70話
天正十年 四月 岐阜城
俺は、岐阜城に残っていた家臣達と共に、城門前にて親父の帰りを今か今かと待ち侘びていた。
武田征伐が遂に決着し、後始末を終えた親父が軍勢を率いて帰ってくるのだ。
五日前に届いた先触れから、必死に宴の準備を進めたのは記憶に新しい。随分急な話ではあったが、家臣達は皆一言も文句を言わず笑顔で準備に邁進していた。
勿論、織田家の勝利を祝う気持ちもあっただろうが、それ以上に親父への忠義故のことだろう。
こんなにも、家臣達から慕われている親父がちょっと誇らしく思う。いつか、俺もこんな風に家臣達に慕われる男にならなきゃな。
因みに、じいさんの方は甲斐国から駿河国に渡り、富士山を見ながら安土城に帰るらしい。
なので、じいさんが来るのはおそらく二週間後であろう。その時も、また宴の準備をしないとな。
そして、遂にその時が来た。
遠目からでも分かる大軍に、その背に掲げる織田木瓜。親父率いる総勢一万に及ぶ美濃勢だ。
煌びやかな鎧に身を包み、意気揚々と大軍を率いるその様は、まさに凱旋に相応しい風格を醸し出していた。
後ろをついていく家臣達の表情も、どこか晴れ晴れとしていて、自信に満ち溢れているように見える。
その中でも、やはり赤鬼隊は目立つ。日の光に照らされ、紅蓮のように輝く赤備えの装いは味方に活力を、敵に畏怖を与えること間違いなし! ちょっと高かったけど、じいさんに無理言って作って貰った甲斐があったものだな!
そんな俺は、パッと見る限り出発した時と何ら変わらない顔触れに、人知れずホッと胸を撫で下ろした。
幾ら策を弄して有利な状況を作っても、戦は戦だ。当たり前だが、人は死ぬ。この命の軽い乱世において、絶対に命を落とさない保証等ありはしないのだから……。
だから、こうして元気な姿を見せてくれた親父を見ていると、涙が溢れそうで必死に堪えた。勝利を祝うこの場では、涙はあまりにも不釣り合いだから……。
「おかえりなさいませ! ちちうえ!!! 」
『お帰りなさいませっ!!! 』
ゆっくりと俺達の前に現れた親父に対し、誰一人として乱れぬことの無い完璧な掛け声をもって礼を尽くす。一日三時間かけて練習した甲斐があったな。
そんな一糸乱れぬ俺達の様子に、親父は満足そうに頷いた。
「三法師、そして皆の衆……留守番ご苦労であった。そなたらが城を守っていた故に、俺達は武田征伐に集中することが出来た。此度の功績は、この場にいる皆で勝ち取ったモノである。……者共ぉっ! 今一度、勝鬨を上げよ! 織田家の勝利であるっ!!! 」
『えい、えい、おぉっ!!! えい、えい、おおぉっ!!! えい、えい、おおぉぉぉっ!!! 』
国中に轟くように吠えるその様は、まさに織田家の栄光を称える象徴的な一場面であった。
それから暫くして、親父は家臣達と共に城に戻って行き、この場にはもう俺と赤鬼隊の面々しか残っていない。
本来であれば、親父と共に宴に行かねばならなかったのだが、俺の心情を察してくれたのか何も言わずにいてくれた。
涼やかな空気が流れる中、代表として新五郎が俺の前に出ると静かに平伏した。
「若様、お約束通り五体満足で帰還致しました。赤鬼隊の者達も、一人も欠けることは無く素晴らしい功績を挙げました」
「うむ。ちちうえからも、おぬしらをほめたたえるようにいわれておる。まことに、すばらしいはたらきであった。……たいぎである」
『ははっ! 有り難き幸せ! 』
そう……誰一人欠けることは無かったのだ。最後の高遠城の戦いは、凄まじい激戦だったと言うのに怪我はあれど死ぬことは無かった。
それが、どれだけ嬉しかったかっ!
「よくぞ、わたしのやくそくをまもりいきてかえってきてくれた! そなたたちが、ぶじであったというしらせが、わたしにとってなによりのきっぽうであった! ありがとうっ……ほんとうに、よくぞ……よくぞもどってっ! う……ぅぅぅ……」
想いを綴っているうちに、視界はボヤけ瞳から溢れる想いを抑えられなくなった。俺にとって、初めて戦場に向かう人を見送ったのだ。何時死んでも可笑しくない……そんな死地に。
辛かった。何も出来ない自分が……言葉を綴ることしか出来ぬ自分が、悔しくて悔しくてたまらなかったのだ。
出来ることなら俺も戦いたかった。だけど、本当は分かっているのだ。己の効率的な使い方を。
そして……それは、残酷なまでに他人任せになるであろうことも。
即ち、鼓舞。戦場へ向かう家臣達の士気を上げること。勇気付け、さあ再び行くがよいと叱咤激励すること……ただそれだけ。
それだけしか……出来ない。
下手に前世の記憶があるからか、子供だから仕方がないと思えない。いや、それは関係無いか。
きっと、俺は大人になっても槍や刀を振るい、果敢に敵陣に攻めることなんて無いだろう。
俺は、人を殺せない……きっと、これからも。
自分の手で人を殺すなんて、出来るわけが無い。血に濡れた手を想像するだけで、恐ろしくて震えが止まらないんだ。
だから、俺は家臣達に命令するんだ。
『殺してこい』『首を晒せ』『死んでこい』
上座に呑気に座りながら、ただソレを眺めるだけの俺が……自らの手を汚さない卑怯な俺が……堪らなく……嫌いだ………………。
蹲るように泣く俺と、新五郎は視線を合わせるようにしゃがんみこんだ。
「どうして、泣いていらっしゃるのですか? 」
その一言で、胸に堰き止めていた想いが溢れてしまった。もう、俺自身では止められなかった。
――わたしは、何も出来ない。
――新五郎達が危険に晒されている中、安全な城で待つことしか出来ない。
――わたしに出来るのは、精々声をかけてあげることだけ……。頑張ってね、君たちなら出来る。ただ……それだけしか、言葉を紡ぐことしか出来ない。
――そんな自分自身が、情けなくて仕方がない。わたしは……わたし自身が、一番嫌いだ。
……新五郎は、ただただ黙って聞いてくれた。
きっと……凱旋して来た家臣達に、褒めるどころか泣き言を言ってしまう情けない主の姿に、嫌気をさしてしまったのだろう。
そんな風に思っていると、不意に新五郎に抱き締められた。耳をすませば、鼓動が聞こえてくる。どくん……どくん……と一定の間隔で刻まれるその音に乱れは無い。
その温かさは、悲しみに嘆く心を癒す様だった。
「何も出来ないだなんて、そんなこと言わないでくださいませ。私達の身を案じて涙を流すその御姿に、どれ程私達が勇気を貰ったかっ! 」
「しんごろう……」
「そうですよ殿っ! 私達は、貴方様がいるから頑張れるのです! 」
「戦場で、もう駄目だ……って時に、殿の御言葉を思い出し踏ん張れました! 」
「私もです! 」「俺も……」「某も……」
「みんな……」
新五郎を皮切りに、赤鬼隊の皆からも熱い想いが溢れてくる。なんで……なんでこんな俺に……。
そんな弱気な心を、新五郎は一息に吹き飛ばしてくれたんだ。
「あらゆる重荷を一身に受け止めて、年端もいかない幼い子供が、その身を震わせながら果敢に鼓舞しているのです。それに応えたいと思うことは、そんなにもおかしなことなのですか? 」
「それは……」
「もっと自信を持ってくださいませ。若様は充分、私達の役に立っております。貴方様の想いは、私達の胸に宿り共に戦っているのです。戦場は、一つではございません。貴方様は、貴方様の戦場で戦ったのです。それを、どうか誇りに思ってくださいませ! 」
――あぁ、そうだったのか。
俺は、新五郎のその言葉に救われた。
「ありがとうっ……ありがとう、しんごろうっ! 」
人は一人では生きていけない。
当たり前のようで、俺はまるで理解していなかったのだ。
彼等にとって、俺の言葉がどれほど有り難かったのかを、どれほど心の支えになっていたのかを。
俺は、確かに彼等の力になっていたのだ。
それが、堪らなく嬉しかった。
刀を待てなくても、槍を振るえなくても、言葉を紡ぐことしか出来なくても良い。その言葉が、彼等を支えることが出来るのなら、これ以上無い喜びじゃないか。
――俺は、少しだけ自分自身のことが好きになれそうだ。




