4話
天正十年 五月 本能寺 白百合隊第三席 桜
無数の火矢が打ち込まれ、所々焔が灯っている本能寺。周辺には、ぐるりと軍勢が囲んでおり、正面では既に戦いが起こっている。
数刻前とは、比べ物にならないかけ離れた姿がそこにあった。
煙・炎症具合・争いの様子……これらを見る限り、本能寺が襲撃されてから時は経っていないわね……今なら、まだ間に合うかもしれないわ!
何故か分からないけれど、妙に頭が冴え渡っていて、自分がどうすれば良いのか、何処を通れば良いのかが分かった。
何の根拠の無いモノ。だけど、本能寺を見下ろしながら、ふと思ったの。
――私は、この日の為に生きてきたのだ……と。
「桜様っ! 」
不意にかけられた声、何事かと振り向くと、そこには血だらけの簪を握り締めた鈴蘭の姿があった。
「報告っ! 明智様の監視をしていた者一名が、先程命からがら帰還致しました! 戌の刻、何者かに襲撃された模様! 我々に報せる為に、一人を逃がし残りの者達が応戦! 部隊は……壊滅した……との……ことっ」
涙ながらに語る姿に、帰還した者も死んでしまったことを察してしまう。
私達忍びにとって、命の重みは一般人とは違う。だけれども、その失った命を悲しむ心は一般人達と同じよ。
「そう……ですか。鈴蘭、辛い役目を押し付けてしまいましたね。……すみません」
「いえ、私のことはお構いなく。それより、桜様にお伝えせねばならぬ報せがございます。…………彼女が、最後に言い残したことでございました。…………『明智光秀挙兵、方角は京、一万の軍勢』とのこと」
やはり、そうだったか……予感が確信に変わり、一気に思考を切り替える。上様を助けなければならない。
――ここより先は死地、なれど恐れることは無し。部下が命をかけた。ならば、その意志を繋げねばならないっ!
貴女達の死を、絶対無駄にはしないっ!!!
「……鈴蘭、私はこれより本能寺へ入ります。そこで上様を救出した後に、妙覚寺へ移動。岐阜中将様と合流致します。貴女は、ここで手筈を整えなさい。上様の状態によっては、ここで応急処置をせねばなりません」
「ははっ! 」
鈴蘭の返事を聞くや否や、全速力で駆け出した。後ろから「ご武運をっ! 」と、鈴蘭が叫んでいる。……鈴蘭、後は任せましたよ。
走りながら黒い布を身に纏い、京の町を駆ける。ここから先は、もう止まれない。心を閉ざせ、脈を操れ、鼓動を弱くせよ……気配を……消せ。
――とくんっと、音が聞こえる。
閉じていた瞼を開けば、そこには色の失った世界が広がっている。何もかもが、遅く見える。
これは、そう長くもたない。
そんなことを考えながら、音もなく塀の上を乗り越え、燃え盛る本能寺敷地内へ入った。
「行けぇぇぇぇっ!!! 進め進めぇぇぇっ! 」
「敵は、百も満たない! 皆殺しにしろぉっ! 」
「鎧を着ていない者を狙えっ! 素足の者を狙えっ! 首は捨て置け! 兎に角、誰一人として逃がすなぁぁぁぁぁぁっ!!! 」
『うぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおっ!!! 』
「上様を御守りしろっ!!! 」
「これ以上、進ませるなっ!!! 」
「一兵でも多く道連れにしろっ! 死んでも、敵の足を離すな! 壁になれ! 時を稼げ! 敵の思惑通りにさせるなっ!!! 」
『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!! 』
本能寺の門の付近にて、明智軍と上様の御供衆が、入り乱れるように戦っている。
それは、壮絶……そんな言葉ではこの光景は表せない程に、凄まじい戦場が広がっていた。
上様の御供衆達は、僅か七十程しかいないと言うのに、彼等は誰一人諦めること無く奮戦している。
鎧も付けず、槍を片手に敵勢へと走る者。身体中に無数の矢が刺さっていても、果敢に槍を振り回す者。腹に突き刺さった槍を握り締め、敵を逃がさないようにする者。倒れ伏しても、目の前の敵に掴みかからんとする者。
そんな彼等の流した血を、この私が裏切る訳にはいかない………………。
私は、戦場から目を逸らし室内へ向かう。強く噛み締めたからだろうか、口の中には薄い血の味広がっていた。
室内に侵入し最初に思ったことは、その異常な暑さ。まだ襲撃されてから時が経っていないのに、想像以上に燃え広がっている。
重苦しい煙が立ち込める中、鼻先を刺激する異臭に思わず顔を顰める。本当に……この臭いだけは、慣れそうにないわね……。
私は、咄嗟に鼻と口を布で押さえ、出来る限り姿勢を低くして奥へと進む。
時間が無い中、居場所の分からない上様を見つけなければならない。押し寄せてくる焦燥感に身を焦がれながら、私は必死に走り続けた。
――おそらく、それが失態を招いてしまったのだろう。ギシギシッと、嫌な音が聞こえたかと思うと、右手から燃え盛る木材が私に迫ってきていた。
慌てて避けようとするも、ソレの勢いの方が勝っていることを悟り、思わず目を瞑り衝撃に備える。
…………一向に訪れない衝撃に、疑問に思いながら恐る恐る瞼を開くと、そこには見知った巨漢の男が立っていた。
「や、弥助……殿? 」
「大丈夫デスカ? 桜サマ? 」
弥助殿とは、警備の関連で顔を合わせることが良く合った。それ故に、彼に庇われたことを瞬時に察すると、背中の手当をしようと駆け寄った。
「あ……申し訳ございません! 私のせいで、背中がっ! 」
「問題アリマセン。ソレヨリ、桜様ハ上様ヲ助ケニ来タノデスネ? 」
「は、はい! 上様は、何処に!? 」
「…………此方デス」
顔を伏せながら先導する弥助殿について行くと、そこには苦しげな表情を浮かべながら、床に伏す上様の姿があった。
「う、上様っ! 」
急いで上様の傍まで行くと、私の声に反応したのか、薄く瞼を開いた。
「……誰……じゃ」
「三法師様の忍び、桜にございます! 」
「そ……うか……大儀で……ある。………………よもや……十兵衛……が……謀反……とは……ぬかった……わ」
「上様……お身体に障ります。どうか、ご自愛くださいますように…………」
咳き込みながら喋る上様を、私はやんわり窘める事しか出来ない。
普段の姿とは、かけ離れたその御様子に。胸から込み上げる想いが雫となり、静かに頬を濡らす。
「……奇妙は…………無事……か? 」
「……っ! はいっ! 岐阜中将様は、ご無事でございます! 」
「…………そう……か…………ならば……良い…………余は……捨て置け……奇妙を…………たす……け……よ…………」
「……っ! う、上様っ! お気を確かにっ! 上様っ! 上様ぁぁぁっ!!! 」
上様は、最後の言葉を紡がれると、静かに気を失われた。慌てて脈を測るも、弱々しい鼓動しか感じられず早急にここから脱出しなければ、手遅れになってしまうことは容易に想像がついた。
一体どうすれば……そんな焦りばかりが脳裏を埋め尽くしていた時、弥助殿の覚悟を決めた顔が視界に入った。
「桜サマ。桜サマは、上様ヲ担イデ本能寺ヲ出ル事ハ出来マスカ? 」
「…………上様を背負い、塀を越える事は可能です。ですが、私一人はともかく上様を担いでとなると、間違いなく敵に見つかりましょう」
「デハ、私ガ囮トナリ敵ヲ引キ付ケレバ、本能寺カラ逃ゲラレマスカ? 」
「そ、それはっ! 」
確かに、弥助殿のような目立つ方が暴れれば、容易に敵勢の視線を集中させることが出来る。その隙をついて、誰にも気付かれずに脱出することは可能だわ。
ただ………………。
「…………脱出自体は可能です。しかし、間違いなく弥助殿は命を落とすことになります」
私は、愚かにも弥助殿の覚悟を試すようなことを言ってしまった。弥助殿の顔を見れば、命をかける覚悟など既に済ませている筈なのに。
非礼を詫びようと顔を上げると、そこには澄んだ瞳を輝かせる弥助殿の姿があった。
「私ハ奴隷トシテ、日ノ本ニ来マシタ。……奴隷ハ、人デハアリマセン。『物』トシテ、命尽キルマデ命令ニ従イマス。デモ、上様ハ私ヲ『人』トシテ接シテ下サイマシタ。上様ガ、私ヲ『人』に戻シテ下サイマシタ。コレ以上、嬉シイコトアリマセン。……私ハ、『人』トシテ死ニタイ」
「……っ! う……うぅぅぅ」
視界が涙で歪み、満足に弥助殿を見れなかった。だけど、何故か脳裏に浮かんでくるのだ。
一筋の涙を流しながら、幸せそうに笑う弥助殿の姿がっ! ならば、その覚悟に応えなくてはいけないわよね。
「……弥助殿……どうか、どうか上様の為に死んでくださいませ……っ」
「………………ハイ。御任セクダサイ」
私達は、お互いに深々と平伏した。それが、せめてもの感謝を伝える行為だと思って。
「話しは聞かせて貰いました」
突如としてかけられた声に咄嗟に振り向くと、そこには上様の側近である森様の姿があった。
所々煤に汚れ、左肩に矢が刺さっているにも関わらず気丈に振る舞う姿は、齢十八には見えぬ風格を纏っていたわ。
「も、森様? 今までどちらに……」
「何、大したことではない。少し戦況を確認しに行っただけのこと。…………それより、そなたらは直ぐに作戦を実行に移せ! 東側が比較的敵勢が薄い。事態は一刻を争う! 早く行けぇぇぇぇっ!!! 」
森様の言葉に、弾けるように動き出す。上様を黒い布で包み、そのまま背負うと準備が完了した。
弥助殿を見れば、既にいつでも行ける体勢になっており、気合いもみなぎっている。
よしっ! では、行きましょうか!
「森様! 私達はもう行きます! 森様は、どうなさるのでしょうか!? 」
「私の命、最早ここまで。であれば、最後まで足掻いてみせようぞ。案ずるな、ただでは死なん」
「…………分かりました。ご武運をっ! 」
森様の声に、何やら自信の色を感じる。おそらく、何らかの策はあるのだろう。
であれば、私は私の仕事を全うするのみ!
私達、東側に向けて力強く一歩を踏み出した。
森様の言う通り、敵勢の厚みにはムラがあり、その隙を縫うように塀まで辿り着くことが出来た。
後は、ここを越えるだけ……。そう思いながら身構える私の前に、静かに弥助殿が立たれた。
「ココカラハ、私ガ先行致シマス」
「……お願い致しますっ」
「…………御達者デ………………うぅぅぅおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!! 」
雄叫びを上げながら塀を越える弥助殿に、敵兵達が蟻のように群がっていく。
塀を越えるまたと無い機会。
私は、気配を極限まで消すと、静かに塀に手をかけた。
先行した弥助殿の絶叫を後目に、私は無事に鈴蘭と合流することが出来た。
しかし、まだ油断は出来ない。ここは、本能寺の目の前であり、明智軍の目の前でもあるのだから。
「鈴蘭っ! 今直ぐ、殿に明智の謀反を報せなさい! 私は、上様を連れて岐阜中将様と合流致します。その後、二条城にて籠城となるでしょう。援軍が来なければ、私達はお終いです。貴女に全てを託します。……頼みましたよ」
「御意っ!!! 」
鈴蘭が岐阜へ向かったことを確認すると、私も妙覚寺へと走り出す。
――夜明けは、まだ遠い。
桜と弥助が去った後、蘭丸は静かに切腹の準備を進めていた。少しでも、時を稼ぐ必要がある。それを分かっているからこそ、こうして服まで着替えたのだ。
「明智光秀……貴様の思惑通りには、事を進ませるものか…………。上様と背格好が似通っていて、好都合だったな。…………兄上、後は御頼み申す。兄上は、私の誇りにございます……」
森蘭丸。その短い生涯に幕を閉じた。
桜・鈴蘭が立ち去った後も、明智軍は本能寺から動けずにいた。それは、織田信長の死体を確認しなければならなかったからだ。
鎮火した本能寺からは、六人の焼死体が発見された。その中でも、『切腹したように蹲る死体』を織田信長のモノだと断定されることになる。
本能寺の変における被害は、明智軍約三百に対して、信長の御共衆七十五名全滅。ただの一人も、生きている者はいなかった。
御共衆達の遺体は、恐ろしい程に無数の傷跡が残っていたが、ただの一つも逃げ傷は無かった。誰も彼もが、前のめりに死んで行った。