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AKANE  作者: 木と蜜柑
第2章  ゴーディア編
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     5話  覚醒

 

 喉が焼けるように痛む。

「・・・う・・・」

 身体中がとにかくなんでもいいから水分を、と欲している。

 漏れた声はひどく掠れていた。堪らずに両の手で喉を引っ掻くように掴む。

 しかしその手さえもまるで他人のものであるかのように、重く、気だるい。

 とても奇妙な感覚だった。自分の身体なのに呼吸さえもうまくできず、自然と息が荒くなる。

 ひどい疲労感と苦しみの中で、周囲がざわざわと騒ぎ始めるのがわかった。

「クロウ殿下がご復活なされた・・・! 儀式は成功した・・・!!」

「直ぐに医師を呼んでまいれ!」

 盛大な歓声とともに、人々が慌しく周囲を歩き回る音、そしてこちらへ駆け寄る音。

 朱音にはその全てがもうどうでもよく感じられた。ただ、今は喉が渇いた。

これまでの人生で これ程までに渇きを覚えたことはない。強い渇きは、時として痛みにも変わる。

 苦しみに悶えていると、ふと誰かが朱音の背を優しく腕にもたせ掛け、その力の入らない身体を起こすと、唇に何かをそっと流し込み始めた。こくりと一口飲み込むと、それが水であることに気付く。

「おかえりなさいませ」

 そっと耳の傍で囁く声が聞こえたような気がした。

 入りきらなかった水はタラリと唇の端から零れ落ち、ポタポタとその雫が滴り落ちていく。朱音は欲するがままに、その水をこくこくと咽返りながらも飲み干していった。

「・・・もう・・・いい・・・」

 なんとかそう言い終えると、朱音はぐったりした身体でうっすらと目を開けた。まるで初めて目を開けた赤ん坊のように、視界がぼやけて見えにくかったが、じっと目を薄めてしばらく見つめていると、少しずつ視野がはっきりと見え始めた。

 目の前に見えてきた顔は、あの碧髪、碧眼の男、美しくも冷たい男のそれだった。しかし、その目はいつも朱音が目にしていたものとは違い、俄かに優しい光を放っているようにも見えた。この男が、渇きに苦しむ朱音を一番に察し、水を口に運んでくれたのは明らかだった。

 でも、朱音はこの男が嫌いで仕方が無い。本当なら、こうして触れられるのさえも許せないというのに、今は何しろ身体が自由に動かせない。

(儀式はどうなったの? もしかして失敗した・・・?)

自由の利かない身体をふわと抱き上げられて、朱音はあの晩の記憶をふと

思い出した。月夜の晩、アザエルに同じ格好で抱き抱えられたまま、ここレ

イシアに連れ去られた日のことを。

そして、今も同じ男にこうして抱き抱えられている。本当に皮肉なものだ。


 美麗な碧い眼の男は、そっと巨大な天蓋つきのベッドに黒髪の(あるじ)を横たえると、乱れた髪を、手櫛で整えてやった。

 長い髪は黒く艶やかで、ベッドの上に扇のように見事に広がっている。少年の額には玉のような汗がいくつも浮かび上がっていた。長き眠りからの覚醒と、魂を入れ替えるという異例な儀式は、相当主の身体に負担を強いたようだ。

 苦しそうに肩で荒く呼吸を繰り返す少年のその頬は、棺に納まっていた頃に比べるとほんのりと赤みが差し、待ち望んだ主が今まさに自分の手元に戻ってきたと、アザエルに強く実感させた。

 儀式用に一枚布で(あつら)えられた黒く軽い被服は、ひどく安っぽい物のように思え、アザエルは少しばかり嫌悪感を抱いた。

 ノックの音で、数人の医師が入室してくる。

 彼らは、ベッドに横たわる黒髪の主を目にすると、震える手で少年の身体の各部位を翳し始めた。医師陣の手からは紫色の淡い光がゆっくりと放たれる。

 彼らは魔王ルシファー選りすぐりの医療魔術精鋭部隊であった。

 しばらくは苦しそうに呼吸を繰り繰り返していた主だったが、しばらくすると、少しずつ落ち着きを取り戻し、穏やかな表情ですっと眠りに落ちていった。

 そんな様子を見て傍を離れても大丈夫と判断したアザエルは、主を残したままそっと部屋を後にしたのだった。


“アカネ・・・”


 どこかでフェルデンにそう呼ばれた気がして、朱音は目を開けた。

 あのひどい喉の痛みや気だるさよりも遥かに楽になった身体は、それでもまだ全てを拭いきれていないようだった。

「んん、だるい・・・」

 のっそりと起き上がると、まだはっきりしない頭でぼうっと部屋を見渡す。

 見覚えのある天蓋つきのベッド。

 この部屋は朱音が儀式の前に過ごしていた部屋だった。

(いつの間にこの部屋に戻されたんだろう・・・)

朱音は、儀式の恐ろしい記憶を蘇らせた。

 そうだ、確かにあの時、ハデスの短剣が朱音の胸を貫いた瞬間に走った凄まじい痛みは、今思い出しただけでも身震いする。できることならもう二度と経験したくない痛みである。

 慌てて朱音は自分の胸に手を当ててハデスの剣の存在やそれが残した傷跡を確かめようとした。

(!!)

 見慣れぬ黒く薄い被服の下は、普段触れなれている筈の朱音の身体とは明らかに違っていた。 

 驚きのあまり息をするのも忘れて、朱音は今度はまじまじと両の腕や手の甲、平を見る。生粋の日本人の筈の朱音の手は、本来ならば黄みがかった色をしているはずなのだが、妙に白く、染み一つ見当たらない。

 だるい身体を勢いよく起こし、朱音は慌ててベッドから飛び降りると、何か姿を映せるものはないかと探し回った。その間も、足首まで伸びた真っ黒な黒髪は、ひどく頭を重く感じさせ、そして歩くのを邪魔する。

(どうしよう・・・、なにか、なにか映るものを・・・)

 銀のトレーに載せられた水の入ったグラスと布に気が付き、慌ててトレーごと引っ掴むと、グラスが音を立てて割れて飛び散ることも構わずに、自らの顔をそのトレーに映し見た。

 鏡と違い、少し曲がって映った自らの顔は、見慣れている朱音のものではなかった。

 真っ黒な長い黒髪、朱音は、これ程までに真っ黒な瞳を見たことは嘗てない。黒曜石の瞳の少年は、朱音が儀式の際にちらと盗み見た棺の中の少年に間違いなかった。

 ぽろりと手から離れたトレーが、銀特有の大きな音を立て床に転がる。

 勢いよく部屋の扉が開き、紺の制服に身を包んだ近衛兵の若い男が飛び込んでくる。はたと数秒間の沈黙の後、男はしまった、とばかりにたじろぎ、

「で、殿下・・・! 失礼致しました! わたしは、アザエル閣下から部屋の警護を任されておりますトマ・クストーです。大きな物音がしたもので、つい・・・」

 肩膝をつき、頭を下げて礼の形をとった男の腰に、剣が帯びられていることに気付いた朱音は、引き付けられるように駆け寄って、その剣を引き抜いた。

 はっとした近衛兵の若い男は、

「殿下! 危険です! おやめください!」

と声を張り上げたのも束の間、朱音はその剣を掴んで、自らの長い髪を乱暴にたくし上げると、ザクリとそのほとんどを切り落としてしまった。

「な、なんということを・・・」

 男は呆然としながらあわあわとうろたえた。

「一体何事だ」

 背後からの突然の声にびくりと反応し、近衛兵の男は、冷たく碧い上官に向き直った。

「アザエル閣下・・・! 殿下が・・・突然髪を・・・!」

 短く不揃いになった黒髪の少年は、右の手に近衛兵の剣を持ち、その白い裸足の足元には黒く艶やかな長い髪がばさりと散らばっている。その少し後ろには、水を入れてあったグラスの残骸と水で滴った布、銀のトレーが乱雑に散りばめられていた。

 その様子を見たアザエルは、静かに少年の元へと歩み寄ると、刺激しないようにそっと右手からその剣を抜き取った。

「クロウ殿下、なぜ髪を切ってしまわれたのです?」

「・・・邪魔だったから・・・」

 まだ変声期を終えていない少年の声は、朱音の声よりも少し低く、別の人が話しているような気持ちの悪い感覚に陥らせる。

 無表情のアザエルには珍しく、ふうと息を一つ吐くと、アザエルは受け取った剣を近衛兵に返し、下がるように命令した。どうやら、それは彼の溜め息のようだった。

「この不揃いなままにはしておけません。後で美容師を寄越しましょう」

 朱音はふいっとアザエルから背を向けた。

「そんなこと、別にどうだっていいよ。わたしはクロウなんかじゃない、新崎(にいざき)朱音(あかね)。あんたが無理矢理ここに連れてくるまでは、普通の中学生で受験生だった」

 朱音はぐっと拳を握り締め、震える声でそう言った。

「裕福じゃなかったけど、友達もそれなりにいて、あったかい家族に恵まれて、わたしは幸せだった・・・。それを・・・それを、あんたは全て奪った」

 突然全てを奪い去ってしまったこの魔王の右腕である男を、朱音は許すことができなかった。

 もうこの世界にやってきてどの位日が経ったろうか。元の世界を、元の家族や友達を想わなかった日など一日とてない。

「まだ記憶がお戻りではないようですね」

 アザエルは事も無げに感情の篭らない声でそう言った。

 この男に、自分の悲しみや怒りをぶつけたところで、無駄なことは朱音自身よくわかっていた。けれども、この溢れ出した思いを最早止めることはできなかった。

 朱音はくるりとアザエルに向き直ると、たたと走り、その胸を拳で何度も強く殴った。まだ完全に体力を取り戻していないことと、怒りと悲しみで実際はほとんど力は入っていなかったのだが、朱音は泣きじゃくりながら繰り返し繰り返し殴りつけた。

「あんたさえ、あんたさえ来なかったら、わたしはこんなことにならなかったのに・・・! あんたなんかいなければよかったのに! あんたなんか大嫌い・・・!」

 何度も殴りつけられている筈のアザエルだが、表情一つ変えずにじっとその場に立って、朱音のしたいようにただ殴られてやっていた。


 泣き疲れた美しい少年は、癇癪を起こして部屋を荒らすだけ荒らした後、今はアザエルが水に混ぜた睡眠剤の効果でベッドで静かに横たわっている。その頬はまだ微かに濡れている。

 儀式による疲労は少しばかりの睡眠ではとても回復できるようなものではなく、相当身体の方は辛い筈だった。そんな中、この身体の主を突き動かしているのが自分に対する憎しみだと思うと、アザエルは情けなさになぜか笑えてしまった。先程自分に向けられていた黒曜石のような真っ黒な瞳は、アザエルに対する嫌悪感に染まっていた。

「ふ・・・無様だな。あなたと同じ顔にこうも嫌われると、いくら私でもこたえる。これをわかっていてあなたは私にこの役目を命じたのか・・・。惨い方だ」

 アザエルはいつの間にか解けてしまった長く美しい碧髪を掻き揚げると、ベッドに眠る少年を見つめながら言った。しかし、その声は少年には届いておらず、向けられた言葉はその少年に向けて発せられたものではなかった。


「お呼びでしょうか」

 ノックの音とともに入ってきた少年に冷たい目を向けると、アザエルは静かに口を開いた。

「来たか、ルイ。ここでお眠りになっておられる方は、ルシファー陛下のお子、クロウ殿下だ。殿下は長き眠りから覚醒されたばかりでしばらくは自由に動けまい。お前を世話役に命じる」

 ルイは驚いた顔でベッドに駆け寄った。

「まさか、僕が・・・?」

 ベッドに横たわる黒髪の少年を見るなり、顔を紅潮させて、ルイはキラキラと輝く灰色の目でアザエルを見返した。

「僕などがクロウ殿下のお傍にお仕えしてよろしいのですか?」

 霞みがかった灰の瞳は喜びで震えていた。二百年の間行方不明となっていたルシファー王の一人息子が、先日の復活の儀式によって突如としてこの国に降臨したという話は、城で働く者達の噂で既に耳にしていたルイだったが、まさかその方の世話係に任じられるなどと思いもしていなかったのだ。

 それに、儀式に立ち会った者達は皆口々に、クロウ殿下は天から授かった世にも珍しい美貌を兼ね備えた王、ルシファーの姿を生き写したかのようだと感嘆を洩らしていた。ルイ自身、この黒髪の少年王子の姿を前にして、自分がどうやら過呼吸気味だということに気付いた。

 だが、美しさの中に奇妙な違和感も感じる。確かにこの方はクロウ殿下だというのに、この黒髪の少年王子の身体からは、一切の禍々しさや溢れんばかりの強大な魔力を感じられない。そのことに気付き、ルイは首を傾げながら眠り続ける王子の顔をじっと見つめた。

「何か言いたそうだな」

 アザエルはそんなルイの小さな仕草さえも見逃さなかった。

「いえ、ただ・・・」

 口を開きかけてそのまま言葉を飲み込んだルイにアザエルは、

「なんだ」

と、問い詰めるような声で問い質した。

「ただ、クロウ殿下の魔力が感じられないと思いまして・・・」

 そう言い終った瞬間、ルイは部屋の空気が一気に凍りついたのを感じ、しまったと思って自らの口を塞いだ。

 アザエルの冷たく凍りつくような視線。数秒間の沈黙は数時間にも及ぶ長い時間のように思われた。

「このことはまだ内密にしておけ」

 その目は、もし誰かに話してでもみろ、命はないと思え、と言われているような気にもなる脅迫の色を持った目であった。控えめな少年は、思わずゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

「クロウ殿下の魔力と記憶は、二百年前に行なわれたアースへの転生の儀式によって未だ眠りから覚めていない。おそらく、記憶が戻りさえすれば魔力も戻ってくるだろう。しかし、この事が他の者の耳に入ってでもみろ、内乱はおろか、ゴーディアは他国の一斉の攻撃の的と様変わりすることとなるだろう」

 ルイの目が強く揺れた。

「黙っていろ。他の者には、クロウ殿下は今は力を秘めたまま温存しているのだと話しておけ」

 アザエルは碧い髪をしゅるりとポケットに入っていた黒い紐で結うと、ルイの隣を銅像か何かの横を通り過ぎるような顔で通り過ぎた。

「何があってもクロウ殿下から目を離すな。いいな」

 結われたさらさらとした碧い髪は優雅にルイの首元を掠めていった。

 まるで、自分がこれからはこの黒髪の主についてやれないことを嘆いているかのように。







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