42話
天正九年 九月 箱根
雪達との語らいから数日後、ようやく幻庵が小田原から帰ってきた。
幻庵もかなりのご高齢、本来ならば時間を空けて話し合いという流れなのだが、今回は幻庵の方からお呼びがかかった為、早急に執り行うことになった。
部屋に入り幻庵と向かい合う。出された茶で喉を潤し、ホッと一息を入れるとポツリと幻庵から切り出してきた。
「……先の一件、三法師様はどう思われましたか? 自らの欲望に身を任せ、平気で他人を陥れる者。それを知っていながら、保身にはしり見て見ぬふりをする者達……この醜さこそ、人の本質なのです」
「貴方様は、それでも民を救いたいと……そんな醜い民でさえも救いたいと願いますか? 」
幻庵の言葉は、水面に滴る一雫のように俺の心へ染み渡っていった。
ゆっくりと目を閉じて、熟考する。
とても、とても難しい問いかけだ。
罪を犯した者を断ずるのは容易い。命を奪った者に対して、その命をもって償わせることは間違ってはいないだろう。
だが、命をもって償わせたとしても、被害者の命は帰っては来ないし、自己満足だと言われてもなにも言えない。
罪を犯した者は改心することすら出来ないのか。一度でも道を踏み外してしまった者は、二度と正道を歩むことが出来ないのか。
罪を犯した者の子供は、産まれてくるべきでは無い悪の芽なのか。
そして、傍観者達。
いじめを見て見ぬふりをする奴らも同罪だと、そう言う人達もいる。
勿論、それは間違ってはいないだろう。
助けを求める人に手を差し伸べることを、強要することは出来ないが、せめて傍で寄り添う心をもってほしいと思う。
だが、傍観者達の心理の奥底に根ずいているのは恐怖だ。『この子を助けたら、次は自分が標的にされる』だから動けない。
中には、『こいつがやられておけば、俺がやられることは無い』そんな薄汚い保身故に、何もしない輩も一定数いる。
それでも、大多数の人は怖くて、仕方がなく見て見ぬふりをしている。力も無く勇気も出ず情けなくも蹲り、いつかは人に頼る。
『きっと誰かが助ける』『助けられる人がやればいい』『自分には無理だ』『早く誰か助けろよ』
そんな身勝手な願いを抱えている。
様々な思考が脳裏を巡り、自分の答えを見つけ出す。否、これは最初から抱いていた答えだったのかも知れない。
俺はゆっくりと目を開き、幻庵を見据える。
「げんあんどのは、ながきにわたりほうじょうけをささえたとききます。そのなかで、いちどでもつみをおかしたことはございますか? 」
幻庵は、突如として投げかけられた問いに、目を見開き動揺を隠せないでいたが、不意に目を閉じたと思うと重々しく口を開いた。
「…………あります。大義という名の免罪符を掲げ、多くの悪事を働きました……軽蔑されましたか? 」
どこか儚げに微笑むその顔は、自らの過ちを悔いるようであり、まるで断罪を求める罪人のようであった。
俺は静かに首をふり、幻庵を裁くつもりは無いことを伝える。
「まつりごとは、きれいごとだけでかたずけるものではないことはぞんじております。そして、つみをおかしたものたちにはかいしんのきかいをあたえるべきだとも」
「わたしは、すべてのたみがしあわせなひびをすごしてほしい。そう、ねがっております。もちろん、つみをおかしたものたちも……」
「げんあんどのは、なぜひとはつみをおかすのだとおもいますか? 」
幻庵は一度口に茶を含むと、天井を見上げた。その目はどこか遠くを見ているようで、きっと色々なことが脳裏を過ぎっているのだろう。
「そうさなぁ。米が実らなければ、民は飢える。そうなれば野盗と化す者も増えよう。富を持ち、飢える心配の無い者達でも根本は変わらん。自分より幸せな者が憎らしいのだ。故に、奪い戦い殺し合う……嘆かわしいことよ」
それは、嫉妬だろう。人は誰しも持ち得る七つの大罪の一つ、これがある限り誰もが平等な世界をつくることなんて出来ない。
人それぞれに幸せの基準があり、全ての人を幸せにすることは困難を極めるだろう。故に格差が生まれ、それが他者への嫉妬へ変わるのだ。
『もっと幸せになりたい』『なんであの子は私より可愛いの? 』『働いても働いても金持ちにはなれない』『何故あいつの方が才能がある』『妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい』
人の欲望に限りは無く、どこまでもどこまでも犠牲を積み重ねていくだろう。人類が滅亡するその日まで……それが、未来の日本の姿だった。
でも、きっとそれは世の中が乱れているからだ。平和なんて名ばかりで、武器を変え品を変え戦い続けている。
もし、この時代から問題に着手出来ていたら、世界は良い方向に変わるかもしれない。
「げんあんどの、わたしはらんせがおわり、てんかたいへいをなしとげることができれば、きっとへいわなよになるとしんじています」
「三法師様……」
「よがみだれていなければ、たみのえがおがくもることはないでしょう。そうなれば、きっとつみをおかすものもへる」
愚かだと笑うだろうか、出来るわけが無いと蔑むだろうか……それでも、それでも俺は諦めたくないのだ。だって……。
「わたしはもう、くるしむたみをみたくないのだ」
ポツリポツリと、涙が畳へ落ちる。部屋には静寂が訪れており、幻庵は悲痛な顔を浮かべていた。
「それは、茨の道ですぞ」
「あぁ」
「綺麗事では、何も成せませぬ」
「うん」
「多くの争いを経験するでしょう」
「わかっている」
「戦い傷付いたその先に、貴方様は願った未来を見ぬまま死ぬやも知れません! 」
「……もとより、そのかくごだ。すべてのたみがわらいあってすごせるよのなか、うまれやかんきょうにさゆうされることのないよのなかは、きっとわたしはみることはできない」
「ならば、何故そこまで笑っていられるのですか! 三法師様は怖くないのですか? もし、貴方様が死ねばその願いは潰えてしまう……」
「だいじょうぶだ、きっとだれかがおもいはつないでくれる。こどもでもかぞくでもなかまでもいい、わたしのおもいをつないでくれるならば、それでよいのだ。きっとそのさきに、おもいえがいたみらいがある。それならば、わたしはよろこんでいしずえとなろう」
これが、俺の答えだ。
百年、二百年とかかるかもしれない。それくらい俺の夢は困難なモノだ。
だけど、この夢を継いでくれる人がいるなら、いつか実現出来るかもしれない! 全ての民が当たり前のように笑顔ですごせる、そんな日々が訪れるかもしれないのだ。
その為ならば、俺はどこまでだって頑張れる。天下を統一したその先に、幸せな未来が訪れることを信じてる。
どのくらい経っただろうか、沈黙を保ち続けていた幻庵は、不意に頭を下げた。
「……三法師様、数々の御無礼どうか御容赦くだされ。この幻庵、全ての知識を貴方様に捧げましょう。この老いぼれの命、どうか未来への礎とさせてくださいませ」
「……ありがとう。げんあんどののおもいは、けっしてむだにはしない」
「それが聞けたのなら、わしは満足です」
朗らかに笑うその姿は、自らの願いを託す者が出来た喜びに溢れているようであった。
北条幻庵、没年に関しては諸説あるものの、その生涯を北条家に捧げたことは確かであり、それ故に多くの闇を見てきた人物である。
三法師の願いは、到底叶うことは無いと思っていた。そんな甘い世界では無い……と。
だが、その覚悟を見て考えは変わった。例え自分の代で叶わなくても良い、繋いだその先でいつかきっと夢は叶うと。
後に託す勇気、それを三法師に教えて貰ったのが幻庵である。
二人の師弟関係は、生涯途切れることはなく。後世において、三法師は『彼の者無くば、今は無し』と言い残している。




