1話
天正十年 五月 岐阜城
「みぃぃぃつぅぅぅひぃぃぃぃぃぃぃでぇぇえぇぇぇぇええええっ!!!!! 」
絶叫が部屋中に響き渡り、俺は頭を抱えながら膝から崩れ落ちた。
『何故、光秀が謀反を起こしたのだ』『何故、それが分からなかった』『家康はどうした』『じいさんは無事なのか』『もう死んでしまった』『何故、本能寺に居たのだ』『本能寺の変は、六月二日の筈じゃないか!!! 』
頭の中を、様々な憶測が飛び回る。あまりの衝撃な情報に、脳の処理が追いつかない……気持ち悪い……吐きそうだ。
「……の………ぅ……」
光秀のことは、マークしていたのだ。如何に黒幕説があろうと、首謀者として歴史に名を残した光秀を疑わないことは出来なかった。
そう考えたら、光秀の謀反も納得がいく。
「…………と……ぅ……」
しかし、俺は心のどこかで信じていたのだ。
あの日、光秀はじいさんへの深い敬意を表していた。あの言葉には……瞳には、嘘偽りなど見当たらなかった。
それなのに、何故……何故裏切ったんだっ!!!
「と……の…………のぅ……」
信じていたんだ! 俺は、光秀のことを信じて……いたんだっ! それなのに、それなのに……なんで裏切ったんだよっ!
クッソォォガァァァァァァァっ!!!!!
「殿っ!!! 」
乾いた音が部屋中に響き渡り、右頬に鋭い痛みが走った。じわじわと頬に熱がこもっていくのも気にせず、俺はただ呆然と立ち尽くしていた。
それ程までに信じられなかったのだ。松が、俺を叩くなんて……。
「ま……つ……」
松は、困惑する俺の頬に両手を添えると、じっと目を合わせた。
「しっかりなさいませ! 三法師様っ!!! 岐阜中将様が不在の今、家中の者達を束ねられるのは貴方様しか居ないのです! 今、貴方様が正気を失ったら、誰が私達に指示を出すのですか! 」
松は、普段からは考えられない程、険しい顔つきで俺を叱咤する。身体を震わせ、目尻に涙を浮かべる彼女の姿は、どこまでも俺への献身に溢れていた。
「まつ…………」
松に叩かれたことにより体勢が崩れ、懐から師匠に貰った扇が畳に落下していく。
何故か、俺はそれから目が離せなかった。
まるで、スローモーションのようにゆっくり落ちていく扇を見ていると、涼やかな鈴の音と共に軽やかに着地した。
そんな鈴の音は、俺の思考をクリアにするのに充分な効果を発揮した。そのおかげで、鈴蘭の報告の続きを聴けたのだ。
「も、申し訳ございません。言葉が足りておりませんでした。……上様は、生きております! 桜様が単身本能寺へ乗り込み、燃え盛る本能寺から上様を救出することに成功致しました! 」
「…………っな!? そ、それはまことか! 」
「はっ! 桜様は上様を救出後、妙覚寺にて岐阜中将様と合流。二条城に避難致しました! 」
じいさんが生きている!? さ、桜が助けてくれたのか! そして、何故親父が京に居るのだ!? 三人共、無事なのか!?
様々な情報が脳裏を駆け巡り、一つの道を示す。
それは、「まだ、間に合うかもしれない」……そんな、希望へと続く光となる。
「しんごろぉぉぉぉうっ!!! 」
子供特有の甲高い声が、城中に響き渡る。腹から思いっきり出した声は、空間を揺らすかのようであった。
暫くすると、慌ただしい足音がどんどん近付いて来て、襖を思いっきり蹴破った。
「若様っ! ご無事でございますかぁっ! 」
新五郎は、余程慌てていたのか、着物を着崩しながら現れた。抜き身の刀を利き手に持ち、周囲を伺っている。
良かった……城に居たのか。そろそろ、登城する時間だから居るかもしれないと思ったが……これは、有り難い。手間が省けた。
「みなを、ひろまへあつめよぉっ! かきゅうのようじゃっ!!! 」
「……え? わ、若様? 曲者は……」
「いいからあつめよ! はんこくいないじゃ! 」
「は、ははっ! 」
新五郎は、最初は呆然としていたが、俺の表情から只事では無いと察したのか、慌ただしく退出して行った。
時間は無い。新五郎が家臣達を広間に集めるまで、後一時間程しかない。その間に、俺も動かなくては!
「すずらん! ふみをかく、じゅんびせよ! 」
「ははっ! 」
俺の意図を察した鈴蘭は、音も無く消えて行った。文を書くにしても、墨や和紙など準備するものは多々ある。
準備の時間を入れたとして、一時間以内に十枚以上書くとなると、如何に内容を簡潔に纏めるかにかかってくる。
「殿っ! お待たせ致しました! 準備が整いました! 御指示をっ!! 」
よしっ……始めるぞ!
三十分程経過し、遂に十一通の文が完成した。内容は、いたってシンプル。
・光秀の謀反。
・じいさんが生きていること。
・指示
この三つに、宛名と署名をして完成。詳細は、追って知らせれば良い。今は、とにかく速度重視!
俺は二度手を叩くと、目の前に十一名の女性が現れ平伏した。横に居る松、二条城に居る桜を外した白百合隊精鋭集団、三日月と十傑のみんなだ。
俺は、それぞれに担当の宛名が書かれた文を渡すと、彼女達に指示を出す。
「このふみを、あやつらにとどけるのだ。おだけの……わたしのめいうんを、そなたたちにたくす。たのんだぞ! 」
『御意っ! 』
彼女達は、力強く返事をすると音も無く消えて行った。次は、家臣達に指示を出さなくてはいけない。
まだまだ、安心するには早すぎる。
だが、一仕事終えた安堵感からか、崩れるように座り込んでしまった。
約束の時間まで、およそ十五分。俺は、無心でこれからの事を、脳裏に思い描く。
…………クソッ! 幾ら計算しても、人手が圧倒的に足りない。事が事だけに、下手な人物には頼めん! 光秀の単独犯かも定かでは無い。もし、裏切り者に情報が渡ったら、そう思うと足が竦みそうだ。
とりあえず、後ろに居る松には手伝って貰おうと視線を横に向ける。
すると、そこには悲痛な表情を浮かべながら、懐から短刀を取り出す姿があった。
「な、なにを……っ! 」
「…………私は、殿に平手打ちを致しました。私の様な下賎の身が、主君に手を上げるなど言語道断。この命をもって、償いとさせていただきたく……」
そう言うと、短刀を鞘から抜き、静かに首筋へ当てようとする。松の瞳には覚悟の色が出ており、冗談では無いことが嫌でも伝わってきた。
――気が付いたら、身体は動き始めていたんだ。
鮮血が宙を舞い、畳へと落ちる。
一筋の赤い線が、静かに腕に走った。
俺の左手は、短刀を握り締めていたのだ。
「…………っ! と、殿っ!!! 」
一瞬呆けていた松は、直ぐに正気に戻ると大慌てで傷の手当をする。
俺は、そんなことお構い無しに、左手を松の頬に添える。血と涙をで塗れた瞳は、ただただ呆然と俺を見詰めていた。
「まつ。そなたのひらてうちで、わたしはしょうきにもどれた。かんしゃこそすれども、せめるようなことはしないよ」
「し、しかし……」
「そのみをもって、あるじをただすことこそ、まことのちゅうぎである。そなたは、まちがっていない。……たすかった。ありがとう」
「……っ! う、うぅぅぅ………………」
泣きながら崩れ落ちる松を、そっと抱き締める。いつの間にか、左手の痛みは無くなっていた。
暫くすると、小姓が部屋に入ってきた。用件は……分かっている。
「失礼致します。家老衆の皆様が、広間にて出揃いましてございまする! 」
「わかった。あんないせよ」
「ははっ! 」
――ここからは、もう止まれない。
そんな決意を胸に、俺は足を踏み出した。
これより、第二章開幕でございます。
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