62話
天正十年 二月 武田信豊
甲斐を出て数日が経ち、逆賊木曾義昌が居を構える木曾谷近辺まで来ていた。
これより先は、既に武田領に非ず。現在は、伏兵の存在を考え陣を敷いていた。
見据える敵は木曾義昌に非ず、織田信長である。木曾谷に居る兵は、多くても千程度であろう。その程度の雑兵如き、我が軍勢で蹴散らしてくれるわ!
後は、殿の本隊が来るまで持ち堪えるのみ。織田家に勝つには、もう短期決戦しかあるまい! 如何に迅速に木曾谷を制圧するか、そこに勝機がかかっている!
暫く軍議を重ねていると、偵察に行かせた者が帰ってきた。余程急いで来たのか、息を荒らげている。うむ、実に良く教育されておる。何処の兵士だ? 我が兵士達にも見習わせたいものだな。
「おい! 誰かこやつに水を飲ませよ! 」
「はっ! ……おい大丈夫か? ゆっくり飲め」
「た、助かる……んぐ……んぐ……ぷっはぁぁあ」
そ奴は、浴びるように水を飲み干すと、一息に我等に伝令を告げる。
「伝令! 木曾谷近辺に、敵影を発見! ここから西に三里、その数およそ五百!!! 」
その言葉に、一同顔が引き締まった。遂に、敵を捉えた。いよいよ始まる決戦を前に、武者震いが止まらぬわぁっ!
「うむ。御苦労であった。……者共っ! 主君への忠義を忘れ、織田信長へ尻尾を振った逆賊木曾義昌はこの先にいる! その武勇をもって、裏切り者を討つのだっ!!! いざ、出陣っ!!! 」
『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!! 』
大地が、空気が我が軍勢の咆哮で揺れる。
大地を踏み締めながら西に向けて、勢い良く進軍する。敵との邂逅まで、およそ一刻程度であろう。
本来であれば、少し勇み足過ぎると注意すべきだが、敵勢は僅か五百……織田信長との決戦を前に、少しでも士気を高めておいた方が良い……か。
であれば、このまま一気に進軍し敵勢を圧倒。その後、木曾谷を占拠するのが上策か。
一歩一歩進む度に、進軍速度が上がっていくのを感じる。もうそろそろ、敵勢が見えてくるやも知れん。
皆に気を引き締める様に伝えようとした矢先、視界の先に黒い塊が見えた。
その刹那、身体が沸騰したように熱くなり、力がみなぎってくる。アレは……敵だ!
「敵勢だぁぁぁあっ!!! 突撃ぃぃい!!! 」
『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!! 』
敵勢目掛けて、怒号を巻き散らかしながら突撃する。一兵足りとも逃さぬ。皆殺しだ!
味気ない……思わずそう零してしまう程、意図も容易く我等は木曾谷を占拠していた。
敵勢も、我等と接触したかと思うと直ぐに逃げ出しおった。奴等には、武士の誇りが無いのか? おかげで、ろくに殺せなかった。
流石に罠の類いを考えたが、それから敵勢も見当たらず木曾谷まで到着してしまった。手の空いている者達に、手分けして調べさせているが罠の類いは一つも無かった。
「典厩様、配下の報告を纏めてみたのですが、町並みや住宅から生活感のある様子は見受けられました。おそらく、我等に恐れを成して足早に逃げ出したのでは無いでしょうか? 」
「うむ……」
言われてみれば、不自然に倒れた物も良く見かける。必要最低限の物だけ持ち、逃げ出したと考えれば納得はいくな。
「者共! 勝鬨を上げよぉ!!! 我等の勝利である! 今宵は、宴だ!!! 」
『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!! 』
皆が皆、歓声を上げている。戦らしい戦は無かったが、その分精神を張り詰めていたからな。今宵は、ゆっくり労って明日に備える。
未だ、木曾義昌の首を取れておらんし、織田信長・信忠の軍勢がいることを忘れてはならん。
油断は禁物だが、心労が溜まった状態で戦っても勝機は薄い。周囲に敵勢も見当たらないし、今宵くらいなら大丈夫であろう。
幸い、館や近隣の村に貯蓄があった為、すんなり宴の準備は整った。日も落ち、闇が支配する時間になったが、この木曾谷近辺ではまるで昼間の様に明かりが灯り、飲めや歌えやの大騒ぎだ。
「木曾義昌恐るに足らず!!! 」
そんな仁科殿の言葉を皮切りに、将の間からも次々と暴言が漏れる。
「戦いもせずに逃げ出すとは、武士の風上にも置けん! 武田家の恥晒しめが! 」
「然り、信玄様もさぞお嘆きでしょう」
「あの痴れ者めが! 必ずやその首、たたっ斬って晒してくれるわ!!! 」
『然り、然り、然り』
酒が回っているのか、皆口が軽くなっている。そんな様子を見ていると、こちらもさらけ出したくなるでは無いか!
俺は、横に置いてある酒を器ごと持ち上げると、勢い良く飲み干した。
「……ぷはぁ……殿もそうだ。何故、今更織田家に頭を垂れる必要がある! そんな弱腰では、国人衆に舐められるだけでは無いか!!! 」
「典厩様、流石にそれは……」
「いや、典厩様の言う通りじゃ! 今更降伏等、到底考えれられん! 」
「然り、これでは信玄様に合わす顔が無い」
今度は、殿への暴言が次々と零れる。そんな様子を見ながら、俺は酒をひったくると浴びるように飲んだ。
飲まねば、やってられんのだ。
今から数ヶ月前、殿が織田家との和睦を進めていると密告があり、武田家中は混乱の極みにあった。
幾度も評定を重ねるが、一向に意見は統一出来ず挙げ句の果てには、重臣達が対立するようになってしまった。
実に嘆かわしい……織田という大敵を相手に、家中が割れていたら勝機は無い。一丸となって戦わなければ、土俵にも立てんだろう。
高天神城の一件、そして此度の一件以降国境沿いの国人衆に不穏な空気が流れている。
このままでは、取り返しのつかないことになるのは明白。今一度、家中の者を纏めなくては! そう思った矢先、木曾義昌が裏切ったのだ。
親族衆だと言うのに、忠義を忘れ織田家に寝返りおった愚か者。断じて、許すことは出来ない!
奴のせいで、もう我等に引く道は残されていないのだ。織田家・徳川家・北条家に包囲され、家中では次に誰が裏切るか分からぬ始末。
この状況を打破するには、織田信長の首を取るしか無い! 降伏では駄目なのだ。それでは、殿の御命の保証が無い。
長坂、穴山、真田……何故、それが分からぬのだ。俺は、殿に死んで欲しくないのだ。
やけくそ気味にもう一杯飲もうとしたが、急に視界が暗くなってきた……むぅ……少々飲みすぎた……か。
ふと気が付くと、何やら辺りが騒がしくなっている。怒号のような、悲鳴のような……一体どうしたと言うのだ?
倦怠感がとれぬ身体に鞭を打ち、ゆっくり起き上がると丁度配下の者が、襖を開けて入ってきた。
「典厩様! 早く、お逃げください! 」
息も絶え絶えながら、必死に逃げろと繰り返す。そのあまりの剣幕に、思わず息を呑んでしまう。
「……? 一体何事だ! 喧嘩か? 」
「敵襲にございます!!! 既に、我等は包囲されており、特に東側にいる紅き大男は化け物にございます。……その男に、仁科様は討ち取られてしまい申した……っ! どうか、典厩様だけでもお逃げくださいませ! 」
「……っ! すまぬ! 」
傍に置いてあった刀を手に、着の身着のまま外に出る。そこには、戦場が広がっていた。
燃える家、降り注ぐ矢、道の傍らには物言わぬ骸が転がっている。先程の報告は、真実だったと言うのか!?
ようやく思考が定まってきた途端、背中に冷たい汗が流れる。このままでは、我等は全滅する。
だが、相手は誰だ? 寝込みを襲われたとは言え、我等は七千の軍勢。木曾義昌など精々千程しか集められまい……では、これは一体……。
とにかく、ここを脱出しなければならない。斬り合う兵の間をすり抜け、北側に走っていると前方に敵勢が見えた。
炎に灯され、まるで地獄の悪鬼の如き装い。殺気溢れるその様子に、俺の命運が尽きたことを悟ってしまった。
無様に逃げて生き恥を晒すくらいならば、武士として誇り高く散ってみせよう。……だが、タダではこの首渡さぬ!
「我こそは、武田家重臣武田典厩信豊である! 我と思わん者は、名乗りを上げよ!!! 」
悪鬼を見据えながら刀を構えると、先頭に立っていた男が前に出てきた。歳は二十半ばか……身体付きから鍛えているのは分かるが、この程度の青二才蹴散らしてくれる!
「我こそは、織田家家臣森勝蔵長可である! いざ参る!!! 」
『ぬぉぉぉぉおおおおおおおおっ!!! 』
両者一斉に走り出すと、轟音をたてながら獲物がぶつかり合う。コイツ、とんでもない馬鹿力だ!
思わず刀を零しそうになるが、グッと堪えて追撃を仕掛ける。こちらは刀だが、相手は槍だ。まともに打ち合っていても、勝機は無い。
ここは、一気に懐に入る他道は無い。そう心に決め、ぶつかり合った刹那力を込めると、不意に力が抜けた。
力をぶつける対象が、いなくなったかの様な感触に思わず視線を向けると、そこには絶妙な力加減で槍を引く相手の姿があった。
まるで、水の如く威力を吸収すると即座に高速の突きが俺を襲う。これは……避けられん……な。
力一辺倒かと思うたが、引き技まであったか。相手を侮っていたことが、敗因か……。
凄まじい衝撃が俺を襲い、胸元を見れば血に濡れた槍が刺さっている。傍から見ても致命傷なソレを見て、思わず笑みが零れた。
俺は、倒れぬように刀を支えにすると、未だ油断もしていない相手を見据える。
「……森だったか……………………見事っ」
相手の驚く顔を見て、してやったりと笑う。誇れ若武者、そなたは見事に首級を上げてみせたのだ。この様な武士になら、この首差し出そう。
……殿、申し訳ございませぬ。
どうか……い………………きて。




