68話
天正十年三月 甲斐 織田信長
武田勝頼の切腹後、その首を武田家家臣団の前に晒した。数々の首を見てきたが、これ程までに穏やかな表情を浮かべた首は初めてであった。
『想いは託した。故に、未練は無い』……そんなところだろう。
亡き主君に、縋り付くように泣く男達の姿を見ていると、どうにもやるせない気分になる。
……だからだろうか、普段なら口にしないことを口走ってしまった。
「う……うぅぅぅ……殿っ……」
「実に……惜しい男じゃった。信玄公の嫡男義信が生きておれば、右腕として支えたであろう。……だが、そうはならなかった。全ては時の運なり、甲斐武田家衰退の要因は武田勝頼に非ず、あの男に忠義を尽くしたことは決して間違ってはおらんかった……そのこと、努努忘れるでないぞ」
『……っ! は、ははっ! 』
「…………久太郎、武田勝頼の葬儀の手配をしてやれ。この首も、もう晒さずとも良い」
「御意」
武田家家臣達の視線を、ひしひしと感じながら本陣へ戻っていった。何故だが、居た堪れない気分になってしまったのだ。
そのせいか、つい首を下げるように言ってしまったが……大丈夫であろう。少々甘くも感じるが、この遺体を悪戯に傷付け、あの男の最後を穢すのはどうにも耐えられんかったからだ。
……見せしめは、もう充分出来た。亡き父、信玄と共に安らかに眠るが良い。
それから数刻後、久太郎に新府城に捕らえられていた諸国の人質達の身元確認をさせている中、余の本陣では論功行賞の発表が執り行われようとしていた。
手柄を挙げた者達は、何よりの楽しみとしているところだろう。しかし、その前にやらなければならないことが残っている。
「……これより、武田家に沙汰を言い渡す。武田信勝、長坂光堅、真田昌幸、穴山梅雪、依田信蕃……前に出よ」
『はっ! 』
余の指示に従い、五名が余の前に出て平伏する。武田家黄金期を築いた猛将達も、今や五名しか残っておらんとは……時の流れは、残酷なものだ。
「甲斐武田家の家督は、武田信勝が継承せよ。武田領は、上野国・信濃国・駿河国を没収、所領は甲斐一国とする。そして、関所の廃止、甲越同盟の破棄、金山の織田直轄化を命じる」
『ははっ! 』
「長坂光堅は、甲斐にて武田信勝の補佐をするように。穴山梅雪・依田信蕃は、人質を岐阜にて預かる。駿河国にあるお主らの居城はそのまま任せる故、北条家の与力として支えよ。真田昌幸は、隠居してもらおう。家督は長男に譲り、お主は次男と共に岐阜預かりとする」
『ははっ! 』
「うむ。では、これにて武田家の仕置きは終いじゃ。下がって良い」
『ははっ! 失礼致します! 』
再度、余に深く平伏した後に武田衆は、本陣から出て行った。厳格な雰囲気を漂わせているものの、その足取りは軽く。どこか、晴れ晴れとした様子であった。
うむ……どうやら、不満は無いようだな。甲斐国は、痩せた土地故に苦労も多かろうが、そこは織田家が支援すれば良い。恩も売れるしな。
今後、十年は苦労するだろう。重税に次ぐ重税で、民の心は離れている。軍事に関しては、武田家を頼りにしてはならんだろう。
だが、武田家が余の軍門に下ったという事実だけで、値千金である。これを機に、上杉攻めも佳境を迎えるだろうな。
そして、次に北条家・徳川家の褒美だ。先程、駿河国について少し漏らしてしまった為か、両者の間に剣呑な空気が流れておる。
「では、北条家当主北条氏直並びに、前当主北条氏政……前に出よ」
『はっ』
「此度の褒美として、駿河国を任せる。穴山梅雪・依田信蕃は、北条家に一任する」
『ははっ! 』
「そして、かねてより申し出のあった官位についてだが、相模守を北条氏直に継がせることを許可する。朝廷に先触れを済ませておく故、正式な授与は後日となろう。今後も、織田家に尽くすようにせよ。期待しておるぞ」
『あ、有り難き幸せにございますっ! より一層織田家の為に、邁進してまいります!!! 』
この戦で、北条家は一門衆に準ずる大名家としての認知されよう。少し、所領が気になるが優れた兄弟を独立させるなど、幾らでも手はある。
大方、今川氏真より駿河国の所領を認められておるだろうし、面倒なことにはならんだろう。
さて、問題は家康だな。軍勢は派遣したが、結果は残していない。新府城を抑えたが、徳川家だけでは成しえなかっただろう。
褒美を与え過ぎても、少な過ぎでも不満は出る。それ故に、論功行賞には気を使っているが、この何とも評価に困る微妙な功績は、如何ともし難いものだ。
「……次は家康だな。此度の褒美として、金を贈ろう。軍備の補填とするが良い」
「はっ」
「そして、お主の子が元服したおりに、余の娘を嫁に娶らせよう」
「……はっ、有り難き幸せ」
表情は穏やかであるが、内心納得はしておらんだろう。その瞳の奥に、秘めたる思いの丈を計らないといけないな。
織田家に仇なすのであれば、旧知の仲と言えど容赦出来んからな。少し、注意を払う必要がありそうだな。
「それでは、もう下がって良い。ご苦労であった」
『ははっ! 』
今一度、余に深く平伏すると、すれ違うように去って行った。此度の戦で、両者の間には少なからず確執が生まれた。
残念ながら、両者が交わした同盟は形骸化してしまうだろう。氏直の正室について、家康の娘をと思っていたが……考え直した方が良い……か。
さて、次は余の家臣達に褒美をやらねばな。




