3話 復活祭
「アカネ様、起きて下さい。もうすっかりお日様は昇っていますよ? ほらほら、目覚めのティーを入れました。召し上がってください。目覚めにはプッカブの葉が一番です」
という、早朝一番のエメの声が聞こえた気がする。
でも、眠い目をこすりながら部屋を見渡してみても、ここにはあの明るいエメの姿はどこにもない。
毎日飲んでいたエメのティーが無性に飲みたくなる。エメのハーブティーは朱音の心の拠り所の一つだった。
「わたし、王都からずっと離れたロージ村という田舎からから出稼ぎに来ているんです。わたしのハーブの知識は祖母から教わった宝物なのよ」
と、朱音がどうしてエメはハーブに詳しいのか、と聞いたときに嬉しそうに話してくれた。
もうこのルシファーの城にきてから一週間以上は経った頃だろうか。既に日にちの感覚はなく、毎日のほとんどをこのベッドで過ごしていた。
寝ている間に給仕が食事を運んで来てくれたのだろうが、不貞寝の多い朱音に諦めて、もう起こそうとする努力もしなくなった。
テーブルの上にすっかり冷めた朝食が載っている。
ノックの音がするが、朱音は見向きもせず、じっと窓の外を眺めていた。遠くに城壁が見え、そこまでは美しい芝が広がり、整えられた道には城で働く者や王都からやって来た者が忙しく行き来する姿が小さく見えている。それに、城の敷地内ではいつもよりもどこか慌しく、何かを組み立てる者や、あれこれと従者に指示をしている者、黒い巨大な国旗を乗せた荷車を引っ張る者など姿が目立つ。今日は何か城で開催されるらしい。
アザエルは、テーブルに載ったままの冷めた朝食にちらりと目をやるが、そのことについて何も言おうとはしなかった。
「おはようございます。今日のご予定を申し上げに参りました。本日、王都マルサスで復活祭が催されることになっております」
窓の出っ張りに肘をついたまま、朱音は何も聞こえてないような素振りでじっと窓の外を眺め続けている。
「それに即して、我城でクロウ殿下の復活の儀式が執り行なわれることになりました」
さらりと何事もないように話す淡々としたアザエルの言葉に、朱音は驚き、勢いよく振り返る。
「儀式!? そんなの聞いてない!」
朱音が乱暴に立ち上がったせいで、腰掛けていた椅子は大きな音を立てて床に倒れた。
「元老院の権限により急遽決まったことです。王の不在に国民や他国が感付き始めました。一刻も早い、クロウ殿下の即位が望まれます」
朱音は、怒りに打ち震えた。
「儀式って一体何をするの・・・?」
儀式と耳にすると、サンタシでフェルデンやヴィクトル王に言われた”贄”という嫌な言葉が蘇る。
「あなたは何もしなくても構いません。全ては祭司に任せておけばよいのです」
何もしない儀式など、あるはずもない。
朱音はその言葉の真意を探ろうと躍起になった。
「何もしないって、どういうこと・・?」
ツカツカと早足でアザエルに近付いていくと、アザエルの腕の裾をぐいと引っ張って睨み上げた。
「今の人間の肉体から魂を抜き出し、元の身体に戻すだけのことです」
朱音はさっと血の気が引くのがわかった。
(魂を抜き出す・・・? じゃあわたしの身体は一体どうなるの・・・?)
カタカタと震え出す肩。朱音は恐ろしさで震えを止めることはできなかった。
「た・・・魂を抜き出すって、どうやって・・・?」
アザエルはやれやれというように、強く掴まれた服の袖から、ゆっくりと朱音の手を解く。
「ハデスという短剣を胸に尽き立て、人間の肉体を仮死状態にすることで魂を取り出すのです。恐れることはありません。苦痛は一瞬です。蛇に噛まれるよりも短い」
朱音は聞きたくもなかった恐ろしい事実に、真っ青になってアザエルから一歩、また一歩と後退る。
「儀式は日が最も高く昇る頃に行なわれます。あなたもそろそろ準備をしていただかなければ。直に侍女を遣します」
礼の形をとると、アザエルは恐怖に慄く朱音に背を向けさっさと立ち去ろうとする。
「わたし、儀式になんか絶対出ないから・・・!」
アザエルはほんの少しだけ振り向くと、残酷な言葉を朱音にぶつけた。
「では、あなたはこの国とその民がどうなってもよろしいと・・・?」
アザエルが部屋の扉に手を掛ける。
一人ぼっちの今の朱音には、信じたくはないが、この冷酷な男だけが、唯一の頼みだった。
「死にたくない・・・!」
朱音の悲鳴のような声だった。
「・・・死ぬ? 寧ろその逆ですよ」
アザエルは、涼しい顔をして部屋を出て行った。
後に一人残された朱音は、声もなく絶望の涙を流した。
魂をこの身体から抜かれるということは、朱音という存在が消えてしまうことを意味している。
懐かしい元の世界の思い出が心の中を駆け巡った。
あともう少しで手にすることのできた帰還の切符。望月山麓の交番にほんのちょっと手を伸ばせば届いたのに、それさえも邪魔したアザエル。愛する家族や友人にまた会える、という希望は目の前で儚くも散ってしまった。それだけでなく、せっかく再会を果したフェルデンとも引き離したアザエルは、またしても朱音の大切な物を奪い去ろうとしていた。
あの世界にいた証であるこの”朱音”という存在。大切な両親から譲り受けた、決して自慢できないが愛着のある身体。そして、フェルデンとの唯一の繋がり・・・。
正直、無理矢理連れて来られた朱音にとって、ゴーディアは何の愛着も感じらなかった。こんな国なんて知ったこっちゃない、滅ぶなら滅んでしまえばいい、などという腹立たしささえ感じる。
そして、今ここには朱音を助け出してくれる人は誰一人いなかった。誰も助けてくれないのなら、自分を救うことができるのはもう朱音自身だけである。
朱音は、やけに早鳴る鼓動を右の拳で押さえ、とんでもない行動に出た。
人は、生命の危機に立たされると、とっさに思い掛けない行動に出る。
部屋の窓を全開にしてどうにか城の外に降りられないものかと下を覗き込むと、窓の外には僅かな出っ張りが。
朱音はごくりと唾を飲み込むと、おそるおそる窓を跨ぎ、部屋の外へと出ると、思いの他強い風が吹き付けることに気付き、慌てて壁の窪みに縋り付く。
けれど、このままこの部屋に残れば、恐ろしい儀式の犠牲となることは免れないと思うと、朱音の挫けそうな心を何とか立て直すことができた。
(気付かれる前に王都まで逃げないと・・・! 人ごみに紛れれば、何とかなるかもしれない!)
僅かな希望を胸に、朱音は一歩、一歩と小さな窪みに足を掛け、確かめながら壁を降りる。
下を見ると足が竦み、心が萎えそうになる為、なるべく下を見ないようにしなければならない。
十メートル程壁をつたい降りれば、一息つける程の平たい場所がある。
それを目標に朱音は自らを励まし続けた。
あと三メートル、あと二メートル・・・と近付いていく目標地点。
裸足の足でペタンと着地すると、ひどく自分が汗をかいていることに気付いた。
(さあ、もう一頑張り・・・)
そう思って下を覗き込むと、朱音はまだまだ遠い地上に愕然とした。
(まだたったのこれだけしか降りてきてない・・・。どうしよう・・、もう降りられないかもしれない・・)
そう思ったと同時に、頭上の空いた窓から侍女達の騒ぐ声が聞こえてきた。
部屋のどこにもいない朱音に気が付いて、探し回っているのだろう。
再び早鳴りし始めた心臓。
見つかりませんように、とぎゅっと瞼を閉じて強く願ったのも適わず、窓の開く音と同時に悲鳴が上がった。
見つかってしまったのだ。
なんとかして逃げたい気持ちはあるが、下を覗くと恐怖で足が凍りつく。
いっそのこと、このまま一気に下まで飛び降りてやろうかとも思った。そうすれば、いいように利用されなくても済むだろうし、この後待ち受けている恐ろしい儀式の被害者にならずとも痛みを感じる前に死ねるだろう。朱音はふとそんなことを考えながら、虚ろな目で遠い地上を見つめていた。
そうしていると、もしかすると奇跡が起きて、空を飛べるかもしれないなどという非現実的な考えさえも頭を過ぎり始める。
「アカネ様! 馬鹿な考えはおやめください!」
頭上から侍女の声。
侍女の目からも、朱音がこのまま身を投げてしまいそうに見えていたのだ。
侍女の声は何の励ましにもならない、ましてや、この後の儀式で死に行く朱音にとっては、寧ろここで身を投げることの方が救いの道のようにも感じられた。
ぐっと拳を握り締め、唇を噛み、朱音は震える足で静かにその場に立ち上がった。
吹き付ける風は強く、ゆらゆらと朱音の身体を揺さぶる。
ここから飛べば、本当にこの風に乗って逃げ遂せるような気がしてならなかった。
瞳を開くと、もう一度地面を見据えた。
「・・・!!」
碧い髪・・・。
朱音の見据える地上に、碧く長い髪がたなびいている。遠く離れた男の表情は見えない筈だったが、その目がじっと朱音を見つめているのがはっきりとわかった。
(邪魔しないで・・・)
朱音はまたもや立ち塞がろうとする碧く美しい男に、これ以上の邪魔をさせる気になれなかった。
(どいて・・・!!)
朱音は強くアザエルを睨むと、次の強い風に身体をまかた。
「アカネ様!!」
侍女達の悲鳴を他所に、朱音は風を切って落下していく。
空を飛べるなんてやはりある訳なかったんだ、と落ちていく高速の景色の中で、やけに冷静に朱音は冷静に考えていた。そして、あの憎い男アザエルが困り果てる顔は見たかったな、なんてことも。
しかし、その落下は激突寸前で打ち止められた。
「ほんとにあなたという方は・・・。
どれだけ私の心臓を弄べば気が済むというのですか」
ザバリと突如して起こった水流に流され、そして直ぐ様形を失った多量の水は地面に広がり、流れ消えた。その濡れた地面の上で全身ずぶ濡れになった朱音がゴロリと地面に転がった。
「ごほっ」
水を少し飲み込んでしまったのか、朱音は咽ながらのろのろと起き上がった。
この一瞬の間に何が起こったのかは説明するまでもなく、アザエルは朱音が地面に激突するのを魔術によって回避したということは明らかだった。
「よくもそんなことを言えるね! あんたが心配なのはわたしじゃない。クロウだけなんだからさ」
手を貸そうと伸ばしたアザエルの手をパシリと叩き退けると、朱音は悔しげに涙を浮かべながら唇を噛んだ。
「今のあなたは人間の身体に長く居すぎたせいで一時的に記憶を亡くし、混乱しているだけにすぎません。元の身体に戻れば、徐々に記憶を取り戻していく筈です」
朱音は、このとき、もうどうやっても儀式からは逃れられないと強く感じた。そして、朱音である自分だけは失いたくないという思いも。
アザエルの手によって、部屋に戻された朱音は、部屋に待機していた侍女達に身体を清められ、儀式用の衣服に着せ替えられた。その間も、朱音はそっと頬を濡らし続けた。
侍女達はそんな朱音の姿を知りつつも、無言のまま自らの仕事をテキパキと済ませていく。
しかし、侍女達の心の中も、内心は悲哀の気持ちでいっぱいだった。ここに来てからすっかり痩せてしまった少女の身体は痛々しく、少女の心の痛みは、全部までとはいかないが、少しはわかる気もしていた。国の機密事項の為、侍女達にはこの人間の少女が何者なのかは一切聞かされてはいなかったが、今日行なわれる復活祭りの儀式で、この少女にとってよくないことが行なわれることだけは何となく想像がついてもいた。だからこそ、この高さの窓から逃げるなどという無謀なことをしでかしたのかもしれなかった。
「アカネ様・・・、何か私達にできることはありませんか?」
侍女の一人が堪らずに小声で囁いた。朱音は、そんな侍女の心遣いに感謝しつつも、悲しそうな目で小さく首を横に振った。
儀式のときは刻一刻と迫っていた。えらく長く、そして短い時間のようだった。
城の地下にある儀式用の大広間に連れられた朱音の心は、もうすっかり麻痺してしまっていた。ただ、もう考えることに疲れ、そしてどうでもいいという諦めだけが心を支配していたのだ。
壇上には以前目にしたのと同じ、真っ黒な彫刻が施された棺が置かれ、その隣には石の寝台が設置されている。棺と寝台は数人の灰のローブを羽織った者達に囲まれていて、その者達の表情は深くフードを被っているせいで見えない。
足元には炭のようなもので描かれた見たこともないような文字や絵で敷き詰められていた。壇上より下は、ゴーディアの政治関係者と思われる人物十数人が、歴史的な儀式の一場面を目に収めようと、緊張した面持ちでじっと様子を見守っていた。石の寝台の端には、怪しい光を放つ短剣が置かれている。
朱音は寝台に寝そべる瞬間、ふと隣にある棺の中を覗き見た。棺の中には、真っ黒な服に身を包む、朱音と同じ年頃の少年が静かに横たわっていた。魔王ルシファーと同じ漆黒の髪は、二百年の年月の間に、恐ろしい程長く伸びていた。それに、この少年はまだ少年の姿をしてはいるが、魔王ルシファーの生き写しのような妖しい容貌をしていた。
(これがクロウ・・・)
朱音は複雑な気持ちでそれを見つめると、朱音はゆっくりと寝台に仰向けに寝そべった。
寝そべる瞬間、ちらりと視界の端にあの碧い髪が入ってきた。当然のことながら、あのアザエルも儀式に立ち合っているということだ。
あの男は、今のこの時をどれだけ心待ちにしていたことだろうか。忠誠を誓う魔王ルシファーの最期の命を全うできるこの時を。きっと、今冷たい微笑を浮かべているに違いない、そう思うと、朱音はひどく腹立たしく思った。
棺と寝台を囲む祭司達が何か不気味な呪文のようなものをぶつぶつと唱え始めた途端、風もないのにパタパタと男達のローブがはためき始める。
そして急に空気が冷たくなるのがわかった。
寝台の近くにいた祭司の一人が、寝台にあったハデスの短剣を手にとると、それを朱音の胸につき立てた。
その瞬間、凄まじい痛みが胸に走り、朱音は堪らずに悲鳴を上げた。深く突き刺さった短剣は燃え滾るように熱く感じられた。痛みの中で朱音の視界は暗転していった。
(フェルデン・・・)
朱音は最期に心の中で小さく呟いた。