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AKANE  作者: 木と蜜柑
第2章  ゴーディア編
13/63

     6話  始動

 

朱音は目が覚めてもこの暖かい温もりの残る毛布から出られないでいた。

夢の中で、フェルデンのあの大きな腕に優しく抱かれていた。その暖かさが幻だとしても、今はそれさえも名残惜しく、離しがたい。ぎゅっと毛布を抱き締めると、朱音はあのブラウンの瞳を思い、もう一度目を瞑った。

「クロウ殿下・・・?」

 突然テーブルの辺りから懐かしい声が飛び込んできて朱音は驚いて飛び起きる。

 テーブルの脇に立っていた少年は、サンタシで保護されていた朱音と友達だった、いや朱音が勝手に友だと思っていたあの毒舌な少年そのものだった。

しかし、霞みがかった灰の髪と瞳の色だけは違っていた。

「ロ・・・」

 まだ身体がだるいことを忘れて、朱音は嘗ての知り合いの名を呼ぼうとした。

「クロウ殿下。僕はアザエル閣下の(めい)により、今日よりあなたにお仕えすることになりました、ルイと申します。何なりとお申し付け下さい」

 にっこりと可愛らしく微笑んで、朱音のベッド前で優雅に礼をとる少年は、姿形はよく似てはいるものの、持っている雰囲気はあのロランとは似ても似つかない。あの毒舌少年は、こんなに可愛く微笑んだりは決してしなかった。

いつだって最初に口から飛び出すのは憎まれ口で、朱音は少年の皮肉っぽい笑みしか目にしたことは無かった。

「ルイ・・・?」

 ここにいる少年は、ロランではない。そう思った途端急にがっかりして、朱音は黒曜石の瞳を毛布へと戻した。

「クロウ殿下、どうかなさいましたか?」

 声さえもこんなに似ているのに、ルイとロランは明らかに別の人物であった。これを知っていて傍に置いたアザエルはどこまでも朱音を苦しめるつもりらしい。目を細め、ここにはないあの美しい碧い男を憎らしげに思う。

「何でも無い。よく知っている友達によく似てたから・・・」

 あの男が憎くても、この少年には何の罪もない。朱音は、見ればサンタシを思い出して辛くなる従者の少年の顔を、黒く美しい目を少し悲しい色に染めながら、じっと見返した。ルイは、困ったように微笑むと、この世のものとは思えない美貌の主にほんの少し頬を赤く染めた。

「そういえば、あいつは?」

 朱音は急に不機嫌になった声でルイに尋ねた。

 ルイは首は一瞬首を傾げるが、

「ああ、アザエル閣下ですね? 閣下は、本来の仕事である国政の任に戻られました。国王陛下不在の今、アザエル閣下がゴーディアの最高権力者です。今や閣下なしでは国は動きえません」

 ルイは、まるで憧れる先輩について話す中学生のように、熱の篭った口調で朱音に言った。憎しみですっかり忘れていたけれど、アザエルはルシファーの右手と呼ばれる程の存在だった。ゴーディアで“閣下”と呼ばれる地位にいたところで、何ら不思議はない。何にせよ、あの見ただけで吐き気を催す憎い顔を見ないで済むことは、朱音にとっては唯一の救いであった。

「そう」

 ほっとして思わず顔が綻ぶ主の顔を、ルイは不思議そうに見つめた。

「そうだ。クロウ殿下、髪を整えるようにとアザエル閣下から申し付けられています。午後から美容師を招いておりますので、そのつもりでいらっしゃってくださいね」

 にこりと微笑むルイは、朱音の髪をちらりと見やった。思い出したように、朱音は黒く艶やかな髪を摘んでみた。昨日のことを思い出してはっとする。

癇癪を起こして警護にあたっていた兵士の剣を奪って、強引に切ったクロウの長い髪は、すっかり不揃いですっかり短くなってしまっていた。クロウの身体だというのに、自分勝手なことをしてしまったと少しばかり反省はしてみるが、やっぱり軽くなった髪の方が朱音にとっては心地良かった。




「フェルデン殿下、無理をさなっているんじゃ・・・」

 小柄な騎士、ユリウスが心配そうに小声で見上げてくる。

「心配するな。なんともない」

 フェルデンの肩の傷はまだ完全には塞がってはいなかった。そして、微熱が尚も続いていることを、ユリウスは知っていた。

 騎士には珍しい小柄なこの青年は、十七歳という若さでサンタシ国の騎士団の指揮官という任につき、その二年間で数々の功績を残してきたことに尊敬の眼差しを向ける者の中の一人であった。

 思い返してみても、この旅は過酷なもののなにものでもなかった。傷の塞がりきらないフェルデンに、ゴーディアへの遣いを命じるヴィクトル王の考えに、ユリウス自身納得できないでいた。

 しかし、国王の命令に背くことは誰であろうとできない。そのせいで、こうして高貴な地位のフェルデンが地味な旅装束を身に纏い、大切な愛馬も白亜城に置いて極秘任務にあたっているのだ。

 

王都の西にある貿易の盛んな町ディアーゼの港まで来ると、サンタシの商船に見せかけて改装した戦闘用の船に乗り込み、二人は密やかにゴーディアの地へとやって来ていた。

「フェルデン様、どうかご無事で・・・!」

 商船の船長を演じる太った中年の男は、甲板の上から声を掛けた。

 この男、戦闘船リーベル号の船長アルノは今回のフェルデンの極秘任務を知らされている数少ない人物である。

「ああ、世話になったな」

 フェルデンはアルノを見上げて右手をあげて合図した。

「いいですか、我々の船はしばらくは“商売の為に”この港に停泊します”」

 アルノは語尾を強調してそう言うと、忙しそうに甲板の奥へと姿を消していった。

 ここからはまた馬を使って旅を続けなければならない。ゴーディアの王都、マルサスは四方を山脈に囲まれた地にあり、山を越える必要がある。

 ここの地形に詳しくはないフェルデンとユリウスが無事に王都に辿り着く為には、人々が馬車や徒歩で行き来してできた山道をひたすら突き進むしかない。山の中を突き進むには、二人には土地勘が無さすぎた。

 ユリウスは、ふと以前のことを回想していた。



「どうやら整理ができたようですな」

 低いしわがれた声で、額から下唇に渡って、深く古い剣傷を残し目を細めて眺めた。

「ディートハルト、ヴィクトル陛下から話は伺った。またもや命を救って貰ったと・・・」

 フェルデンはかつての師の目を落ち着いた面持ちで見つめた。

「貴方を鏡の洞窟の前で見つけたときにはこうも思いましたぞ。なんというザマだ! 図体ばかり大きくなって、中身はてんで生っ白い! まだ騎士団の指令官の任を譲るには早すぎたか! と」

 手を腰にやり、大声で笑い出したディートハルトは、長身であるフェルデンに並んでもまだ高く、警備隊の長の制服とマントに隠されてはいても、年を重ねた筈の身体に屈強な筋肉は健在だった。

 照れくさそうに苦笑するフェルデンの目には、今や迷いの色は見えなかった。

「おれの弱さは今に始まったことじゃないと気付いたんだ。ならばこれからもっと強くなればいい、と。失ったものは奪い返せばいい、と」

 フェルデンの強い言葉に、ディートハルトはふっと口を綻ばせ、嘗ての弟子の肩にぽんと大きな手を置いた。

「まだ傷は癒えていないようだが、行くのですかな?」

 フェルデンはこくりと頷いた。

「これ以上は引き延ばすことはできない。今直ぐにでも発たなければ」

 連れ去られた朱音の行く先は贄という悲惨なものだった。これ以上の長居は朱音の命をも脅かす。

「敵地に赴くということは、火の中に飛び込むということ。必ず生きて帰られよ」

 デーィトハルトは、フェルデンに大きく頷き返した。

「わかっている。おれが留守にするしばらくの間、騎士団を頼めるだろうか?」

 ぶっと噴出すと、顔面に刻まれた古い傷跡のケロイド部分がぴんと突っ張り、男の顔の皮が不自然に引き攣る。これがフェルデンが子どもの頃から何度も見ていた、師の懐かしい笑い顔だった。

「本当に図々しいお方ですな。少しはわたしの年を労わったらどうです。その図々しさときたら、子どもの頃と少しも変わっておらん」

 白髪の混じった顎鬚を左手で一撫ですると、唇の端を少し上げて言った。

「仕方ない。貴方を助けたときに既に乗り掛かった船だ、もう一つや二つ助けたとてそうは変わりますまい」

 フェルデンはぐっと師の片手を掴むと、強く両手で握り締め、信頼のおける屈強なその男に、笑みを含んだ強い眼差しを向けた。

「ディートハルト、貴方ならそう言ってくれるとわかっていた。ありがとう」

 ごほんと罰が悪そうに咳払いをすると、ディートハルトは但し条件がある、と一言言った。

 フェルデンはまさか嘗ての師に騎士団の指揮官の代理を頼むのに条件を出されるなど考えてもいなかったものだったから、はたと握り締めるその手を止めた。

「旅は道連れと言いますぞ。騎士団の中から、信頼のおける部下を一人、供として連れてお行きなされ」

 ディートハルトの意図が何なのかはフェルデンには直ぐに理解できそうにはなかったが、この経験豊富な男のアドバイスで役に立たなかったことはない。

「ユリ、ついて来てくれるか?」

 フェルデンはすぐ脇で草の葉についている虫を観察している小柄な青年騎士に訊ねた。

 二つ年下のユリウスは、農民の出身で、騎士としては特殊だったが、ディートハルトの兄弟弟子として共に過ごしてきた友と呼べる特別な存在だった。

 そして何より、小柄でありながらもその剣の腕は確かで、フェルデンは誰より彼を信頼していた。

「へ?」

 きょとんとモスグリーンの瞳を長身の二人の男達に向けると、葉についていた虫がパタパタと羽を鳴らしながら飛び立っていった。

「ユリウスよ、幼き頃から共にあるお前なら、フェルデン殿下の最高の部下として、友として、きっとよ良き手助けができるだろう」

 小柄なユリウスはゆっくりと立ち上がると、白い歯を出してにっかりと笑った。

「あったり前じゃないですか! おれ以外の誰にフェルデン殿下の相棒が務まるというんです。大船に乗ったつもりでいてください」

 胸を張って言い切ったユリウスに、師であるディートハルトは、

「このお調子者めが!」

と頭を小突いた。

「って!」


 自分を供として選んだフェルデンは、極秘である今回の遣いとしての任の重要性を丁寧にユリウスに話して聞かせ、そして、あのディートハルトでさえ知りえない裏の事実も明かしてくれた。

 異世界から鏡の洞窟を通じて、魔王ルシファーが呼び寄せた人間の少女アカネのこと。そしてそのアカネを愛してしまったこと。さらに、今回の任は“会談”という名目の元、敵国の情勢を見定めるという裏の任が含まれていると同時に、ルシファーの手に奪われた少女を奪い返す唯一のチャンスであるということ。

 ユリウス自身まだ信じられない思いでいっぱいだった。あの晩あの森で保護した黒髪の少女は、魔王ルシファーの右腕、アザエルによって儀式の為に連れ去られたサンタシ国の少女だとばかり思い込んでいたのだ。それが、まさか異世界からやって来た少女だったとは。そして、このフェルデンが一人の少女を愛する日が来るなど想像すらつかなかった。ユリウスにはない長身と、男らしく甘い顔立ちは無意識に通りすがる女達を虜にしていたにも関わらず、本人は色恋には全く興味を示さないで、剣ばかりに熱心に入れ込んでいたというのに。

 ヴィクトル王お抱えの術師、ロランが鏡の森で重傷を負ったという噂は聞いていた。しかしまさか、ここにいるフェルデンさえも同じとき同じ場所で瀕死の重傷を負っていたという事実は本人の口から聞くまでは知り得なかったことである。おそらく、ヴェクトル王とディートハルトの計らいで、入念に隠蔽されたのだろう。



 山道を二頭の馬が駆ける抜ける。

 フェルデンは痛む肩にほんの少し顔を顰めた。馬が山道を駆ける度にその振動が治り切らない傷の存在を知らしめた。

しかしそれでも、ここで止まる訳にはいかなかった。今こうしている間にも、アカネはひどい扱いを受けているかもしれない。恐ろしい儀式に立ち合わされているかもしれない、そう思うと、痛みで立ち止まっていることなどできなかったのだ。

 すぐ後ろを駆けるユリウスは、そんなフェルデンの心中を察していた。旅の途中、何度もフェルデンの傷の包帯を巻き直す手伝いをしたが、傷口は未だ赤黒く腫れ上がり、ひどく熱を持っているようであった。

 そんな状態でもこの過酷な旅を続けられるフェルデンの心の支えは、今や愛する少女の可憐で無垢な笑顔を守りたいという強い思いが大部分を占めていた。

「殿下、殿下ったら!」 

 ユリウスは先程から二人が向かう先と反対の方向へと歩む馬車や荷台を引く人々と頻繁に擦れ違うことに気付いていた。勿論そのことにフェルデン自身も気付いていない訳ではなかった。

「殿下! なんだか様子がおかしくないですか?」

 フェルデンは毛頭馬の足を止める気もないようで、前方から目を離さないまま言った。

「何が!」

 苛立ちを隠せないその言葉は、半ば怒鳴っていた。

「だって、こんな山道だっていうのに、やけに王都からの人通りが多いし、さっきの家族見ました? 頭に祭りの飾りをつけていましたよ!」

 怒って余計にスピードを上げるフェルデンに向けて、ユリウスはわざと大声を出した。

「それが!」

 ますます不機嫌な声のフェルデンは、またもや怒鳴り声を上げた。

「それがって、つまりですね、王都マルサスで何か祝い事があったってことです!」

 堪らずにユリウスは手綱を引き寄せて、その場で馬の足を止めた。

「そんなこと、お前に言われなくてもわかっている!」

 数メートル走ったところで、ユリウスがついて来ないと気付いたフェルデンが、仕方なく馬を止めると、忌諱(きい)に触れた顔でじっとフードの下からブラウンの瞳を光らせた。

「ユリ!」

 ユリウスはぱっと馬から軽やかに飛び降りると、馬の手綱を引いたままゆっくりと馬上のフェルデンに近付いて行った。

「殿下が苛立つ気持ちもわかります。でも、貴方の部下として友として、おれにも冷静に物事を見定める義務がある。それは、誰でもない貴方を助ける為です」

 いつもは朗らかな雰囲気を身に纏っている小柄な青年は、平素と違って高姿勢な態度だった。

「では、一体どうするんだ?」

 フェルデンがフードを外してもう一度ユリウスの目を見た。青年は道の先を指差して言った。

「あの者に訊ねてみます」

 道の先からやってくるのは、荷台を引いた壮年の男。荷台には砂埃よけの大きな茶味がかった布が被されている。

「失礼! おれたち、王都へ向かっているんだけど、最近王都で何かあったんですか?」

 ユリウスがいつもの朗らかな笑みを浮かべて男に歩み寄っていくと、壮年の男も気の良さそうな顔で、おう、と短く返事をした。

「ああ、あんたら、他国の人かい? 昨日、復活祭があったんだよ」

 馬に跨ったまま、フェルデンの眉がぴくりと反応した。

「復活祭?」

 ユリウスは聞き慣れない言葉を反復した。

「なんだ、復活祭を知らないのかい? 復活祭は、このゴーディアの国王陛下、ルシファー魔王陛下が、天上よりこの地へ舞い降りられた有り難い日のことだよ」

 フェルデンは当然のことながら、ゴーディアの復活祭のことは聞いたことがあったし、この国では、神に変わって強大な魔力を持つ魔王ルシファーを信仰する慣わしがあることも知っていた。

「おじさんは魔王陛下を見てきたんですか?」

 世間知らずな青年を装って、ユリウスは男に詰め寄った。

「あはは、ほんとにお前さん何も知らないんだなあ。魔王様は国民に姿をお見せにはならいよ。わたしも魔王様のお姿は偶像でしか拝見したことはないよ」

 荷台から手を離し、男はぽんぽんと小柄なユリウスの肩を叩いた。

「あんたら、魔王様のお姿を一目見ようとわざわざ他国からここまでやって来たんだろう? 伝説によると、魔王様は絶世の美貌をお持ちだということだし、あんたらみたいにこうしてやって遠くから来る者も少なくないそうだ」

 残念だったな、と男は馬上のフェルデンにも哀れみの表情を向けた。

 ユリウスが何か言いたげにモスグリーンの目をフェルデンへやった。

「ま、そういうことだ。だからこうしてわたしも祭りで売れ残った品物を故郷の街へ持って帰るところなのさ。せっかくだし、王都を満喫して帰るといい」

 男は、降ろした荷台の取っ手をよっこらせ、と持ち上げると、愛想のいい笑顔を作ってまた山道を歩み始めた。

「ああ、おじさん、ありがとう!」

 ユリウスは荷台を引く男の背に向って手を振ると、馬の背に乗ろうと手をかけた。

「あ! そうそう。あんたら、ラッキーだよ。今年の復活祭は特別だから!」

 荷台を引きながら、男は付け加えた。

「二百年前に行方知れずになっていた魔王様の子息が、再びこの地に降臨されたそうだ。王都はそのこともあって、いつもよりも相当盛り上がってるぞ!」

 男の言葉を聞いた途端、フェルデンの顔が一瞬にして蒼白になったのがユリウスにはわかった。

 まだ悪い知らせと決まった訳ではない、と言おうとしたのも暫時、フェルデンは硬い表情をしたまま全速力で馬を駆け出した。

(まさか・・・! アカネ・・・!)

 肩の痛みも忘れ、フェルデンは無我夢中で馬を疾走させていた。

「殿下! お待ちください! フェルデン殿下・・・!」

 懸命に背後から叫ぶユリウスの声も耳に入らない程、フェルデンの嫌な予感が心の中で膨らみ続けていく。

 ユリウスは、我を忘れる程フェルデンの心を掻き乱すアカネという少女に深く興味を抱いた。



「さあて、クロウ殿下、仕上がりましたよ。鏡をご覧下さい」

 差し出された手鏡をのぞくと、美しく整えられた真っ黒な黒髪の少年がじっと鏡の中から朱音を全てを見透かしそうな目で見つめていた。その麗しい少年はまるで、

『お前は誰だ。それはお前じゃない。クロウだ』

と、言っているかのように。

 朱音は鏡から苦い顔で目を逸らすと、鏡を裏返しにしてごとりとテーブルの上に置いた。

「クロウ殿下、お気に召しませんでしたか?」

 美容師の男は細身の身体に身に着けている赤色に染めた皮のチョッキの内側にハサミを丁寧にしまった。ちらと見えた服の内側は、たくさん道具がしまえるポケットや穴がいっぱいあって、ハサミや櫛も六〜七本は収まっていそうだ。

「いえ、クリストフさんの仕事は最高です」

 朱音は首から垂れ下がるポンチョを外そうと手を伸ばすと、骨ばって細いクリストフの手がそれを手助けして、慣れた手つきでしゅるりとそれを解いていく。

「クロウ殿下にお褒めいただくとは、光栄でございます」

 クリストフはグレーがかったシャツを腕のあたりまでたくし上げていて、そこからのぞく手は長くてふわふわした体毛が覆っていた。揉み上げも長くて濃く、朱音にかの有名なアニメのルパン三世を思い起こさせた。

「ただ、鏡を見ると辛いんです」

 クリストフは、取り外したポンチョを手際よく丁寧に折り畳んでいくと、

「どうしてです?」

と質問した。

「これは、わたしじゃないから」

 クリストフはふっと微笑むと、畳んだポンチョを持ってきた道具箱の中にぎゅっと押し込んだ。

「それ、よくわかりますよ。わたしも、殿下と同じように思うことがときどきあります」

 道具箱の蓋を閉め、クリストフはゆっくりと朱音に向き直った。

「自分がわからなくなったときは、広い世界を見るのが一番です」

 彫りの深い目の奥には、クリストフという男の優しさが滲み出ていた。

 朱音はなぜかこの細い男の雰囲気が好きだな、と感じ、信じられる人のように思えた。

「おや、クロウ殿下、こんなところに髪が・・・。失礼」

 そう言いながらクリストフは服のゴミを取る素振りでさっと朱音の手に小さな紙切れを握らせた。そのことに気付いた朱音はじっとクリストフの顔を見た。

 クリストフ自身は何もしていないような常の表情で、目も合わせないでクロウの服の髪をパタパタと白いハンカチで払い落としている。部屋の隅でじっと見張りをしているルイの目を誤魔化す為だと分かり、朱音も握った紙切れをそっと服の袖口に押し込んだ。

「辛くなったときはいつでもそれで手紙を寄越して下さい。宛名と差出人は書かずに合言葉を忘れずにね。そうすれば、わたしが殿下をここから連れ出して差し上げますよ」

と、クリストフは囁くようにそう言ってウインクをした。

 そして、最後の一払いを終えて、男はルイに目配せしてゴホンと一つわざとらしい咳払いをしてみせた。

「ああ、クリストフ、終わったんですね」

 霞がかった灰の髪をふわりと揺らしながら、クリストフに歩み寄ると、懐から取り出した金貨を数枚美容師に手渡した。

「どうも」

 それを受け取ると、細身の男はにっこりともう一度朱音を見て微笑んだ。

「いつもながら、あなたの腕は素晴らしい。髪を切らせてあなたの右に出る者はそうはいないでしょう」

 可愛らしい少年は黒髪の主を夢見心地で見つめた。

 じろじろと見られることに慣れていない朱音は、ルイの手の裾をくいと引っ張ると、

「ルイ、クリストフさんを見送ってあげて」

と言った。ルイははっと正気に戻って、慌ててクリストフを部屋の外へと連れ出して行く。

 とは言っても、この少年、アザエルから一体何を言われたのか、片時も朱音の傍から離れようとはせず、美容師を見送る時でさえきっと部屋の外からは他の召使いにでも代わりを任せるつもりだろう。ほんの僅かな従者の少年の不在を狙って、朱音はさっき袖口に押し込んだ紙切れを慌てて引っ張り出して開いた。


   『白い鳩』


 紙の中身はたったそれだけだった。

 朱音ははっとして窓の外を見た。窓の枠に一羽の真っ白な鳩が羽を休めてとまっている。この魔城には不似合いな程の真っ白な鳩。

 朱音は胸が高鳴るのを覚えた。

(クリストフ、一体何者だろう・・・)

 朱音の胸に一筋の希望の光が差した。






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