殿下? 今はサンタシから遣いの者が来ているとかで、アザエル閣下はこちらへは来られないかと・・・」
朱音は久しく聞くことの無かった“サンタシ”という言葉に、ドキリとした。
もしかして、フェルデンが自分を取り戻しに追いかけて来てくれたのでは、という期待に胸が高鳴った。
「サンタシから!? どんな人だった? 背は高かった? 髪の色は? 瞳は?」
やけに食いついて来る朱音の迫力に圧され、ルイは数歩後退りしながら言った。
「さあ・・・、僕は直接見ていないので詳しいことはわかりませんが。見た者の話によると、使者は二人で、一人は長身、もう一人は小柄だったと。深くフードを被っていたせいで髪や眼の色までは確認できなかったようです」
二人と聞いて、朱音は少し首を捻るが、ひょっとすれば小柄はロランかもしれないと顔を綻ばせる。そうなると、やはり長身はフェルデンとしか考えられない。
「殿下、どうしてそんなにサンタシの遣いが気になるんです? もしかして、二百年前に失くされた記憶が戻ったのですか?」
ルイは復活の儀式によって直接異世界アースからクロウの肉体が呼び戻されたと解釈していた。その為、アザエルの手によって鏡の洞窟を通って朱音が連れて来られた事実も、そして一月程の間サンタシの白亜城で保護されていたこと事実も知らなかった。
「・・・戻らないよ。戻る訳ないよ、わたしはクロウじゃなくて朱音なんだから」
目の前の少年王子はまた奇妙なことを口にすると、それきり黙り込んでしまった。
ルイは軽薄なことを口走ってしまったことを深く反省し、麗しい黒髪の主に償いの笑みを送った。
「殿下、そんなに気になるのなら、御自分の目で確認したらいいのですよ。今夜は殿下の即位パーティーです。各国の客人が殿下に会いにやって来ます。きっとその使者もそのパーティーに出席する筈です」
朱音は思ってもいない機運に感謝した。
(フェルデンに、フェルデンに、また会えるかもしれない・・・!)