36話
天正九年 八月 箱根
桃源郷……それは『世俗を離れた別世界』のことを指す。まさに、いま目の前に広がっている光景は、普段の日常では決して拝むことの出来ない夢の世界と言えよう。
薄手の肌着一枚を纏い、湯けむりの中を颯爽と歩く美女・美少女・美幼女! あぁ神よ、ここがエデンの園ですか。
俺はその光景を眺めながら、この時代に転生したことを神に感謝し二度三度と頷いてしまった。
まずは、この桃源郷の素晴らしさを説明しよう。
「殿? どうかされましたか? 」
右手には、コテンと首を傾げながら俺の手を引く松。十六歳とは思えぬ圧倒的なスタイル、出るとこは出て引っ込むところは引っ込んでいる黄金比率。そして、なんといっても腰から足にかけてのラインは神がかっている。是非とも黒タイツを履いて欲しいものだな、ヨーロッパにあるかな? 是非取り寄せたい。
「さぁ三法師様、まずは身体を清めましょう」
「確かにその通りだ! ……おっと、ここは滑りやすいな。三法師様、この手を離しては駄目だぞ」
左手には、掛け湯まで俺を誘導する藤姫と甲斐姫。未だ未成熟ではあるが、ふとした時に垣間見える仕草が、大人の女性へと成長しているのが分かる。まさに、蝶へと羽化する前だからこそ光る魅力、素晴らしいの一言に尽きる。
三人に促されながら、木で出来た椅子に座ると早速身体を洗っていく。正直、椅子ってか角材っぽいけど贅沢は言うまい。
この時代、シャンプーも石鹸も無くどうしたものかと思っていたのだが、なんと灰を使って身体を清めるのだ。これをお湯で溶かしたりするのだが、他にも卵やら白い粉やら使うのだ。
正直、最初は灰を使うのは嫌だったけど、この時代の灰はかなり良質な物らしく、充分使えるのだ。
まぁ女性陣は、髪とか大変だろうと思って大量の布や椿油を常備しているから、松達の髪はサラッサラのツヤッツヤだ。
CMとかで、椿油がどうのこうの言っていたのを、覚えといて良かったよ。ちょっと試行錯誤に手間取ったけど、今回持ってきた椿油は会心のできだ。
実は岐阜城下には、椿油専用の育成場を作って貰っていて、そこには大量の椿が植えられている。
俺にしては珍しく駄々をこねたんだが、そこは孫に甘い爺さんの剛腕で何とかして貰ったのは、いい思い出だ。
これも、全ては美しい女性の為、髪は女性の命なのだから……是非もないよね!
「とのぉぉぉぉおっ! 」
「ぐほぉっ! 」
突如として襲った衝撃に、思わず変な声が漏れてしまった。犯人なんて、後ろを振り向かなくても分かる。
「えへへっとのぉ〜」
だらしない顔で頬擦りするのは、そう椿である。
彼女を表す言葉はもう決まっている、まさにダイナマイツボディ! 日本人とは思えぬ豊かな実りだ。
一体何処に隠していたんだと思わんばかりに溢れる果実は、現在進行形で俺を包み込むように形を変えている。
俺達は湯帷子と言う、入浴時に身につける肌着を使用している為、普通なら色気は抑えられるのだが。
椿の場合それが全く機能していない、むしろエロい。
そんな椿は確実に暴走するからと、松によって縛られていた筈なのだが……どうやら抜け出したようである。
「あ、貴女どうやってここに!? 縄はどうしたのです! 監視だって……」
「ふふっまだまだ甘いですわよ松様。愛の前にはあのようなモノ、塵芥と同じです。紫陽花は今頃夢の中でしょう」
あまりにも堂々と言い放つ様子に、思わず頭が痛くなる。確か紫陽花って十傑九席だよな? はぁ……どうやら、暴走した椿を止めるには同じ十傑でも手に余るようだ。
「くっ! ……しかし、あの仕掛けの数々をどうやって無傷で突破したと言うのですか! 落とし穴は勿論、連鎖発動式の罠も用意したのですよ! 」
「ふっお馬鹿な松様に、一つ教えて差し上げましょう。……障害は乗り越えるものなのですっ! 」
「……………………」
見開かれた瞳、口はあんぐりと開き身体は微動だにしない。
絶句、今の松を示す言葉はまさにそれだろう。
松の罠エグすぎじゃない? とか、結構ガチで殺しにいってない? とか色々言いたいことはあるが……とても悔しいのだが、椿のことを一瞬だけカッコイイと思ってしまった自分がいる。
「まぁっ! かっこいいですわ」
「うむ! まさに格言だなっ! 」
藤姫や甲斐姫までもが、感銘を受けてしまう程に椿は己を貫いていた。
目的はどうあれ、一つのことを貫く確固たるモノを持っていることは素晴らしいことだし、芯のある人間とは椿のような人を指すだろう。
ただ、一つ言いたいことは……そろそろ温泉に入らない?
ちゃぷんと温泉に浸かると、足先からじわじわ染み渡るように身体が癒されていく。ほのかに香る硫黄と絶景が、まさに天然露天風呂を表しているようで素晴らしいの一言に尽きる。
いつの時代も日本人の心に寄り添ってきた温泉、確かに前世の頃みたいにタイル張りされていないからちょっとゴツゴツしているけれど、それもまたアジと言うものだろう。
ふぅ……極楽極楽、いい気分だ〜。
「そういえば、ここのおんせんのこうのうはなんなのだ? 」
ふと疑問に思ったことを口にする。温泉といえば様々な効能を楽しめるのも一つの醍醐味。硫黄温泉とかだと冷え性とかに効くんだったかな?
「確か……子宝ですね」
……まぁ松も、別に悪気があって言った訳では無いのだろう。聞いたの俺だし。
ただ、そんなピンポイントな効能ある!? 幼いとはいえ、婚約者二人が隣りにいる状況で聞きたくは無かった。
きっと、のぼせてしまったんだろう。俺も藤姫も顔が真っ赤っかになっている。
「恥ずかしいですわ……」
藤姫はきっと色々な妄想をしてしまったのだろう、羞恥心が最高潮に達したのか顔を半分温泉に浸けながら、ぷくぷくと泡を立てている。
その姿は何とも可愛らしく、ついついホッコリしてしまった。
藤姫の新たな一面を発見出来たことに喜んでいると、突然隣りから勢いよく水しぶきがかかった。
「かい? どうしたのだ? 」
「うむ、やはり子供は多い方が良いな! 家族とは素晴らしいものだからな! 三法師様、私は九人は欲しいですっ! 」
野球チームでもつくるつもりかな? ちょっと男前過ぎますよ? ほら、そんなこと言ったから椿の目がギラギラし始めたじゃん。
「殿っ! わたしは……」
ガサリっ! 不意に聞こえた物音は、物の見事に椿の言葉を遮りかき消してくれた。誰か知らんけど、良くやった!
ちょうど俺の真後ろから聞こえたソレに、振り返ってみると、茂みの中から真っ白な女の子が顔を出していた。
……誰?
その子は俺と目が合った瞬間、隠れるようにいなくなってしまった。一体誰だったのだろうか、綺麗な銀髪に雪のような肌、瞳は雲ひとつ無い青空のように透き通った美少女だった。
もしかして、アルビノだろうか? 初めてあったけど、凄く美しかったなぁ。
「なぁっ! 曲者か! 殿、姫様方はお下がりくださいませ、椿行きなさい! 」
「はっ! 」
「えっ……ちょっとまて! おわなくてよい! 」
凄まじい剣幕で行動を開始する二人を、なんとか押さえようとする。
あぁそうだよな、二人からしたら先程の少女は、警備をかいくぐって主人の真後ろに現れた不審者だよな。
「どうかされましたかっ! 殿は御無事ですか!? 」
二人の声が余程大きかったのか、異常事態を察知した勝蔵が勢いよく女風呂に入ってくる。
勝蔵、それはアカン。
なんとか庇おうとしたが、時すでに遅く椿は行動を開始していた。そう、覗き魔駆除のゴングはもう鳴ってしまったのだ。
「この痴れ者がっ! 曲者は貴様だっ! 」
「ぐほぉぉぉぉぉっ! 」
椿の流れるようなピッチングから放たれた石は、凄まじい轟音を立てながら勝蔵の額に直撃した。
そのまま地面に伏した勝蔵を、白百合隊が一切容赦なく縄で縛っていく。その目は凍てつく吹雪の如く冷たく、覗き魔は死ねと言わんばかりだ。
勝蔵、今日は踏んだり蹴ったりだな。
安らかに成仏せい、南無阿弥陀仏……。
温泉から出た俺は、早速あの白い少女のことを女将さんに聞いてみることにした。一応、赤鬼隊のみんなも聞き込みに行ってもらっているのだが、良い情報が入れば良いな。
「おかみさん、しろいしょうじょをしらないか? かみもはだもまっしろなこだ」
すると、直ぐに誰を指しているか分かったのだろう。あぁと一度頷くと話してくれた。
「あの狐憑きのことですね」
「きつねつき? 」
「えぇ、この近辺に住み着いているらしく、よく見かけます。しかし、あの風貌ですからね、みんな不気味がって近寄りません。旅人まで災いの前兆だと言って早々に出ていってしまう為、こっちは商売あがったりですよ! 」
口調は丁寧だが、言葉の節々に怒気を感じる。これは、早々に動いた方が良さそうだな。
しかし……狐憑き……か。




