65話
天正十年 三月 信濃 森勝蔵長可
武田征伐が開始されてから、およそ一ヶ月が経過した。先日、上様が五万の軍勢を率いて合流され、いよいよ武田勝頼が陣を敷く高遠城へ進軍を開始した。
木曾谷の戦いが、あまりにも一方的な戦いだったこともあり、兵共が油断していないか注意深く見ていたが、それは杞憂であった。
やはり、上様並びに歴戦の猛将方がいると身が引き締まるのか、兵共の顔には一切の慢心は無く。士気は、最高潮にまで高まっていた。
……これが、織田家を支えた譜代家老……か。なんとも頼りがいのある御仁達だ!
某も、いつかこんな風に成りたいっ! そんな夢を思い描きながら、強く強く槍を握った。
天正十年三月三日、高遠城攻略の為に築かれた陣城にて、軍議が開かれた。某は、末席ではあるが参加を許され、栄えある重臣方の邪魔にならぬように端の方で縮こまっていた。
少し惨めな気持ちになるが、これは織田家にとって大切な戦。その重要度は、若輩者の某には到底計り知れぬものだ。
それ故に、我慢出来るというものよ。……正直、雪殿に滅多打ちにされた時の方が、よっぽど辛かったしのぅ……。
「上様が参ります」
久太郎殿がそう告げると、先程まで騒がしかった場が静まり返り、皆一斉に平伏する。
大地を踏み締める独特な足音が響いた後、凄まじい覇気が場を支配した。顔を上げずとも分かる……上様が参られたのだ。
「面を上げよ」
『ははっ! 』
顔を上げ上様のお顔を拝見すると、そこには不機嫌そうに顔を顰める上様がおられた。
上様は、久太郎殿に何やら耳打ちすると、久太郎殿が一つの箱を某達の前に置いた。離れていても漂ってくる血の匂い……箱の中身を確認せずとも、分かってしまう。
「これは、僧侶の首じゃ」
上様は、そう言うとおもむろに箱を開ける。そこには、耳と鼻が削がれ悲痛な叫びを浮かべる僧侶の首が置かれていた。
首などいくらでも見たことがあるが、これはなんとも惨いモノだ。
「この者を余の使者として書状を持たせ、勝頼に開城を促したのだが……奴は要求を拒絶、使者の僧侶は耳と鼻を削ぎとられて首を斬られた。交渉は決裂じゃあ。明日、武田勝頼と決着をつけるぞ! 先鋒は、勝蔵に任せる。者共ぉ! 戦準備をせよぉぉぉぉぉっ!!! 」
『ははっ!!! 』
某は、平伏しながら喜びに打ち震えていた。先鋒だ。この某が、武士として最上級の名誉を賜ったのだ! 必ずや、この期待に応えてみせる!
翌朝、凄まじい破城槌による衝撃が辺り一面に響き渡り、開門の時を今か今かと待ちわびていた。
織田軍の兵力は六万五千、対して武田軍の兵力は一万。攻城戦において、ここまでの大軍がぶつかり合う戦いは数少ない。兵力は、圧倒的に織田家が上だが……果たしてどうなるか。
ミシミシと、嫌な音がし始めた。もう間もなく開戦の時、某は今一度上様から預かった五千の兵共の前に立つ。
回りを見渡せば、誰も彼もが真剣な眼差しを向けており、士気は上々と言ったところだろう。
その中でも、やはり赤鬼隊の深紅の鎧兜は目を引くモノがある。苦楽を共にした戦友達、その姿を見るだけで力が湧いてくるようだ!
『生きて、殿の元へ帰ろう』そんな思いを込めて視線を送ると、一同力強く頷いた。
「皆の者、聞けぇい!!! 遂に、武田家との決着をつける時が来た! この戦いは、天下泰平の世をつくる為の戦いである。我等の働きで、この地獄のような乱世を終わらせるのだ!!! 全ては、まだ見ぬ明日を切り開く為…………」
その瞬間、凄まじい轟音と共に城門が開かれた。某は、身体を高遠城の方へ向き直すと、高らかに槍を空へ捧げ吠える。
「突撃ぃぃぃぃぃぃいい!!!!! 」
『う……ぉぉおおおおおおおおおおおお!!!』
天正十年三月四日辰の刻、戦いの火蓋が切られる。
破壊された城門を潜り抜けると、そこには多くの敵勢が集まっている。その数、およそ四千と言ったところか。
某等が三方面から攻めている為、兵力は分散されるとは言えど、武田軍は一万。やはり、一筋縄ではいかないか!
「皆の者! 決して先走るな! 数はこちらが上、連携して当たるのだぁ!!! 」
『ぉおっ!!! 』
勢いそのまま敵勢に激突。前方では、敵味方入り乱れた混戦に陥っており、中々先へ進めない。
こちらは力攻めなのだ。戦いは早期決着が望ましいのだが……クッ! 何か策は無いか!
段々と某等の勢いが止まり始め、膠着状態になってしまう……そう思った矢先、左手から援軍が訪れた!
「河尻与四郎秀隆、ここに推参!!! 者共ぉ! かかれぇ!!! かかれぇっ!!! 」
河尻殿の軍勢は、敵勢の横っ腹を突くようにして現れ。その結果、目に見えて敵勢の足並みが乱れてきた。
「河尻殿、忝ないっ! 」
お礼を言わねばと近付こうとするも、河尻殿はこちらを一切見ず、手で制されてしまった。
「わしに構うな! ここは、戦場。己の敵から目を離すな! それよりも、ここはわしに任せて勝蔵は先にいけ! 己の使命を果たせっ! 」
「っ! 忝ないっ!!! 赤鬼隊ついてこい! 一気に抜けるぞ! 」
『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!! 』
河尻殿に兵を預け、精鋭を率いて右回りに敵勢の隙間を抜いていく。このような混戦、もはや大軍は足枷にしかならん。
であれば、たった五百でも完璧な連携をとれる赤鬼隊を率いて進むのが上策か!
どんどん後方に遠ざかっていく河尻殿を後目に、前へ前へとひたすら進む。
河尻殿……忝ない。ご武運を!
某等は、そのまま三の丸を越え、二の丸へと突入した。そこでは、敵勢に襲いかかるように、明智殿と大殿の軍勢が入り乱れており、三の丸以上の大混戦であった。
「勝蔵様! これでは、前に進めませぬ! 」
「むぅ……」
回りを見渡しても、一向に道が見えない。旗でなんとか敵味方の識別がつくが、無闇矢鱈に突っ込んでも余計に混乱するだけだ。
一体どうすれば…………。
予想以上の混戦に、攻めあぐねていた某の前に、悠々と慶次殿が立たれた。コキコキと首を鳴らし、槍を握り締める様は何をする気なのか明確に伝わってくる。
「ま、待ってくれ慶次殿! まさかとは思うが、突撃する気なのですかっ!? 」
慌てて肩を掴んだ某に、慶次殿は不敵な笑みを浮かべた。さながら、この程度問題無い……そう語っているような笑みであった。
「カッカッカッ! 勝蔵には見えねぇのか? あの左手後方、僅かだが付け入る隙がある」
慶次殿が槍で示す方向を見ると、確かに明智殿の軍勢に隙間が出来ていた。ほんの小さい道ではあるが、それは敵陣深くにまで繋がる修羅の道でもあった。
そこを通れば、確かに本丸へ繋がる城門の目の前に出る。だが、もし一度でも止まってしまえば、敵陣で孤立無援の状態に陥ってしまう博打でもある。
生きるか死ぬか……そんな大博打なのに、何故だろうか? 血湧き、肉躍る感覚を覚えてしまう。
それが表情に出ていたのだろう、慶次殿は某を見ると少年のような笑顔を浮かべた。
「カッカッカッ! 一世一代の大博打といこうぜぇ? 大将!!! 」
「ああ! 皆の者! 某に続けぇえええ!!! 」
『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!! 』
某等は、ただひたすら突き進んだ。止まったら死ぬ。決して止まるな! その一心で。
どれほど殺したかは、覚えていない。ただ、気付けば鎧は返り血で染まり、赤鬼の名に相応しい装いとなっていた。
そんな赤鬼は、遂に本丸へと続く城門まで辿り着いた……が、武田軍もただでは終わらなかった。そこには、凄まじい闘気を身に纏った真の武将が立ち塞がっていたのだ。
「我が名は、土屋惣蔵昌恒。ここから先は、一兵足りとも通さぬ!!! 」
土屋 昌恒1556年生まれ
史実において、最後まで武田勝頼に従い忠義を示した。天目山の戦いで、主君の自害する時間を稼ぐ為たった一人で狭い崖道に陣取り、織田軍と激闘を重ねた。
その際、片手で藤蔓をつかんで崖下へ転落しないようにし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。享年27歳。




