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21話

 天正十年 六月 亀山城 明智光秀


 仄かに立ち込める煙。燻るように燃える天守にて、私は静かに目を閉じていた。

 纏う衣は白装束。己が業を断ち切る短刀が、面前にて輝いておる。

 全てを終わらせる……その覚悟は、とうの昔に決まっておった。そう……あの始まりの日から。





 天正十年 五月 坂本城 明智光秀


 遡ること二ヶ月前、安土城にて行われる饗応役を任された私は、忙しい日々を送っていた。

 徳川殿、北条殿は織田家の盟友。天下統一目前の今、東の支配を磐石にする為にも、生半可な饗応では織田家の名が廃る。

 故に、私が出来る精一杯の持て成しをしよう。

 その一心で、働き続けていた。

『天下統一』……本当に、乱世が終わろうとしているのだ。慈しみ溢れる長閑な世が……。私が、思い描いた世が……。

 感無量……その一言に尽きる。私は、もう長くない。命尽きるその前に、天下泰平の世を見たい。

 私の願いは、ただそれだけだった。


 ――背後に迫る絶望の足音にも、気付かぬままに。



 ある日の夕暮れ、居城である坂本城に前関白九条兼孝様が参られた。

 突然お越しになられた公卿様に、家中の者達は大慌てであったが、何とか一通りの持て成しをする事が出来たのは幸いであった。

「突然の訪問にも関わらず、これ程の持て成し。流石は、天下の織田家重臣惟任殿でおじゃるのぅ」

「ははっ! 有り難き御言葉、恐悦至極にございますっ!!! 」

「ほほほほほ。麿は満足ぞぇ〜」

 扇で上品に口元を隠す姿に、やや眉が細まる。

 九条様は、公卿様方の中でも上位に位置する御方。言わば、帝に最も近しい御方と言っても過言では無い。

 そのような御方が、斯様な礼節を欠く言動は……。不敬にも、そのような考えが脳裏を過ぎる。

「して、本日はどのような御要件でしょうか」

「……本日は、朝廷の使者として参ってのぅ」

「…………左様ですか」

 九条様が、小姓を一瞥した事を察すると、直ぐに人払いをすませる。他言無用、誰にも知られてはならぬ要件。

 少々、嫌な予感を感じたが、朝廷からの使者を追い返す訳にもいくまい。私は、深々と平伏して九条様の御言葉を待った。


「織田信長を殺せ」

 その一言が、全ての始まりだった。



「い、今……何と…………」

 呂律が上手く回らない。全身に冷や汗が流れ、身体は意図せず震える。

 今、九条様は何と仰ったのだ……。上様を殺せと言ったのか? まさかっ! そんな、聞き間違いでは無いのか……。

 様々な憶測が脳裏を駆け巡り、無意識に現実から目を逸らそうとする。そんな浅ましい考えは、この直後に塗り替えられてしまう。

「織田信長を殺せ。これは、朝廷の総意でおじゃる。帝も、黙認しておる。帝を蔑ろにする信長を、これ以上捨て置く訳にはいかん」

「ば、馬鹿なっ! 上様は、誰よりも帝を敬っております! 今まで、上様がどれ程朝廷に尽くしてきたか! 九条様ならば、それはお分かりでしょう? 何故、そのような話しになるのですか!? 」

 思わず立ち上がった私は、先程の言葉を撤回するように詰め寄った。きっと、誰かの策謀に違いないのだ! 上様のお気持ちを知っていただければ、きっと分かってくださる。……そう信じて。


 だが、私の言葉は虚しくも九条様に届かなかった。

「織田信長を殺すことは、決定事項でおじゃる」

「そ、そんな……っ! 」

 思わず涙ぐむ私に、九条様はニヤリと笑った。

「別に……惟任殿が殺さなくても、良いのでおじゃるよ? 」

「えっ……」

「その時は、上杉・毛利・徳川……筑前守にでも、この話しを持って行くとするでおじゃる。その折には、織田信長を朝敵に命じて……のぅ。朝敵となった信長に、どれ程の家臣が着いてくるか見物でおじゃるのぅ? 次は、誰が裏切るのか楽しみでおじゃる。ほほほ……ほっほっほっほっほっ! 」

「ま、待ってくださいませっ! どうか、どうか朝敵だけはお許しくださいませ! どうかご慈悲をっ! どうか、どうかっ!!! 」

 必死に額を畳に擦り付ける。思いもよらぬ展開に、頭が追い付かない中。私には、もう九条様のご慈悲に縋る他無かったのだ。


 しかし、返答の代わりに額に鋭い痛みが走る。流れる血で視界が染まる中、瞳には目の前に落ちた扇と、真っ黒な表情を浮かべた九条様だけが映った。

「ならば貴様が殺せっ!!! 織田信長を殺すのだっ!!! 貴様ならば、信長は警戒しない! 貴様がやれぇぇぇぇぇえええええええええっ!!! 」

「……ぅ……ぅぅぅ……どうか、考える時間を……くださいませっ」

 ぽつりと呟いた嘆きは、部屋中に染み渡り九条様の耳に届いた。九条様は、扇を拾う形で私に近付くと、小さな声で呟いた。

「……明日、京へ帰るでおじゃる。それまでに、返答するように。……貴様に、選択肢等無いがのぅ。ほほほほほ」

「…………ははっ」


 ――私は、どうすれば良いのだ…………。




 どれ程の時が、過ぎただろうか……九条様が退出した後、私は崩れ落ちた状態で動くことが出来なかった。

 滴る涙もそのままに絶望感に浸っていると、そんな私を心配した左馬助が、部屋までやって来た。

「……失礼致します。殿? どうかなさいましたか? 顔色がよろしくありませんよ? もう御歳なのですから、無理は禁物ですよ? 」

 優しげな表情を浮かべて、身体を支えてくる左馬助。苦楽を共にした左馬助ならば……そう思った私は、九条様の件を全て語った。

 最初は穏やかだった表情も、話しが進むにつれて変化していき、最後には顔面蒼白になっていた。


「ま、まさか……朝廷が…………」

 口元に手を当てながら狼狽える。事の重要性を理解してしまった左馬助は、恐る恐る私に問いかけてきた。

「と、殿は……どう為さるおつもりでしょうか」

「…………朝廷のご指示に従うつもりだ……」

「な、何を言っているのですか!? 上様を殺すつもりなのですかっ! 御自身が、何を言っているのか分かっておいでですか!? 」

「そんな事は、百も承知だっ!!!!! 」

 詰め寄ってくる左馬助を突き飛ばし、涙混じりの絶叫を上げる。普段では、決して見せない姿に、左馬助は見るからに狼狽えていた。

「との…………」

「私だって、上様を殺したくないっ!!! だが、私が殺らねば上様は朝敵として討伐されてしまう! それだけは駄目だ! 朝敵だけは、駄目なのだ! 朝敵にされては、今までの苦労が全て水の泡になる。天下泰平の世は遠ざかる。それでは、あまりにも上様が報われぬ…………」

 視界は涙で滲み、嗚咽混じりに全てを語る。上様の本来の姿を……。

「第六天魔王、冷酷非道……血も涙もない実力主義者だと、多くの者が思っているが、それは違う! 上様は、毎晩自らが殺した者達を思って泣いておられる! ただの一人も、忘れた事は無い! 」

「そんな上様は、戦の無い世を作りたいと本気で思っていた。『理不尽に命が奪われる事の無い泰平の世を作りたい』……と。そんな上様に、私は惹かれたのだ。同じ夢を抱く同士()として、上様の夢を共に追いかけたのだ」

「だから、私が殺さなくてはならないのだ! 朝敵にされる前に、私が上様を殺さねばならんのだ! それが……友としての責務……よ! 」


 黙って聞いていた左馬助が、目を見開きながら詰め寄ってくる。あぁ……私の真意に、気付いてしまったのか……。

「ま、まさか殿は、死ぬおつもりですか…………」

「私が上様を殺した後に、奇妙様に討たれれば織田家の名誉は守られる。上様を失っても、奇妙様と三法師様がおられる。謀反人たる私を討ち、天下に織田家の磐石さを知らしめる。それこそが、最善の道なのだっ! 」

「そんなっ…………朝廷……そう! 朝廷を抑えましょう! 上様にこの事を知らせれば、共に兵を向けてくださる筈! 」

「無理だ……此度の一件、九条様の独断では無い。他にも協力者がおる筈だ。時間をかければ炙り出せるやも知れぬが、今は時間が無い。……それに、朝廷に兵を向ければ朝敵とされるのは明白。それでは、本末転倒。朝廷の……帝の信任無くば、天下を治める事は出来んのだ」

「ぅ……ぅぅぅ……それではっ……殿がっ」

 万策尽きたように蹲る左馬助は、両手で顔を隠し涙を流す。

「殿は! 殿はっ! 逆賊の汚名を被るおつもりですか!? 天下の大罪人だと、民からも蔑みの目で見られる事になるのですよ!? そんなの、そんなの……あんまりでは……無いですかっ」

 泣き崩れる左馬助の肩に、そっと手を置く。

「例え、上様と私の立場が逆であっても、上様は私と同じ選択を為さるだろう。志を共にした私達だから、通じ合う一つの信念。天下泰平の為に、人柱になる覚悟はとうの昔に決まっておった」

 瞳を閉じれば、上様との輝かしい思い出が映し出される。あの日々は、もう戻って来ない。

 一筋の涙と共に、決意を示す。



「私は、上様を殺す」



 その後、九条様より五月二十八日。本能寺に、上様を呼び出す計画を知らされた。



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― 新着の感想 ―
[一言] おー、朝廷黒幕説だね。 割とありそうよね、長曽我部説や家康説よりあると思う。
[一言] 真の黒幕そっちかぁ・・・。 最近の歴史検証番組でも説として挙がったやつですな、 NHK以外の番組でですけど。 いくら上の方でもなんか敵対してる足利義昭止まりかと踏んでたんだけど。 そういえば…
[良い点] 成る程朝廷説を採用か。 今後の展開に期待が持てるところ、なんか家康が独自にこの動きに感じて半ば間接的に動いてる節があるがまあそこはおいおい明かされるだろうしたのしみです。 久しぶりの光秀…
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