64話
天正十年二月 駿河国 徳川家康
武田征伐が本格的に開始され、ワシは駿河国へ進軍を開始した。領土は切り取り次第。破格の待遇ではあるが、それ程までに上様はこの武田征伐を重要視されておるのだろう。
徳川家の力を蓄える絶好の機会、必ずや駿河国を手にしてみせる!
家臣達の意気込みも上々、早速とばかりに依田信蕃が守備する田中城を包囲したのだが、ここで思わぬ足止めをくらってしまった。
田中城からの反撃が思いの外強く、恐ろしい程に粘るのだ。田中城を攻め始めてから既に五日が経ち、ワシは荒ぶる感情を必死に抑えていた。
「何故、こうも依田信蕃は粘るのだ? 援軍の無い籠城戦など、勝機は無いであろう」
軍議の場で家臣達に問うてみても、一同口を閉ざししかめっ面をするばかり。それ程までに、不可解極まりない事態なのだ。
「ま、まさか援軍が来るのでは? 」
そんな小五郎の一言が、一気に場を混沌とさせた。
「ば、馬鹿な! 有り得ん!! 」
「しかし、武田勝頼率いる一万の軍勢が出陣したのも事実ですぞ」
「あれは、信濃方面に向かったでは無いか! 」
「そもそも、今の武田家に味方する者がおるわけなかろう! 」
誰も彼もが立ち上がり、怒号を巻き散らかす始末。徳川家の重臣に有るまじきその姿に、思わず溜息が零れる。
皆が皆、この状況に焦りを感じておるのだろう。こんな様子では、勝てる戦も勝てぬ。
さて、どうしたものか……。
軍議の場は混沌と化し、いきり立つ家臣達を、どう鎮めるか考えていたのだが……今まで黙っていた平八郎が、急に立ち上がり吠えた。
「……喝っ!!! 」
平八郎の咆哮が場に響き渡り、先程までの混沌とした空気が一新された。ワシの一番の忠臣、数々の戦場で功績を挙げた猛将の一喝は、われを失った者達を正気に戻すには充分事足りる。
「……皆様方、殿の御前にございます」
『…………っ! 申し訳ございませぬ』
平八郎の言葉によって正気に戻った家臣達は、一斉にワシに平伏した。やはり、平八郎は頼りになる。ここは、徳川家当主として堂々たる態度をとるべきであろうな。
「皆の者、少し落ち着くのだ。武田勝頼は、先行させた武田信豊と合流する為、信濃国へ向かっておる。確かな情報だ、案ずるな。田中城の士気が高いのは、一重に主家への忠義故であろう。かような武士達と戦えるなど、まさに武家の誉れ。ここは、敵方を褒め称えようでは無いか」
『ははっ! 』
……うむ。どうやら、落ち着きを取り戻したようだな。相手はかの名門武田家、急がなくても早々に決着がつくことはあるまい。…………そう仕向けたのだからな。
北条家は、前当主氏政殿の弟である北条氏邦殿を総大将に上野国方面を攻め、氏政殿は駿河国東部を攻めておる。
如何に大国とは言えど、二方面から攻めては戦力が分散される。そう易々と、上手くいくとは思えんがな。
ワシのすべきことは、まずこの田中城を落とすこと。一つ一つ堅実に、着実に進むことがなによりの近道であろうからな。
しかし、ワシの見通しは甘かった。翌日、半蔵から届いた報せは、目を疑うモノであった。
「ば、馬鹿な……木曾谷で、武田信豊軍が壊滅だと? しかも、岐阜中将様の軍勢には損害が見当たらぬ完勝……」
ワシは、震える手が止められなかった。七千だ、武田信豊軍は総勢七千の大軍だったのだ。それが、一夜にして壊滅するとは……にわかにも信じられん。流言だと言われても、納得してしまう程だ。
「こ、これは誠なのか? 一体何があったと言うのだ? 答えよ、半蔵!!! 」
「……どうやら武田信豊は、嵌められたようでございます。完勝に次ぐ完勝で、気が緩んだところを狙われたのでしょう。木曾谷近辺の城主は、皆織田家に寝返り伏兵を用意していた……某は、そう愚考致します」
ワシの剣幕に物怖じせず、淡々と語る半蔵の様子に、思わず座り込んでしまった。
まさか、こうも武田家が脆いとは思わなんだ。折角、煽ってやったのになんたる体たらくか。
あまりにも展開が急過ぎる。未だに、ワシ等は大した戦果を挙げていない。このままでは、駿河国を取れないでは無いか!
焦燥に駆られ、脳裏に多くの策謀を張り巡らせる中、更に半蔵から告げられた一言は、ワシを絶望の淵に叩き落とすモノであった。
「此度の木曾谷の戦い……どうやら、三法師様が暗躍されていたようでございます」
「…………はっ? 」
頭が真っ白になっていく……思考が追いつかない。一体、半蔵は何を言っているのだ。
三法師様は、御歳三つであろう。そんな幼子が、策を講じ武田信豊軍を壊滅させただと?
有り得ん有り得ん有り得ん有り得ん有り得ん有り得ん有り得ん……………………ヤツはバケモノか……。
「……もう良い……下がれ」
「…………はっ」
これ以上の醜態は晒せぬ。故に、下がるように命じたのだが、どうやら気付かれていたみたいだ。辺りからは人の気配が消え、半蔵が人払いしてくれたのが分かる。全く、聡い男よな。
ならば、もう我慢せんでも良かろう。
ワシは不意に立ち上がると、部屋に置いてある壺を勢い良く叩き壊し、刀で辺りを斬りつけた。
「あんの化け物めがぁぁぁぁああっ!!! よくもよくもよくもぉぉぉぉ! ワシの策を無駄にしてくれたなぁぁぁああああっ!!! 許さん! 絶対に許さんぞ織田めがぁぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁっ!!! 」
いつまでも止まない罵詈雑言。抜き身の刀には、憎悪に塗れた男が写っていた。
それから五日経ったが、未だに田中城は落ちる気配も無く、ワシ等の士気は日に日に下がっていった。
こんなところで、躓く訳にはいかない。どうにかせねばならん。そんなワシ等に、思ってもいなかった来客が訪れた。
それは、軍議中でのこと。一人の若武者が、必死の形相でワシの前まで来た。
「失礼致します! 実は……」
平伏し、言葉を紡ごうとした若武者を、いきり立った小五郎が遮った。
「おい貴様、ここがどこだか分かっておるのか? 貴様のような輩が、おいそれと入って良いところでは無いのだぞ! 身の程知らずめがぁ! 」
まるで、今までの鬱憤を晴らすような言動に、流石のワシも失望を覚えたが、状況が状況だ。ここは、不問としよう。
「良い。申してみよ」
「はっ! 相模守様が、殿にお目通り願いたいと申し出ております! 」
「な、なんと北条殿が!? 直ぐにお通しせよ! 」
「ははっ! 」
若武者から告げられた人物は、重臣達でさえ予想だにしない者だったのか騒然としている。ワシかて、必死に動揺を隠しているのだ。無理もあるまい。
しかし、北条殿はどうやってここまで来たのだ? 駿河国東部には、武田家の城もある。なにより、穴山梅雪が居を構える江尻城があるでは無いか。
親族衆である穴山梅雪ならば、そう一筋縄ではいかん相手だと思うのだが……。
あれこれ考えていると、北条殿が陣中に入って来た。どうやら、家督を譲った氏直殿もおられるみたいだな。
色々物申したいことがあったが、そんなことは噯にも出さずにこやかに出迎えた。
「これはこれは北条殿、良くぞ参られました」
「いやはや、陣中に突然お邪魔してしまい忝ない。田中城攻めに苦心されていると聞き、援軍に参りました」
「はっはっはっ! それは有難い。北条殿が居れば百人力、必ずや田中城を落とせましょう」
にこやかに握手を交わすが、内心どす黒い感情が渦巻いていた。
「しかし、良くご存知でしたな? 」
「えぇ、娘婿殿から文を頂きましてな」
「成程、三法師様ですか。そういえば、未だにお祝いの言葉も贈っておりませんでした。お許しくださいませ」
「いえ、お気になさらず。この武田征伐で、些か騒がしかったですからな」
「……それは、忝のぅございます」
あぁ、そうだろうな。織田家と北条家は、婚姻関係にある。間の徳川家など、中継ぎせずとも容易く情報が入ろうな。
……気に食わんものよ。
「先日、上様が岐阜城に入られました。武田勝頼も、信濃国伊那郡に位置する高遠城に兵を進めているとか。時間は差程ありませぬ、一気に田中城を落とし武田家の居城を抑えましょう」
そんな分かりきったことを、自信有りげに語る様子が癇に障るが、時間が無いのも事実。ここは、策だけでも聞いておくか。
「して、北条殿は何か名案でも? 」
「先日、江尻城城主穴山梅雪が、我が軍門に下り申した。梅雪は、依田殿と旧知の仲とか。使者として向かわせ、調略によって田中城を落としましょう」
悪い予感が当たってしまったか……。よもや、穴山梅雪がこうも容易く北条家に下るとは。これは、もう任せるしかあるまい。
「…………では、宜しくお頼み申す」
意気揚々と去っていく北条殿が、憎くて堪らない。否、それ以上に己の不甲斐なさが悔しくて堪らんのだ。
思わず右手に力を込めると、バキッという音と共に扇が砕け落ちた。滴る血もそのままに、ただただワシは悔しさに身体を震わせる他無かった。
天正十年二月二十日、田中城城主依田信蕃降伏。徳川家・北条家連合軍は、甲斐国へ進軍を開始した。




