2話
天正十年 五月 岐阜城
足早に廊下を進み、広間へ入る。
そこには、二十名の重臣達が揃っていた。俺から新五郎に頼んだことではあるが、一人残らず揃っていることに胸が熱くなる。
如何に俺の方が身分が上だと言っても、今の俺は三歳の幼子だ。こんな朝っぱらに呼び出されたと言うのに、文句一つ言わず平伏を続ける。
本当に、有り難いことだ。
重臣達の間を通り抜け、上座に座る。
「みな、よくぞあつまった。おもてをあげよ」
『ははっ! 』
俺は、重臣達の顔を見渡すと、ゆっくり瞼を閉じた。一度、二度と深呼吸を繰り返し、乱れた呼吸を整える。
緊張のせいであろうか、じわりと額に汗が伝い、心臓の鼓動はいつもより高まっている。
光秀の謀反を伝えれば、この場は混沌と化すのは目に見えている。
――だが、言わねばならん。
「あけちじゅうべえが、いちまんのへいをひきいて、じいさまがとまっていたほんのうじを……しゅうげきした。……むほんじゃ」
『……………………』
静まり返った広間。誰も彼もが耳を疑い、先程の言葉を噛み締める。
そして、事態の深刻さを理解すると、思い思いの感情が溢れ出した。
「ば、馬鹿なっ! 日向守様が謀反だとぉっ! あ、有り得ん! 流言では無いのか! 」
「貴様っ! 三法師様が、戯れ言を申したと言うのか! 無礼であろうが! 」
「論点をすり替えるな! 」
「そもそも、上様はご無事なのか!? 殿は、どこにおられるのだ!? 」
「新五郎殿は、何か分からんのか! 」
「いや……俺も、初耳で……な……」
「何故、筆頭家老である新五郎殿が知らないことを、三法師様が知っておられるのだ! 」
「…………面目ない」
怒号や罵声が行き交う中、俺はじっとそれを見詰めていた。ある者は泣き出し、ある者は怒りを撒き散らし、ある者は疑心暗鬼に陥っている。
まさに、阿鼻叫喚の騒ぎと言えよう光景が、目の前に広がっている。天下の織田家重臣に有るまじき姿、本来であれば叱責すべきであろう。
だが、彼等の気持ちは痛い程良く分かる。
……不安なのだ。いつもの日常が壊れる時、人は冷静ではいられない。どうしても、誰かに縋ったり八つ当たりしたりするのだ。
であれば、俺のすべきことは一つだけだ。
「しぃぃぃずぅぅぅまぁぁれぇぇぇっ!!! 」
俺の一喝に、重臣達は目を丸くしている。
当然だ。まさか、普段温厚な幼子からこんな凄まじい声で一喝されるなんて、夢にも思わないだろう。
一瞬の意識の空白。その時にこそ、人の想いは聞き手の深層心理に響くモノだ。
「う……え…………さま? 」
誰かがそうポツリと呟くと、一斉に顔を青くして平伏した。そんな彼等を見て、話を聞ける状態だと判断した俺は、静かに語り始める。
「あけちみつひでのむほんをしらせてくれたのは、わたしのしのびだ。いのちがけでつたえてくれたものだ。しんじるに、あたいしよう」
『は、ははっ! 』
「そして、じいさまはまだいきておる。にじょうじょうにて、わたしたちのたすけをまっているのだ」
『な、なんとっ!? 』
「上様は、ご無事なのですね! 」
「うん。そして、ちちうえもおられる」
「と、殿が二条城にいらっしゃるのですか! 」
「そうだ。いまなら、まだまにあうのだ」
『……っ!!! 』
じいさんの存命、親父達に迫る危機。
未だ拭い取れぬ焦燥感はあれど、重臣達の瞳に希望の光が灯る瞬間を、俺は確かに見た。
そう、俺達の胸に宿る気持ちはただ一つ『まだ、間に合うかもしれないっ!!! 』
たったそれだけでも、人は前に進むことが出来る。
「しんごろう! さいたんでしゅつじんするとして、どれほどのへいをあつめられる! 」
「はっ! 半刻で、三千の兵でしたら出陣可能かと。しかし、明智の軍勢は一万と仰っていらっしゃいました。三千の兵では、些か心もとないのでは無いでしょうか? 」
「そんな弱腰では、上様と殿をお救い出来ませぬぞ! 主君をお救いして死ねるならば、まさに武士として本望では無いか! 」
『そうじゃ! そうじゃ! 』
「愚か者っ! このまま突っ込んでも、上様も殿も救えず犬死するだけだ! 」
「では、どうすると言うのだ! 」
新五郎の発言に、重臣達の間に騒めきが起こる。確かに、新五郎の懸念は正しい。相手は一万の大軍。無闇矢鱈に突っ込んでも、数で劣るこちらが負けるだけだ。
では、奇襲か? ……いや、光秀相手に奇襲が通用するとは思えない。
――ならば…………。
「おちつけ」
俺の言葉は、まるで砂に染み渡る水のように彼等の中へ入っていった。そこまで大きな声では無いのに、何故か耳に残る声。
彼等を安心させる為に微笑むと、不意に誰かが息を呑む気配がした。
「ついさきほど、きないのだいみょうたちに、ふみをおくった。ないようは、あけちのむほん……そして、じいさまがいきていること」
「そ、それは……」
「わかさのかつぞう。おうみのがもう。いがのさんすけおじうえ。いずみのくにのはちや。こやつらが、むかってくれよう」
「で、では、私共は一体どうすれば? 」
「わたしたちは、あずちじょうへむかう。わたしがみこしになり、かくちからえんぐんをあつめるのだ」
そう、今の織田家には頭が無い。じいさまと親父を救うにしても、家臣団を束ねる人がいないのだ。
これでは、軍勢の足並みは揃わず各個撃破されるだけ。であれば、当主の嫡男という分かりやすい神輿を立てるのが、一番手っ取り早い。何より、俺が神輿になることで、逆賊の討伐という大義名分にもなる。
じいさんも親父も生きていて、俺を中心に東から大軍が来るとなれば、日和見をしている畿内の大名達も俺達に付く筈だ!
となると、先程、俺が書いた文がいつ届くかが重要だな。
だが、それは問題無いだろう。白百合隊のみんなには、それぞれ担当の大名がいた。文を届ける命令を、この一年ひたすら出し続けた。今の彼女達は、誰よりも目的地への最短ルートを知っている。
情報戦を制するものが、勝利を収めるのだ!
それは、光秀だって分かっている筈。朝廷工作や、各地の大名達へ味方するように要請するだろう。
これは、どちらが先に大名達を掌握するかに命運はかかっている。
であれば、光秀の狙いも見えてくる。じいさんと親父を殺した後、光秀は間違いなく安土城を攻める。
金銀財宝があり、何より安土城は織田家の権威の象徴。そこを落とすことで、大名達の心を折り懐柔しやすくするつもりだ。朝廷工作や、大名達を味方に引き込むにも金がいる。
つまり、安土城を落とせば光秀の近畿支配が一気に加速してしまうのだ!
そんなことさせてたまるか! あそこには、沢山の人々が住んでいる。大名達の家族だっている。何より……茶々がいる!
あんな……あんな喧嘩別れが最後だなんて、俺は絶対嫌だ! もう一度、みんなに会いたい。茶々に……会いたいよ……。
俺は、胸に溢れる悲しみを表に出さないように、歯を食いしばった。
そして、重臣達に力強く指示を出す。
「かつぞうたちは、じいさまたちをきゅうしゅつご、あずちへてったいさせる。わたしたちのするべきこと、あけちよりさきにあずちじょうへはいること! そして、ろうじょうのじゅんびをすることじゃ! よいな! 」
『ははっ! 』
「では、すぐにとりかかれ! だいいちじんのしゅっぱつは、はんこくごじゃ! だいにじんは、さこんとごうりゅうご、あずちへむかえ! 」
『御意っ!!! 』
俺の号令を受け、みんな一斉に動き始めた。もしもの為に用意していた常備兵。三千ではあるが、これは大きい。
長浜城には、俺が造らせた船がある。それを使えば、一気に安土城へ行ける! コツコツ準備していたモノを、ここで発揮するんだ!
そして、一時間後。
第一陣三千の準備が完了。第二陣は、新五郎の兄・玄蕃を大将に五千は集めるつもりだ。
直に、信濃国から左近達がやって来る。それに合流すれば、明智軍なんて怖くない。
大丈夫だ。きっと間に合う。じいさんも親父も、絶対まだ生きている!
戦支度を整えた俺は、決意を胸に城門まで向かっていた。「後は、出発前に号令をするだけ」そう思いながら城を出ると、そこには最愛の人達が俺を待ち構えていた。
「ふじ……かい……」
二人は、安土城へ連れて行けない。
もしかしたら、これが今生の別れになるかもしれない。そう思うと、無性に悲しくなる。
だけど、二人はいつも通り柔らかな笑みを浮かべていた。
「旦那様、ご武運を」
「旦那様が帰られるまで、この城は私達が守ります! 」
一切不安など感じさせない笑顔。しかし、その瞳に薄い悲しみの色が写っていたんだ。
前までの俺だったら、きっと見逃していただろう。
俺は二人に近付くと、力の限り抱き締めた。「絶対に、君達のところへ帰ってくる! 」……そんな、願いを込めて。
「あんずるな……かならず、またあえる」
『……っ!!! 』
俺の気持ちに応えるように、二人が縋り付いてくる。だけど、それは一瞬のことで、直ぐに俺から離れると、勝気な笑顔を浮かべた。
『旦那様! 行ってらっしゃいませっ!!! 』
「…………うん。いってきます」
俺は、この時の彼女達の顔を生涯忘れないだろう。
城門の前まで来ると、三千の兵達が俺を待ちわびていた。気合いは充分。後は、彼等の心を一気に燃やすだけだ!
「たいぎは、われらにあり!!! ぎゃくぞくあけちみつひでをうち、おのがちゅうぎをしめせ! 」
「しゅつじんじゃぁっ!!! 」
『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!!』
俺達は、勢い良く長浜城へ軍勢を走らせた。
やけに、薄気味悪い曇り空が印象的な日であった。