39話
天正九年 八月 箱根 藤姫
わたくしはこの日、人のおぞましさと尊さを同時に味わうことになりましたわ。
「う……うぅぅぅ……うぅわぁぁぁあああああああぁぁぁ!!! 」
「うん……うん。よくがんばったな。よくここまでたえた。これからはわたしがまもるよ」
泣き崩れる白き少女を、三法師様が優しく支えていられる。その姿は何処か幻想的であり、あまりにも美しい愛を感じましたわ。
思えば、わたくしが心の底から三法師様を愛し始めたのは、この日からだったかも知れません。
わたくしが三法師様に初めてお会いしたのは、小田原城でのことでした。
予定通りお父様から合図を受け取ったわたくしは、小姓に案内され大広間に入りました。
第一印象は、とても愛らしい赤子……でしょうか? 齢二つの幼子とは聞いておりましたが、まさか本当にこんな幼子が相模まで来ているとは、本気にしておりませんでしたわ。
というのも、侍女達から聞いた話しだと、とても幼子とは思えぬ行動力だと思ったからです。
京での御馬揃の御活躍は諸国に知れ渡り、公卿様から各地の大名方まで幅広く慕われて、多くの貢ぎ物を受け取り。
京で横暴を働くならず者共を見事成敗され、帝から御褒めの言葉を賜るなど、素晴らしい功績を挙げていらっしゃる。
極めつけは、岐阜から遠路遥々ここ相模まで家臣を率いて参られる……とても、僅か二つの幼子の行動力では無く年齢詐称なのでは? と疑っておりましたわ。
しかし、蓋を開けてみましたらこんな愛らしい赤子が、本当に相模まで来ているとは……世の中は広いものなのですわね。
わたくしが微笑むと、顔を真っ赤にさせているところを見ると、とても愛らしくて胸が温かくなるようでした。本当に可愛らしいですわっ!
自己紹介が済んだ後、三法師様と談笑していると、不意にお父様が視界に入りました。
意味深な笑みを浮かべてこちらを見ているその姿は、何処か怪しげで……全く、どこまで思惑通りなのかしら。
お父様から織田様の御曹司が参られるとお聞きし、一月前から家中総出で準備していた日のこと。突如、お父様から呼び出しを受けました。
「藤、お主の嫁ぎ先が決まった」
「……そうですか。覚悟は出来ておりますわ」
お父様から告げられたソレは、武士の娘として生まれた者なら誰もが避けられぬモノ。
当然、わたくしも覚悟はしておりました。
「相手は前右府様の直孫であり、岐阜中将様の御子息であらせられる三法師様だ」
「……えっ? 」
お恥ずかしい限りですが、呆気にとられてしまいました。三法師様といえば、家中総出で御出迎えの準備をしている御方と同じお名前。
この状況で同姓同名の他人の訳がなく、やはりご本人なのでしょう。
しかし、織田様とは兄上との婚姻を望んでいたはずなのに、一体どういうことでしょうか?
そんなわたくしの疑問など百も承知だったのか、お父様はニヤリと意味深に笑いましたわ。
「なに、先方の思惑通りにするだけのことよ」
「……三法師様は、見聞を深める為に参られるとお聞きしましたが? 」
「違うな、そんな為にわざわざ相模まで参られるものか。そもそも、上様は天下人であらせられる。であれば、学問に長けた者を呼び寄せれば済む話よ」
成程、それは盲点でしたわ。三法師様のお噂を聞く限り、相模まで参られてもおかしくはないと考えてしまいました。
であれば、何故わたくしとの婚姻になるのでしょうか?
「三法師様の狙いは、我が北条家を後ろ盾にしたいのだろう。順調にいけば天下の覇権は三法師様に継がれる。だが、それは何十年も先のこと、関東という織田と関わりが薄い土地を治めるにあたり、先手を打つ腹積もりだ。ふふっ僅か二つの幼子とは思えぬ慧眼、是が非でも縁を結びたい」
「三法師様とわたくしは七つ差……正式な婚姻は元服後になりますが、その頃にはわたくしも充分子を産める歳、問題はありませんわね」
三法師様との婚姻は予想外のことでしたが、北条家からしたら願ってもないこと。武士の娘として、見事お家の為になりましょう!
……ただ、疑問に思ったことが一つありますわ。
「しかし、良くご存知で。織田家と北条家の婚姻同盟は、織田様にとって知られてはならぬことではないでしょうか? 」
「ふふっ! 三法師様は忍びの有効性を良くご存知であるが、まだまだ若いな。我が風魔の方が一枚上手だというだけのことよ。ハッハッハ! 」
高らかに笑いあげる姿を見て、思わず溜息が出てしまいました。はぁ……全くお父様は油断も隙もございませんわね。
その後、三法師様とは仲睦まじい日々を過ごしました。わたくしなどでは、到底計り知れぬその叡智に最初は怖いと思ってしまいましたが、三法師様はどこまでもお優しい御方でした。
わたくしを喜ばせようと四苦八苦している姿はなんとも可愛らしく、その類稀なる叡智をわたくしの為だけにお使いになる。これほど女冥利に尽きることは、ございませんでした。
わたくしは自然と惹かれていき、三法師様のお役に立ちたい……そう思えるようになったのです。
故に、側室に甲斐姫を推しました。
彼女は男に生まれていたら、確実に一廉の武将になったと謳われる才媛。古くから同い年ということで親しくしてきた縁を辿り、側室話を持ちかけると二つ返事で了承してくださいました。
正直、この時程胸を撫で下ろしたことはございません。彼女がいれば百人力、きっと三法師様のお役に立てる筈だと!
……まぁ、二人でなら三法師様からの寵愛を独占出来る……そう考えたことも、無きにしも非ずですが。
幻庵様を頼って箱根に着くまで、わたくしは三法師様のことをお護りする対象としてしか、見れていなかったのかも知れません。
ですが、白き少女を助ける為に身を呈して民の前に躍り出た三法師様は、見惚れる程美しく尊い輝きに満ちておりました。
荒ぶる民を説き伏せ、傷付いた少女の心を癒す。まるで、物語の英雄の如きその御姿に、わたくしも甲斐姫も胸が踊ってしまいました。
「藤姫様、三法師様はどうやら、私達が護れる程か弱くないみたいですね」
「そう……みたいですわね……」
わたくしは自らの傲慢さに、ほとほと呆れてしまいました。あのような強き御方を、あまつさえ護ってあげるなど……なんて浅はかだったのか。
思わず俯いてしまったわたくしを、甲斐姫は優しく諭してくださいました。
「自らの無力さを嘆いてはいけませんよ! 何故ならお護りする以外に、お力になれることはいくらでもございます! 私共は私共なりに支えれば良いのですよ藤姫様っ! 例え武力は無くても、知恵で癒しで支えるまでのこと」
甲斐姫は一旦口を閉じると、柔らかい笑みを浮かべながら三法師様の方を向きました。
「私は此度の一件で、心底惚れ申した! 三法師様のような英傑他におりませぬ。そんな御方に嫁げるのです。これほど光栄なことはありませぬよ! ……藤姫様も、そうなのでしょう? 」
甲斐姫の言葉は、すんなりと胸に染みていきました。あぁそうなのですね。どうやら、わたくしは三法師様に心底惚れてしまったようです。
その眼差しが、その言葉が何よりも愛おしい。
護るべき弟のような存在だと思っていたのに、三法師様を一人の男として見ているわたくしがいる。
ならば、自らの思いを偽る必要はないでしょう。何故ならば、三法師様はわたくしの愛しい婚約者なのですから。
あぁ愛しておりますわ……旦那様。




