60話
天正十年 一月 安土城 茶々
あの騒動の後、妾は暫く怒りが治まらんかった。一年前に出会った幼子が、よもや婚約者を連れて戻って来るなんて夢にも思わぬ事態じゃ。
可愛い弟分が、妾の手の届かぬ場所へ行ってしまったようで、何故だか悲しくて仕方がないのじゃ。
三法師は、あの日の約束を忘れてしまったのじゃろうか……再会を待ち望んでいたのは、妾だけじゃったのかと思うと、涙が溢れてくる。
「このまま会えなくなるのは、嫌じゃな…………」
それから、何をやっても身が入らん。歳も十三になり、稽古をつけられる日も増えたのじゃが、どうも集中が続かないのじゃ。
「……お茶々様、本日はこれまでに致しましょう」
「なっ! し、しかし妾はまだ……」
「これ以上やっても、時間の無駄でございます。お茶々様の為にもならないでしょう。一度、間を空けた方がよろしいかと」
「……わかった。すまんかったのぅ」
「……では、これにて」
そう言うと、足早に出ていかれた。講師の方に、こうもキッパリ言われてしまい、妾はすっかり意気消沈してしまった……。
稽古かて、タダではない。講師の手配も、全て伯父上の善意に甘えてのこと。これでは、伯父上の顔に泥を塗ってしまう。
それだけは、絶対にしてはいけない。妾達の足場は、決して磐石なモノではないのじゃ。
今から十年程前。妾の父上が、伯父上に戦いを挑んだ。母上は、織田家が上洛する為に浅井家に嫁いだと言う。それなのに、伯父上の味方をするどころか敵対し、伯父上を何度も窮地に追いやってしまったのじゃ。
その後、父上は伯父上に滅ぼされ、妾達は織田家に引き取られることになる。
……幼き記憶じゃが、今でも鮮明に覚えておる。炎に揺れる小谷城の光景を……。母上に手を引かれて、一歩一歩城から遠ざかっていった日のことを。
伯父上は、母上と妾達姉妹が助かったことを喜んでくれたのじゃが、良く思わん輩も大勢おった。
それも、致し方の無いことじゃ。如何に、伯父上の一門とは言えど、母上は御役目を全う出来ず結果として浅井家の裏切りを止めることが出来なかったのじゃ。
浅井家との戦いで、家族や仲間を失った者も多い、森殿はその最たる例じゃ。そんな者達から見れば、妾には仇敵の血が流れておる。
言われのない誹謗中傷を受けたことは、一度や二度では無い。陰口を含めれば、数えるのも億劫になるじゃろう。
何年も昔のことだから、もう浅井家は滅んだから……それだけで切り替えられる程、その想いが軽いモノではないのじゃろうな。
遺された者達からすれば、時間なんて関係無いのじゃろう。
じゃから、妾は証明しなければならないのじゃ。妾達だって、織田家の為になるのじゃとっ!
母上は、きっともう嫁がれない……いや、嫁げないじゃろう。一度付いた汚点は、そう易々と拭うことは出来ないのじゃ。
じゃから、妾が代わりに頑張らねばならないのじゃ! 母上の為に、妹達の為に人一倍努力を積み重ね、織田家にとって最も益の有る殿方に嫁ぐ。
妾が織田家のお役に立てれば、きっと母上と妹達の身の保証は保たれる。
その為の覚悟は、とうの昔に決めておったはずなのに、どうしてこんなにも辛いのじゃ……。
見知らぬ誰かに嫁ぐことを考えると、何故こんなにも胸が張り裂けそうになるのじゃ…………誰か……教えてくれぬかのぅ。
薬師に診てもらっても特に異常は見当たらず、療養として部屋に籠る日々。こんなことでは、駄目じゃと分かっておるのに、どうしても力が湧いてこんのじゃ。
畳の上で横になり、開かれた襖の奥から覗く空を見上げていると、聞きなれた足音が近付いて来た。
視線を向けると、襖から覗く小さな顔が二つ。妾にとって、何よりも大切な愛らしい妹達の姿がそこにはあった。
「姉上ー大丈夫ですか〜? 」
「心配……」
不安そうな二人の顔を見ていると、不意に己が恥ずかしくなってくる。これでは、姉失格じゃな。
「大丈夫じゃ。ほれ、こっちへ来るのじゃ」
いつも通りの笑顔を浮かべながら手招きすると、二人は嬉しそうに近付いて来た。
「姉上が元気無いなんて、らしくないですよー。何だか、こっちまで調子狂っちゃいますー」
「なぁ〜に〜っ! そんな生意気なことを言うのは、この口か〜っ! 」
「うにぁ〜ひゃめへぇふひゃひゃひぃ〜」
初の頬を引っ張ってやると、面白いくらいに良く伸びた。確か……一年前にも、同じようなことがあったのぅ………………。
物思いにふけておると、不意に江が手を掴んだ。あまり人とは関わらず、自らの道を進むこの子がこんな積極的になるなど、夢にも思わぬ事態に思わず動揺を隠せなかったのじゃろう。
じっと妾を見詰めると、全てを見透かしたように話し始めた。
「最近元気無い……」
「それは……もう大丈夫じゃ。案ずるで無い」
「三法師様と仲違いしたせいでしょ……」
「なっ!? 」
思わず声を荒らげると、江はいつも通り冷静な表情を浮かべておった。
「あれは姉様が悪い……自分の気持ちに、素直になれば良いだけ……」
「わ、妾は別に……」
これは駄目じゃ。このまま江に主導権を握られたままじゃと、取り返しがつかないことになる。
そう思った妾は、話題を変えようと足掻くも、時既に遅く江は口を開いてしまった。
「三法師様のこと……好きなんでしょ……? 」
「違うっ!!! 」
無意識に立ち上がり、声を荒らげ否定してしまった。何故こんなにも、感情が揺さぶられるのじゃ。初なんて、状況に着いて行けず目を白黒させている。
「あ、姉上? それに江も一体どうしたのー? 」
江は、息を荒らげる妾を悲しそうに見詰めると、小さく呟いた。
「お労しいや姉様…………伯父様が、三法師様に刀を贈る……ただ、それだけ……帰る……」
「えっ!? ちょ、ちょっと江? えと、その姉上お大事にー」
言いたいことだけ言って、足早に去っていきおった……思わず妾は、力無く座り込んでしもうた。
「妾は、妾は……」
駄目じゃ、この想いに名を付けてはならん。これは決して気付いてはならんものじゃ。
だが、そう思えば思うほど涙が溢れて止まらぬ!
「う……うぅぅぅ…………妾は、どうしたら……」
そう言えば、確か江が…………それに気付いた妾は、全速力で伯父上の元に駆け寄った。
「伯父上っ! 」
襖を勢いよく開けると、都合良く伯父上一人じゃった。それを確認すると、鼻息荒く近寄る。
「茶々、一体何事じゃ? 体調は平気なのか? 」
「御心配おかけ致しました。妾は、もう大丈夫じゃ。それより、一つお願いがあるのじゃ! 」
今朝、三法師が岐阜へ帰って行った。
妾は……見送りには行かんかった。会えば、この想いが溢れてしまいそうじゃったから。
「姉様……」
ふと気が付くと、傍らに江が座っておった。
「あれで、良かったの……? 」
妾の真意を探るような眼を向けてくる。だが、妾の答えはもう決まっておる。
「あれで良いのじゃ……あれで……な」
「………………そう」
江は、そう一言呟いて去っていった。全く自由気ままな子じゃ。じゃが、ありがとうな江。
次いつ会えるか分からぬが、達者でな三法師。
信長から贈られた一振の太刀。その鞘には、煌びやかな桜の装飾が施されていた。