3話
天正十年 五月 白百合隊第三席 桜
時は、本能寺の変直前に巻き戻る。
「上様が本能寺にご宿泊、岐阜中将様は妙覚寺にご宿泊。明朝、謁見の予定有り……と」
陽はとうに落ち、辺りは闇が支配する戌の亥。
私は、殿への報告書を書いていた。これは、毎日のことではあるけれど、今日は少し書くことが多いわね。
上様も岐阜中将様も、本来であれば京に滞在するご予定は無かった筈。それなのに、上様は申の刻に本能寺へ入られ、岐阜中将様は今から半刻程前に京へ参られた。
この任に就いてから、こんなことは初めてだわ。何かが可笑しい……変な胸騒ぎがする……。
殿から御命令を賜り、本能寺近辺に住み始めてかれこれ一年が過ぎたわ。
当初は慣れぬ仕事故に、毎日が緊張の連続だったわね。まだ、私は未熟者だから…………。
確かに、私は白百合隊十傑第三席の地位を賜っている。しかし、私はそのような大層な存在では無い。
本来ならば、この地位には姉さんが座っている筈だったのだから……。
姉さんだったら、この胸騒ぎも解決出来たかも知れないのに………………。
幼き頃から、私は駄目な子供だった。足も遅く、跳躍力も無い私はいつも泣いてばかり。訓練所でも、私は落第生だったわ。
両親からは呆れられ、同世代からは虐められ、師範からは「才能が無い」とすら言われた。
それでも、私は忍びの道を諦めることは出来なかった。大好きな姉さんに、少しでも近付きたかった。姉さんの役に立ちたかった……。
誰よりも優しくて、誰よりも強かった姉さん。次期長候補とすら謳われる姉さんは、こんなちっぽけな私の唯一誇れるモノだったわ。
だけど、その事を言うと、姉さんは決まって苦笑いしながら頭を撫でてくれたっけ。
そんな姉さんと過ごす時間は、何よりも大切な時間だった。幸せな……日々……だった。
「■■、貴女はやれば出来る子よ。もっと、自信を持ちなさい。そうすれば、きっと身体は応えてくれるわ」
そう言って微笑む姉さんの眼差しは、誰よりも私を愛してくれていることが伝わってくる。
だから、私はいつも申し訳無く思っていた。大好きな姉さんの期待に応えることが、私には出来なかった……。
「無理よ姉さん……私は、何の取り柄も無い未熟者で……っ! 大食いの穀潰しでっ」
泣きたくは無い……だけど、そんな私のちっぽけな誇りなど、知ったことかと涙が溢れてくる。拭っても拭っても、一向に止まる気配を見せない。
「忍びたる者、感情を表に出すべからず」そんな、基礎すら出来ていない自分が……姉さんの期待に応えられない自分が……私は、大っ嫌いだ。
「涙を拭っちゃ駄目よ? 目が腫れちゃったら、せっかくの可愛い顔が台無しよ? 」
姉さんは、私の両手を優しく下げて、ぎゅっと抱き締めてくれた。仄かに香る甘い香りに包まれ、胸が熱くなっていく。
「姉さんっ! 」
「ふふっ。大丈夫よ■■、貴女も周りの人も気付いていないだけ。貴女は、私より優れた才能を持っているわ。きっと、誰よりも偉大なことを成し遂げるわよ」
「でも、私は……」
「私はね、■■の良いところ沢山知ってるわよ? 力が強いところ、優しいところ、可愛いところ、息を潜めるのが得意なところ、誰よりも頑張り屋さんなところ……ふふっ! もっともっと、数え切れないくらいあるわ! 」
「私は、■■のことが好きよ? 大好きっ! だからね、■■も自分のことを好きになって? 貴女の頑張りを一番知っているのは、貴女自身なんだから! もっと、自分自身のことを信じてあげなさい? そうしたら、貴女はきっと私よりも立派な忍びになれるわ」
姉さんの言葉は、深く深く心に染み込んできた。私に出来ることは、ただただ姉さんにしがみつくだけだった……本当に、幸せな時間だったわ。
――そう……あの日も、そんな幸せな時間を過ごす筈だった。だけど、この世に絶対など有りはしなくて、理不尽はいつだって私達を嘲笑うように襲ってくる。
――幸せな日常が壊れる時は、いつだって誰かの涙が流れている。
燃え盛る里、倒壊した我が家。
突如として現れた兵士に、私達は抵抗する間も無く蹂躙されていった。
逃げ惑う人々、それを追う兵士達。断末魔が響き渡る中、私はこの場所から一歩も動けずにいた。
姉さんが、瓦礫の下敷きになっているのだ。
「…………■■…………」
「大丈夫よ姉さんっ! 絶対、絶対助けるから! 」
腰から足にかけて、大きな瓦礫が乗っかっている。必死になって動かそうとしても、ビクともしない。瓦礫の間から流れる血の量が、一刻の猶予も無いことを物語っていた。
「クソッ! クソッ! クソッ! なんで、なんで動かないのよぉ! このままじゃ姉さんが! 姉さんがっ! 」
爪は割れ、手が血に濡れても、私は一切力を緩めず瓦礫をどかそうとした。だけど、私の力では全く動かすことが出来ず、遂には泣き崩れてしまった。
「…………もう、良いわ。……貴女は逃げなさい」
優しく諭すような声……姉さんの声は大好きだったけど、今の私は聞きたくなかった。
だって、姉さんの声には、もう生気が感じられないくらい弱くなっていたから……。
「うぅぅ…………ぅぅ……ぅぅぅうっ! 」
「■■、少しこっちに来て? 最後に……貴女に……伝えたいことがあるの……」
「………………は……いっ」
姉さんの傍へ行き、そっと手を握る。その手は、もう欠片も温かくなくて、姉さんの死期が嫌でも伝わってきた。
下半身は潰れ、大量の出血をしていても、姉さんはいつものように柔らかな笑みを浮かべていた。
「■■、貴女は私がいなくても大丈夫。きっと、誰よりも立派な忍びになれるわ。きっと、誰よりも偉大な忍びになって、誰かを救うことが出来るわ。……だから、だからね■■…………生きてっ」
「……っ! 姉さんっ!!! 」
姉さんは、それっきり動くことは無かった。
姉さんの死後、私はその場を動くことが出来なかった。隠れる訳でも無く、ただただじっと座り込んでいたわ。
そんな私が、敵兵に見つからず五体満足でいられた時、私の特異性に気付いたわ。
気配が薄い……そんな地味な力でも、誰かの力になれたら……出来ることならば、姉さんの最後の願いを叶えたい。
それだけを胸に、私はここまで生きてきた。
「…………殿。私は、本当に姉さんの願いを叶えることが出来るでしょうか……」
ふと気が付くと、私の手元には殿宛の文が完成していた。どうやら、物思いにふけりながら無心に書き綴っていたみたいね。
変に感傷的になってしまった……そんな風に苦笑していると、唐突に脳裏に違和感が走った。
――何か忘れている……。
そんな私の違和感は、直ぐに解消されることになる。それも、最悪なカタチで。
「桜様っ! 失礼致します! 」
息を荒らげながら部屋に転がり込んできたのは、私の補佐役である鈴蘭だった。
彼女には、ここから離れられない私に変わって、明智様の監視をしている者達の統括を任せていた。
そんな彼女を見た瞬間、違和感の正体に気付いてしまった。私は、まだ彼女から定期連絡を受けていなかったことを。
私が文を書き始めて、一体どれほどの時間が経った? 一刻……いや、それ以上かもしれないわ。
では、今は子の刻を過ぎている!? 鈴蘭からの報告が、こんな遅くになることは無かった!
「一体何事ですか! 」
「明智様に付けていた多くの者達が、一斉に消息を絶ちました! その者達の名は、時・早・諒・栄…………」
次々と鈴蘭から告げられる名前に、私の脳裏には最悪な状況が映されていた。
理由は分からないけれど、殿は必要以上に明智様を警戒していたわ。それは、監視にも強く反映されていて、三重の円を描いた形をしていた。
まさに、包囲網と言っても過言では無い程に。
そして、消息を絶った彼女達の配置は、亀山から京を真っ直ぐ一本の線で繋がっている!!!
嫌な予感がした私は、目の前にいる鈴蘭を押し退けて、一目散に外へ出た。私が居を構えている場所からならば、丁度良く本能寺を見下ろせると思ったからだ。
今日は雲が空を覆い隠し、本来ならば灯りを付けずに外へ出ても何も見えやしない。けれど……この日だけは、鮮明に見えたのだ。本能寺が、闇の中に浮かび上がっているかのように……。
「本能寺が……燃えている…………」
天正十年五月二十八日丑の刻、明智光秀の軍勢が本能寺を襲撃した。




